※ caution ※

・若さゆえの情熱を持て余す年下攻め陸遜。
・年齢、年表、その他時間軸を気にしたら負け。
・設定捏造は正義☆

以上をご了承の上、読んで頂ければ幸いです。
























蒼の大海から仄かに甘い東風が吹いてくる季節は、

必ずまた会いに来ます、と、

大きな瞳に浮かんでくる涙を懸命に堪えていた少年を思い出す。

大人びた仮面の下に隠れていた、

眩しいばかりの無垢な魂は、今も変わらずそこにあるだろうか。

貴方が寄せてくれた全身全霊の親愛を思い出すたび、

私は身悶えするようなくすぐったさを噛みしめる。














 
『  燕が唄う恋  』















お慕い申し上げますだなんて。


「一体どこで覚えたのかしら・・・・」


そんな言葉、と嬉しそうに呟いて孫は手の中の釣竿を弄んだ。

滅多に頂けない余暇を、

この船着き場で川面に糸を垂らして過ごすのが彼女の至福であった。

今日も、愛用している大きな麦わら帽子を被り、洗いざらした木綿の長衣を着て、

「それが身分ある御方のされる格好ですか!」

という女中頭の小言を背に屋敷を出てきた。

普段、暗い書庫で日がな一日貴重文献の写本なんて単調な仕事をしているのだ。


(たまのお休みくらい、外の空気を思う存分吸わないと!)


太陽に輝く銀の漣を眺めながら、ふふふ、と堪え切れない笑みを溢しては、

まぁ、思い出し笑いなんて厭らしい、などと独り言を嘯いてみる。

がいつにもまして上機嫌なのは、行儀悪くあぐらをかいた膝の上に広げてある手紙のせいだ。

久方ぶりに送られてきた文は、帰京を告げる報せ。


「もう5年になるのねぇ・・・あの捻くれ小僧が今や孫呉の軍師見習いだなんて。」


今日から貴方様を護衛致します、としかめつらしく頭を下げたのは、

まだ声変わりもしていない少年であった。

肌理の細かい白い肌と日に透けて輝く薄茶の髪、

黒目がちの瞳はびっしりと長い睫毛に縁どられ、

言われなければ女の子と見紛うほどの愛らしさだった。

そこまで考えて、ふと自分の年齢を思い出し、

はしかめっ面で首をぷるぷると振った。

今年で21、本来ならばとっくに嫁いでいなければならない年頃なのだが、

浮いた話の一つでもあるなら、こんな所で川面を相手に百面相なんてしていない。


「大体、小覇王の娘なんて肩書があるから殿方が寄ってきてくれないのよ!」


ちゃんと血が繋がっているわけでもなし。

一応、孫は孫策の娘となってはいたが、

実際は呉郡平定の折、近隣の少数部族から帰順の証として差し出された人質の一人である。

母親に連れられて郷里を離れた日のことを、今でも時々夢に見た。

その母は、孫策の妻、大喬に仕えることとなり、自然と孫も彼ら夫妻に懐いたのだ。

だが程なく母親は流行り病で急死し、身寄りの無くなった孫は孫策の養子として迎えられることとなった。

人質の娘が時の国主の一族に加えられるなど、まさに異例中の異例と言えたが、

大喬が孫の母を心から慕ってくれていたことが、それを可能にしたのだった。

以来、江東の二喬とまで唄われた佳人に愛情深く育てられてきたのだが。


「まったく、上手くなるのは魚との駆け引きばっかりね。」


と愚痴りながら、先ほどからぴくぴくと揺れていた竿を勢いよく引き上げれば、

釣り糸に引きずられて、しなやかな魚の体が飛沫を上げながら中空へと躍り出た。

おお!これは大物かも!と孫が腰を上げようとした次の瞬間、

すっぽ抜けるようにして魚は水面へと落ちて見えなくなる。


「お前まで私から去っていくのね・・・・」


獲物を失い空しく風に舞う釣り糸を、口をへの字にして手繰り寄せながら、

だが孫の心は抑えきれない高揚感で浮足立っていた。


(私の可愛い護衛兵さんはどんな姿になっているかしら・・・)


