※ caution ※

・捏造&矛盾でお腹一杯
・オリキャラ氾濫
・山田に夢見すぎ
・張虎(息子)なんておらんかったんや!

以上の項目をお許し頂けると大変有難いです。





























若い時分は、持たぬ事こそが強さだと信じていた。

何者にも囚われず、何者にも支配されず、

ただひたすらに強者を求めて戦場を駆ける。

そうする事こそが、己が武を更なる高みへと導くのだと疑いもしなかった。

今思えば自分もまた、呂布という羅刹に魅せられた若造の一人に過ぎなかったのだ。

天下無双の名を欲しいままにし、数多の群雄を蹴散らして、

最後の最後まで生きようと壮絶に足掻いた、孤独な獣。

今も自分の根底に、彼の凶暴な武が禍々しく脈打っている事を知っている。

けれどいつの間にか、

あれほど憧れて止まなかった孤高の頂に、立ちたいと思わなくなっていた。

果たして自分はあの頃に比べ、強くなったのか、弱くなったのか。

一つだけ確かな事は、

例えどんな劣勢であろうと、負け戦であろうと、

必ず生きて還って来るだろう。

あの無垢な横顔の元へと。














『 拾いました。 』













開けっぱなしの窓から吹き込んでくる風は、

少し湿り気を帯びた夜のそれに変わっていた。

灯篭に油を足しましょうかと申し出た傍仕えの兵卒を、

もう屋敷へ戻るつもりだ、と制して、

張遼は再び卓の上に広げた見取り図に目を落とした。


(見れば見るほど素晴らしい城だ・・・)


そう思わず賞賛の言葉を贈ったのは、

今度彼が赴任する事になった合肥である。

築城や治政といった、およそ文官畑については門外漢の張遼でさえ理解出来るほど、

合肥城には今ある技術の全てが詰め込まれていた。

雨が多く、土はほぼ泥濘、河川もしょっちゅう氾濫すると聞く彼の地で、

よくぞこれほど高く強固な城塞都市を作り上げたものだと感心する。

非常時に軍馬が走れるよう城内の道は全て石材で舗装され、

長雨にも耐えられるよう、田畑にはわざわざ傾斜がつけられ、

周囲の堀に雨水が流れこむ仕組みになっていた。

それ以外にも、気付きもしないような細かい部分にまで工夫がほどこされ、

この城を造った者が、いかに住人達を思って苦心してきたか、想像できる。


(民を守る心が国を守る最強の盾を造り、そして今度は私がそれらを守る・・・)


見取り図に所狭しと書き込まれた、蟻の行列のような注釈を一つ一つ確認しながら、

張遼は引き継いだものの重さに、じわりと掌が汗ばむのを感じた。

これから先、孫呉とは彼の地を巡って何度と無く戦う事になるだろう。


(もう戻ってくることは無いやも知れぬな・・・)


将を志した時から、戦場を塒とし各地を流転してきた張遼にとって、

都など、鳥が一夜羽を休めるための小枝に等しい。

己が財は屈強な体と磨き抜いてきた武だけで充分であったし、

情に煩わされる事が無いよう、あえて妻帯もしなかった。

それなのに、新たな戦地へと思いを馳せるほど、

心の端が小さな古釘に引っかかっている。


(あの娘は今どうしているのだろう・・・・)


