※ caution ※

・かっこいい馬岱などいない
・既に西涼の千の風になっている馬超
・シリアスぶってみたら意味不明になった。

以上をご了承の上読んで頂ければ幸いです。





















長庚が西の空で一際輝きを増す、今はほんの宵の口。

酒家が軒を連ねる大通りから、一本脇道に入った裏路地は、

表通りより少々猥雑な、美味い店で溢れている。

日暮れとともにぽつぽつと灯がともり出した屋台からは、

既に食欲をそそる良い香りが漂ってきていて、

辛い労働を終えた人足達が、安酒片手に空きっ腹を満たしていた。

そんな庶民の憩いの場に、妙にガタイも身なりも浮いた男が一人。

一見粗末な麻地の漢服と、ここらじゃあまり見ない濃い顔立ちから、

成都へ出稼ぎに来た余所者のように見えるが、

その所作からは、一度なりとも学に触れた者と分かる知性が感じられた。

まず間違いなくここらの貧民仲間じゃない大男が、

薄暗い路地の端っこに座り込んでべそべそ啜り泣きしているとくれば、

誰だって避けて通るに決まってる。


(・・ったく、これじゃ商売あがったりだよ!)


すっかり客足が引いてしまった店先で、

ずだんっと鳥の足を叩き切って、は肉切り包丁片手に舌打ちした。


「ちょっと!今舌打ちしたでしょ!

俺がこぉんなに悲しんでるのに、それって酷いんじゃない?」


途端に、持ち込んだ酒瓶を煽っていた厄病神が不服を申し立ててくる。


「うるせぇ!なんにも買わねぇくせに、居座りやがって!

その辛気臭い面どっか持って行きやがれ!!」


手斧のような肉厚の包丁で、今度は鳥の背骨を真っ二つに割りながら、

も負けじと怒鳴り返す。

まるで野良犬でも追っ払うかのように、しっしっと手を振れば、

すっかり出来上がってる泣き上戸は、たったそれだけで円らな瞳を潤ませると、

あんまりだよぉ〜!と再び地面に泣き伏せた。

おーいおいおい、とわざとらしい嗚咽をあげる男を胡乱な目で見下ろし、

ふんっと聞こえよがしに鼻で笑ってやれば、


「そんなに邪険にしなくても良いじゃない、

よっぽど辛い事があったのよ。」


と裏の方で小炉子に火を熾していた母親が、穏やかに嗜める。


「わぁ〜ん!媽媽は優しいなぁ〜!」


と感激する男に対し、は額に青筋を浮かべて、何が媽媽だ!と怒鳴りつけた。

いつもなら、漬けダレの焦げる芳ばしい匂いに釣られた客で人だかりが出来てる頃なのに、

気持ちの悪い男が店の真ん前を陣取ってるせいで、誰も彼もそそくさと通り過ぎていく。


「母ちゃんも、変に同情しないで!こいつのせいで客が寄り付かないんだから!