何しろ、別れた時の彼は12歳。背など孫の肩あたりまでしか無かったのだから。


(良く抱きしめて遊んだわねぇ・・・)


子供と言えど男の矜持があるのだろう、必死に抵抗する様がまた愛らしくて、

ついついからかってしまったものだ。

だが今やその彼も歴戦の将、山越族との戦で上げた華々しい武功の数々は、

呉の都にまで届いていた。


(でも、あの子が黄将軍や太史将軍みたいな筋肉もりもりの巨漢になってるなんて、

想像できないわ)


どうしても、あの頃の愛らしい少年の姿しか思い浮ばず、

はうーんと唸りながら、慣れた手つきで餌箱から蚯蚓を一匹摘み上げた。

箱の蓋を開けた途端、我先に逃げだそうと蠢く蚯蚓達は、

屋敷の女中達が見たら卒倒しそうな光景だ。

別に噛みついたりしないのにね、と苦笑しつつ、

釣り針の先に蚯蚓を引っかけていると、


「また共も連れずにこのような所で・・・・少しは御身の尊さを省みられよ。」


野太い声が背後でぼやくのが聞こえ、

は待ってましたとばかりに振り返った。

そこには、不精ひげも眩しい立派な体躯の男が副官らしき青年と共に呆れ顔で立っていた。


「ですが、呂軍師。大勢で来てはせっかくの魚が逃げてしまいますよ?」


それでは魚釣りになりません、と屁理屈をこねながらニコニコと笑って礼をとれば、

最近すっかり粗暴さの抜けた軍師殿は恭しく頭を垂れてみせる。

頻繁に書庫を利用している呂蒙とは古くからの顔馴染みであり、

彼の気さくな性格も手伝って身分に拘らぬ付き合いをしていた。


「それにしても、どうしてここがお分かりに?」

「屋敷の者に聞いたのです。今日は朝からこちらにおられるとか・・・」


あまり関心出来ませぬが、と言外に告げる呂蒙に、

の方はそんな諫言は慣れっこだと笑って取り合わない。

こんなに良い天気なのだから外に出ねば体に悪いでしょう?と晴れ上がった空を仰ぎみれば、

もともと寛容な男は苦笑いを浮かべながらも、諦めたようだった。

ごほんっと一つ咳払いをすると、やおら本来の用件を口にする。


「ところで、様に是非お目通り願いたいという者を連れてき・・・」


と、呂蒙の言葉も終わらぬ内に、孫は彼の両手を掴むと身を乗り出して問い詰めた。


「伯言ね!?私もずっと会いたかったのです!あの子はどこにいるのですか???」


目をきらきらと輝かせ、5年前見送った少女のように可憐な姿を視界の中に探すも、

どこにもそんな少年は見当たらず、変わりに心成しか顔を赤らめている副官と目が合った。


「居ないじゃないですか・・・・」


と呂蒙の方に視線を戻すと、彼はなんとも言えぬ複雑な顔をして、

二人の後ろでなぜだかムッとしている副官の青年にこちらへ来るよう促した。


「これが、貴方の護衛をしていた陸伯言です。」