夜の帳を四角くくり貫いた窓を見つめ、

張遼の鋭い眼光が、漆黒に浮かぶ星の瞬きのようにざわめいた。














急の報せがあれば屋敷に早馬を飛ばすよう、当直の衛兵に言い付けると、

張遼は自軍官舎を出て、愛馬の待つ厩へと向かった。

既に日が落ちてから随分と時が過ぎているため、

宮城は濃い夜闇に溶け込んでおり、所々に炊かれた篝火の周囲だけが輪郭をぼうっと浮かび上がらせている。

練兵場の広い空を見上げ、月がどこにも見えない事を確認すると、

張遼は帰路の暗さに考えを馳せながら、歩く速度を早めた。

長い渡り廊下の途中、宿舎に戻ろうとしている兵卒達とすれ違う。

彼らが一斉に敬礼するのを脇目で流しながら、

そのまま通り過ぎようとした時、


「なぁおい!!非番の奴らが、酒場でくだ撒いてる女官を見たってよ!!」


と、宿舎の窓からひょいっと顔を出した男が大きな声で叫んだ。

さも楽しそうに話す兵卒の声を背中に聞きながら、

張遼が元気なものだと内心苦笑していると、

先ほど通り過ぎた兵卒達の中の誰かが、面倒くさそうに彼へと答えた。


「あー知ってる、そりゃ清苑の情婦だよ。そりゃまあ、

あんな捨てられ方したんじゃ、自棄酒も飲みたくなるって。」


あの野郎上手くやりやがってよ、と毒づく男の声に、張遼の足が止まる。

そのまま静かに踵を返すと、未だ廊下に屯っている兵卒達につかつかと詰め寄った。

てっきり通り過ぎたとばかり思っていた将軍が、

怖い顔をして戻ってきたのだ。

窓から覗いていた兵卒はさっと首を引っ込めたものの、

逃げ遅れた廊下の連中は真っ青になってその場に跪き、敬礼した。


「わ、我々がお気に障ったのでしたら申し訳ありません!どうか、ご無礼をお許し下さ・・・」

「今の話、詳しく聞かせてもらいたい。」


一番年長の兵士がしどろもどろに言い訳をするのを、苛立った口調で張遼が遮る。

それだけで震え上がる相手をぎろりと睨み返し、話を促した。


「い、いえ。我々も詳しく知らないのですが、

その、知り合いの恋人、いや元恋人か?と、ともかくそいつが酒場に居るらしくてですね。

この時間に女一人で飲むにゃ少々危ない場所なんで、心配していると言いましょうか・・・」

「それは、という女官か?」

「えっ、あ、多分そんな名前だったような気が・・・。」


先ほどの面白半分といった様子はどこへやら、

随分しおらしい態度になった兵卒達が、そう言ってうんうんと頷き合うのを、

張遼は微かに眉根を寄せて見返す。

なんとも確信の持てない返答ではあったが、

もし彼等の話が本当ならば、なんとしても彼女を探し出さなくては。


「その酒場はどの辺りにある?」

「いやぁ、正確な場所まではちょっと・・・。」


気が急いているせいか、少々詰問するような口調で女官の居場所を尋ねると、

見たところ張遼より幾分年上かと思われる兵卒は、今にも泣きだしそうな顔で言葉を濁す。

それを引き継ぐように、後ろから別の兵卒が答えた。


「た、多分、東の花街辺りだったと思います!」

「確か、そこら辺に何件か清苑の行き付けの店があったかとっ!」


口々に発せられた曖昧な手掛かりを瞬時に頭に叩き込むと、

すまぬな、とおざなりに礼を言って張遼はその場を立ち去った。

背中で兵卒達の崩れ落ちる音と盛大な溜息が聞こえたが、

最早振り返りはしなかった。













張遼がその娘を知ったのは5年ほど前だったか。

宿敵袁家の残党を打ち滅ぼし、ようやく長かった北方遠征から中原に戻ってきた、

ちょうどその頃であった。

当然、都の大通りにはたくさんの人々が家族や恋人の帰還を待って、

鈴生りの列を作っていた。

割れんばかりの歓声や笑い声、それらに時折混じる悲痛な慟哭が、

騎乗の張遼に容赦なく浴びせかけられる。

行軍は長々と本城の城門まで続いていて、

先頭を進む牙旗は既に城内へと入ったようだった。

道すがら、峻厳な表情を崩さずにいた張遼も、ここにきてようやく安堵の吐息を零す。

別段、帰りを待つ者が居るわけではなかったが、

それでも見覚えのある街並みを眺めれば、

生還出来た事への喜びがふつふつと腹の底から湧いてきた。


そんな、らしく無い感慨が心に隙を生んでいたのだろう。


すぐそこまで近づいていた城門の影に立つ少女の姿が、何故か目に止まったのだ。

真新しい女官服がまるで似合っていない典型的な田舎娘は、

同じように凱旋の見物に集まった女官たちの間から、

まだまだ童の面差しが濃い幼顔を必死に突き出して、

誰かを探しているようだった。

居並ぶ女達と比べると、お世辞にも美麗とは言えない容姿であったものの、

下唇をぎゅっと噛みしめて、痛みに耐えるように両手を胸へと押し抱く姿が、

張遼の瞳に、無垢な輝きを焼き付けた。

細く薄い肩が小刻みに震え、

化粧も施さぬ野暮ったい顔は今にも泣き出しそうだというのに、

清水のように澄んだ双眸は、愛する者の無事な帰還を信じ抜こうとする強さを宿していた。

多くの女官達が通り過ぎる張遼へと、羨望の眼差しを向ける中、

その娘の視線だけは、決して交わる事無く真っ直ぐ隊列へと向けられている。

彼女とすれ違うほんの一瞬、張遼の胸に、あの視線を遮りたいという欲求が強烈に湧き上がる。

今すぐ騎馬を降りて、少女の前に立ちはだかったとしたら、

彼女はどんな顔をするだろう。

その時の張遼には、それが恐ろしく魅力的で痛快な事に感じられた。





けれど、

実際には身動ぎ一つすること無く、張遼は後続の隊列に押し出されるようにして、

粛々と城門をくぐったのだった。

相変わらず砂煙を上げて長々と続く行軍を見つめ、

冷静になった張遼が、先程自分が取り憑かれた奇妙な妄想に戸惑っていると、

通り過ぎたはずの城門でどよめきが起こる。

馬の歩みは止めぬまま振り返ると、

先程の娘が、まだ行軍中の兵卒にしがみついていた。

子供のようにわんわんと声を上げて泣く少女に抱きつかれて、

まだ下っ端の新兵らしき少年が、バカ、やめろ!と恥ずかしそうな怒声を上げている。

どうやら恋人同士らしいが、若く幼いその姿は微笑ましくもあり、

この厳しい時世の中にあっては、酷く幸福な光景に見えた。

同僚の女官達に引き剥がされ、卒伯に叱りつけられる少女の姿を目の端に留めてから、

張遼はなぜだか口の中に広がる寂寥感に眉を寄せた。


あの初々しくも幸せな二人の姿を、果たして次の凱旋でも見ることが出来るだろうか。


人の心も命も、荒れ狂う時代の波の前ではあまりに儚い事を張遼は知っている。

あの清らかな少女の祈りが、絶望に塗り潰されてしまう所を出来る事なら見たくないと、

そう願わずにはいられなかった。


















城門の衛兵が、一体何事でございますか!と驚いて叫び返すのを背なに聞きながら、

張遼は早馬と見紛う勢いで愛馬を駆った。

出来れば今すぐ現場に直行したい所だったが、

残念ながら張遼には、

兵卒達の曖昧な話にあった「東の花街」がこの広い城下のどこを指しているのか分からない。


(韋徹ならば知っているだろうか・・・)



半年ほど前に家人になったばかりの元卒伯の顔を思い浮かべ、

ひとまず自らの屋敷へと馬首を返した。

まだ退役して間もない彼ならば、もしかしたら兵士達が行き付けにしている酒家も、

幾つか知っているかもしれない。

それに城下を探すのに、戦装束に騎乗ではあまりに目立ちすぎる。

務めて冷静にそう分析しながら、けれど張遼は隠しきれない焦りを顔に滲ませ、

なおも急かすように愛馬に鐙をくれた。



尋常ならざる様子で帰宅してきた主人を見て、すわ一大事と駆け寄ってきた年嵩の家人に、

張遼は無言で馬の手綱を預けると、足早に玄関へと入った。


「秦能、着替えを手伝え。それから、韋徹を部屋へ。」


出迎えにいそいそ出て来た、いかにも柄の悪そうな家人に向かい、

歩きながら早口に命令する。

さほど大きな声では無かったが、

主人の纏うどこかぴりぴりした雰囲気に、秦能は訝しげに眉をひそめた。


(何を焦っているのだ、私は・・・)


自分でも気付かぬ内に殺気立っていたようで、

後ろを黙ってついてくる家人の気圧されした様子に気付き、

張遼は己の醜態に臍を噬んだ。


「韋徹っす。お呼びっすか?」


能天気な掛け声が扉の向こうから聞こえ、秦能の手を借りて鎧を脱いでいた張遼が、

入れ、と短く返事を返すと、まだ20代半ばの若い男が部屋へと入ってきた。

けれど、張遼のいつになく鋭い視線を受けて、人懐っこい顔をひくりと引き攣らせる。


「一つ、お前に聞きたいのだが、清苑という男を知っているか?