父ちゃんに桂に槙、男手はみーんな兵役に引っ張られちまってんだ。

鳥が売れなきゃ明日っから母娘で身売りするしかないんだからね!!」


そう言って厳しい現実を突き付けるものの、元来暢気者の母親ははいはいと二つ返事を返すばかりだった。

一体誰に似てあんなに短気になっちゃったのかしらねぇ、という母の小言を背中に聞きつつ、

苛々と作業に戻れば、チラリと視界の端に見えた酔っ払いの顔が妙に切なそうで、


「・・・何よ、あんたまだ居たの?」


とつい声をかけてしまう。

けれど、軽薄な男はすぐにへらりと情けなく眉を垂れると、は冷たぁい、と鼻を啜った。

やはり唯の見間違いだったか、と己の甘さを悔やみながら、


「私が優しくするのは忠だけよ!」


そう言ってまな板台の下へ、使い物にならない小さな肉片を放り投げる。

すると、肉が地面に落ちる寸前、どこからともなく跳び込んできた茶虎の猫が、

横から咥えて掻っ攫っていった。

ほど前にこの裏路地で拾った小汚い子猫は、

忠という立派な名前を貰い、看板猫として日夜鼠や烏から商品を守っている。

もっと欲しいと強請って擦り寄ってくる愛猫の喉を、

おざなりに撫でてやりながら、


「それから、なんて気安く呼ばないでくれる!?よ!!!」


許した覚えはねぇぞ、ときっちり釘を刺す。

酒の勢いで馴れ馴れしさに拍車のかかった酔っ払いは、


「良いじゃない、俺と君の仲なんだしぃ。」


と聞き捨てならない台詞を吐きながら、ちっちっと舌を鳴らしてしきりに忠を呼び寄せる。

けれど名前通りの忠猫は彼の方など見向きもせず、

護衛よろしく焼き上がった鶏肉の山の前に鎮座していた。


「ちぇ、猫に忠なんてまるで鼠みたい・・・」


と酒瓶を膝に抱えて、泣き上戸がまたぞろグスグス鼻を鳴らし始めると、

ちょうどやって来た常連客が、


「なんだぁ、あんちゃん。まぁた来てんのか?お前ぇも懲りねぇなぁ?」


なんて心安く声をかける。

おいちゃん聞いてよぉ!俺って可哀そうなのよ、などと今度は客に絡み出した男へ流し目をくれ、

はズダンッと力強く鶏の首を切り落とした。









『 猫を飼うはなし 』








どれくらい前からなのか、もう正確には覚えてないが、

人懐っこい異郷の男が、この路地裏に現れるようになって随分経つ。


「お姐さん優しそうだねぇ、俺今すんごく哀しい気分なのよ。ちょっと慰めてくれない?」


と初対面のに馴れ馴れしく声をかけて来た時には、

すでに酔っ払って涙声だった気がする。

当然けんもほろろに断ったわけだが、

以来、何度返り討ちにしても懲りずに通ってきていた。

三日と空けず顔を見せる事もあれば、

今日のように、半年以上消息不明だったのが突然ふらりと現れたりもする。

もはや常連と言って差支えない付き合いだというのに、

男の素性も、職も、は全く知らなかった。

今さら訊くのも間抜けな気がして、未だ名前さえ分からない。

ただ、彼の立ち振る舞いからは、時折育ちの良さや微かな武辺の影が滲み出ていた。


(ま、このご時世、元は官職や軍属だったなんて話はごろごろ転がってるしね。)


そういう連中に限って、

飲んで散々管撒いた挙句、威張り散らして代金を踏み倒そうとするから始末に負えない。


(それに比べりゃ十分お行儀の良い方なんだけどさぁ。)