呂蒙が噛んで含めるようにそう紹介すると、青年は孫の前に跪き臣下の礼をとりながら、

真っ直ぐ顔を上げた。


「お久しぶりです、様。」


一瞬呂蒙の言った事が理解出来ず、孫はきょとんと眼の前の青年を見つめた。

はきはきと良く通る声は、力強く甘い、男のそれになっていて、

子供らしく甲高かった響きは微塵も残っていない。

見上げてくる顔には面影こそあるものの、

まろやかだった頬から顎は鋭さを増し、白かった肌は健康的に日に焼け、

あの大きく円らだった瞳さえ、涼やかで凛々しい切れ長の奥二重へと変貌を遂げていた。

おまけに、すっと立ち上がった彼は孫より顔半分ほど背が高く、

痩身だが服の上からでも見てとれるほど鍛え上げられていた。


「・・・・・・・・・・伯言が男になっちゃった・・・」


思わず零れた孫の本音に、

当の陸遜はおろか、様子を伺っていた呂蒙までが目を点にして絶句した。













中庭の一角に野太い笑い声が響きわたる。

それに驚いたのか、今が盛りと咲き誇る真っ赤な躑躅の影から、

蜜を啄んでいた小鳥たちが一斉に飛び立った。


「もう!そんなに笑う事ないでしょう?

仕方ないじゃありませんか、最後に会ったのは5年も前なのですから!」


士別れて三日、即ち更に刮目して相待すべし、でしょう?と孫が唇を尖らせると、

かつて蛮勇を轟かせた男は自身の言葉で反論されて、ばつが悪そうに首の後ろを掻いた。


「しかしですな、伯言が男になっちゃったとは・・・」


そう言ってくくっとまた笑いを堪えてみせる呂蒙を孫は半眼で睨みつけた。

船着き場から帰る道すがら、ずっとこの調子だったのだ。

普段は冷静沈着な軍師殿が実は笑い上戸とは呉下の阿蒙は未だ健在ね、

と胸中で悪態をつきながら、孫はもう一人の客人をそっとためらいがちに伺った。

侍女が入れてくれた今年一番の新茶を、そっと口に含んでは懐かしそうな目をして庭を眺める青年が、

本当にあの伯言なのだろうか。


(初めて来た時は、この屋敷にある何もかもを拒絶するみたいだったのにねぇ・・・)


ここは彼の一族の仇である小覇王孫策が愛した屋敷だ。

そこの主を守らねばならない屈辱は幼い彼の心をどれほど蝕んでいたのだろう。

そのくせ慇懃無礼で、自分の中にある負の感情を綺麗に覆い隠して見せた。

おおよそ子供らしくない子供が、今やこんなに穏やかな顔をしてこの庭を眺めている。

茶器に添えられた繊細な指先や、ゆったりと椅子に身を預ける佇まいには気品さえ感じられて、

は時の流れの早さに戸惑った。


「あ、すみません。懐かしさについ呆けてしまいました。」


不躾にじろじろ見ていたのはこちらだというのに、

それに気づいた陸遜は面映ゆそうに目を細めると、爽やかに笑って見せる。


(もう立派な軍師様なのね・・・・)