周撰の部隊で什長をしているらしいのだが。」

「うーん。顔を見りゃ分かるかもしれないッスけど・・・すんません。

名前には覚えがねぇっす。」


秦能が用意した濃紺の平服に袖を通しながら、張遼が淡々と問うと、

何か酷い失態をしたのではないかと、青い顔で視線を泳がせていた青年は、

ほっとしたように肩の力を抜いた後、今度はその大きな図体を丸めて、

申し訳なさそうに首を振った。


「そうか・・・では、我が軍の兵士達が行き付けにしている酒家なら分かるか?」

「ああ、それなら東の花街辺りじゃないっすか。

それも、俺達みたいな下っ端連中は手前の安酒場ばっかりっす。」

「つったってお前、それでも軽く20件はあるじゃねぇか!

もっと何か大将のお役に立つ事言えよ、ばぁか!!」


重ねて問われた韋徹は、それなら分かるとばかりにパッと顔を明るくして答えたが、

すかさず横から秦能に頭を叩かれる。

再びうーんうーん、と唸りだした韋徹を見かねて、


「女人が一人でも入れそうな場所であろうと思うのだが・・・」


そう条件を付け足せば、女ッ!?と素っ頓狂に声を揃えて家人二人が一斉に此方を凝視した。

彼等の視線を真っ向から受け止めた張遼が、けれど全く動じる様子も無く、どうした?と尋ね返したため、

逆に二人の方が気まずそうな顔でもごもごと言葉を濁す。


「女・・ねぇ。そんなら、あんまり怪しい店にゃ入らねぇよな?」

「そうっすねぇ。いちばん手前にある遊楽なんかは店も広いし、客層も割と堅気が多いっすよ。」

「後はもう、通り沿いの大きな酒家を虱潰しに当たるしか無いんじゃねぇですかね。」

「女一人ならかなり目立つと思うっすから、飲んでる連中に聞けばすぐ見つかるっすよ。」

「どっちにしろ、早く探さねぇと。あそこら辺は夜になると危ないですぜ?

