※ caution ※
・無双武将の過度な理想化。
・史実年齢とかオチとか気にしたら負け。
・安定のオリキャラ氾濫。
・なんだ、ただの馬鹿ップルか。
以上を、寛大な御心で了承頂けると助かります。
つまり 私の手をとって。
つまり 口付けが欲しいのです。
『 Fly me to the Moon. 』
空腹は最高の味付けです。
そう言って我らの優秀な料理長殿が差し出した椀からは、
炎天下の行軍で草臥れ果てた心と身体を癒す魅惑の香りが立ち上っていた。
「郭単さんの作ってくれた物ならお腹が空いて無くたって美味しいですよ!」
食欲のそそる湯気を鼻の奥いっぱいに吸い込んでから、
ほくほく顔のがお世辞抜きの賛辞を口にすれば、
「良く言うぜ。お前、それ屋敷で食った時はひでぇ顔してたろ?」
そう、肩口から手元を覗き込んできた柄の悪い男がニヤニヤと茶々を入れてくる。
その髭面から椀を庇うように身を捩って、どういう意味ですか?と秦能に食って掛かれば、
「それ、元は干し飯なんですよ。」
と、褒められて照れたのか色白の頬をうっすら赤くした郭単が、
かわりに説明してくれた。
ええ!これが!?と思わず中身を一口啜れば、
到底あの時食べた冷や粥と同じ物とは思えぬ、米の豊かな風味と甘さが感じられた。
「こんなに美味しくなるんだ・・・」
あまりの違いに愕然として椀の中身を覗き込んでいると、
「ありゃ、立ち食いたぁちょいと見せられん姿だねぇ。」
と、荷車に箸の束を取りに行っていたはずの梁元に見咎められる。
確かに行儀の悪い行為だったと反省したが、素直にごめんなさいと謝れば、
はっは〜ん怒られてやんの、とすかさず秦能が茶化して来た。
けれど、むっとしたが何か反論する前に、
彼は突然悲鳴を上げ、右の脹脛を抱え込んだまま跳び退る。
「ってぇぇ!痛ぇよ、元じい!何も蹴るこたぁねぇだろ!?」
「お前さんこそ、いい歳して若い娘さんを苛めなさんな。なぁ、お嬢さんよ?」
どうやら脛を思い切り蹴り上げられたらしい秦能がひょこひょこ悶えるのを、温い目で見守っていると、
顔に横一文字の古傷を携えた猫背の老人は、箸を差し出しながら小粋に片目をつぶってみせた。
「梁元さんって若い頃は引く手数多だったでしょう?」
どれもこれも使い古された箸の束から一善引き抜いて、
が素直な感想を述べれば、
さぁどうだったかねぇ?と好々爺は意味ありげな笑みを零す。
あれは相当もててたな、と勝手に結論付けて、
「逆に秦能さんは女の人に煙たがられてそう。」
とこれも素直な感想を、ようやく立ち直った本人に伝えておいた。
「はぁぁ?ばっきゃろ!俺くらいになりゃなぁ、ほっといたって綺麗どころがわんさか・・」
「はいはい、良いから早く持って行って下さい。後がつかえてるんですから。」
ぎゃあぎゃあと意義を申し立てる秦能と、
それを面倒臭そうに宥める郭単を笑って眺めつつ、
が座れる場所を探して周囲を見回せば、
先に夕飯にありついていた韋徹がいそいそと佃益との間を空けてくれた。
わざわざ譲ってくれた座り心地のよさそうな切り株に腰を下ろし、
ありがとうございますと礼を言えば、二つ三つしか歳の変わらぬ青年は、
どう致しましてっす、と独特の口調で気安く返事を返した。
改めて、頂きますと手を合わせ、椀の中身を口いっぱいに頬張れば、
少々熱めの粥がぴりりと舌を焼く。
腹の中に広がる温もりに、思わずため息をつくに、
「温かいものが食べれるって有難いっすよねぇ。」
と、同じく粥にがっついていた韋徹がはふはふと熱そうに口を動かしながら、
にんまり目を細めた。
竈を作れるような広い野営地で夜を迎えられるのは稀であり、
ほとんどの場合、乾かした芋などの味気ない携帯食を齧って、細やかな晩餐を終える。
「そうですねぇ。それに、郭単さんが色々工夫してくれるから、
とっても美味しいし。有難いですね。」
「ほんっと、余所の連中が可哀そうになるっす。」
兵糧から配給される黍や小麦や糒を、郭単は限られた手段の中で、
最大限美味しい料理に変えてくれている。
今日のこの粥にも、郭単が屋敷から持ってきた小魚の燻製や乾燥した茸が、
細かく千切って入れてあった。
ほんの20日程度の行軍とはいえ、食が満たされるというのは、
不自由の多い旅路に置いてこの上ない幸福だ。
「俺、残り物を貰ってくるっす!」
あっという間に椀を空にした食欲無尽蔵の若造は、
そう宣言すると、即席の竈の上に放置された鍋を偵察しに行ってしまう。
恐らく今夜もまた、同じ目的でやってきた秦能と仁義なき闘いを繰り広げるのだろう。
気勢溢れる腹ぺこ戦士の背中を微笑ましく見送っていると、おい、と重低音の声が頭上から降ってきた。
はい?と返事をして振り仰げば、立派な虎髭を蓄えた巨漢がじろりと流し目を送ってくる。
思わずびくりと身体を強張らせて、慣れないなぁ、と内心苦笑していると、
「・・・・どうだ?」
と、佃益は主語も装飾語も皆無の簡潔な質問をしてきた。
一瞬何の事を訊かれているのか分からなかっただったが、彼の蜆のように小さな瞳が、
こちらの足首へと向けられているのに気付いて合点する。