実の弟のように可愛がっていた少年が急に遠くへ行ってしまった気がして、

もしかしたらこれが母親の心境なのかしら、と孫は己が胸の寂寥感を噛みしめた。


「本当に、貴方は立派になりました。もう伯言だなんて気楽に呼べないわね。

陸軍師、この度のご栄達、誠におめでとうございます。

孫呉に仕える文官の末席として、私も軍師殿に尽力致します。」


そう言って、恭しく頭を下げると、

だが青年は一瞬憮然としたような表情を浮かべ、

それを誤魔化すかのように、勿体ないお言葉です、とぎこちない笑みを浮かべた。

微妙な空気が陸遜との間に流れるのを感じて、


「うふふ、上手に言えて良かったわ。私にもこれくらいの挨拶は出来るのですよ?」


見直したでしょう?とおどけて見せれば、

申し合わせたかのように呂蒙が、


「いつもその様に振舞って頂ければ、貴人としての評判もあがるのですが。」


と小姑のような冗談をこぼし場を和ませてくれる。

陸遜も先ほどの強張った雰囲気が嘘のように、そうですねと苦笑を浮かべた。

和みついで、とでもいうように、呂蒙はニヤリと笑うと、


「それにしても都に戻ってこれて良かったな、陸遜。

これからは毎日でも様に会えるぞ?」


さらっとそう言って陸遜の方へ意味ありげな流し眼をよこす。

途端に陸遜の端正な顔が赤く染まり、先ほどの落ち着いた風情が一転、年相応の反応を見せた。


「なっ!呂蒙殿、その話はっ・・・!!」

「ははっ、何をいまさら。報告の文を送ってくる度に、様子を教えて欲しいとせっついておったではないか?」

「そ、それは今ここで話さずとも良いでしょうっっ!!」

「まぁ、ヒドイわ陸軍師。私には年始の挨拶以外に文など送っても下さらなかったのに・・・」


あまりに動揺する陸遜が面白かったものだから、

もつい悪乗りして、よよ、落涙と袖口で目頭を押さえて見せる。

普段は真面目な呂蒙でさえ、それはなんと薄情な、と慰めるような仕草で孫の肩を抱いて見せた。

途端に、むうっと顔をしかめた陸遜は見るに堪えないとばかりに視線をそらし、


「そうやって若輩者をからかっておられれば良いのですっ!」


と拗ねた声音で悪態をついた。

単純に年長者二人から玩具にされて怒ったのだろうと思った孫だったが、

送られてきた非難の視線の中に蠱惑的な光が宿っていたような気がして、背筋がゾクリとする。

だが、何事も無かったかのように呂蒙が、からかって悪かった、と笑ったので、

も気を取り直して陸遜へと笑いかけた。


「私も陸軍師が帰ってきて本当に嬉しいわ。5年間ずっと貴方に会えるのを楽しみにしてたんだもの!

ぜひ色々と話を聞かせてちょうだい。」


偽らざる本心を素直に伝えれば、孫呉の新しい軍師殿は嬉しそうに顔を綻ばせる。


「山越族の話は俺も是非聞きたいところだがな、そろそろ失礼させて頂こう。

周都督に報告せねばならぬ件があるのでな。お前は残って良いぞ。」


つもる話もあるだろう、と呂蒙は立ち上がり孫にいとまを告げた。

よろしいのですか?と慌てて腰を浮かした陸遜を手で制して、


「ただし明日からは覚悟しておけよ。

周都督は俺とは比べ物にならんほど厳しい御人だぞ?」


そう言って呂蒙らしい気遣いで軽口を叩いてみせる。


「それでは、門前まで御見送り致します。

陸軍師はここで御茶でも飲んで待っていてちょうだいね。」


そう言い置いて孫もやおら立ち上がろうとしたのだが、

卓の上に手を置いて支えにするつもりが、目測を誤ったのか、

すかっと空振りして思わずよろけてしまう。


「おっと。」


すぐ隣に立っていた呂蒙が即座に抱きとめてくれたため、無様に転ばずに済んだものの、

は己の粗忽さに照れ笑いを浮かべて、間近にある不精ひげの濃い顔を見上げた。


「ごめんなさい。最近ずっと仕事が忙しかったから足が訛っちゃったみたいです。」


文献の写本は一日中座りっぱなしだから、と陸遜の方にも言い訳をしてみせたが、

彼はまたもや何か言いたげな目をして、気を付けて下さい、と視線を逸らした。

そんなに心配させちゃったかしら、と首を傾げながら呂蒙を見れば、

風貌のむさ苦しさに反して、繊細な観察眼を持つ男は訳知り顔の苦笑を返してくる。

さて行きましょうかと促され、孫は腑に落ちぬまま門前へと向かった。


「それでは、失礼仕ります。」


どっしりと重たい表門を門番が二人がかりで開けるのを待って、

呂蒙はこちらを振り返ると、そう言って礼をとった。


「はい、また書庫でお会い致しましょう。」


も笑顔で頭を下げると、

彼はふと軍師らしい思慮深い目をして、言葉を選ぶように口を開いた。


「陸遜をどうかお願い致す。あれは確かに優れた才を持っている。

それがしなど足元にも及ばぬ天賦の才だ。」


またそんな謙遜を、と言いかけた孫を遮るように、

だがあまりに若い。と、呂蒙は静かな声で言いきった。


「若くして重責を担うというのは、想像以上に本人を孤独にする。

まして陸遜には肉親と呼べる者が少ない。

どうか支えになってやって下され。」


そう言って再び頭を下げる呂蒙に、


(陸遜は上司に恵まれていますね。)