特に酔い潰れた女なんて、虎の檻ん中に兎を放り込むようなもんでさぁ。」


口ぐちに進言する家人達を横眼に見ながら、護身用の短剣を腰帯に挟み込んでいた張遼は、

最後の秦能の台詞に、表情を凍りつかせた。


「・・・その東の花街とやらの場所を教えてもらえるか?」


そう言って向き直った張遼の顔に、既に馴染みの妓楼の話で盛り上がっていた二人は、

ダラダラと冷や汗をかきながら、尻すぼみに黙り込んだ。


「・・・え、ええっと。東の城門から都大路を宮城へ向かって真っ直ぐ進むと、左手に見えてくるかと・・・」

「は、派手な花の装飾がされてる真っ赤な門が目印っす。」


しどろもどろな答えを韋徹が言い終わる前に、張遼は無言のまま部屋を出て行ってしまう。

走り出さんばかりの勢いで玄関をくぐると、訳知り顔の老家人が愛馬を連れて待機していて、

かつての戦友の勘の良さに驚かされつつ、その手から手綱を受け取った。


「すぐに韋徹を追わせやすから、暁紅は安心して詰め所にでも置いてってくだせぇ。」


一体いつから話を聞いていたのやら、しれっとそんな事を言う老人に、

張遼は一瞬目を丸くしたものの、すまんな、と一言礼を言うと、愛馬に颯爽と騎乗した。

すぐさま嬉しそうに走り出す駿馬を見送る老家人の後ろから、韋徹と秦能がやおら顔を出す。


「ってなわけだからよ。韋徹、ちょっくら行ってきてくれるかい?」

「なぁなぁ、元爺!俺も行かせろよ!こんな面白れぇ話、放っとくなんて勿体ねぇや。」


一番体力が有り余っているであろう新人ににっこり笑いかけた老家人へと、

秦能がさも気になって仕方ないといった顔で頼み込む。


「出歯亀なら止めときな。大将にその空っぽの頭、かち割られちまうぞ?」


冗談のような暢気な口調とは裏腹に、ギロリと鋭い視線で睨み返されて、

野次馬根性丸出しだった男はうぐっと言葉に詰まった。

少々の屈伸運動の後、行ってくるっす!と韋徹が元気良く門から飛び出すのを見届けて、

そんなに睨むことねーのによ、とブツブツ不貞腐れる秦能の後をついて行きながら、


「大将にも春が来たかねぇ〜・・・」


と老家人はにんまり笑った。














次の遠征も、その次の遠征も、

少女は宮城の門前で、帰還する軍を出迎えた。

季節の移ろいと共に、帰りを待つ者達の顔ぶれは変わっていったが、

彼女の想い人は幸運な事に、死線を潜り抜け続けているようだった。

時には冬の冷たい雨に凍えながら、

時には血のように赤い夕焼け空の下、

女官の仕事が楽なはずも無いであろうに、

どんな時でも必ずあの澄んだ眼差しで恋人を待っている少女を、

張遼はいつの間にか、凱旋する度に探すようになっていた。

噂話とは不思議なもので、興味を持った途端、勝手に耳へと入ってくる。

知らず知らずの内に、彼女がという名前である事や、

自軍の兵卒である想い人の男の顔まで覚えてしまっていた。

だからといって、張遼自ら少女の出自を調べたり、声を掛けたりなどという事もなく、

ただ、宮城内でたまたま姿を見かけた時などに、ほんの少し心が和む程度であったが。

それが変化したのは、野暮ったかった少女が薄化粧を覚え、

蚊蜻蛉のように細かった体が、女官服を着こなせるだけの柔らかな丸みを帯びた頃だったろう。

その頃張遼は、主君曹操の南征に付き従い長江を挟んで孫呉と対峙していた。

あの時、

天下の誰もが曹操の勝利を信じて疑わなかった。

だが、いざ戦いの火蓋が切られてみれば、赤壁の断崖を真っ赤に焦がしたのは総勢20万を誇った曹操軍の大船団だった。

完膚無きまでに叩きのめされての敗北。まさに、惨敗であった。

張遼の軍もその半数以上を失い、生き残った兵士達も満身創痍で、

敵の追撃に怯えながら、ただ黙々と足を引き摺って歩き続ける様は、まるで死者の葬列を思わせた。

敗走する兵ほど、惨めで哀れなものは無い。

この世の地獄を目の当たりにして、人間らしい情動を失った兵士達の顔は、皆一様に暗く、

死んだ魚のようにドロリと濁った眼は、何も映してはいなかった。

日が昇り、夜が来て、また日が昇る。

時間の感覚さえ忘れてしまうほど、歩き通しに歩き続けたというのに、

夜明け前の薄暗闇の中に、遠く宮城の影が見えても、

長々と続く隊列からは、歓声どころか安堵の溜め息さえ上がらなかった。

静まり返った都大路を、生ける屍達を引き連れて歩く張遼自身も、

戦塵と煤にまみれ、虚脱感と疲労で体が鉛のように重かったが、

遥か宮城を見据えるその目には、まだ鋭い輝きが残っていた。

幸運な事に忠誠を捧げる主君は無事帰還している。

自分も生き残る事が出来た。


生きてさえいれば、また戦う事が出来る。


それが、次々と主君を失ってきた張遼が敗戦から学んだ心得であり、

怯懦と徒労感が蔓延する烏合の衆の中にあって、彼を未だ将足らんとする支えでもあった。

蛞蝓のようなのろのろと遅い行軍ではあったが、

どうにか夜が明ける前に宮城へと辿り着く事が出来た。

いつもは出迎えの人々で鈴生りになっている城門も、ひっそりと静まり返っていて、

張遼は思わず小さく嘆息する。

そうして、あの少女が居ない事にがっかりしている自分に、何を馬鹿なと苦笑した。

けれど今日に限って、彼女の無邪気な顔がたまらなく見たいと思ってしまうのは、

柄にも無く弱気になっているからだろうか。

下らないと首を振って、張遼が城門をくぐり練兵場へと歩を進めると、

暗闇に浮かぶ宮城の間から、白く輝く何かが此方へ向かって一直線に飛び出してきた。

それが、あの少女であると分かった途端、感情を表す事を固く禁じてきた己の顔が、泣きそうに歪むのを感じた。

そんなはず無いと分かっていても、彼女が自分を出迎えに来てくれたかのような錯覚に、胸が震える。

今思えば、最低限の松明しか炊かれていない暗がりの中で、その姿をはっきりと捉える事など出来るわけが無いのだが、

その時張遼の目には、少女から美しい大人の女へと成長を遂げた彼女が、夜の闇に浮かぶ星のようにひと際輝いて見えた。

長い髪を振り乱し、白い夜着を翻して、健康的な足を惜しげも無く晒し走るその体を、

飛び出して行って抱き留めたい。

思うさま彼女の匂いを吸い込んで、その温かく柔らかな感触を確かめたい。

激しい衝動が全身を駆け巡ったが、張遼はまるで雷にでも打たれたかのように歩みを止め、

すぐ横を通り過ぎる白い蝶を、目で追う事しか出来なかった。

脇目も振らず、娘は亡者共の隊列の中に飛び込むと、槍を杖変わりにして立っている血まみれの青年に抱き着いた。

水晶玉のような大粒の涙を、いくつもいくつも零しながら、わんわんと子供のように声を上げて泣く娘に感化されるように、

兵士達の間からもあちこちから嗚咽や啜り泣きが上がりだす。

皆、ようやく生きている実感が戻ってきたのだろう、

ちょうど昇ってきた朝日に照らされた練兵場は、帰還の喜びに沸き立った。

その熱い渦の真ん中で、涙と鼻水で顔をぐずぐずにした娘と、同じくらい泣きじゃくっている青年とが、固く抱き合っているのを、

張遼は凍りついたように見つめていた。

頭の中はしんと冷え切っているのに、腹の中では灼熱の溶岩がグツグツと出口を求めて暴れ回っている。

全く対照的な二つの場所から、同じ感情が湧き上がって、張遼は苦しげに視線を逸らした。

嫉妬しているというのか?この張文遠が?

あんな、兵卒風情に?


(ああ・・・その通りだ。)


あの娘に、力いっぱい抱きしめてもらえる、無事の帰還を声が枯れるほど泣いてもらえる、

一人の男として無条件に愛される事を許された若造が、心底憎かった。

行き場の無い憤りを抱えながら、

けれど、二人の間に割って入る権利など自分には無く、

張遼はただ無言で馬首を返し、その場を立ち去る事しか出来なかった。





























派手派手しい朱塗りの門を潜り抜ければ、そこは世知辛い俗世とは切り離された、

眠りを知らぬ桃源郷であった。

店先に吊るされた灯篭に描かれているのは、妖艶な天女の微笑で、

その下では豊満な肉体を朱色の薄絹で包んだ夜の蝶が、ひらひらと客の間を飛び回っていた。

さほど広く無い目抜き通りは、肉の焼ける香ばしい匂いや、蒸篭から上がる湯気が充満し、

あちらこちらから、野太い笑い声や怒号が聞こえてくる。

様々な歩調で歩く人の波をすり抜けながら、張遼は酒家らしき店を見つけては、娘の姿が無いか探して回った。

本当にこの通りのどこかに居るのだろうか?

まさかもう店を出てしまった後では無いか?