有難いことに、今日もまた夜半を目前にして、用意した肉は全部売り切れたが、

泣き虫の常連はまだ、道の端で酒瓶を片手に、うぅーと情けない嗚咽を漏らしていた。


「・・・・っめんどっっくせぇぇぇぇ。」


という本心が口からだだ漏れして、

耳聡く聞き付けた酔っ払いが潤んだ目で恨めし気にこちらを見る。


「・・・前から思ってたんだけど、って俺に特別冷たいよね?そういう差別、良くないと思うなぁ。」

「じゃ、問題ないわ。私、お客以外の男には分け隔てなく冷たいから。」


店の前に散らかった食べ零しをせっせと竹箒で払いながら、がにべもなくそう答えれば、

俺だってたまに買ってるじゃない、と拗ねて唇を尖らせた。

成人してもう10年以上はたっていそうな男がする顔じゃねぇな、と子供っぽい膨れっ面に呆れながら、


「はいはい、それでお客様?本日はどこのどちら様にふられたんでございます?」


と本当に、本っ当に遺憾ながら、仕方なく荒れてる理由を聞いてやる。

すると、既に空っぽの酒瓶をひっくり返し、滴り落ちてくる最後の一滴に必死で舌を伸ばしていた男は、

みるみる顔を歪ませた。


「うわぁぁん、酷いんだってあのコ!あんなに俺の事好きだって言ってたのにぃ!」


そう言いながらこちらの足にべったりしがみ付いてくる酔っ払いの、

茶色い癖毛がわさわさ茂った頭をぺしっと叩く。


「あーあー、どうせ、私では貴方を支えられないの、とか、貴方は優しすぎるのよ、とか、

貴方と居ると私どんどん駄目になる、とか言われたんだろ?」

「うわぁ、正解!なんで分かっちゃうの?まさか・・・俺を尾行してたの???」


などと、人の足を抱え込んだまま小首を傾げて見上げてくる推定30代前半の男を、

えいっと蹴り上げて突き放しながら、は分からいでか、と溜め息をついた。

支えを失って再び地面に頽れた酔っ払いの背中を見下ろしながら、


「アンタねぇ、女と別れるたびに私の所来るのいい加減やめなさいよ。

ウチは美味い鳥が食える店であって、酔って泣きたいなら酒家に行きな。」


そう追撃すれば、泣き上戸は蹲ったまま、だぁっでぇ〜、と濁点だらけの嗚咽を上げた。









「・・・えぇと、それで今回はふったの?ふられたの?」

「ふられましたぁ。笑顔が可愛かったんだよ、お茶屋の看板娘でさぁ。」


店仕舞いもすっかり済んだ所で、一向に帰らない厄介者の相手をしてやるべく、

は母親を先に帰らせると、自分は客用の壷椅子に腰を落ち着かせた。

男の方は相変わらず、空の酒瓶を抱えたまま地面に座り込んでいる。


「ふーん、聡い子だったんだね、逃げられて良かった良かった。」


アンタとじゃ絶対幸せにはなれないからねぇ。

と、歯に衣着せぬ物言いではっきり言ってやれば、さすがにこれは堪えたのか、

きっついなぁ〜、と呟きながら男は顔を隠すように俯いた。


「もうちょっと優しい言い方してよ。俺、これでも傷心してるんだってぇ。」

「何言ってんのさ。慰めて欲しいなら私なんかの所にゃ来ないだろ?」


この男が自分の前に現れるのは大体責められたい時だ。

さほど深い付き合いがあるとも思ってないが、

毎度毎度泣き上戸の愚痴に付き合ってる内に分かった不文律というやつだ。

女に振られたなんていう常套句も、本当かどうか知れたものじゃない。


(ほんと、面倒くさい男・・・)


と胸中吐き捨てて、苛立ちを当の本人にぶつける。


「大体、あんた重たいんだよ。良い仲になってまだ日も浅い内から、

一生添い遂げよう、とか、俺を捨てないでね、とか。口調が軽いぶん余計信用ならん。」

「えぇ〜、それの何が悪いの?俺はただ大好きなだけなのに。」


理不尽だ、と不貞腐れる男に、は苦り切った口調で駄目出しを続けた。


「あんたは悉く女を駄目にするからね。ただ尽くして甘やかせば良いってもんじゃ無いんだよ?

だんだん我が儘が手に負えなくなって、無責任に放り出すか、愛想付かされるか。いつもお決まりの最後じゃないか。」

「そりゃそうだけど。でも、優しくしなきゃしないで、冷たいって罵られるんだよ?あぁーもう、女心は全然分からないよ。」

「女心・・・ねぇ。そんなだから長続きしないんだよ。」


そもそも根本が間違ってる、と言外に滲ませれば、え?なになに?どういう事?と男がしきりに言葉の先を促す。

けれどは答える代わりに、足元でせっせと顔を洗っている愛猫の背中を撫でた。

説明したところで、きっと無駄だ。


(今さらその歳で生き方を変えられるもんか。)


人懐っこい態度と妙に明るい口調が、実は彼の処世術だという事は、

ちょっと付き合えば誰にでも分かる。

その程度の仮面なら、多かれ少なかれ皆被っているものだし、

そうやって適度に距離を置くことで不用意に傷付け合うのを防いでいる。

例えば、名も知らぬ客と焼き鳥屋の売り子のように。

けれど、情を交わすほど近しい関係になっても、男には決して踏み込ませない一線が存在していた。

好きだ惚れたと雨あられに浴びせかけられる睦言も、

どんな願いも叶えようとする献身も、それ自体が甘やかな拒絶の壁ならば、

なんと空しい虚飾であろうか。


(女心は分からない?こんなに簡単な事なのにね。)


皆、不安なのだ。

男の気持ちがちゃんと自分に向いているか、

必要としてくれているか。

だから、何度も何度も好きかと尋ね、要求をどんどん加速させ、

それでも心は満たされずに、最後は一か八かの賭けに出る。


「ねぇ、あんたさ。今まで一度も、やり直そうって追い縋ったこと無いだろ?」


くにゃりと背中を丸め、組んだ膝の上に頬杖をついて、

が、前後の脈略が全く見えない質問を唐突にぶつければ、

ずっと空気のような扱いを受けていた男は、むすっと拗ねた顔をしながらも、

律儀に答えた。


「えー・・・そりゃだって、女々しいじゃない?とっくに愛想付かされてるのに。」


予想通りの回答に、思わず口元に冷笑が浮かぶ。

一体何人の女が、この男に引き留めてもらいたいと望みながら、

失意のうちに去って行ったのだろう。


「あんたはもう一生独り身でいな。無駄に若さと情熱を浪費させられる女達が可哀そうだ。

愛される資格なんて無いよ、この甲斐性無し。」


そう吐き捨てながら、今夜はやけに尖っている自分にどきりとする。

はたして酔っ払いの方はそれに気付いているのか、


「分かってるって。みんな、俺みたいな奴には勿体ないくらい優しい子達だったよ。」


そう、とろりと潤んだ目を細め、寂しそうに自嘲する。

ならどうしてちゃんと向き合わなかったんだ!と、喉元まで競り上がった苛立ちを、

寸での所で噛み殺した。

これ以上踏み込むのは、明らかに立場を逸脱している。

あくまで、は売り子、男は客。

互いに定めた距離を常に守り続けたからこそ、気楽な今の関係を維持していられるのだ。


けど。

だけど。


(・・・もう良いじゃないか、幸せになったって。)


