誰もいない練兵場を真っ直ぐ横切りながら、
はうっすらと額に滲む汗を手の甲で拭った。
捻挫した方の足を庇いながら歩くというのは、思っていた以上に難しく、
転ばないように、痛まないように、と常に神経を張り詰めているせいか、
遅々として先に進めなかった。
(そういえば、結局食堂には行けなかったなぁ・・・)
まだ遥か彼方にある練兵場の終わりに目をやって、
はふと、食べ損なった昼食の事を思い出した。
(屋敷のみんな、怒ってるかなぁ・・・)
気前良く送り出してくれた家人達の顔を脳裏に浮かべ、
きっとまた、干し飯を食べたのだろうと思うと、申し訳ない気持ちになった。
今から食堂に行けば、もしかしたら夕飯くらいは確保できるだろうか?
張遼を待たせているかもしれないという思いと、家人達の顔とが交互に頭を過ぎる。
散々迷った末、は進路を変更し食堂へと向かった。
(あーあ、思い出したらなんだかお腹がすいてきた。)
出来る限り足を速めながら、ここに来て急に増した空腹感に、
失策だったと顔を顰める。
少しでも近道しようと、
二棟の武器庫に挟まれた細い脇道に入ろうとした所で、
入り口に立つ人影に、行く手を阻むれた。
「・・・・・よう。」
少々罰が悪そうな顔をしておずおずそう声をかけてきたのは、
数日前、こっぴどく振ってくれた元恋人その人で、
みるみる内にの顔が険しくなる。
「・・・・・清苑。」
様々な感情がいっぺんに喉の際まで押し寄せたが、結局口から絞り出されたのは男の名前だけだった。
どうして自分がここを通ると予測できたのか疑問に思っていると、
元恋人は、診療所からつけてきたのだ、とあっさり白状した。
「その・・・怪我は大丈夫か?」
視線を右へ左へと泳がせながら、
あの時は俺も駆けつけたんだぜ、とそう言って媚びた笑みを浮かべる。
「あんたは婚約者の悲鳴に駆けつけたんでしょ?」
静かにそう反論すると、図星だったようでそれ以上は何も言ってこなかった。
沈黙が続く。
からからに干上がった喉に生唾を無理やり飲み込んで、
は自分が想像以上に緊張しているのを感じた。
まだ5日。ほんの5日だ。
それなのに随分とお互いの関係は変わってしまった。
「・・・まぁ、なんだ。どうせお前のこった。また頑張り過ぎてから回ってたんだろ?」
しょうがねぇ奴だな、と元恋人がぎこちなく笑う。
さすがに5年も一緒に過ごしていれば、お互い長所も短所も知り尽くしてしまうようで、
切羽詰まると極端に周りが見えなくなるの性格も見抜かれていた。
残念ながら、今もの事を一番理解しているのは、別れたはずのこの男なのだ。
(皮肉なものよね・・・・)
どんなに誤魔化そうとも、が清苑を心から愛していたのは紛れも無い事実で、
一度は忘れたはずの未練が強烈に蘇る。
このまま言葉を交わし続ければ、
弱い自分は、幸せだった頃にまた戻れるんじゃないかと錯覚してしまう。
「・・・用が無いならどいて。私、急いでるの。」
思い出の呪縛から逃げるように、
は押し殺した声でそう言うと、男の横を強引に押し通ろうとした。
だが、すかさずその腕を清苑が掴み取る。
「っ!離して!!」
「なぁ、待てって!俺が全部悪かった。な?この通り!!」
拒絶の叫びを上げて、その手を振り払おうとすれば、
元恋人はあっさり腕を解放し、そして勢い良く頭を下げた。
「・・・・どういう事?」
掴まれた部分を庇いながら、男の方を見ようともせず尋ねる。
無理をしたせいで痛みの増した右足が、やけにの癇に障った。
ひとまず逃げ出される心配は無くなったと思ったのか、
清苑もほっとした様子で緊張を緩める。
「その・・・やっぱお前が一番だって分かったんだよ、俺。」
いかにも神妙な顔をしてボソボソと呟かれた言葉に、
何を今更と口にしながら、の瞳がゆらゆらと揺れた。
それを敏感に感じ取ったのか、
清苑はいつもの調子を取り戻すと、
昔から欲しい物がある時に使う、お得意の猫撫で声で擦り寄ってきた。
「なぁ、信じてくれよぉ。お前だって見たろ?