馴れ馴れしく袖を引こうとする客寄せの娼妓に、

女官姿の客が一人で飲んでいる酒場を知らないかと聞けば、

途端に化粧の濃い顔をしかめて、何だ女連れか、と吐き捨てる。

あまりの豹変っぷりに驚いていると、

もう一人、こちらは完全に酔っぱらっているらしい娼妓が、

商家の若衆らしき客にしな垂れかかりながら、話に割って入ってきた。


「あたしらが飲んでた店にぃ、それっぽいのがいましたよぉ。

なぁんかすんごい荒れちゃっててぇ。ぶっさいくに泣いてんだもん。」


きゃはは、けっさくぅ!とケラケラ笑う女に、その店は何処かと詰め寄れば、

彼女の変わりに居心地悪そうにしていた客の方が、通りの向こうを指さした。


「感謝する!」


未だ気違いじみた笑い声を上げる女に、一応礼を述べると、

張遼は一直線に教えられた店へと向かった。

通りに面したその酒家は、外からでも中がぐるりと見渡せるような作りになっていて、

がやがやと騒々しい店内のど真ん中、6人用の広い卓に突っ伏している女官を、

容易に見つける事が出来た。

酒家の主が声をかけても、彼女は何やらもぞもぞと頭を揺らすだけで、

返事すら返さない。


「ったく。御代もまだだってのに、ありゃ完全に酔い潰れちまってるよ。」


もっさりと口髭を蓄えた壮年の店主が呆れたようにそう言いながら、立ち飲み席に戻ってくると、

そこに屯っていた武官らしき強面の男達がニヤニヤと笑いながら、


「なぁに、いざとなったら俺達が払ってやるよ。」

「おうおう、お嬢ちゃんの花代替わりと思やぁ安いもんだぜ。」


と口ぐちに吠えた。

彼等の発言に、店主の方は良い顔をしなかったものの、

下手に口出しして面倒事に巻き込まれるのは御免だとばかりに、

小さく肩をすくめるだけだった。

調子にのった一人が、


「見たとこ女官みてぇだし、払ってやった分はしっかり体で奉仕してもらわねぇとな。」


そう言いながら、反応を示さない娘の方へと近寄っていこうとする。

張遼は足早に店内へと入ると、にこにこしながら寄ってきた店主を無視して通り過ぎ、

男の肩を力任せに掴んで、無理やり元の場所に引き戻した。

不意打ちを受けて、男の体はあっけなく後ろに倒れ、

立ち飲み用の卓に背中をしたたか打ち付ける。

衝撃でカランっと乾いた音を立てて木杯が倒れ、中身をまき散らしながら転がっていった。


「ってめぇ!!何しやがんでぇっっ!」


そう気色ばんで振り返った男に、


「・・・・悪いがその役、私に譲ってもらおうか。」


と張遼も低く剣呑な声音で告げる。

あれほど五月蠅かった店内は急に静まり返り、

客達が何事かとこちらを注視した。

男の連れらしき連中も、加勢するようにこちらへと向き直ったが、

張遼と目が合った途端、あっと小さく悲鳴を上げると、気まずそうに視線を泳がせた。


「やべーよ、ありゃ張将軍じゃねぇか?」

「えぇえ!?そういやぁ、似てるような・・・けど、将軍様がこんな所に何の用だよ!?」

「いやいや、他人の空似って可能性も・・・」


彼等のこそこそとした耳打ちは、けれど地声のデカさからか全て周囲に筒抜けで、

傍から見ていると実に間抜けな光景だ。

案外顔が知られているものなのだなと妙な感想を抱きつつ、

張遼がゆっくりと店内を睥睨すれば、事の顛末を見守っていた客達のうち、

5、6人が気まずそうにサッと視線を逸らした。

どうやら、他にも虎視眈々と女が酔い潰れるのを待っていた者が居たらしい。

それだけで張遼のこめかみに青筋が浮かんだが、

敏感に彼の怒気を感じ取った店主が大慌てで割って入ってきた。


「こ、これはこれは、張将軍!このような汚い安酒場にお越し頂けるとは、恐悦に御座います。

そ、それでこの度はどの様な酒をご所望でございましょう?」


何か粗相があれば文字通り首が飛びかねない状況に、

すっかり血の気の引いた店の主が、精一杯の笑顔を浮かべながら大慌てで捲し立てる。

別に店主に非は無いのだが、

平身低頭でぺこぺこと頭を下げる様子に張遼はすっかり毒気を抜かれ、


「主人、悪いが酒を飲みに来たわけでは無いのだ。

あそこで酔い潰れている者は私の顔見知りでな。連れて帰るが構わぬか?」


そう困惑しながら告げた。

いつの間に戻ったのか、立ち飲み席に仲良く並んだ先ほどの武官連中は、

その一言に顔面蒼白で震え上がる。

逆に厄介者を引きとってもらえると内心大喜びの店主は、


「もちろんでございます。将軍のお知り合いとは知らず、数々の失礼をお詫び致します。」


そう言って一も二も無く頷いた。

それを確認して、酒代はこれで足りるだろうか?と、

懐に突っ込んできた財布から銀銭を一枚取り出す。


「と、とんでもございません!将軍様から御代など頂けませんよ!!