と孫は我が事のように嬉しくなりながら、


「お任せ下さい!煙たがるぐらい世話を焼きますよ!」


私はあの子の小姑ですから、と冗談めかして胸を張れば、

部下思いの軍師殿は、困った御方だ、と破顔した。













呂蒙と笑顔で別れてから、孫が足取りも軽く上機嫌で中庭に戻れば、

陸遜は言われた通り、大人しく椅子に座って茶を啜っていた。

茶葉を新しく淹れなおしに来たらしい女中に、笑顔でお礼を告げている。

途端に若い女中がほんのりと頬を染めてはにかんだのを見て、


(・・・やるわね、伯言のくせに・・・)


と、孫はニヤニヤ人の悪い笑みを浮かべた。

女中は孫が戻ってくるのを見ると、

焦ったように頭を下げてそそくさと立ち去ってしまう。


(なんだ、せっかく紹介してあげようと思ったのに・・・)


まるでやり手婆のような事を考えながら、拗ねた顔をして卓に戻れば、

陸遜が柔らかな微笑みを浮かべ、御帰りなさいと迎えてくれた。


(これは確かに若い娘には目の毒ね。)


と、再びニヤニヤしながらその端正な顔を思う存分眺めていると、


「わ、私の顔に何かついてますか?」


と顔を赤らめて居心地が悪そうに身じろいだ。

そんな陸遜の反応に、なかなか私も捨てたもんじゃないじゃないか、と妙な自信をつけて、

は自分も椅子につくと、何気なく呂蒙の話をした。


「別れ際に呂軍師が貴方の事をよろしく頼むとおっしゃってらしたわ。」


良い上司を持ちましたね?と、そう言って自分の茶器を手にした孫に、

ええ本当にそう思います、としみじみ答えた陸遜だったが、

すぐに何やら考え込む顔をした後、おそるおそる訪ねてきた。


「あの・・・様は呂蒙殿とは・・・・」

「ええ。お慕いしておりますよ?あの方とは良く仕事に疲れた時など、

書庫でご一緒に茶菓子を頂く仲です。」


ああ見えてあの方は大の甘党なのですよ?おかしいでしょう、と孫は素直に答えて笑って見せる。

だが、陸遜の方はそれでは満足出来なかったらしく、

そういう意味では無く・・・と苛立たしげに言葉を濁した。

そこでようやく、ああそうか、と孫は陸遜の態度がおかしい理由に思い至る。


「まさか、妬いているのですか?私と?呂軍師を?」


半ば確信しながら尋ねてみれば、

案の定、彼女の可愛い元護衛兵は苦虫を潰したような顔をしてそっぽを向いた。

柔らかそうな猫毛からはみ出した彼の耳が真っ赤に染まっているのが何よりの証拠だ。

春翠はあまりにも分かりやすい反応に、面映ゆい思いを噛みしめながら、

ふふふ、と声を上げて笑ってしまう。


「あらあら、これは光栄の至りですわね?陸軍師ほどの方に妬いて頂けるなんて。

もうすっかり大人になってしまって寂しく思っていたのですよ?」


そう言ってまるで童子にするように、頭を撫でようと伸ばした孫の手を、

陸遜は予想以上に強い力で掴み取った。


「ええ、妬いていますよ、いけませんか?文にも書いたでしょう、私はこの五年間ずっと!!!」


真っ直ぐにこちらを見据え、抑えきれぬ感情をぶつけるように叫ぶ。

だが完全に面喰ってしまっている孫に気が付くと、

言葉に詰まり、ご無礼をお許しくださいと、その手を離した。


「私の方こそごめんなさいね。貴方はもう気安い立場の御方では無いのに。

悪乗りが過ぎました。」


まだ貴方の姉のような気分でいたものですから、とじんじんと痺れている手を庇うようにして、

