空が気紛れを起こしたせいで。
胸が。
苦しい。
『 めると 』
ざあざあと水桶をひっくり返したような土砂降りの雨だった。
今朝はあんなに晴れていたのにと、
辛うじて乾いてくれた洗濯物の山を抱えて、
は恨めしげに、軒先から流れ落ちる滝のような雨水を睨みつけた。
「どうせすぐ止んじゃうんだから、もう少し待っててくれても良いのに・・・」
この季節、天候が不安定であるのは毎年のことなので、
気紛れな空を恨んだところで仕方ないのだが、
大慌てで洗濯物を取り入れなければならない身としては、不平の一つも零したくなるというものだ。
おまけに、にあてがわれた物干し場は官舎から一番離れているから、
他の同僚達のように洗濯籠を庇いながら走って戻るなんて事も出来ない。
仕方なく途中に建っている古びた六角堂へと避難して、
雨が上がるのを待った。
「どうしよう、まだ仕事が残ってるのに・・・」
宮城からは、その日の天気などお構いなしに毎日大量の汚れ物が出るから、
のように洗濯を任されている下婢達は雨が降ろうが嵐が来ようが朝から晩まで働き詰めだ。
現にこの後は、担当の宿舎から今日最後の汚れ物を集めて来なければならなかったし、
それが終われば今度は繕い物をしている同僚を手伝わなければいけない。
こんな所で突っ立っている暇は無いのだが、
の焦燥など知らぬ存ぜぬといった様子で、雨は激しく降り続けた。
いい加減立ちっぱなしも疲れてきたので、
苔むした石段の、なるべく乾いている部分を探して座り込む。
人に顧みられなくなって久しい六角堂は、柱の朱塗りが剥げ落ち、
木製の観音扉も蝶番が外れかかっていてちぐはぐに傾いていた。
ざぁざぁと強弱をつけて響く雨音と、遠くで鳴く蛙の声以外には何も聞こえず、
しんと冷え込んだ空気に首筋が総毛立つのを感じて、はぶるりと肩をすくめた。
「そろそろ止んでくれないかなぁ・・・」
ほとほと困り果てて、が膝の上に抱えた洗濯物の山に顎を乗せていると、
ぱしゃぱしゃ、と水溜りを蹴散らす音が聞こえて、
誰かが隣に駆けこんできた。
わざわざ雨に濡れてまでこんな宮城の端っこにやって来るなんて、酔狂な人も居るものだ。
(この先には草叢しか無かったはずだけど・・・)
夏は藪蚊が多くて困るのよねー、などと愚痴を零しながら、
物好きなお客さんへと何気なく視線を向けて、は思わず目を見開いてしまった。
みるみる内に顔が真っ赤に染まり出し、動悸が急激に速度を上げる。
(う、うわぁ、うわぁ〜!なんで?なんでこんな所にこの方が???)
同じ軒下、ほんの数歩先で肩にかかった雨粒を払っているのは、
間違いなく隻眼の猛将、夏侯元譲その人で、
の体は緊張のあまり頭の天辺からつま先までカチカチに固まってしまう。
先ほどまでの肌寒さが嘘のように全身から汗が噴き出るのを感じながら、
は大慌てで視線を彼から引っぺがした。
頬が燃えるように熱い。
ともすると震えてしまう指先を、洗濯物を握り締める事でなんとか誤魔化す。
がこれほど動揺しているのは、
別にこの男が魏王曹操の片腕であるからとか、その苛烈な戦ぶりで敵味方問わず畏れられているとか、
そんな事だけでは無かった。
(どうしよう・・・まさか会えるなんて・・・)
きゅうぅ、と甘く痛む胸を押さえて、堪え切れない切なさに喘ぐ。
誰にも打ち明けたことは無かったが、はこの男にこっそり恋心を寄せていた。
きっかけは本当に些細なもので、
正直それまでは彼に対して、数多の女官下婢が抱く様な遠い遠い憧れさえ持っていなかった。
なにしろ、しがない洗濯下婢にとって魏国筆頭の将軍様など雲の上の存在であり、
の生きる世界にはなんら関わりの無い人間だったのだ。
それが、1年ほど前から物干し場の外れにぽつんと生えた楡の巨木の下で、
昼寝をしているのを見かけるようになる。
に割り当てられた場所はそのすぐ横だったから、嫌でも彼の姿が目に入り、
最初の頃は緊張しながら洗濯物を干したものだ。