いつもいつも痴情沙汰ばかり聞かされる内に気付いた、

男の中に深く根を張る、悔恨。

一体どんな大罪を犯したというのか。

まるで、特別な誰かを得る事が罪であるかのように、

孤独に苛まれる事が罰であるかのように、

独りが大嫌いで、でも愛させてはくれない人。


長く顔を見せに来ないから、

ようやく寄り添える者が現れたのだろうと安堵していたのに、

久しぶりに尋ねてきた男は、相変わらず孤影を纏っていて。


(・・・・馬鹿野郎。)


ジリジリと腹の奥を焦がすもどかしさで、少々手つきが乱暴になってしまったのか、

それまで大人しく撫でられていた猫が、急にシャーッと威嚇した。

仕方なく手を引っ込めながら、忠から受けた仕打ちも合わせて、

苛立ちの元凶へと八つ当たりする。


「断言してやるよ。あんたみたいな難物に付き合えるのは、

あんたが何を悩んでようと気にせず自分の道を突き進む、

とんでもない独善女だけだね。」


そう、が全く根拠の無い嫌味を言えば、酔っ払いは苦笑いを浮かべ、知ってると答えた。


「けど、残念!女じゃ無いんだ。それに、もうこの世のどこにも居ないしねぇ。」


男の顔にはいつもと何ら変わらない、人懐っこい笑みが張り付いていたが、

は苦々しく視線を逸らした。

ぎりり、と関節が白くなるほど強く拳を握る。


「そんなだから、あんたは・・・・」


と無意識に口の端から漏れた言葉が、熱くなった自分の耳に吸い込まれた。


「ま、俺としちゃ今目の前に居るちゃんを捕まえたいんだけど、俺の事嫌い?」


こちらの苛立ちを知ってか知らずか、

そう茶化すように口説いてくる酔っ払いを、は鋭く睨み返した。


「お断りだよ。というか、この応酬ももう何度目だい?」

「えーと・・・今ので6回目の告白です。」


ちぇ〜、また振られちゃった、と再び浮かべられた薄っぺらい笑みが、

ますます神経を逆撫でする。


「はぁ・・・私はとっくの昔に戦線離脱してんだ。他を当たるんだね。」


と、溜め息一つで荒む感情を誤魔化し、

苦労していつも通りの態度を取り繕えば、男は膝を抱えて背中を丸めながら、


「酷いなぁ。結局、も俺を見捨てるんだ。」


そう、狙い澄ましたかのようにの逆鱗へと触れた。

カッと瞬間的に血が昇り、思わず立ち上がる。


酷いのはどっちだ!

今までずっと気楽な関係を押し付けておいて!

自分から動く勇気は無いくせに、私だけを責めるのか!


次々と競り上がってくる怒りを、あらん限りの忍耐力でもってなんとか飲み下すと、

は呆気にとられる男を置いてけぼりにして、荒々しく店の中に戻った。

綺麗に清められたまな板台の上から、

わざわざ男のために残しておいた骨付きの腿焼きを引っ掴むと、再び外へと飛び出す。

そうして、未だ地面に座り込んだまま、猫をからかって遊んでいた酔っ払いの顔めがけて投げつけた。

うわっ、と悲鳴をあげたものの見事に腿焼きを掴み取った男を、憎らしく見下ろして、


「そいつをくれてやるから帰んな!そんで、もう二度とウチに来るな!!」


そう一方的に通告する。


「名前も教えないような奴が、一体私に何を期待してたんだい?素面で会いに来た事も無い癖に。」


唾棄するようにそれだけ言うと、は足元に擦り寄ってきた愛猫を抱え上げ、

表通りに向かってずんずん歩き出した。

後ろの方から、え?え?と未だ理解できてない男の声が追いかけてきたが、

足を止めるつもりは毛頭ない。


「ちょ、ちょっと待って!家まで送るから!!」


と、遠くに聞こえる叫び声を無視して、は真っ暗な裏路地に溶け込んだ。

地元の人間でなければまず間違いなく迷子になる入り組んだ細道を進み、

男が追いかけて来ない事を確認して、ようやく足を止める。

どくどくと早鐘を打つ鼓動が鬱陶しくて仕方ない。

息苦しさに肩を大きく揺らせば、

それまで大人しく抱かれていた猫が、するりと音も無く腕の中から抜け出した。

小さな後ろ姿が遠ざかっていくのを見送りながら、


「ほんと・・・馬鹿はどっちだろうね。」


と、急激に興奮の削げ落ちたが、誰に言うでもなく独りごちる。


踏み出す勇気が無いのはこちらの方だ。

歴代の女達のように、傷付け合うと分かっていてなお男を想う覚悟なんか無いくせに、

たまに甘えてもらえる優越感は失いたくないなんて。

そんな浅ましさを見透かされたようで、堪えきれずに逃げ出した。

一番狡いのは、時々餌を与えるだけで愛でた気になっていた自分だ。


鼻の奥がじーんと熱を持ち、思わずずずっと啜りあげる。


「・・・・泣き上戸が移っちまったかな?」


と無理に苦笑いを浮かべれば、

今にも零れ落ちそうだった感情がなんとか瞼の縁ぎりぎりで止まる。


(誰か、さっさとあいつを幸せにしてやってくれないかなぁ・・・)