酒瓶一本どころか、この店の酒全部飲んでもお釣りがきまさぁ。」


差し出した代金を受け取るどころか、その場に土下座して謝らん勢いの主人に、

張遼は苦笑しながら、無理やりその手に銀銭を押し付けた。

ついでに、


「迷惑をかけた詫びだ。取っておいてくれ。」


そう付け足せば、髭面の店主はなんとも情けない顔をして何度も礼を言った後、

おそるおそるそれを受け取った。

もう一度顔色を伺うようにこちらを見上げてきた店主に、すまぬな、と駄目押しすれば、

それでやっと安心したのか、ぱぁぁっと顔を明るくする。


「さぁさぁ!!お客さん方、今夜の酒は将軍様の驕りだよ!じゃんじゃん飲んでっておくれ!」


そう景気良く叫んだ途端、

店にいた客はおろか、外から覗き込んでいた野次馬達までわぁっと歓声が上げた。

静かだった店内が再び喧騒に包まれる。

おこぼれに預かろうと雪崩れ込んで来た客の相手をしに行く店主を見送って、

張遼はようやく目的の人物へと向き直った。

騒ぎの原因となった張本人は、暢気に卓の上に突っ伏したままぴくりとも動かない。

何と声をかけて良いか散々迷った挙句、結局は、、と彼女の字を呼んで、

戸惑いがちにその細い肩へと触れた。

するとのろのろと赤い顔がこちらを向き、

焦点の合わないとろんと呆けた目が見つめ返してくる。

それだけでドキリと他愛も無く心臓が跳ね上がって、

普段決してぶれない張遼の視線が、ほんの一瞬揺らいだ。


「店を出るぞ。起きられるか?」


彼女からすれば全く知らない男に声を掛けられているわけで、

驚かさないよう出来るだけ優しく耳元へと囁く。

けれど完全に酔っ払っているは、

物怖じするどころか、んーっとしばし考え込んだ後、やだぁ、と子供のような返事を返した。


「まぁだ、お酒飲むんらもぉん。」


と唇を尖らせながら、無骨な茶色い酒瓶を両腕で抱え込んでしまう。

そのまま、また動かなくなる娘を見下ろし、

張遼は小さく嘆息すると、彼女が大事に抱き締めている酒瓶を、

ひょいっと取り上げた。

持ち上げた瓶の中にはまだ半分近く中身が入っていて、

たったこれだけの量でここまで酔い潰れたのか、と呆気に取られる。


「やぁ、ちょっとぉ、返してよぉ。」


ふにゃふにゃと抗議しながら、取り戻そうと伸びてくる手を適当にあしらって、

張遼は面倒臭そうにぐいっと酒瓶を煽った。

ごくっごくっと音を立てて飲み干す様を、がばっと頭を上げたが信じられないという顔で見つめ返してくる。

一滴残らず全て飲み終えてから、だんっと酒瓶を卓に置けば、

慌ててそれを奪い返し、中をしきりに覗き込んだ。


「うぇ・・・ひどぉい、あたしのおさけぇ〜・・・」


そうして、もう何も入っていない酒瓶を抱き締め直すと、

ぐすぐすと鼻を鳴らし恨めし気に此方を睨みつけてきた。

本人は精一杯怖い顔をして威嚇しているのだろうが、

唇を尖らせながら今にも泣き出しそうな潤んだ目で見上げられて、

口元を袖口で拭っていた張遼の喉が、無意識に鳴る。


「・・・・・っっ帰るぞ。」


邪な気持ちを振り払うようにそう言い捨てて、再び酒瓶を取り上げると、

娘はむぅっと薔薇色の頬を不満げに膨らませ、絶対帰らないもん!!とそっぽを向いてしまった。

いつの間にやら、二人のやり取りは店中の客の視線を集めていて、

ニヤニヤと物言いたげな野次馬の顔に、張遼の額に再び青筋が浮かぶ。


「よかろう・・・」


と唯でさえ鋭い目を据わらせると、

未だ卓にしがみ付いている娘の細い胴に利き腕を回し、強引にその華奢な体を抱き上げた。


「ぉよ!?なにすんのぉ、このフニャチンやろぉ!人さらいぃ!おろせぇ〜!!」


あっけなく肩に担がれた娘は、舌っ足らずな悪態をつきながらポコポコとこちらの背中を叩いてきたが、

張遼は無視を決め込んで、さっさと踵を返す。

そうして、深々と頭を下げる店主の横を通り過ぎ、

先ほどよりもっと増えた客達の冷やかしを背なに聞きながら、足早に店を出た。



















己の感情が何であるか自覚した所で、これまでの関係が劇的に変化するはずも無く、

結局は偶然に頼って、遠くから娘の姿を眺める日々が続いた。

ずっと年下の、しかも言葉を交わしたことすら無い娘に恋い焦がれるとは、

我ながら正気の沙汰とは思えない。

最強の武を探求する自分には情など無用の長物と、そう信じて生きてきたけれど、

調練の後や軍議に向かう道すがら、ふと気を抜くと思い出されるのは、彼女の無垢な横顔ばかりだった。

あの決して高くは無いが優しく柔らかな声で、名を呼んでもらえたならば、

きっと目も眩むような幸福を感じる事ができるだろう。

けれどそれが、所詮叶う事の無い願いであると諦めてもいた。

なにしろあれほど一途にあの男の帰りを待ち続けていたのだ、

の心に自分の入り込める隙間など微塵も無いだろう。

少なくともこの時張遼は、二人がとっくに夫婦の契りを結んでいると思い込んでいた。



それが勘違いであると知らされたのは、合肥への出兵が軍議に上がり、

あとは殿の下知を待つばかりとなった、本当にここ最近である。

いつものように、兵士宿舎に居るはずの想い人の元へと急ぐの姿を、

執務室の窓からまんじりともせぬ思いで見送っていた時、


「あんなに甲斐甲斐しく通い詰めて、馬鹿だよなぁ。」

「けど、ちょっと可哀想だろ。騙されてるとも知らないでさ。」


書類の裁可を手伝っていた兵卒達が、

同じように窓の外を眺めながら何気なく交わした会話に、耳を疑った。

それはあの娘の事か?と出来るだけ平静を装いながら尋ねれば、

普段世間話になど興味も示さない上司が突然割って入って来た事に、

彼等は面喰いながらも頷いた。

同僚を売るような罪悪感からか、慎重に言葉を選びながら、

兵卒達は口々に、の恋人であるという清苑について語ってくれた。

どうやら相当な野心家らしいその男は、

の他にも、常に数人、女を侍らせていて、

彼女達から出世の為という名目で金を巻き上げているのだそうだ。

事実、そうやって手に入れた金を、

自らの武具や上司の接待などに惜しみなくつぎ込んで、

何の後ろ盾も無い飢民上がりの若造は、異例の速さで出世していったらしい。

けれど、恋人がちょっとでも口答えすると手酷く扱うのも下っ端の間では有名で、

酒の席で自慢げに女は殴って躾けるもんだと話していた、と兵卒の一人が顔を顰めた。

そんなだから、従順に尽くす以外の女とは長く続かなかったが、

余程口が上手いのか、それとも女心を惑わす何かを持っているのか、

金蔓には事欠かないのだという。

多少の妬みも入ってか、兵卒達の口振りはだんだんと大仰になっていったが、

恐らく当たらずとも遠からずなのだろう。


あれほど健気に慕ってくれる者を何故蔑ろにするのか。

の好意を逆手に、このまま飼い殺しにしようというのか。


一瞬で、目の前が真っ赤になった気がした。


「・・・・今日の執務はこれで仕舞いとする。下がって良い。」


怒気を押し殺した低い声音でそう告げれば、

殺気に当てられた兵卒達は、し、失礼します!と声を裏返らせながら、

まろつ転びつ我先に部屋を出て行く。

それを追うように張遼も荒い足取りで執務室を出ようとして、

白木の格子扉に手を掛けた所で思いとどまった。


(今、娘の元に行ったところで何とする・・・)


男の不実を暴き、糾弾して、それでどうなる?

恋人の裏切りを知って一番傷つくのは、他ならぬだ。

そもそも、普段の張遼ならば歯牙にもかけぬ与太話では無いか。

賂ごときで出世できるほど張遼の軍は甘くない。

上に引き上げてもらえるだけの武技と度胸、そしてあの赤壁の戦いからも生き残ったという強運さを見れば、

清苑という男が相応の実力を兼ね備えているのは容易に想像できた。

軍を束ねる将にとって、兵の真価は戦場で決まるものだ。

それ以外の場所でどう生きようと、張遼が口出しする事では無い。

今やろうとしている事は紛れもない私憤であると、頭の中の冷静な部分が嘲笑する。

けれど、ではこの後から後から湧き上がる怒りをどこへ持って行けば良い?