けれど、慣れというのは恐ろしく、三月もすれば、
強面でいかにも峻厳そうに見えるこの男が、無防備に眠りこけている姿が愛らしく思えてきて、
半年経つ頃には、洗濯物を干しに行くたびに夏侯惇が来ていないかこっそり探すようになった。
男の存在は明潤にとって、まるで子供の頃こっそり造った隠れ家に似ていて、
このまま誰にも知られず、気付かれず、ずっと自分だけの秘密であって欲しいと思ううちに、
ささやかな独占欲は恋へと変わっていた。
(本当に私、どうかしてる・・・)
以前はこんな分不相応な夢を見る女では無かったと恥じ入りながら、
はそっと俯いて下唇を噛む。
別に、とて想いを伝えたいなどと大それた願いを抱いているわけじゃない。
ただ、出来ればこれから先も彼があの木の下で昼寝をする時は、
傍で洗濯物を干していたかった。
空が晴れれば、もしかしたら昼寝に来ているんじゃないかと期待し、
雨が降れば、今日は絶対に会えないと落胆する。
そんな甘酸っぱい一喜一憂が、ただただ嬉しくて。
見ているだけで幸せな恋があるのだと、初めて知った。
(だから、それ以上を望むなんておこがましいわ・・・)
体中の全神経が隣に佇む男に集中しているのを感じながら、
は放っておくとすぐに舞い上がってしまう恋心を必死になって押さえつけた。
冷静になって考えれば、
夏侯惇はここに雨宿りに来ているだけで、
そこにたまたま先客である自分が居たに過ぎない。
(そうよね。あの方にとってみれば、私なんてそこに生えてる雑草と変わらないわ。)
自分で出した結論に、ほんの少しへこんだものの、
お陰で早鐘を打っていた心臓は少しずつ落ち着きを取り戻した。
ガチガチに入っていた肩の力を抜いて、詰めていた息をゆっくりと吐き出す。
平常心、平常心、とが自分に言い聞かせていると、
まるでその努力を嘲笑うかのように、今まで無言だった夏侯惇が、
「ひどい雨だな。」
と突然声をかけてきた。
まさか話しかけられるなどとは露ほども予想していなかったため、
彼の声が耳に届いてから頭で理解するまでに、随分と時間がかかってしまう。
「・・・・あ、あ、は、ひゃい!」
不自然に間が開いてから、は慌ててしどろもどろの返事を返した。
(あぁ!もう何やってるの、私!)
何の気紛れかは分からないが、
夏侯惇ほどの貴人が取るに足らない下婢ふぜいにわざわざ話かけてくれているのだ、
もっと気の利いた返事があるだろう、と再び顔が火を噴く。
沈黙が気まずくて、一生懸命言葉を探すものの、
既に混乱している脳味噌はこれ以上働けませんとばかりに真っ白になった。
肌寒い雨の中、赤い顔をして大量の汗をかいているは明らかに挙動不審者だ。
けれど、夏侯惇の方はそれに気が付いていないのか、
「どうせすぐ止むだろうが、こう激しく降られては身動きがとれん。」
そう言って、あろうことか隣に座って来た。
星よりなお遠い存在であった想い人が、
肩が触れてしまいそうな距離から話しかけてくるのだ。
ほんの少し身じろぎしただけでも分不相応な恋心が伝わってしまいそうで、
とても男の顔を直視することが出来ず、視線から逃げるように顔を伏せる。
え、あ、う、と小さく息を詰めるばかりで、
じっと縮こまって動かないをどう思ったのか、
「その荷物を抱えてじっと待つのは辛いだろう。」
替わりに俺が持ってやる、と手を差しのべてきた。
初めて間近で聞いた男の声は、低く渋味を帯びているのに艶があって、
思わずぽぉっと聞き惚れてしまう。
けれど、まさか魏国の宝である大将軍に、
山盛りの洗濯籠など持たせられるわけがない。
「え、や、お、恐れ多いことです!これは私めの仕事で、ご、ございます、から、
将軍の御手を、その、煩わせるわけにはッ・・・」
精一杯の御断りをしどろもどろ口にしながら、
わたわたと洗濯物の山を抱え直すと、夏侯惇から庇うようにしてそっぽを向いた。
(あぁ!!どうしよう・・・今のは物凄く失礼だったかも!?)