あの白蓉って娘、根っからの箱入りでさ。婚約したってのに手も握らせちゃくれないんだぜ?
おまけに父親は俺の素行を四六時中見張ってて、いちいち口出ししてくるんだよ。もう最悪。」
その点お前は優しかった。
いつでも俺の望むまま願いを叶えてくれた。
男の口から次々に飛び出してくる子供染みた身勝手な言い分に、
先ほどまでの心を引き止めていた未練が、すぅっと消えていく。
振った女にわざわざそんな愚痴を聞かすために、こいつはここに居るんだろうか。
「・・・で?結局何が言いたいの?」
「いや、だからさ。俺と寄りを戻さないかって・・・。」
いつまでも要領を得ない話に、がイライラと結論を問いただすと、
元恋人はへつらう様な笑みを浮かべ、もごもごとそう言った。
我知らずはぁ〜っと深い溜息を零したあと、
は男の顔を正面から見据えて強い口調で返事を叩きつける。
「悪いけど、もう元に戻るつもりは無いから。
それに、あのお嬢さんはどうするの?もう、将軍にまで紹介してるのよ?」
「なぁんだ、バレた時の心配してるのか?
あの小娘なら大丈夫だって!世間知らずのお嬢様を丸め込むなんざ簡単よ。
なにしろ俺にベタ惚れだからな、他に女をいくら作ろうが嫌とは言わねぇよ。
結婚したら、すぐにお前を妾として屋敷に上げてやるから」
な?とこちらの肩を撫で回しながら機嫌をとるように告げられて、
の眦が釣り上がった。
この男はどこまで性根が腐っているのだろう。
出世目当ての結婚とはいえ、
あれほど一途に慕ってくれている娘の気持ちを平気で踏み躙ろうというのか。
(こいつにとっちゃ、私もあの娘も同じ、自分の欲求を満たすための道具に過ぎないんだ!!)
激しい嫌悪が腹の底から湧き上がって、
我が物顔で纏わり付いていた男の手を叩き落す。
「あんたって、本当にどうしようもない屑だね!将軍の言う通りだったわ。
こんな奴のために泣いたかと思うと自分が情けない!!」
そう吐き捨てるの顔を、驚いて見つめ返した清苑だったが、
どうやら懐柔が無理だと分かるとガラリと態度を変えて、
今度は恫喝し始める。
「ぁんだと!!一人じゃ何も出来ない女が!ぴーぴー泣くしか能が無いくせによ。
お前はただ、俺の命令通りに黙ってついてくりゃ良いんだよ!!」
理不尽に怒鳴りつけて、恐怖で従わせようとする男を、
だがは自分でも驚くほど冷め切った目で見ていた。
「・・・そうね、以前の私は泣いてあんたに縋るしか出来ない女だったわ。
でも、今は違う。あんな立派な人が私を必要としてくれたんだもの、
女官として恥じない生き方をしたいの。」
だから、もうあんたの元には戻らない。
あの頃には帰らない。
そうはっきり告げると、妙に勘の鋭い男はさっと顔色を変えた。
「・・・・まさか、お前。将軍に惚れたのか?」
こちらの心中を探るように呻かれた問いに、
はすぐさま違うと反論したが、
逆に清苑の目がみるみる剣呑な光を帯びていく。
「惚れたんだな!?てめぇ、俺一筋みたいな事言っておいて、
ちょっと偉い奴に声かけられた途端この様か?えぇ、おい!!何とか言えよ!!」
乱暴に胸倉をつかまれて、は成すすべもなく吊り上げられた。
「・・・ち、がう!!しょ・・ぐんは関係っ無いわっ!!」
「なるほど、今度は庇うわけか。・・・・なぁ、もう抱かれたのか?