が項垂れると、陸遜はなぜか寂しそうに、いいえ、とだけ答えた。


「あの・・・私ね、貴方がこの屋敷に来たら、見せたいものがあったのです。

一緒に来てもらえないかしら?」


気まずい沈黙をなんとかしたくて、孫はまだ怒っているだろう陸遜へと上目使いで御伺いを立てる。

すると、少しやりすぎたと内心落ち込んでいた陸遜は、もちろんです、と一も二もなく了承した。

お互いがお互いに気を使っているのがなんだか可笑しくて、二人はくすくすと顔を合わせて笑った。







連れ立って向かった先には、

祭礼の時の道具やこの時期使わない細々とした物を仕舞っている古い蔵が建っていた。

その軒先に燕の巣を見つけて、陸遜は感慨深げに孫の方を顧みる。

も彼が気付いてくれたのが嬉しくて、


「覚えていてくれたのですね。あれから毎年ここに子作りに帰ってくるのですよ?」


と、にこにこ笑って教えてやれば、陸遜も嬉しそうに頷いた。


あれは、陸遜が孫の護衛兵となって一月と経たぬ頃だったと思う。

ちょうど今くらいの季節に、蔵に燕の巣が出来て扉の前が糞で汚れてしまうと家人の一人が訴えてきたのだ。

取り除いてしまおうと言う家人達に、あの頃まだこの屋敷の主であった大喬はどうするか決めあぐねいていた。

自身は、撤去してしまうのは可哀そうだと思っていたが、

糞を掃除する家人の苦労を思うと何も言えずにいた。

そんな時、それまで碌に話もしなかった護衛兵の少年が、残してあげて欲しいと孫に嘆願してきた。

無口で慇懃無礼で、こちらに懐こうともしなかった子が、

掃除は自分が責任をもってするから、と目の前で床に頭を擦りつけて頼んできたのだ。


「私、お願いされてすごく嬉しかったのよ?一生懸命みんなを説得したんですからね?」


それなのに、陸遜ときたらそれっきりまた元の根暗なへそ曲がりに戻っちゃってと、

は拗ねたように燕の巣へと向き直る。

それは・・・と言い訳を口にしかけて、

陸遜は孫の白い首筋に残る古い傷跡に眉を顰めた。

それは髪の生え際から真っ直ぐ腰の辺りまで続いていることを、彼は誰よりも良く知っていた。

陸遜が見えている傷跡を労わるように指先でなぞると、


「ひゃぅっっ!?」


と素っ頓狂な悲鳴を上げて、真っ赤な顔をした孫が振り向いた。


「な、なななな何をするのです!?」

「やはり、跡になってしまいましたね・・・・。」


中途半端に裏返った声で彼の行為を非難した孫だったが、

陸遜の痛々しい声音に、冷静さを取り戻すと殊更穏やかな表情で微笑んだ。


「貴方が気に病む必要はありません。これは私の勲章ですよ?」


そう言って安心させようとするも、彼の表情はますます悲しげに歪んだ。

のこの傷は、陸遜を庇って出来たものだった。

当時、孫の義父である孫策が不慮の死を遂げ、その弟、孫権へと代替わりしたばかりであった。

そのため、権力を巡る不穏な動きが後を絶たず、

とりわけ、これまで孫策の武威に怯えて臣従していた土着の豪族たちの間で、

きな臭い姦計が噂されていたのだ。

彼等は亡き孫策の忘れ形見でありまだ幼かった孫紹を担ぎあげ孫権からの独立を図ろうと、

この屋敷を武装した兵士に襲わせた。

その時乱戦に巻き込まれ今にも切られそうになっていた陸遜を、

身を呈して守ったのが孫であった。


「あの時、義母上に初めて叩かれました。あれは痛かったわ。」


泣きながら、貴方まで私を置いていってしまうのですかっ、と詰め寄る大喬に、