あまりにも意外な申し出であったため、混乱してつい反射的に身を捩ったが、
これでは、好意を拒絶したと思われても仕方ない態度だ。
出来れば彼が怒っていないか振り向いて確かめたかったが、
今目を合わせたりなんかしたら、取り乱してとんでもない事を口走りそうだ。
穴があったら埋まりたいくらいの恥ずかしさに打ちのめされて、
身を縮こまらせていると、
「・・・・・・俺が、怖いか。」
長い沈黙の後、ぽつんと夏侯惇が呟いた。
その声はどこか寂しげで、自嘲するような響きさえ含んでいる気がして、
は思わず振り返ると全力で否定する。
「ち、ち、違うんです!!怖いわけじゃ、なくて!き、緊張、してるといいましょうか、
将軍に、その、話しかけて頂けて、あんまり嬉しかったものだから、あのッ!!」
膝の上の洗濯物が落ちてしまいそうなほど身を乗り出し、
なんとか分かってもらおうとが熱弁を振るうと、
「・・・・そうか、ならば良い。怖がらせたいわけではないのでな。」
と隻眼の猛将は、その強面を春の木漏れ日のように柔らかく綻ばせた。
(あ・・・・笑った・・・)
間近で見た彼の微笑みは、の心を鷲掴みにして根こそぎ奪い去っていってしまう。
(こ、こんなの、心臓がもたないッ!)
ぎゅうっと力いっぱい洗濯籠を抱いて、胸を貫いた甘い痛みに耐えていると、
夏侯惇は真顔に戻り、そっとから視線を外して雨に霞む物干し場の方を見た。
「・・・実はな、礼を言いに来たのだ。お前に。」
「礼、でございますか?」
ぽつぽつと話し出した夏侯惇の横顔を、は掌で火照った頬を冷ましながら、
チラチラと盗み見る。
こんな立派な将軍がわざわざ雨の中礼を言いに来るほどだから、
自分はよっぽど喜ばれるような何かをしたのだろうが、
残念ながら全く心当たりが無かった。
しかし、ここは是が非でも思い出さねば、ここまで来てくれた彼に申し訳無いというものだ。
が必死にそれらしい事を思い出そうと頑張っていると、
夏侯惇は再びこちらに視線を戻し、
「覚えていないのなら構わん。だが、俺にとっては大事な事だ。
お前があの時敷布で隠してくれた事、本当に感謝している。」
そう言って重々しく目を伏せた。
敷布、という言葉でようやく彼の言わんとしている出来事に思い至り、
はのぼせ上った頭から記憶を引っ張り出した。
もう随分前の話だ。
その頃はまだにとって夏侯惇は突然現れた厄介なお偉いさんで、
その日も、洗濯物を取り込むだけで何故こんなに緊張せねばならぬのかと、
楡の木陰に寝そべっている珍客に恨みがましい視線を送っていた。
ところが、その夏侯惇がのんびりと寝返りを打った時だった。
どうやら結び目が緩んでいたらしく、
仰向けになった拍子に、彼の象徴とも言える眼帯が外れてしまったのだ。
眼球を失った痛々しい傷跡が、木漏れ日の下でもはっきりと見えて、
は思わず息を飲んだ。
慌てて目を逸らし、すっかり乾いていた洗濯物を取り込むふりをしたものの、
夏侯惇が起きる事は無く、眼帯はいつまでも草叢の上に零れ落ちたままだった。
城仕えの女官達がしていた噂話では、
夏侯惇はこの失った左目の事をとても気にしているらしい。
隻眼になった自分の顔を見るのが嫌で、
自邸にある鏡という鏡を全て割って回ったなんて逸話まで巷に流れているくらいだ。
ここはやはり何とかしてやるべきだろうが、
下手に彼を起こすと、傷跡を見たに怒り出すかも知れない。
あんな強面に怒鳴られでもしたら寿命が縮んでしまうと、
こっそり眼帯を戻すべく彼の元へと近寄っただったが、
なんとも間の悪い事に、遠くの方から同僚が連れ立って昼食を誘いに来た。
こちらの名前を呼びながら、どんどん近づいてくる彼女達から、
