懐かしい夢を見た。
鬱蒼と生い茂る野薔薇の根元。
びっしりと赤紫の棘に覆われた禍々しい蔓が、幾重にも絡み合って出来た小さな穴の中で、
孫は膝を抱えて泣いていた。
涙を拭う引っ掻き傷だらけの手は、今よりずっと細く小さくて、
ああ、これは夢だな、と理解する。
古い記憶の中の情景は驚くほどに鮮明で、
湿った土の匂いや、涙の味、あの頃感じた惨めさまで、忠実に再現されていた。
今まで何度と無く繰り返し見てきた、始まりの夢。
きっともうすぐ、荊の檻が破られて初恋の人が顔を出すだろう。
孫はいつもそれを後悔と懺悔の思いで受け入れる。
けれど。
分厚い蔓の壁を押し開いて現れたのは、
三十路過ぎの色白細面などではなく、
出合った頃の少女のように可憐な姿をした陸遜だった。
にこにこと微笑みながら差し出してきた手を、おっかなびっくり掴み取れば、
温かな光が溢れる外の世界へと力強く引っ張り上げられる。
そうして、予想外の展開に茫然と佇む孫を尻目に、
彼はその愛くるしい容貌には似つかわしく無い、凶悪な形の斧を振り上げて、
主の居なくなった荊の檻を容赦なく叩き潰した。
引っこ抜かれ、切り刻まれ、最終的に火まで付けられて。
ずっと、嫌なもの達から孫を守ってくれていた城は、
陸遜の手によって跡形もない更地にされてしまった。
ああ、どうしよう!
私にはここしか無いのに!
そう悲鳴を上げ、這いつくばって必死に野薔薇の跡を探す孫に、
変わりに私が貴方の居場所になります。
そう、胸が締め付けられるほど優しい声が降ってくる。
見上げればそこには、いつの間にか逞しく成長した今の陸遜が立っていて、
差し伸ばされた手の上で純白の野薔薇が一輪、輝いていた。
そうか、もう独りじゃないんだ。
孫がそう理解した途端、地面に堆く積もった真っ黒な灰の中から、
透き通るような萌葱色の芽が勢いよく噴き出して、
見る見るうちに大きな荊の木へと姿を変える。
そうして、しなやかに弧を描いた枝の隅々まで、清楚な一重の花を一斉に開花させた。
はらはらと舞い散る真っ白な花弁の雨の下、
目が眩むほど美しい微笑みを浮かべた青年から、そっと恭しく命の花を受け取る。
ぽろりと一粒、真珠のような涙が頬を滑り落ちて。
遠く。
遥か記憶の深淵で。
祝福する母の声を聞いた気がした。
「お母さん・・・・・・」
そう呟いた自分の声で、孫は目を覚ました。
とても幸福で、少し切ない夢を見た気がする。
目尻をそっとなぞれば、指先が真新しい涙で濡れた。
薄暗い部屋に、朝の光が雨戸の隙間から細い白線となって漏れている。
どうやら嵐は上がったようで、外からは小鳥のさえずりが聞こえてきた。
なんて穏やかな朝だろう。
このままずっと夢現に心地良く揺蕩っていたいと、
孫が寝返りを打った所で、まだ覚醒しきらない耳に、
誰かが言い争う声とバタバタと小うるさい足音が届いた。
「お、お待ち下さいませ!様は未だお休みでございましてっ!」
「いいえ、待ちません!今日こそ私の話を聞いてもらうんだからっっ!!」
そんなやり取りが交わされたと思うと、バンっと乱暴に扉が開いて、
華奢で小柄な人影が部屋に飛び込んできた。
「まぁ!孫ったらいつまで寝ているの!?もうとっくに日は昇ってますよ!」
そうぷりぷり小言を言いながら、窓の方へと一直線に歩いて行く後ろ姿が、
気だるげに頭を上げた孫の視界に映る。
途端に、さぁっと自分の顔から血の気の引く音を聞いた気がした。
「お、義母様!!?」
そう素っ頓狂に悲鳴を上げながら慌てて跳ね起きれば、
今日は青藍の長衣に菖蒲色の髪飾りをつけた大喬がせっせと雨戸を開けながら、
ようやくお目覚めね、と呆れた様子で返事を返した。
「汪香さんから聞きましたよ?せっかくの余暇だというのに、部屋に閉じこもってばかりいるそうですね?」
若い娘がそんな事でどうするの?と自分もまだまだ若い部類に入るであろう義理の母が、