そう胸中で愚痴って、

この期に及んでもまだ他人頼みの臆病な自分にうんざりしながら、

は独り、帰路についた。
















平凡な日常というものは崩れる時は一瞬だが、

それでも常連の一人と仲違いした位で劇的に変化したりはしない。

裏路地が強烈な西日で橙色へと染まる頃、

はいつもどおり開店の準備に追われていた。

昼は郊外にある自宅で鶏を育て、夜はそれを焼いて売る。

母娘で切り盛りする小さな屋台が、生活の全てを支えていた。

父と2人の弟達が兵役から無事戻ってくるまで、

この細やかな城を守るのが自分の役目だと思っている。

先に運んできた半量分の鶏肉を慣れた手つきで捌いていると、

昨夜からずっと散歩に出ていた愛猫が、閑散とした店先に現れた。

縞々の尻尾をぴんと立てて擦り寄ってくる虎猫の丸い頭を、


「この薄情者、昨日は私を置いて行ったわね。」


などと笑いながら手荒に撫でてやる。

にゃーというよりはぬぅーに近いくぐもった鳴き声で抗議する忠を、足先で脇に退けて、

は手ごろな大きさに切った肉を、全て漬けダレの壷に突っ込んだ。

あとは小炉子に火を入れれば粗方の準備が整うのだが、

これがなかなかに骨が折れる作業なのだ。

とはいえ薪を熾さなければ肉は焼けないわけで、やれやれ面倒だと嘆息しながら、

は奥に仕舞ってある火熾し道具を引っ張り出して、店の裏手に回った。

山積みにされた割れ壷や水桶の隣にしゃがみ込んで、

出来るだけ風が当たらないようにしながら火打石を打ちつける。

けれど、火口にしようと用意したガマの穂は既に湿気ってしまっていたのか、

何度試しても煙一つ上がらなかった。

そろそろ母親がもう半分の鶏を背負って家を出る頃合いだ。

邪魔をするように目の前をうろつく愛猫を邪険に追い払いながら、

先ほどより強く火打石を打ち合わせていると、

屈み込んだの足元に、自分の物ではない影が長く伸びてきた。

てっきり気の早い客が焼き鳥を買いに来たのだろうと、


「あー、ごめんなさい。まだウチ開いてないんで・・・」


そう断りを入れながら立ち上がっただったが、逆光の中に立つ人物を怪訝に凝視する。

斜陽が濃くなった裏路地に佇んでいるのは、緑の戦装束に身を包んだ堂々たる体躯の男で、

浅く被った鍔広帽の豊かな房飾りが、夕焼けを受けて黄金色に輝いていた。

こんな小汚い裏路地には全く似つかわしくないお大尽様が一体何用かと、

考えあぐねいていただったが、


「・・・・・・えっと。」


と、長い沈黙の末におそるおそる絞り出された声で、

ようやくこの立派な武官が昨晩出入り禁止になった名無しの常連客である事に気付く。


「・・・二度と来るなって言ったはずだよ。」


途端に目を据わらせ、先ほどとは打って変わった低い声音でそう威嚇すると、

はもう用は無いとばかりに、再び火を付ける作業に戻った。

ガツン、ガツン、と石のぶつかり合う硬質な音が、人気の無い路地裏にやけに反響して、

胸をざわざわと掻き乱す。

肌を刺すような張り詰めた空気が二人の間をじわじわと侵食し、

それに耐えられなくなったのか、

「・・・昨日は・・その・・ごめん。」

と、男が神妙な声音で謝ってきた。

なぜ頭を下げる必要があるのだ。


「わざわざあんたが謝ること無いだろ?

こんな愛想の悪い店なんかさっさと見切りつけて、余所へ行けば良いじゃないか。」


焼き鳥を食べられる所なら、この路地裏だけでも片手に余るほどは存在している。

男の方に視線一つ寄越さないまま、俯いたが棘を含んだ声でそう言えば、

すぐに否定の言葉が飛んできた。


「嫌だよ、俺はに会いに来てるんだからさ。」

「ふん。話相手が欲しいなら、探せば他にいくらでもいるだろ?