なんとか夏侯惇の姿を隠さなければ、と上手い方法を探すものの、
持っているのは、使い古した洗濯籠と先ほど取り込んだばかりの敷布のみ。
まさか籠を頭に被せるわけにもいかず、仕方なく敷布で夏侯惇の体を覆い隠し、
同僚達がこちらの姿に気付く前に、急いで声のする方へと走って行った。
その後、が昼食から帰ってくると、
敷き布は物干し竿に無造作にかけられており、夏侯惇の姿は消えていたが。
(まさか、起きてらしたとは・・・)
にとっては、まだ彼を意識する前の話だったため、
すっかり忘却の彼方となっていたが、
思い出してみると、天下の将軍に対してあんまりな扱いをしたと血の気が引く。
本当は怒っているんじゃないかと、おそるおそる隣に座る男の顔を伺い見れば、
彼は真剣な表情で、真っ直ぐこちらの目を見つめ返してきた。
慌てて視線をそらし、右へ左へと泳がせながら、
「あ、そ、そのような事もございましたね。
ですが、その、あの時は仕方なかったといいますか、それ以外方法が思いつかなくてですね・・・」
と冷や汗混じりの弁明をするも、どんどん尻すぼみになって口の中に消えた。
つっかえひっかえの随分と聞き取りづらい言い訳だったが、
夏侯惇は黙って最後まで聞いてくれたあと、
「・・・なぜ、そうまでして俺を庇った?」
とおもむろに問いかけてくる。
果たして夏侯惇は一体どんな答えを求めているのだろう。
探るように男の隻眼を見つめれば、黒い瞳は深い泉のように底が見えず、
逆に吸い込まれる様な錯覚さえ覚えた。
下手な事を口にすれば、彼を傷付け怒らせてしまうかも知れない。
けれど、嘘で取り繕ったところでこの美しい隻眼は容易く見破ってしまうだろう。
どちらにしろ正直に答える事しか自分には出来ないと腹を括って、
「誰であれ、隠しているものを衆目に晒されるのは辛い事だと思いましたので・・・・」
おずおずと素直な気持ちを口にする。
将軍を下婢などと同じ尺度で慮るなど、厚顔無恥な発言だろう。
夏侯惇が憤慨するのを覚悟し、きゅっと目を瞑って身構えていただったが、
「そうか・・・。」
と感慨深く呟いて、隻眼の将軍は再び柔らかな微笑みを浮かべて見せた。
それだけで、の心はいとも容易く翻弄され、
切ない吐息が我知らず口から零れおちる。
そんな優しい目で見つめられてしまうと、
不可抗力とはいえ彼の素顔を見てしまった罪悪感で居たたまれなくなるではないか。
「あの・・・実は私、その時に将軍の左目を、その、見てしまいまして・・・」
申し訳ございませんでした、とは勢い良く頭を下げた。
けれど、噂で聞くほど短気でも粗暴でもない男は、
「・・・お前にならば見られても構わん。」
と、低く響く穏やかな声で明潤を有頂天にさせるような事を言ってくる。
「随分と、気を遣わせているようだからな。
俺があそこで寝ている時は、わざと大きな布ばかりを干しているだろう。」
知らぬとでも思っていたか?と、夏侯惇は茶化すように唇の片端を釣り上げた。
まさか本人に気付かれていたなんて思いも寄らず、
余計な御世話がバレた恥ずかしさに言葉も出ない。
確かに、木に一番近い物干し竿には敷布や長衣を干して、彼の姿が極力人目につかぬよう気をつけていたし、
草が茂って来たなと思えば、草刈り鎌を借りてきて慣れない手つきで払ったりもした。
どれも、いつも疲れた顔をして昼寝にやって来る男に少しでも安らいで欲しいと考えた、小娘の浅知恵だ。
おまけに、半分は男の寝姿を独り占めしていたい、という下心であるから、
到底感謝してもらえるような事では無い。
「出過ぎた真似をいたしました・・・」
そう言ってがしゅんと項垂れていると、
夏侯惇は唐突にその大きく無骨な手を伸ばしてきて、
彼女の赤く熟れた横顔をそっと撫でた。