あの野郎に股開いてひぃひぃ啼いたのかって聞いてんだよ!!」
締め上げられる苦しさに涙目になりながら、必死でそう搾り出せば、
男はますます激昂して怒鳴り散らす。
相手は現役の什長だ。がどんなに激しく抵抗した所で、
戒めを解くことなど出来るわけがなかった。
こんな暴力に屈してたまるかと歯を食い縛りながら、
必死に睨み返していると、
かろうじて意識が落ちない程度に力を緩めながら、
嫉妬に狂った男は酷薄な目つきでニヤニヤと見下ろしてくる。
「そうだ!お前が俺に復縁を迫って刃傷沙汰を起こしたって訴え出るってのはどうだ?
果たしてお前の大好きな将軍様は、
たかが女官と将来有望な俺、どっちの言い分を聞くだろうな??」
生臭い息と共に吐きかけられた台詞に、の心が真っ黒く塗りつぶされる。
醜聞が広まれば、当然自分は罷免だろう。
だが、を専属女官に推挙した張遼の体面にも少なからず傷が付く。
そんな事は我慢ならなかった。
あの凛と美しい男の名誉が守れるのならば、
自分のちっぽけな矜持など、どれほどの物だろう。
「・・・・や、めて。お、願い・・・」
はらはらと涙を零しながら懇願するを眺め、
男が勝ち誇ったように笑って腕の力を緩めた時だ。
「私の女に薄汚い手で触るな。」
低く落ちついた声が響いて、
の体がふわりと後ろに引き上げられた。
気道が広がった事で反射的に咳き込んだが、
滲んだ視界の向こうに見たのは、
先ほどまでこちらの胸倉を締め上げていた男の、
ぽかんと呆気にとられた間抜け面で。
一体何が?と言葉を発する暇もなく、大きな手が伸びてきて、
の顔を無理やり反対方向へと、振り向かせた。
ますます混乱しながら、
至近距離にある猛禽類のように鋭い双眸を見つめ返せば、
耳に、少し焦りを滲ませた問いが届く。
「・・・少々遅くなってしまったが、大事無いか?」
「ちょ・・・張将軍??」
そこでようやく、自分を片手で軽々と抱き上げているのが張遼だと気付いて、
はこくこくと何度も頷いてみせた。
なぜ彼がこんな所にいるのだろう?
まさか探してくれたのだろうか?
この広い宮城のどこに居るとも分からない自分を?
どうして、と聞いてしまうのが怖くて、
ただ無言で彼の顔を凝視すれば、
張遼は労わるような微笑みを浮かべ、
「もう泣くな。」
と、涙の溜まった目尻を親指の腹で拭い取る。
その仕草は壊れ物を触るかのように優しくて、
は込み上げてくる感情を押し殺すためにぐっと奥歯を噛み締めた。
俯いたまま顔を上げられなくなった彼女を片腕に抱いて、
張遼が何事も無かったかのよう踵を返す。
だが、ようやく我に返ったらしい清苑が、
そんな事は許さない、と語気荒く引き止めた。
「お待ちを!たとえ将軍でも、部下の色恋にまで口出しは出来ないはずだ!!」
もっともらしい抗議に、
張遼の登場で安心しかけていたも顔を強張らせる。
だが天下の魏将はゆっくりそちらに振り返ると、
挑むように睨み上げる男へ向かって、
「悪いがこれは私の色恋でもあるのでな。」
そう平然と言ってのけた。
これには他でも無いが真っ先に奇声を上げる。
「えぇぇぇえ!?な、な、な、何をおっしゃるのですか、将軍!?」
思わず話に割って入ったものの、
二人ともの意見に耳を貸す気は無いようで、
清苑が不遜な顔をして、
「こりゃ驚いた。将軍ともあろうお方がこんな女に惚れてるんですかい?」
そう顎でをさせば、
張遼も鋭利な双眸をなお冷たく細め、
「なるほど。貴様はどこまでも愚かだな。」
と口の端に嘲笑を浮かべる。
何だとっ!と先に短気を起こした清苑が脅すように気色ばんだが、
それよりもっと遥かに低い声で、張遼が挑発した。
「ならば奪ってみるか?お互い武器も持たぬしな。今なら鍛練という事で片付けられるぞ?」
言葉と同時に、彼の発する気配が刃のような鋭さを増して、
清苑どころか腕に抱かれたでさえ真っ青になった。