何しろ世の半分は女で、あんたは充分に色男ときてる。」


今まで散々私に聞かせてきたじゃないか、と言いかけて、

これではまるで女遊びを責める情婦みたいだと顔を顰める。

口を開いたところで自己嫌悪に陥るばかりだと、沈黙に戻ったの前に、

じゃりっと土を踏み締める足音がゆっくり近づいてきた。

大きな影がすっぽりと覆いかぶさり、急に冷えた空気に襟足が総毛立つ。


「・・・俺の名前はね、馬岱って言うの。」


ぽつりと零れ落ちた小さな告白が、我武者羅に火打石を打ちつけていたの手をぴたりと止めた。

生まれも育ちも成都の隅っこ、根っから庶民のでさえ知っている、蜀将の名前。

それも、北の餓狼と恐れられ、女子供にさえ容赦せぬと噂された、西涼軍閥の生き残り。

この男が、そうだというのか?

思わず驚愕して顔を上げれば、じっと凝視するの瞳の中に畏怖の念を感じ取ったのか、

馬岱は彫りの深い顔に寂しそうな微笑みを浮かべた。


「・・・素面で来いって言ったから、今日は酔って無いよ。」


彼らしい軽口を、終ぞ聞いた事の無い優しい声音で言われて、

罰の悪さに視線を彷徨わせる。

頭上から、くすっと声になりきれなかった自嘲が降ってきて、


「俺もね、あんまり教えたくなかったんだ。だってほら、怖がらせちゃうし。」


そう言っておいて、違うな、と男は自分から否定した。


「本当はただ軽蔑されたくなかっただけなんだ。別に、今までの生き方を後悔してるわけじゃないけど、

皆からどう思われてるかくらいは理解してるつもりだしね。」


別に、わざわざこいつの身の上話に付き合ってやる義理は無い。

さっさと火を熾さなければ、いつまでたっても店を開けられない。

けれど、馬岱から吐露される言葉一つ一つが、重たい枷となり、

をその場に縛り付けた。


「きっと、これからも褒められるような人生は歩めないと思う。

若はね、羨ましいくらい真っ直ぐな人だったから最後まで清廉でいられたけど、

俺は、自分が私憤で戦ってる事、本当は気付いてたんだ。」


馬超が掲げる正義に賛同し、彼を守り支えるのが生き残った自分の使命だと嘯きながら、

腹の底には常に復讐の火が燻っていた。

大義で殺せば英雄でも、私情で殺せば唯の殺戮者だ。

志を汚し、戦友と袂を分かち、唯一にして最愛の血族さえ欺き続けて、

屍の山を築き上げた先に残ったのは、背負いきれない数多の罪。

けれど自分は戦う事しか償う術を持たないから、

結局今も、恩を返すというお題目に縋って、戦場に立ち続けている。


延々と語られる懺悔は、馬岱の半生そのもので、

顔馴染み程度でしかないには、何を言っているのかさえ分からない。

けれどこれが、誰にも言い出せず、恐らくは若と呼び慕った人物にさえ隠し通した秘密であろう事は、

容易に推察出来た。

一体どれほどの勇気と決意をもって、苦しみ続けた胸中を打ち明けてくれたのだろう。

彼は今、自らが引いた境界線を越えようとしているのだ。

たかが程度の女を引き留めるために。


「最初はね、こんな風に通い詰めるつもり無かったんだ。

俺の事なんか誰も知らない、気にも留めない、そういう場所の方が居心地が良かったからね。

けどがさ、びっくりする位まっとうに俺を叱ってくれるもんだから、

嬉しくなっちゃって。」


つい甘え過ぎてた。

そう言って寂しそうに笑う馬岱の目を、見る事が出来なかった。

これほど真摯な告白を受けるだけの価値が、果たして自分にあるだろうか。

背負う覚悟も無いまま不用意に均衡を崩しておいて、

いざ目の前に差し出された想いの重さに怯えている女に。

もうこれ以上言葉を紡いでくれるなと、恐れ戦く手の中で火打石がカチカチ震えた。


「馬鹿だよね。俺とじゃ絶対幸せになれないって、当の本人に言われたのに。

けどどうしても君を失いたくなかったから、全部ぶちまけて追い縋る事にしたんだ。」


極度の緊張で冷たく強張る指先を、ひと回り以上大きな手が包み込み、

ぽろりと零れ落ちた火打石から視線を上げれば、

茶化すような台詞に似つかわしくない思い詰めた顔の男が跪いていて。

形の良い少し厚めの唇が、目の前で薄く開いて、

大好きだよ、と聞き慣れない真剣な声が鼓膜に染み込んできた。


「ずっと、俺の傍に居てよ。今さら過去を帳消しになんか出来ないから、

俺はいつか報いを受けて戦場で死ぬと思う。

けど、に絶対苦労はかけさせないからさ。俺を好きになってよ。」


そう言って伏せられた長い睫が、斜陽に透けて紅く輝く。

初めて日の光の下で見る男の顔は、深い陰影が端正な顔立ちをより一層際立たせ、

まるで殉教者のような冒し難い美しさを放っていた。


(そんなだから、あんたは・・・)