心から申し訳ないと思った孫だったが、後悔はしていなかった。


「おかげで、伯言と仲良くなれたもの。」

「・・・私は、上官に思いっきりぶん殴られました。」


ですが、あの時はいっそ殺して下さいと縋りつきたくなりましたよ、と低く呟いた陸遜の目には、

憤怒のようなものさえ感じられた。


「どうして、私を庇ったのですか?」

「それはあの時答えたでしょう?」


傷口からの出血がなかなか止まらず、三日三晩生死の境を彷徨い続けた孫が、

ようやく意識を取り戻した日、

次々と面会客が訪れては盛大に叱責して帰っていく中で、

最後の最後、部屋の隅っこから小さく発せられた問いがそれだった。

ぎゅっと拳を握り締め、歯を食いしばった少年の左頬はものの見事に腫れ上がっていて、

思わずどうしたのか、と尋ねたが、彼は無言で睨みつけてくるばかりであった。


「・・・・どうして庇ったのか、と聞かれてもねぇ・・・・」

「わたしはッ!貴女様を恨んでいました!ご存知だったのでしょう!?」


傷口が熱を持っているせいでぼうっとした口調の孫に焦れたのか、

陸遜は吐き捨てるように絶叫した。

悔し涙の浮かんだ彼の眼には、孫家に対する恨みと、それでも一族を守るために仕えねばならない無念さと、

その憎悪する相手に守られたという屈辱とが、濁流のように渦を巻き出口を求めて暴れていた。

一歩も引かぬぞと仁王立ちする少年の姿が、孫には気高く尊いものに見えたのだ。


「だって、体が動いちゃったんだもの。仕方ないじゃない。」


背中に傷を負っているため、寝台にうつ伏せになった状態で、孫は力なく笑った。


「ああ、このままじゃ伯言が死んじゃうって思ったら、飛び出しちゃってた。」


難しい理屈なんかあるわけない、とそこまで呟いて、孫の意識はくらりと足を踏み外したように闇へ落ちた。

次に目が覚めた時は、それからまた3日ほど経っていて、

じくじくとした傷の痛みに顔を顰めた孫だったが、

枕元でこちらの手を握ったままぐっすり眠りこけている幼い護衛兵の姿を見て、

ああ生きてると実感した。


「あれからよね?伯言が随分としおらしくなっちゃったのは。」


思わず昔通り字で呼んで、孫は人の悪そうな笑みを浮かべて、目の前の青年をねめあげる。


「貴方に拾っていただいた命を貴方の為に使いたいと思うのは自然な事だと思いますが?」


至極真面目な顔で陸遜はそう答えたものの、彼がその心に折り合いをつけるためにどれ程葛藤したのか、

それを思うと春翠は切なくなった。

振り返ってみれば、なんだかとてつもなく卑怯な手段で、気高い少年の心を屈服させたような気がして、

我ながら残酷なことをしたと、すっかり成長した青年に向かい謝ってみる。


「それこそ、今更でしょう。それに、あの時貴女様が助かる見込みは神に縋るほどしか無かったのですよ?」


もし貴女を失っていたら、わたしは・・・と、苦しそうに俯いた陸遜は、

あの夜と同じく拳を握り絞め仁王立ちになって震えていた。


「大丈夫、私はこの通りピンピンしてますから。」


ほらもう安心して、と昔そうしていたように、両腕を背に回し優しく撫でてやる。

すると、陸遜は驚いたように一瞬息を止め、

すぐさま堪え切れないとばかりに孫を掻き抱いた。


「り、りりりりり陸軍師!?お、お、お戯れはッ」

「っ・・貴女はどうしてそう無防備なのですか!!

もう、私はあの頃の幼い伯言ではありません!

