『 碁石は何故白黒か 』
窓から見える景色はまさに春爛漫であった。
江南随一と謳われる呉の居城の中庭は今まさに桃花が満開で、
晴れ渡った青空を背に咲き誇る姿は、目が痛くなるほど鮮やかである。
ほんのりと淡い薄桃から、燃え立つような濃い紅まで、
絶妙に色を変化させながら複雑に混ざり合う様は、
まるで上質な絹織物のようであった。
遠くで鶯がさえずる恋の歌を聴きながら、
凌統は春風に乗って漂ってくる甘い香りを胸いっぱいに吸い込んだ。
(世の中すっかり春だねぇ・・・)
ぽかぽかと暖かな陽気を浴びていると、今が乱世であることも忘れてしまいそうだ。
たまにはこうやってぽっかり空いた時間をのんびり過ごすのも悪くないと思う。
それに、何よりも凌統を心地良くさせているのは、
碁盤を挟んだ向かい側からぶつぶつと聞こえてくる、真剣そのものの独り言だ。
「うぅ・・・、あっちに置くとこっちを取られちゃうし。
でもこっちに置くとあっちを潰されちゃうし・・・」
(ていうか、三手前に俺があそこに置いた時点でお前の負けが確定しちゃったの、
いつになったら気付くのかねぇ)
もう万に一つも勝つ見込みが無くなった盤を見つめ、
ただでさえ八の字の眉を、ますます垂れ下げて悩む少女の顔が容易に想像出来て、
凌統は美しい春の庭を眺めながらにニヤニヤと人の悪い笑みを浮かべた。
「お〜い、さんまだか〜い?」
「あッ、も、もうちょっと待ってください!」
やに下がった笑みを強引に押し隠して、いつもの飄々とした態度で振り返れば、
予想通り小難しい顔で碁盤と睨めっこしていた少女が、あたふたと懇願してくる。
(どうせもう勝てやしねーのに・・・・)
口をへの字に曲げて、今にも泣き出しそうになっているだが、
それでも参ったと言わないのには理由があった。
この対局に入る前、いつものように対戦相手を名乗り出た少女に向かって、
凌統が冗談のつもりで口にした言葉を気にしているのだ。
「お前いつまでたっても弱いまんまだし、そろそろ別の相手を探そうかねぇ」
凌統としては真っ青になって慌てる愛らしい姿が見れたので、
その話はそこで終わりだったのだが、彼女の方はそう思っていないらしい。
素直というか、馬鹿正直というか。
(んなことあるわけないっつーのに・・・)
いつも誘いを断られないか心配しているのは凌統の方だった。
が凌統と碁を打つようになったのは、凌統の父親が戦死した頃からだ。
彼女は、古くから凌家に仕えていた家人の孫娘で、
両親を流行り病で失い、唯一の身寄りである祖母の元に引き取られてきた。
その老婆は凌統の乳母役も引き受けていたため、
以来、二人は兄妹のように育った。
「はい!若の番でございます!!」
散々悩んだ挙句、奇をてらってか全く的外れの場所に石を置いた少女が、
大きな声で自分を呼ぶ。
そんな気合入れて叫ばなくたって聞こえるよ、と思いながら、
ひょいっと軽い手つきで石を置くと、
途端に可哀想なほど動揺した悲鳴が上がった。
(そういや、いつからだっけ。こいつが凌兄じゃなく若って呼び出したの)
再び唸り始めた少女の、片手で掴めそうな小さい頭を見つめ、
流れる時の速さに目を細めた。
実のところ、父親が生きている間は碁なんか糞食らえだった凌統である。
何度断っても父親が執拗に誘ってくるので、たまに相手をしてやってはいたが、
その頃の凌統にとっては、置物のようにじぃっと座って碁盤と睨めっこするより、
鍛錬場で強者と渡り合っている方がずっと魅力的であった。
だが父親が急死し、胸にぽっかりと穴の空いた凌統が、
自然と向かった先は、今や遺品となってしまった古い碁盤であった。
若くして凌家の当主となり、一族郎党をまとめ、孫家から与えられた領地を統治し、
いざ戦となれば私兵を引き連れて先陣を切る。