込み上げてくる歯痒さに、は無言のままぎゅっと眉根を寄せる。

どうして分からないんだろう。

男の手の中から、温もりを奪ってすっかり温まった指先を引き抜けば、

途端に泣き出しそうな目でこちらを見つめるくせに。


「嫌よ。」


がはっきりそう告げると、窮屈そうに縮めた大きな体がびくりと目に見えて震えた。

俯いていこうとする哀しげな顔を、両側から挟んで無理矢理こちらに上向かせて、

今にもぐずぐずと溶けていきそうな大きな瞳を覗き込む。


「私は・・・私はね!あんたと幸せになりたいんだよ!あんたと一緒に苦労して、あんたと一緒に泣いて、

一緒に幸せだなぁって笑い合いたいんだよ!!」

「え・・あ、けど・・・」

「けどもくそもあるか!その、進んで泥を被りたがる捨て石根性が簡単に治るなんて思っちゃいないけどね、

私が大好きなんだろ?必要なんだろ?

だったらせめて、私の隣に居る時くらいは、自分を許してやれ。

あんたを救う事が出来たんだって私が勘違いするくらい、自分を愛してやれ!」


分かったら返事!と有無を言わさぬ勢いで畳み掛ければ、

馬岱の顔が真っ赤に紅潮しながら、みるみる情けなく歪んでいく。

への字に曲がった口からは、いつまでたっても答えが返ってくることはなく、

やがて細く吐き出される吐息が震えだしたかと思うと、

熱い体が、がばっと腕を広げて倒れ込んでくる。

歴戦の強者の突進をが受け止め切れるはずも無く、狭い路地裏に二人仲良く転がった。

取り乱している風を装いながらも、こちらの頭と地面の間にしっかり手を挟み込んでいる辺りが小憎らしい。

肩口に埋められたふわふわの癖毛頭から、ぐすぐすと鼻を啜る音が聞こえてきて、

は愛おしそうに笑った。


「ちょいと、今日は酔って無いんじゃなかったのかい?」


そう揶揄すれば、ややあって、うんうんと頷いてくる。

じゃあなんで泣いてるのさ、と少々意地悪く尋ねると、


「誇り高い西涼の雄はぁ、お酒以外で涙を見せたりしないの。だから泣いてません。」


などと明らかに鼻の詰まった涙声で言い訳をしてくるから、可笑しくて仕方ない。

嘘言え、と詰る代わりに、その広い背中に腕をまわしてぽんぽんと優しく叩いてやれば、


「もぉぉ、全然信じてないでしょ!ってホント意地が悪ぅい。絶対、友達少ないよねぇ。」


と、普段通りの妙に明るい馬岱が戻ってきた。

でもそこがいいっ!と一人悦に入る西涼の雄とやらの、

無防備に空いた脇腹を強めに小突いて、退けと催促する。


「ったく、誰かさんが邪魔したせいで、まだ火も熾せてないじゃないか!いいから退きな!」

「えー、もう少しこのままでいいじゃない。俺、今すごぉく幸せなんだもん。」


と、なんとも卑怯な逃げ口上で反論を封じて、

ご満悦の男はぎゅうぎゅうと抵抗する術を失ったを力いっぱい抱き締めた。

早く退け、もうちょっと、という不毛な応酬を何度となく繰り返し、

結局、遅れてやって来た母親が一体何事かと慌てふためいて寄ってくるまで、

馬岱はを解放しなかった。















暗い裏路地に、じゅうじゅうと鳥皮の焦げるいい音が充満する。

今夜もの店は大繁盛で、あと半刻もしない内に全て売り切れそうだ。


「さぁさ、お客さん!あと5切れほどで完売ですよ!御入りの方はお早くどうぞー!」


捌く肉の無くなったが、店の外へ出て笑顔で呼び込みをしていると、

背後の暗がりからにゅっと太い腕が伸びてきて、たちまち温かな懐に引き込まれた。

突然の抱擁に一瞬身を固くしたものの、くすくすと楽しげな笑い声が頭上から降ってきて、

はぁーっと呆れ顔で思いっきり溜め息をつく。

よくもまぁ、毎日飽きもせず同じ悪戯を仕掛けてくるものだ。

馬岱殿、と低く名前を呼べば、はぁい、と人を勝手に抱き込んだ男が、

ご機嫌な返事を返してきた。


「大当たりぃ、さすがちゃん。貴女の馬岱ですよぉ。」


これはもう愛の力だねぇ、などと勝手な言い分を並べつつ、

ちゅっちゅっと耳元に口付けを落としている馬鹿の顔を、は懸命に押し退ける。