あなたに恋い焦がれてきた、ただの男です!!」


の肩口に顔を埋め、青年は熱を帯びた声でそう訴えると、

彼女の拙い抵抗など物ともせず強く抱きしめてくる。

ふわりと身を包む嗅ぎなれない香りが、陸遜のものであると気付いた途端、

頭の天辺から足のつま先まで、体中の血が沸騰するのを感じた。


「文にもちゃんと書いたはずです!お慕い申しております、と!」

「でもっ、それは、なんというか家族のような、

そ、そう!姉のような存在として・・・」

「私は、貴女を姉だと思ったことなど一度もないッ!!!」


そう苦しげに吐き捨てて、至近距離から見つめ返してくる陸遜は、

が今まで見てきた、誇り高い少年とも知性に溢れた若い軍師とも違う、

乱暴なまでの恋情をぶつけてくる見知らぬ男の顔をしていた。

ドクドクと破裂しそうなほど激しい鼓動を打っているのは、

果たして孫の心臓か、陸遜の心臓か。


「5年待ちました。これ以上待つつもりはありませんよ。」


悩ましげに眉を顰め、頬をバラ色に蒸気させた青年は、

蠱惑的な声音でそう言うと、同じく真っ赤に染まった孫の耳朶を責めるように甘噛みする。

途端に、春翠の口から、あっ、という自分でも驚くほど鼻に掛った色っぽい声が零れ、

かくんと膝から力が抜けた。

支えを失った孫の体を、難なく受け止めて、

陸遜はその様子にうっそりと目を細めた。


「このまま、わたしが激情に従って貴女の純潔を奪うことだって簡単なんだ・・・」


そう言いながら、誘うように背中を指でなぞられて、

ゾクゾクと這い上がる得体の知れない感覚に耐えながら、春翠はとうとう音を上げた。


「も、もももも、もう分かったから!気を付けるから!」


だから許して、と蚊の鳴くような声で懇願されて、

陸遜はようやく彼女の体を開放する。

とたんにヨロっとよろけそうになるのを、

微かに残る年上の矜持でもってなんとか踏ん張ると、

は恨みがましく陸遜を睨み上げた。

だが、年下の青年はたった今まで不埒なことをしていたくせに、


「そんな愛らしい顔で睨まれても怖くありませんよ。」


そう、いけしゃあしゃあ涼しげな顔でのたまうのだから性質が悪い。

その余裕は一体何なのだと、腹立ちまぎれに、


「そうやって若い娘を大勢誑かしてきたのでしょう?」


と嫌味を言ってやれば、陸遜は真剣そのものといった目をして、


「私は5年間貴女一筋だったと申しあげたでしょう。

まだお分かり頂けないのでしたら、今からでもじっくりお教え致しますが?」

言いながらずいっと一歩迫ってくる。


「いいえ、もう結構です、遠慮致します!!」


耳を両手で庇いそう言って逃げをうつ孫に、

陸遜は苦笑いを浮かべると、もう乱暴な真似は致しません、と神妙にその手を取った。


「ですが、お慕い申し上げているのは本当です。

今度、周都督から殿に私が貴女様を妻として迎えたいと願い出ている旨をお伝えして頂きます。

殿からのお許しが出たら、正式に求婚致しますので。」


それまでに答えを出しておいて下さい、

と愛おしげに握った孫の手に一つ口付けを落として、

陸遜は今日はこれで失礼します、とこの屋敷の主を置いてけぼりにして、踵を返した。

彼の気配が去った途端、孫の膝は限界を迎え、

ずるずると蔵の壁に身を任せて崩れ落ちた。

ほうっと溜息をつけば、吐息は燃えるような熱を帯びていて。

は夢見心地でふわふわと、先ほど陸遜が残していった言葉達を思い返してみる。


「あの子、なんで私がまだ純潔だって分かったのかしら・・・」


ぼんやりとそう呟いて、あまりの恥ずかしさに悶絶し、

はこれからどんな顔して陸遜に会えば良いのかと頭を抱える。

高く澄んだ初夏の空で、燕が美しく輪を描いた。