どんどん雨戸を開けていってしまうのを、孫の方はわたわたと上掛けを引っ張り上げながら、
わ、そんな、お待ちを!と情けなく静止する。
あっという間に薄暗かった部屋は白日の下に晒され、
床に脱ぎ捨てられた夜着や、卓上に置きっぱなしの飲杯が、孫の視界にはっきり飛び込んできた。
咄嗟に隠さなければという衝動に駆られて、寝台から身を乗り出したものの、
上掛けが引っ張られ、隣で未だ眠りこけていた陸遜の上半身が露わになる。
しまったと思った時には既に遅く、
肌寒さを感じたらしい陸遜がうぅん、と唸り声を上げながら、
もぞもぞとこちらの腰に腕を回してすり寄ってきた。
ぎゃあ、と孫が声にならない叫びを上げ、慌ててその手を解こうとすれば、
寝惚けているのか陸遜もむきになってしがみ付いてくる。
そこでとうとう、最悪の間の悪さでもって全ての窓を開け終わった大喬が振り返った。
「もう!バタバタと何を暴れてい、る・・の・・・」
と、続けられるはずだった小言は尻切れに止まり、
その視線がダラダラと冷や汗を垂らして固まる孫から、
裸の腰にしがみ付いている隣の人物へとゆっくり移っていって。
陸軍師?と訝しげに呟くのと同時に、
義母の可憐な小顔が、ぼんっと音が聞こえてきそうなほど真っ赤に染まる。
「あ、あの、私てっきり、まだ二人は、その・・・ご、ごめんなさいっっ!!!」
そう、しどろもどろ言い訳したものの結局羞恥に耐えられなくなったのか、
悲鳴のような謝罪を一つ残して、大喬は脱兎のごとく部屋から逃げ出した。
「わぁぁあ!!お義母様!どうかお待ちを!」
私の話を聞いて下さいぃぃ!と彼女を追い縋ろうとした孫は、
けれど腰にがっしり回された陸遜の腕に引き留められ、あえなく寝台に撃沈した。
上掛けに突っ伏してうぅぅ、と唸る孫の後ろから、
「・・・これはまた、随分早くばれてしまいましたね。」
と場違いなほど上機嫌な声がして、恨みがましい目で振り返れば、
まさに爽やかな朝が良く似合う青年が、おはようございます、とにこやかに告げてきた。
「・・・・伯言、貴方最初から起きてたわね!?」
胡乱な目で批難すれば、彼は困り顔で苦笑して、
「ええまあ・・でも、あの場で私が御挨拶した所で、義母君を余計に混乱させるだけだと思いましたので。」
ともっともらしい言い訳をした。
そりゃそうだけど、と口ごもりながらも納得いかず唇を尖らせる孫を見上げ、
年下の婚約者はニヤニヤと、その端整な顔に似つかわしく無い含み笑いを浮かべる。
「それにしても朝からとても扇情的な眺めですね?」
眼福です。と言われ、その視線を辿れば、
義母に気を取られている内にいつの間にか上掛けがずれていたらしく、
紅い跡が点々と散らばった裸の胸が露わになっていた。
きゃあっと自分でも驚くほど小娘染みた悲鳴が出て、孫が気恥ずかしく上掛けを掻き寄せれば、
身を起こした陸遜が、その体を後ろからすっぽりと抱き込んだ。
剥き出しの肩に口付けを落としながら、可愛い、と囁かれ、吐息のかかった耳が火を噴く。
背中にぴったりくっついた温かな肌の感触が、嫌でも昨日の行為を連想させ、
孫は照れを誤魔化すために陸遜へと食って掛かった。
「そ、そもそも話が違うじゃないですか!もう今すぐ妻にとは言わない、話をするだけだと、そう言ったから私はっ・・・!!」
「兵は詭道なり、ですよ。戦に勝利するためなら手段を択ばないのが軍師です。
そうじゃなくても、下心があると分かっている男の言葉を信じて、ほいほい部屋へ招きいれるなんて、
は少し危機感が足りませんよ。」
弁解するどころかいけしゃあしゃあとそんな事をのたまわれ、
孫は押しかけ狼が何を言うかと内心憤慨すると、
拘束している彼の腕から滅茶苦茶に身を捩って逃げ出した。
振り返り、ギッと睨みつければ、
どういうわけか陸遜は情けなく眉尻を下げ、まるで壊れ物を扱うように此方の頬を両手で包み込む。
「だって、ああでもしなければ貴女は私に心を開いては下さらなかったでしょう?