全身が総毛立ち、背中を冷たい汗がしっとりと濡らす。
見えない殺意に押し潰されて指先一つ動かす事が出来ない。
蛇に睨まれた蛙よろしく竦み上がったまま、
これが殺気というものなのだろうかと、はまだかろうじて働いている頭の隅で考えた。
一体どれくらいの間、その重圧に耐えていただろうか。
急にふわっと呪縛が解けたかと思うと、
「・・・挑む気概も無いというわけか。」
張遼が土気色の顔で立ち尽くす清苑に向かって冷淡にそう吐き捨てた。
完全に戦意を失ったらしい元恋人は、呆然と俯いてぴくりとさえ動かない。
「二度とには近づくな。お前には過ぎた女だ。」
忠告というよりは警告に近い捨て台詞を残して、
張遼は相手の返事を待たず、再び厩に向かって踵を返した。
その肩口から、いつまでもその場から動けずにいる元恋人を見つめて、
は口の中に広がる苦みに唇を噛む。
(さよなら・・・清苑。)
直接告げる事の出来なかった別れの言葉を胸中で小さく呟いて、
振り切るように、前へと顔を向けた。
人一人抱えている事など微塵も感じさせない足取りで、
張遼はあっという間に練兵場を通り抜けた。
ついさっき修羅場を演じた武器庫も遥か遠く、今や夕闇に飲まれて見えなくなっている。
「あ、あの・・・将軍?そろそろ降ろして頂けると大変嬉しいのですが・・・」
ここまでずっと大人しく運ばれるままになっていただったが、
さすがに宮城内までこの格好は恥ずかしすぎると、勇気を振り絞って願い出た。
けれど、聞こえているはずの張遼は、ちらりとこちらに視線をよこすと、
まるで申し出を拒否するかのように歩みを速めた。
(お、怒ってらっしゃるのかしら・・・・)
そりゃそうだ。
書簡の一つも届けられないばかりか、
階段から転げ落ちるわ、痴情沙汰に巻き込むわ、
どれ一つとっても、専属女官という責任ある地位の人間がするとは思えない失態だ。
もし、清苑が今度の事を言い触らせば、
張遼の名声にどれほどの傷を付けてしまうか、
には想像もつかなかった。
「申し訳、ございませんでした・・・」
口にした謝罪の言葉もどこか薄っぺらく感じられて、
猛烈な自己嫌悪に項垂れる。
張遼は相変わらず無言のままで、
これはよほど彼を失望させてしまったのだろうと哀しくなった。
「私は・・・・罷免でしょうか・・・・」
小さくそう尋ねて、込み上げてくる涙に言葉が詰まる。
だが、ここで泣いてしまうのはあまりに無責任だ。
ぎゅっと眉根を寄せて、が懸命に堪えていると、
すぐ傍にある張遼の口からふーっと深い溜息が零れ落ちた。
「・・・・・なぜ、そう思う。」
「それはっ・・・私、全然お役に立てないしっ、御恩も、お返し出来ないしっ・・・」
低く囁かれた問いに、が時折声を詰まらせながらたどたどしく答えると、
張遼は少しバツが悪そうに視線を逸らして、
「別にお前を責めているわけではない。
むしろもっと早く奪ってしまうべきだったと、己の甘さを悔いているだけだ。」
そう自嘲するように呟いた。
怖い思いをしたな、と大きな手が伸びてきて、の頬にそっと触れる。
今度の事は全部自分で蒔いた種だ!
そんな優しい言葉をかけてもらう価値など、私には無い!
そう声を大にして訴えたかったが、口を開くと情けない嗚咽が漏れそうで、
ただふるふると何度も首を横に振る事しか出来なかった。
すると、張遼は急に真剣な面持ちになり、真っ直ぐにの目を見つめ返してくる。
「本当は、お前の気持ちに決着がつくまで待つつもりでいたのだがな・・・。
あの男に言った言葉は全て嘘偽り無い私の本心だ。覚えておけ。」
そう言われて、先ほどの修羅場をよくよく思い出し、
見る見る内にの顔が赤くなる。
− 私の女に薄汚い手で触るな。
清苑の腕から助け出された時、彼は確かにそう言った。
あの時は状況が状況だったため、すっかり流されてしまっていたが、
今改めて顧みると、張遼は随分大胆な発言を連発してはいなかったか?