びくりと明潤の細い肩が跳ね上がる。
男は頬に張り付いた遅れ毛を耳にかけてやりながら、
「こちらを向いてはくれぬか・・・」
と低く甘い声で囁いた。
言葉を交わすことなど一生無いと覚悟していた片恋の相手からそんな風に請われて、
断れるはずがないでは無いか。
さぞかしみっともなく赤面しているだろうと涙目になりながら、おずおずと顔を向ければ、
夏侯惇は相変わらず優しい目をして、
「名を教えて欲しい。」
と大きな掌をの頬に押し当てた。
肌から伝わってくる彼の温もりが、必死に隠そうとしている恋心をいとも容易く丸裸にしてしまう。
到底押さえきれない切なさに胸を締め付けられながら、
「と・・・申します。」
なんとかかんとか、蚊の鳴く声で名前を吐き出した。
夏侯惇はそれを聞いて、か、とまるで口の中で転がすように呟くと、
すいっとの頬から手を離した。
「・・・っ」
男の温もりが遠ざかるのが切なくて、は思わず息を詰める。
その反応に夏侯惇が僅かに目を細めるのが分かって、
己の浅ましさに恥じ入ると、すぐさま顔を隠すように俯いた。
「・・・俺はこれから二月ほど遠征に出ることになった。」
しばらく会えなくなるだろう、とそう言って男は遠く、
雨に佇む楡の木を見つめる。
淡々とした言葉がズキリとの心に突き刺さり、
今この時が儚い幻であるという事を残酷に知らしめた。
けれど、一度戒めを解いてしまった恋心は、
嫌だ、寂しい、行かないで、と勝手な言い分でを責め立てる。
せめて想いを言葉にして吐き出せたら随分と楽になるのだろうが、
そんな僭越が許されるような立場では無いと知っている。
「・・・・どうか、ご武運を。」
が夏侯惇に伝えられる言霊などせいぜいそれくらいで、
募るばかりの恋情を全部その台詞に詰め込んだ。
最初から決して手の届かない場所にいた男は、
けれど深く考え込むように俯くと、
「・・・無事戻ったら、二人でどこかに行かぬか?」
お前ともっと話がしてみたいと、遠慮がちに誘ってきた。
瞬間、真っ先にの頭の中を占領したのは震えるような歓喜で、
その後すぐに揺り戻す様な不安がそれを侵食しはじめる。
彼の言葉を信じきる事ができず、戸惑いに瞳を揺らすに、
夏侯惇は愛おしむような苦笑を浮かべ、
「どこに行くか、ちゃんと考えておけよ。」
と、まるで茶化すように約束を重ねた。
は今度こそ体中が喜びに満ちるのを感じながら、
わななく唇を両手で押さえると、こくこく、と何度も頷く。
自然と浮かんできてしまう涙で視界が滲んで、
夏侯惇の満足そうな笑みが霞んで見えた。
(どうしよう・・・嘘みたい・・・夢みたい!!)
子供みたいに泣いている自分が恥ずかしくて、
ごしごしと目元を拭っていると、
「お前は泣き虫なのだな。」
と、隣に座る想い人がぽんぽんとその温かい手で頭を撫でてくれる。
すんすんと鼻を啜りながら、照れ笑いを浮かべたが見たのは、
遠く雲の隙間から見え始めた光の帯で。
だんだん弱くなってきた雨脚に、心がざわざわと騒ぎ出す。
あれほど止んで欲しいと思っていたのに、
今は少しでも長く男の足を引きとめてくれたらと願ってしまうから、
我ながら現金なものだ。
そう自嘲するの隣から、
「なんだ、もう止んでしまうのか。」
という残念そうな声が聞こえてきて、
見れば夏侯惇がまるで悪戯小僧のようににやりと笑っていた。
これは、同じ思いで居てくれていると、自惚れても良いのだろうか。
(私は将軍の事をまだ何も知らないけど・・・)
今まで過ごしてきた時間の差や、
生きる世界の差や、
天と地ほどもある身分の差が、
これから少しずつ溶けて消えてくれれば良い。
そう切に願いながら、はまるで水鏡のように空を映す、
物干し場の水溜りを見つめた。
了