「ちょ、仕事の邪魔するんじゃない!ちゃん付けもやめろ!ええと、それから、ああもうとにかく放しな!」


そう言ってじたばたと足掻けば、馬岱はこちらの腰に回した腕をほんの少しだけ緩め、

代わりに肩口へと顎を乗せた。


「えー、それなら、も殿付けるのやめようよぉ。寂しいじゃない、なんか他人行儀だしぃ。」


と、不服そうに唇を尖らせる男に、そんな事出来るか、と内心毒づく。


「あんたね、一応身分ってものを考えなさい。こんな往来でほいほい名前を呼ばせるんじゃない。」


本当ならば馬将軍と呼びたいところなのだが、当の本人が強硬に反対したため、

仕方なく譲歩したのだ。

そんなに私を恥知らずの無礼者にしたいのか、と男を引き摺るようにして強引に店へ戻ろうとすれば、


「じゃあ、早く二人きりになりたいよ。俺ねぇ、が恥ずかしそうに馬岱って呼ぶ声大好き。」


と、意味深長な台詞を吐息と一緒に耳へと吹き込んでくる。

ぶばっと首まで赤くなったが間近にある馬岱の顔を睨み付ければ、

子猫のように愛くるしい双眸をニヤニヤ脂下げて、明らかに反応を楽しんでる様子だ。


「今すぐ帰っちまえ!」


と怒鳴りながらつま先を踏みつけて、大げさに痛がる馬岱を置き去りに店の中へと逃げ込む。

ぬぅーと鳴いて出迎えてくれた忠を、おーよしよしと抱き上げていると、


は本当に可愛いなぁ。本気で嫌がるんだもん、もっとしたくなっちゃう。」


そう心底楽しそうに世迷いごとを言いながら、ホクホク顔の馬岱がのんびり追いかけてきた。

良い仲となってまだ日は浅いが、少しずつその捻くれた本性を垣間見せてくれるようになって、

実に良い傾向だと思う。


「調子に乗るんじゃないよ。私はまだあんたの事信用したわけじゃないんだからね。」


そう嘯いて、腕の中でごろごと喉を鳴らしていた愛猫を、ひょいっと馬岱の鼻先に突き付ける。


「私にとって今のあんたはせいぜい忠と同じ扱いさ。」


の宣言に、ぬぅーと返事する虎猫の福々しい顔を見つめ、

それって飼い猫と同じってことぉ?と自称恋人は情けなく眉尻を下げた。

から忠を受け取って、お前と同じかぁ、と残念そうに眺める馬岱の頭をわしわしと掻き回し、


「猫だからね、どこほっつき歩こうが、誰と喧嘩しようが、好きに生きれば良いさ。」


ちゃんと死ぬまで面倒見てやるから、と付け足せば、

その彫の深い顔がぽっと赤く染まって、えへへ、と良い歳をした男とは思えないような幼い仕草ではにかんだ。

それからいそいそと、麻地の漢服の懐から竹筒を取り出し、へと差し出す。


「じゃーん、お土産だよ。これってぇ西涼のお酒なんだって!に飲んで欲しくて持ってきたの。」


恐らく巴蜀では滅多に手に入らないであろう貴重品を、あっさり贈ってくれるその心意気は買うが、

生憎、欲しい言葉はそれじゃ無い。

無言でじぃっとその浮かれ顔を見据えれば、馬岱の方も思っていた反応と違ったらしく、

きょろきょろと不安そうに視線を泳がせ始める。


「貰ってくれると嬉しいな・・じゃなくて!!えっと・・・終わったら、その、一緒に飲もう?」


とまるで正解を探るかのようにたどたどしく紡がれた問いに、今度こそ満面の笑みで頷いて、


「大切な品をどうもありがとう、凄く嬉しい!もう少しで終わるから、待ってて。」


と少々気恥ずかしいものの、その頬にちゅっと音を立てて唇を押し当てる。

途端に、わぁぁ、という悲鳴を上げ、ふにゃふにゃと男前な顔を台無しにする馬岱を尻目に、

はほくそ笑みながら店の奥へ戻った。

どうやら早くも教育の成果が出始めているようで、

一方的に与えるのではなく、二人で共有しようと努力してくれている。

この分なら、もしかして近い内に人間に昇格する日が来るかも知れない。

本当にそうなれば良いのに、と切に願いながら、

店先の壷椅子で、大人しくの帰りを待つ大きな大きな拾い猫を、

愛おしそうに見つめた。












ねぇ、一緒に幸せになろう?




























end




〜13/05/24