あれが全部本心だとするのなら。
(うわぁぁぁ!!やめて!恥ずかし過ぎて死んじゃう!!)
別に自分が言ったわけでも無いのに、は羞恥のあまり両手で顔を覆った。
頭からシューシューと湯気を出さんばかりの彼女とは対照的に、
張遼の方はいつもと変わらぬ涼しげな顔をしていて、
冷静そのものなのが小憎らしい。
「あの、将軍、どうかもう降ろして下さいませっっ!」
こうなるともう、抱き上げられて運ばれている事さえ酷く恥ずかしい事に思えて、
再びもぞもぞと抵抗を試みる。
けれど、歴戦の猛将はそんな彼女をふっと鼻で笑うと、
今度は両腕に抱えなおした。
不意を突かれたは、
思わず悲鳴を上げて、張遼の太い首へとしがみ付く。
横抱きにされた挙句、不可抗力とはいえ自ら進んで密着した事で、
は今にも羞恥で憤死しそうだ。
折りしも、景色は中庭から宮城内へと移っていき、
二人の珍妙な姿は、すれ違う文官武官の視線を釘付けにする。
「も、もう、本当にお許しを!」
「ならば、文遠と呼べ。そうすれば降ろしてやる。」
蚊の鳴くような声で必死に懇願するに、
張遼は更に難易度の高い要求をしてきた。
果たして冗談なのか本気なのか、
相変わらずの鉄面皮からは全く読み取る事が出来ない。
そんな御無体な、と赤い顔で呻くを、
間違いなく面白がっているであろう上司は、
だがふいにあの優しい微笑みを浮かべ、
「今すぐにとは言わぬ。
だがいずれ、お前の心が私に向いた時、そう呼んで欲しい。」
そう耳元で小さく囁いた。
張遼の声は甘く掠れ、色めいた響きを帯びていて、
の耳がカッと火を噴く。
俯いたまま、はい、と受諾の返事を絞り出せば、
彼は、そうか、とだけ噛みしめるように呟いた。
「・・・あの、どうして私を専属女官に推挙して下さったのですか?」
いまだ興奮が冷め遣らぬ中、赤い頬を掌で冷やしながら、
は躊躇いがちに、ずっと気になっていた事を尋ねた。
正直張遼ほどの身分の人間ならば、
わざわざ御付き女官にして傍に置かなくたって、
下知一つでを手に入れる事が出来ただろう。
例えそれが望まぬ関係だったとしても、
下っ端の女官に拒否する力は無い。
まぁ、彼の誘いならば、
進んで情婦になりたがる者の方が多そうだが。
が極々凡庸な女官である事くらい、
この数日で充分証明されただろうに、
未だ罷免されぬ理由が分からなかった。
(何しろ、出会いが出会いだし・・・)
飲んだくれて酔い潰れたを彼が連れ帰ったのがそもそもの始まりで、
そこからして普通じゃない。
これだけは絶対に答えてもらおうという気構えで、
じっと張遼の顔を見据えると、
彼はしばらく考えたあと、
「・・・・捨ててあったのでな。」
拾った以上私のものだろう?とまた冗談なのか本気なのか分からない事を言った。
捨ててあったとはどういう事なのだろうか?