寝る間も無いほどの忙しさの中で、それでも気がつけば暇を見つけて碁盤の前に座る自分がいた。
最初の内は、父の面影や喪失の悲しみを忘れないための場所だったそこは、
やがて、迷いがある時、自分を戒めたい時に訪れる独りきりの空間となった。
白と黒の石達は余計な言葉など一切語りかけてこない。
ただ黙って、心地よい静寂を凌統に与えてくれていた。
ところがある日、そんな癒しの空間に鎮座ましましたのがだ。
いつものように碁盤のある縁側へとやってくると、いつも空いていた片側の席に先客がいた。
なんとなく秘密の場所を荒らされたような子供じみた腹立たしさを感じて、
追い出そうと試みたものの、少女はなんだか拗ねているような声音で、
「置物だと思ってください。」
とそう言ったのだ。
碁の相手をするわけでもなく、そっぽを向いたまま動こうとしないに、
家族同然の気安さが手伝って、つい意地の張り合いになる。
凌統は殊更声を荒げて勝手にしろと吐き捨てると、徹底無視を貫くことにした。
だが、ほんの半刻とせぬ内に、ただでさえふくよかな頬を不満げに膨らませていた少女は、
ほろほろと大粒の涙をこぼし始めた。
どうして女の涙というのはこうも気まずいものなのか。
少しやり過ぎたかと思いながらも、何と声をかけて良いのか分からず、
凌統が視線を泳がせていると、は両手で顔を覆い、とうとう声を上げて泣き出した。
押し殺そうと頑張っているらしい嗚咽の中に、御当主様という言葉が混じるのを聞いて、
凌統は今度こそ深く反省した。
父、凌曹の死に傷ついているのは自分だけでは無いのだ。
むしろ、一度肉親を失っているの方が、余程悲しみは深いのだろう。
そんなわけで、散々泣いて見事に腫れ上がった瞼をした少女が、
改まって向き直り、専属女官の一人として宮城に同行させて欲しいと言い出したのを、
凌統が止められるはずが無かった。
いつ失うか分からないなら少しでも傍に居たい。
(なんつー熱烈な口説き文句・・・)
兄と慕う心から出た言葉であるのは分かっていたが、
少女の燃えるような双眸に真正面から見据えられ、文字通り射抜かれてしまったのだ。
不器用で泣き虫で鈍臭い、いつまでも乳臭さの抜けない奴だと思っていた妹分が、
女に見えた瞬間だった。
「もう!どうして碁石って白黒なんでしょうね!?
赤とか黄色だったら、もっと楽しい気持ちになるのに!!」
とうとう負けを認める気になったのか、苦し紛れにそんな事を言いだす少女を、
堪らなく愛おしいと思う。
いい加減、兄ではなく男として見て欲しいと、声に出してしまいたい。
「・・・ばーか、碁石は白黒で良いんだよ。」
その方が向かいに座る華がよりいっそう引き立つだろ。
そう言ってにやりと笑った凌統を尻目に、
の方は意味が良く分かっていないようできょとんと目を丸くしている。
(・・・あ、そ。コイツにはもっと分かりやすい方法じゃなきゃ駄目ってことね。)
はぁ〜、と深く長ぁい溜め息を吐き出して、凌統はやおら碁盤に両手をついた。
「あぁぁ、まだ数え終わってないのに・・・」
と、ぐちゃぐちゃになった碁石を見つめ場違いな心配をしている少女の方へ、
ゆっくりと身を乗り出す。
ふわりと鼻をくすぐるのは、
嗅ぎなれた、しかしいつでも凌統の胸を甘くしびれさせる彼女の香り。
さすがに至近距離で覗き込まれては恥ずかしいのか、
頬を赤く染めて言葉を失ったの、不安げに揺れる大きな瞳を覗き込んで、
驚かさないようにそっと尋ねる。
「お前さ、今年でいくつになった?」
「・・・・・16ですけど・・・」
こんな時でも律儀に答える少女に、
それじゃあそろそろこういう空気も読んどこうか、と低い囁きを残して。
奪うように触れた唇は、桃の香りよりなお甘かった。
了