騙し討ちの様な真似をした事は謝ります。けれど、貴女に伝えた気持ちは嘘じゃない。」
不安にさせてしまいましたね、と寂しそうに言われ、孫はようやく怒りの原因を理解した。
昨夜語った言葉は全て謀を成功させるための方便。
そう言われた気がして悲しかったのだ、自分は。
「っっ!これだから軍師は嫌なのです!本人が気付く前に気持ちを先読みしないで頂戴!」
そう悪態をつきながら、それでも彼の背中に腕を回して抱きつけば、
精進しますと苦笑しながら、熱い体が抱き締め返してくる。
少しでも気持ちを疑ってしまった事が申し訳なくて、
おずおずと彼の頬に自分の頬を寄せながら、ごめんなさい、と小さく謝れば、
「・・・ああ、もう!貴女どうしてそんなに愛らしいんですか!
私が戦地に赴いている間に変な虫がつかないか心配ですよ!」
ちゃんと自分の魅力を自覚して下さい!と陸遜はさも深刻な顔で珍妙な忠告をした。
こんな貧乏クジを引きたがるのは彼くらいだろう、と鼻で笑った孫だったが、
ぐいっと勢いよく寝台に引き倒されて、嫌な予感に顔を引き攣らせる。
すかさず上から覆い被さるように覗き込んできた琥珀色の目は、蠱惑的に輝いていた。
「やっぱり、早く子供を作りましょう。不埒な輩を黙らせるにはそれが一番です。」
そう酷く真剣な顔で告げる陸遜は、一体誰と戦っているのか。
「じょ、冗談よね?まさか本気では無いのでしょう?ね?」
了承も無しに肌の上を撫で回し始めた手を、懸命に押し留めながら、
孫が青い顔で微かな希望に縋りつく。
大体、昨夜も結局もう一回だけと懇願する陸遜に押し切られる形で、二度も事におよんでしまったのだ。
ただでさえヒリヒリとした破瓜の痛みを引き摺っているというのに、
これ以上無茶をされたら、今日一日まともに歩けなくなってしまう。
「駄目!もう絶対駄目!!今日は他にする事がたくさんあるのですから!?
お義母様への御挨拶や、周都督への謝罪はどうするの!」
孫の必死の訴えに、舐めていた首筋から顔を上げた陸遜は、
けれど無言で下肢を押し付けてくる。
絡められた足の付け根に、断固たる彼の意志を感じて、
孫はとうとうバシバシとその背中を叩きだした。
「これ以上勝手な事をしたら、もう華燭の典まで指一本触れさせませんからね!!」
そう宣言した途端、覆いかぶさっていた陸遜の体がギシっと停止し、
心底名残惜しそうにゆっくり起き上がった。
ほっと一息ついて、彼の顔を見上げれば、
不服そうな表情を隠しもせず、そんなのあんまりです、と不貞腐れる。
「5年間、ずっと貴女に会いたくて触れたくて仕方なかったんだ。
たった一晩で満足出来るわけないでしょう!」
は冷たい、酷い、と詰め寄る陸遜は、まるで駄々を捏ねる子供のようで、
孫は、呆れを通り越して微笑ましいとさえ思ってしまう。
「5年も待ち続けられたんです。今日一日くらい我慢出来ますよ。」
と噛んで含めるように諭せば、彼は不服そうにムッとすると、なおも食い下がった。
「では、一緒に湯殿へ行きましょう。
昨夜は碌に身を清めないまま寝てしまいましたから、べたべたして気持ちが悪いでしょう?」
ね?と小首を傾げる様は愛らしいが、
その目の中に、これ以上は譲歩しない、という文字が燦然と輝いていて。
何故私がこんな仕打ちを受けねばならないのだろう、と孫が少々遠い目をしている内に、
沈黙は肯定と都合良く解釈した陸遜が、いそいそと夜着を拾って羽織り直す。