それ以前に拾った物は持ち主に返さなければいけないと思うのだが。
言葉の意味を考えているうちにどんどん論点がずれて行って、
は慌てて首を振った。
それでは質問の答えになっておりません!と食って掛かると、
その内分かる、と再びはぐらかされる。
どこか楽しげな張遼の横顔を、
納得いかんという顔で見上げるだったが、
結局厩に到着しても、彼から答えを聞きだす事は出来なかった。
出立の朝は、呆れるほどの晴天だった。
必要最低限の家財と一緒に馬車の荷台へちょこんと座ったは、
どこまでも青い空を見上げながら、ぐいっと大きく伸びをする。
「あんまり反り返ると落ちちまうよ。」
御者台の方からひょいっと顔をのぞかせた梁元に、
のんびりそう忠告されて、あわてて身を起こした。
「いいよなぁ、お前は馬車に座ってりゃいいんだからよ。
俺達なんか、これから10日は歩き詰めだぜ。」
そう愚痴を垂れながら横にやってきたのは旅装姿の秦能で、
さすがに元兵士なだけあって、腰に帯びた護衛用の長剣がしっくりと馴染んでいた。
まるで怠け者めと言わんばかりの口調に、
「足が治れば、私だってちゃんと歩きますよ!」
と反論すれば、柄の悪い家人はどうだかなぁと疑わしげに流し目をよこす。
そこまで言われると、今すぐ馬車を降りてやりたくなるのだが、
残念ながら、昨日今日で治るほど軽い捻挫ではなかった。
が悔しげに頬を膨らましていると、
「駄目ですよ、捻挫を軽くみては。無理をすると癖になってしまいますからね。」
そう、荷台の向こう側から同じく旅装姿の郭単が、生真面目な顔で割って入ってくる。
こちらは斜めがけに細身の矢筒と弓を背負っていて、
なるほど現役時代は弓兵だったのかと、は勝手に推測した。
「んなもん、根性で治すに決まってんだろ!お前ら、こいつを甘やかし過ぎなんだよ!」
「出た!秦能さんの精神論。今時の娘にそんな暑苦しい話、通じないっすよ。」
標的を変えた秦能が今度は郭単に噛み付くと、
つまらなそうに槍を弄んでいた韋徹がニヤニヤ笑って参戦してくる。
「んだと、この若造が!!」
要は退屈していたのだろう、
我が意を得たりとばかりに秦能が韋徹の首へと腕を回し、
さも楽しそうに締め上げようとする。
それを寸での所で交わした韋徹も、まるで悪餓鬼のような笑顔を浮かべていた。
けれども、なおもじゃれ合おうとする二人に、思わぬところから静止がかかる。
「こりゃ!!ここをでょこだとおもうとるにょじゃ!!
しょのようなことでは、たみくさにしめしがつかにゅわ!!」
見ると、太い杖をついた李榔が見知らぬ夫婦を連れて仁王立ちになっていた。
彼が怒るのももっともで、
ここは宮城から都の南門までを真っ直ぐ貫いた大通りの途中であり、
早朝にもかかわらず、周囲には大将軍の出陣を一目見ようと、
たくさんの観衆が道沿いに列を成していた。
達のような、軍に直接関係の無い同行者は、
兵糧部隊の最後尾に組み込まれるらしく、
今はまだこの沿道で待機中なのだ。
「まっちゃく!ぎしょうちょうびゅんえんにょかじんともあろうもにょが、
そんにゃたるんでおってはいかにゅぞ!!」
額に青筋を浮かべぷりぷり説教する老人に、
「よぉ、爺さん見送りご苦労!!」
「後の事は俺達に任せて、ゆっくり息子孝行して下さいっす!」
こんな時だけ息もぴったりな二人が、口々にからかいの言葉をかけた。
高齢の上に隻足ということもあって、
李榔は今回の遠征には参加せず、息子夫婦の家に厄介になる事となったのだ。
「にゃにをいうか!わしには、しょうぐんがりゅすのあいだおやしきをみゃもるという、
りっぱなおやくめがあるにょじゃ!!」
最後までついて行くとごねる李榔を、
張遼が自らそう言って説得したのは、昨日の夕方の話である。
「李榔さんよ、わしらがおらん間、屋敷の事くれぐれもよろしく頼むよ!」
御者台から苦笑いを浮かべた梁元がそう激励すると、
李労は歯が全く無い口を大きく開けて、まかしぇとけ!と満面の笑みで答えた。
「短い間でしたけど、色々ありがとうございました!」
とも彼に向かって頭を下げる。
まだまだ長生きしそうな老人は、がんばりんしゃいね〜、と手にしていた杖をぶんぶん振った。
「・・・おい、見えてきたぞ。」
そう静かに告げたのは巨大な戦斧を肩に担いだ佃益で、
その途端、皆が一斉に通りの方へと目を向けた。
遠く、宮城の方から砂煙を上げながら、
整然と並んだ騎馬隊がこちらに向かって進んでくる。
揃いの鎧が朝日を受けて燦然と輝き、
美しい青に染め抜かれた牙旗は、まるで燃えるように空へとはためいていた。
まさに一騎当千といった面構えの軍団を、一番先頭で率いているのは、
龍咬双鉞を携え、鹿毛の駿馬に跨った群青の豪傑だ。
(ああ、やっぱり将軍はすごい!!)