ガンっと力任せに壁を殴りつければ、分厚い板の割れる嫌な音がして、

張遼はぽっかりと開いた空虚な穴を見つめ、苦々しく項垂れた。

じんじんと鈍い痛みを訴える拳を、ますます強く握りしめ、

憤然やるかたない思いのまま、斜陽の濃くなった執務室へと戻ってくる。

いっそ、を渡せ、と直接命じてしまおうか。

野心家だという男は、己が出世のためならば、

喜んで彼女を差し出すはずだ。

そんな横暴が許されるだけの武名と権力を、張遼は有していた。

けれど、そんな下衆な真似をすれば、

彼女を独占する事は出来ても、あの澄んだ瞳までは手に入らない。

どんなに強く抱き締めようと、細い腕がこちらの背中に回る事は無いだろう。

あの無邪気な笑顔を奪ってまで、手元に置く事に何の意味があるのだ。


(では、このまま不幸になる姿を黙って見ていろというのか・・・)


清苑がどれほど上手く立ち回ったとしても、歪な関係はやがて破綻をきたす。

想いが強ければ強いほどに、男の裏切りは、彼女の無垢な魂に一生消えない傷を残すかもしれない。

そんな事は我慢ならなかった。

八方塞がりの状況に途方に暮れて、

中途半端に書簡が投げ出されたままの座卓の前に座り込む。

これが戦場であったならば、誰であろうと容赦はしない。

どんな果断な策でもやり遂げられるという自負がある。

が、こと色恋沙汰となると、これほどに勝手が違うものなのだろうか?

退くも攻めるもままならず、ただ頭を抱えて狼狽えるなど、

まるで初陣にのぞむ新兵のようでは無いか。





















(今ならば、呂布殿のお気持ちが少し分かる気がする・・・・)


天下無双を誇ったかつての主君が、寵愛する舞姫の事となると途端に見境が無くなっていた事を思い出し、

張遼は小さく苦笑を浮かべた。

あれほど思い悩んで、結局見守る事しか出来ないまま半ば諦めかけていたというのに、

今はその娘を肩に担いで家路を急いでいるのだから、縁とは数奇なものだ。


(いや・・・私はこの幸運に感謝するべきであろう。)