ではとりあえず私も、と寝台の端で皺くちゃに丸まった夜着に手を伸ばした所で、
孫は上掛けごと強引に抱えあげられた。
え?え?と一瞬何が起きたのか分からないまま、すぐ間近に現れた陸遜の顔を凝視すれば、
「歩くのはまだお辛いでしょうから、私が運んで差し上げますよ。」
と確信犯の口調で告げてくる。
こんな恰好で湯殿まで行くなんて冗談じゃない、と慌てて降りようと試みるのだが、
蓑虫よろしく上掛けでぐるぐる巻きにされていては、抵抗らしい抵抗など出来るはずも無い。
「ねぇ伯言。お願いだから降ろして頂戴!屋敷の者に見られでもしたら何と言われるか・・・」
孫がほとんど半泣きでそう懇願すると、陸遜はどことなく不安げな顔でぽつりと呟いた。
「・・・・離れたくないんです。傍に居ないと、貴女の心がまた分からなくなってしまうような気がして。」
小さく小さく吐き出された言葉は、先程までの強引な態度に似つかわしく無い心許なさで、
今までの自分の態度がいかに彼を傷付けていたのか思い知る。
度が過ぎる抱擁も、執拗な執着の言葉も、全ては不安の裏返しで。
これは陸遜が安心出来るまで甘んじて受け入れるしかないなと、孫は大人しく彼の腕に身を預ける。
聡い婚約者は彼女の沈黙がどんな意味を持つのか正確に理解したらしく、
嬉しそうにその額へと口付けを落とした。
義母が人払いを命じたのか、女中頭が気を利かせたのか、
湯殿へと向かう廊下に使用人達の姿は一つも無く、
気恥ずかしさに身を固くして部屋を出た孫も、ほどなくホッと胸を撫で下ろした。
一目見て機嫌が良いと分かるほど、ニマニマとだらしなく顔を緩めている陸遜に、
「伯言、あの、重くはありませんか?。」
とおずおず尋ねれば、いいえ全く、と即座に否定される。
「貴女を重いなどと感じていたら、負傷兵なんか到底運べませんよ。」
と苦笑しながら答える彼は、心も体も本当に逞しく成長していた。
それはとても素晴らしい事だけれど、彼が軍人なのだという現実も実感させる。
いつ戦場に果てるかも知れないのだと、そう思うと昏い不安がじわりと滲み出すけれど、
朝の光の中を進む陸遜の横顔は、神々しいほどの生命力に満ちていて。
先の事を思い悩むよりも、今こうして共に過ごせる時間を一つ一つ大切にしなければいけないと、
孫に教えてくれている気がする。
(結局、私も伯言と同じね。)
傍に居たい。一時だって離れていたくない。
そう、羞恥に憤死しそうなほど甘ったるい本心に気が付いて、孫は耳まで赤くなった。
これまで別々に歩んできた道を、今度は寄り添って進んでいこう。
彼に聞きたい話、聞いて欲しい話がまだまだたくさんある。
まずは、甘くほろ苦い初恋の思い出でも語って聞かせようか。
「ねぇ、伯言は知っていますか?・・・・・」
薔薇の下にはね、誰かの宝物が隠してあるんだよ。
了
あとがき
このような駄文を最後まで読んで頂き、誠にありがとうございます!
エロなんて何年振りに書いただろ、やたら長くてマジ恥ずか死ねるわorz
ちなみに、タイトル「薔薇の下」は、
古代ローマ時代の慣習にバラを天井に飾った部屋での会話は他言無用、というのがありまして、
そこからイメージして創作した結果、随分かけはなれた内容になってしまったというww
ともあれ、少しでも皆様の萌えの足しになれば幸いです。 エニシダ
13/05/04 改訂