こんなに離れていても分かるほど、他の者達とは一線を画す風格に、
の顔は興奮でみるみる上気した。
「やっぱ、俺らの大将が一番だぜ!」
すぐ隣で同じ感想を抱いていたらしい秦能が嬉しそうにそう叫ぶ。
だが、が全くその通りだと頷いていると、
沿道を埋め尽くしていた観衆から、急にどよめきが上がった。
一体何事かと、皆が身を乗り出してそちらを見れば、
どういうわけか張遼が行軍を離れ、単騎でこちらに向かってきている。
出陣の行進は大切な祭事でもあるのだ。
いくら既に宮城を出立した後とはいえ、総大将が民衆の目の前で軍を離れるなど前代未聞だった。
一体何がどうしたんだと、一様に顔を強張らせる家人達を尻目に、
張遼は全速力で目の前までやって来ると、馬を棹立ちさせる事も無く、見事に急停止した。
さすがは魏国最高の騎馬軍を統べる将と言ったところか、
その卓越した手綱裁きに、周囲の民衆からは熱狂的な歓声が上がる。
しかし、家人達の方はそんな余裕など微塵も無く、
皆引き締まった表情でびしっと一斉に敬礼した。
も慌ててその場に正座しなおし、深く頭を下げる。
彼等の主人はそれを満足そうに見渡した後、
ぽくぽくと蹄の音を立てて、ゆっくり荷台の方へ歩み寄ってきた。
そうして馬上から静かに、、との字を呼んだ。
「は、はい!ただいま!」
と、内心縮み上がりながらが顔を上げれば、
何を考えているのかさっぱり分からない鉄仮面の上司は、
携えていた龍咬双鉞を片腕に纏め、ちょいちょいと小さく手招きした。
無理に正座したせいで痛みを訴えている右足をなだめつつ、
用件を聞くためが身を乗り出すと、
途端に張遼の左腕が伸びて来て、強引に体を抱き寄せる。
あっと思った時には、
唇に、少し冷たい柔らかな感触が押し当てられて。
それが一体何なのか気付くよりも早く、
再びその身は馬車の荷台へと戻された。
本人はおろか、家人達や周囲の民衆までもが目を皿の様に丸くして、
魏軍がほこる猛将を凝視する。
誰も一言も言葉を発しない中、渦中の張遼だけが涼しい顔をして、
「では、行って参る。」
そう堂々と宣言した。
「・・・っご、御武運を!!」
随分と間が空いてから、自分に言われているのだと気付いて、
は真っ白になった頭から、なんとか手向けの言葉を捻り出す。
張遼はそれを聞くと、
満足そうに、うむ、と頷いて愛馬に鐙をくれ、
総大将不在の間もなんら取り乱す事が無かった隊列の、
一番先頭へと戻っていった。
・・・・・・わぁぁああああああっ!!
彼が去ったのを見計らったかのように、周囲の人垣から熱狂的な歓声が上がって、
同時にの顔が火を噴く。
韋徹がぴゅ〜っと口笛を吹き、
梁元が、大将もやるもんだ、とにんまり笑っている。
「おいおいおい!!お前、こんにゃろー!いつそんな事になったんだよ!なぁ!!」
一番近くに居た秦能がニヤニヤと興奮気味に訊いてくるものの、
は今にも泣き出しそうな情けない顔で、言葉を詰まらせた。
まさか、行軍を抜け出した挙句、
こんな往来の真ん中で堂々と接吻するなんて、
一体誰が予想出来ただろう。
あんな・・・あんな涼しげな顔しておいて!!
(だ、だ、騙されたー!!)
両手で顔を覆い、小さく蹲って積み荷の影に隠れながら、
が心の中で絶叫する。
けれど、じゃあ分かっていたら拒否したのかと言われれば、
そんな張遼に恥をかかせるような事、出来るわけも無く。
唇に残った甘い感触を思い出しては、羞恥にのた打ち回りながら、
は、あの日あの夜、張遼に拾われた時点で、
自分に選択肢など無かったのだと、
ついに悟るのだった。
了
13/05/03 改訂