もし、あの時宮城で兵卒の話を聞き逃していたならば、

張遼はそのまま合肥へと赴任し、二度ととは会えなくなっていたかも知れないのだ。

肩にかかる心地よい重みに、知らず知らず口の端が緩む。

当のはといえば、最初の内こそ、たすけてぇ〜たすけてぇ〜、

と叫んでは通り過ぎる人々をぎょっとさせていたが、

だんだん抵抗しなくなり、今は大人しく担がれるままとなっていた。

来た時と同じ朱塗りの門を潜れば、まるで夢から覚める様に夜の静寂が戻ってくる。

未だ体に纏わりつく淀んだ空気を、払うように大きく息を吸い込むと、

しんと染み込む冷たさが胸に心地良かった。

月が無いためか、だだっ広い都大路はいつも以上に暗く、人の気配は皆無である。

もはやここまで来て酒家に戻ると娘が駄々を捏ねる事も無いだろうが、

彼女の体温をもう少し感じていたくて、

張遼は、馬を預けておいた警備兵の屯所までは抱えて歩くことにした。

ところが、いざ目的の場所に着いてみると、

愛馬も、馬番をしているはずの家人の姿もどこにも見当たらず、

仕方なく待機中の衛兵に尋ねてみる。

突然現れた恐ろしく位の高い人物に、しがない一兵卒はすくみ上がって、

しどろもどろに、家人は馬共々とっくの昔に屋敷に戻った事を報告してきた。

それは何故かと再度問えば、


「い、いえ!将軍は、その、今夜は宿泊されるであろうとの話でしたので・・・」


そう言いながら、屯所の入口の柱に背を預けぐったりと座り込んでいるに、ちらちら視線を送る。

ああ、なるほどそういう事か、と張遼は苦笑いを浮かべ、

気を利かせすぎだ、とここには居ない家人の若者に向かってぼやいた。

花街で、しかも女連れとくれば、する事は一つだ。

それは確かに魅力的な話であったが、酔っ払った女を済し崩しに抱くというのは性に合わないし、

かといって張遼も木石では無いから、

そんなおあつらえ向きの場所で好いた女と一夜を共にして、何もせぬ自信は無かった。

まあ、屋敷までそれほど距離があるわけでもなし、

女一人を背負って歩くくらい張遼には雑作も無い事であったから、

このままのんびり夜道を帰るかと、そう結論を出して、

やおらの方へ向き直る。

が、いつの間にか屯所の入口に居たはずの娘の姿が消え失せていて、張遼の顔から血の気が引いた。

急いで外へと飛び出したものの、真っ暗な都大路にそれらしき人影は無く、

ぶわっと嫌な汗が噴き出す。

あの状態では、自力で歩くのも困難なはずだ。

まさか屯所の前でかどわかしに合う事は無いと思うが、

今襲われれば、泥酔状態のはろくに抵抗も出来ず連れ去られてしまうだろう。

目を離すべきじゃ無かったと、奥歯を噛みしめる。

もしかしたら衛兵が何か見ていたかもしれないと、屯所に戻りかけた所で、

隣の建物との間の狭い裏路地に、の背中を見つけた。

ほっと息を吐いてから、体1つ分ほどの幅しかない細い道を、

蹲ったまま動かない娘の元へと急ぐ。


「私に黙ってどこかへ行くな。心配するだろう。」


そう言って肩に手を置けば、彼女はびくりと過剰なほど体を強張らせた。

もしかしたら酔いが醒めて、張遼が怖くなり逃げ出したのかもしれない。

からしてみれば、気付いたら知らない男に何処かへ連れて行かれそうになっていたわけだから、

当然だろう。

思わず手を引っ込めて、どう言えば安心するのか考えあぐねいていると、

娘の頭がよろよろと持ち上がり、口元を両手で抑えた青い顔がこちらを向いた。


「・・・・・・きもち、わるい・・・。」


弱弱しい声でぽつりと一言零すと、とうとう堪え切れなくなったのか、

張遼の視線から隠れるように背中を向けて、げぇっと吐きだした。

なるほど、それでこんな所に隠れたわけかと、

動けない体でここまで這ってきた彼女の乙女心に免じて、

そちらを見ないようにしながら背中をさすってやる。

食事を取っていなかったのか、さほど長く吐く事も無く、

2回ほど嘔吐いた後、ぐったりと壁に寄り掛かった。

落ち着く頃合いを見計らって、屯所の井戸から水を汲んできてやると、

娘は緩慢な動きで柄杓に口をつけ、ちびちび飲み始める。

飲み込みきれなかった雫が白い喉を伝って、既に土まみれの女官服に染みを作っていくのが、

夜に慣れた張遼の目に、やけに艶めかしく焼きついた。

誤魔化すように、彼女の濡れた顎を袖口で乱暴に拭いてやると、

嫌々と幼子のような仕草で首を振っていたが、急にしゃくり上げ始めた。


「どうした?まだ苦しいのか?」


内心酷く動揺した張遼がそう尋ねれば、

既に真っ赤に泣き腫らした瞳からぽろぽろと大粒の涙を零しながら、

ぐずぐずの鼻声で、


「・・・やさひくされると、なみらがれます・・・」


と、情けなく答えた。

その姿に庇護欲を刺激されて、張遼は子供にするような手つきで、

その小さな丸い頭をぽんぽんと叩く。

けれど、まだ充分に酔っ払っているらしい娘は、うぅぅっとますます情けなく嗚咽を上げた。


「もう泣くな。帰るぞ。」


どうやら怖がっている様子は無さそうだと安心した張遼が、

そう言って手を差し出すと、はそれを拒否するように膝を抱えて蹲った。


「・・・わらし、かえるところないれす・・・。」


そう言って、ずずっと鼻を啜る。


「すてられたんれす、わらし。せいえん、は、ほかのおんなと、け、けこんするんれす。

お、おしごとも、ろうせひめんれす。い、い、いぐどごなんが、ないんれずうぅっ!」


しゃくり上げながら切れ切れにそう言い募って、

最後は感極まったようにわぁっと泣き崩れてしまったを、張遼は愛おしげに見下ろした。

どうやら彼女にとっては最悪の形で、恋人との関係が終焉を迎えたようだが、

それが今日この日で本当に良かったと思う。

少なくとも、これ以上独りぼっちで泣かせなくて済むのだから。

張遼は、ゆっくりと彼女の前に跪くと、顔にかかった乱れ髪を優しい手つきで払いのけて、


「ならば、私の元へ来ぬか。」


と、吐息のように切なげな声で囁いた。

驚いて顔を上げたを真っ直ぐに見つめ、


「私が拾ってやる。」


と、再度念を押すように告げる。


「あの、れも・・・・ほんとに?」


元々八の字を描いた眉をますます垂れ下げて、嘘のつけない瞳がゆらゆらと揺れた。

あれほど焦がれた、吸い込まれそうなほど透明な双眸が、じっと自分だけを見つめ返してくれている。

それだけで、張遼の胸を甘酸っぱい幸福感が満たした。

もちろんだと答える変わりに、愛おしそうに笑いかけて、

張遼はくるりとに背中を向けると、ちょいちょいっとその背に乗るよう手招いた。


「わ、わらし、はいちゃったから、よごれちゃいますよ?」


そう心配そうに尋ねてくる娘に、

構わぬ、ときっぱり答えれば、背後の気配がもそもそと動いて、

次いでおずおずと柔らかな重みが背中に圧し掛かった。

耳元で、


「よ、よろしくおれがいします」


と、ちょっと恥ずかしそうなの声が聞こえて、

張遼は笑みを深めると、力強く立ち上がった。














誰も居ない都大路のど真ん中を、のんびりと贅沢に歩いていく。

月が出ていない夜空には、満天の星が瞬いていて、

きれいれすねぇ〜、と此方の肩口に顔を埋めたが、暢気に呟いた。

首筋にかかる温かな吐息がなんだか面映ゆくて、張遼が苦笑していると、

馬鹿にされたと思ったのか、娘はぷうっと頬を膨らませ、

仕返しとばかりにカプっとこちらの耳に噛みついてくる。


「こ、こら。やめぬか。」


ぞわりと甘い痺れが肌を走って、張遼が堪らず声を荒げれば、

酔っ払いはケラケラと満足そうに笑って、今度はべろーんと耳たぶを舐め上げる。

タチの悪い悪戯を叱る変わりに、少々手荒く背負い直すと、

ひょぇっと素っ頓狂な悲鳴が聞こえた。


「うぅ、おこらりたぁ〜。」


と、神妙な声を上げながら、はまるで猫が機嫌を取るように、

張遼の頬へと自分の頬を摺り寄せる。

おひげがちくちくするれすよ〜、と子供のように喜ぶとは対照的に、

張遼の方は苦虫を潰したような顔で、先ほどからムラムラと落ち着かない胸中を宥めすかした。


「・・・、お前はもう二度と酒を飲むな。」


げんなりとそう呟くと、はーい、と暢気な返事が返ってきて、

きっとこの会話も覚えては居ないであろうなと嘆息する。


「ところで、わらし、あなたのおなまえきいてませんれした。」


おしえてくらさい、と少々眠たそうな声で聞かれ、

張遼は少し考えた後、文遠だ、と字を告げた。


「ぶんえんさんれすか〜。りっぱなおなまえれすね〜。」


ぶんえん、ぶんえんさーん、と何度も確かめるように呟くのを、

もう少し色っぽく呼んでもらいたいものだと、苦笑する。

まあ、それは酔いが醒めてからゆっくり覚えてもらえば良いだろう。

いつの間にか、の方はこっくりこっくり船を漕ぎ始めていて、

眠ってしまって良いぞと言えば、

ね、ねてまてんよ!とむきになって答えてくる。

けれど、それから数歩も歩かぬ内に、背中の重みが増して、

愛しい娘は健やかな寝息を立て始めた。

伝わってくる温かな体温を、心地良く感じながら、

張遼は満足げにほくそ笑む。

彼女は確かによろしくと言ったのだ。

酔っていたとはいえ約束は約束だろう、と、

張遼は胸中で童のような屁理屈をこねる。

長年、他人の手にあった至宝が、

向こうから転がり込んできてくれたのだ。

誰が手放すものか。


「拾った以上は、もう私のものであろう?」


背中で暢気に眠りこけているへと話しかけ、

さてこれからどう彼女を口説き落とそうかと、楽しくなる。

まずは、誰に断らずとも傍に居られるよう、専属の女官にでもなってもらうか。

そう勝手に決めて、張遼は上機嫌に歩調を早めるのだった。



















end









2011/04/22〜
13/05/02 改訂