「足の方はもう痛くないですよ。あれから随分日も経ってますし、
すっかり治りました。」
と、踵を地面にとんとんと打ち付けて笑えば、寡黙な男は心なしか安心した様子で、
そうか、とだけ返してきた。
会話はそれで終了したが、決して沈黙の気まずさを感じないのは、
自分が家人達にすっかり気を許しているからだろうか。
視線を向ければ、案の定秦能と韋徹が鍋の奪い合いをしており、
隣で郭単が、壊れるからやめて下さい、と悲鳴を上げている。
そんな3人を面白そうに梁元が眺めており、
いよいよ鍋の命運が尽きかけた時には、きっと実力行使で止めに入ることだろう。
ここにもう一人、それら騒動の全てを黙認しながら圧倒的な存在感を放つ彼等の主が居れば完璧なのだが。
(将軍はもう合肥だもんね。)
都を出立して以来、途中駐留した言焦や寿春でも、遠目にさえ彼の姿を見る事は出来なかった。
(そりゃまあ当然か。)
張遼は総司令としてこの行軍の先頭で指揮を執っている。
比べての居る殿軍は、お偉方の妻子家人まで引き連れた、軍とは名ばかりの足手纏い集団だ。
軍内には常にどこかで子供の泣き声が上がり、小休止ともなると輿付きの馬車から降りてきた誰それの妻君達が、
そこかしこで世間話に花を咲かせた。
足並みの揃わぬ行軍は、日程を常より大幅に超過し、
先頭を征く主軍が合肥城へ到着したと伝令が届いたのは、実に2日前に遡る。
(まぁ、のんびり行けるのは有難いから良いけど。)
体力の続く限り駆けさせられるような、過酷な旅になるだろうと覚悟していただけに、
暢気に風景を眺められる行軍は、物見遊山のようで楽しい。
今夜の野営地となった小川沿いの広野に、点々と浮かぶ竈の光を眺め、
もし女官を辞めて帰郷していたら決して得る事の出来なかった感動だと、は満足げに微笑んだ。
(張将軍には感謝してもし足りないなぁ。)
何の物好きか自分を拾ってくれた奇特な上司の顔を思い浮かべ、
同時にふわっと唇に蘇った柔らかな感触に、ほっと安堵する。
最初の内こそ、思い出す度に顔を赤くしては秦能辺りに厭らしい〜と揶揄され憤慨していたも、
今では薄れ始めている口付けの記憶を日に何度も確認していた。
そうしなければ、張遼がくれた何もかもが全て夢と消えてしまう気がして、
途端に自分の足元がぐらぐらと覚束なくなるのだ。
合肥に到着した時、もし彼の気が変わっていたら。
やっぱり現地の女官の方が優秀だから、お前は要らないと言われたら。
たった数日しか共に居なかった人物は、の世界を根本から一変させ、
この先の人生をまるっと掌握してしまった。
(これは恋なの?それとも生活不安なの?)
張遼の不在に鬱々と気落ちする自分を測りかねて、ははぁっと溜め息を吐く。
意識しないまま唇に指を押し当てていると、わしゃわしゃと乱暴に大きな手が頭を撫でた。
驚いて目を見開いたまま隣を見上げれば、
犯人である佃益は、筋骨逞しい巨躯を小さく丸め、知らぬ存ぜぬという顔で粥を啜っている。
気遣ってくれているのだと勝手に解釈し、がえへへと照れ笑いを浮かべると、
厳ついけれど優しい手は無言で引っ込んだ。
そうだ。
自分には、こんな風に慰めてくれる温かい人達が居てくれる。
(別に将軍の専属じゃ無くなったって、普通の女官に戻るだけだしね!)
家人の皆も、が張遼付きじゃなくなったからって、いきなり冷たく掌返したりはしないだろう。
そう結論を出し、は残りの粥が冷めてしまわぬようせっせと掻き込んだ。
米の一粒も残さず綺麗に平らげて、纏わりつく不安を吹き飛ばすように勢い良く立ち上がる。
「それじゃ!慰めて下さったお礼に、佃益さんのお椀も一緒に洗ってきます!」
敢えて満面の笑みを作り、そう言って手を差し出せば、
寡黙な男は少々面食らったものの、その大きな体には不釣り合いなちんまりした椀を渡してきた。
二人分の器を持って郭単の元へ戻れば、
彼もすっかり空っぽになった鍋に他の家人達の器を入れて川へと洗いに行くところだった。
「私も手伝いますよ!二人でやった方が早いし。」
と、自身でもちょっとわざとらしいなと思うほどの空元気で申し出る。
快く了承してくれた料理長と連れ立って、野営地に隣接して流れる小川へと向えば、
「暗ぇからな!気ぃ付けろ!」
「足滑らせて落ちなさんなぁ。」
「郭単さん泳げないから、さん助けられないっすよ!」
と後ろから口々に野次が飛んでくる。
だったら使った分は自分で洗って下さいよ、と苦笑を浮かべる郭単に小走りでついて行きながら、
もくすくす笑って、心配性な人々にはぁい!と返事を返した。
川辺で綺麗に器を洗い終えて、二人が野営地に戻る頃には、
あちこちに散らばった竈の灯も粗方消えてしまっていた。
「今日は近くに川があって助かりましたね。」
と、荷物を全部郭単が持ってくれたため、かわりに先導を買って出たが、
木の根がぼこぼこと盛り上がった地面を慎重に歩く。
「えぇ、水の確保が簡単ですから料理にも使えて大助かりでしたよ。」
「これで水浴び出来たら最高なんだけどなぁ。」
寿春を出立して以来着の身着のまま歩き詰めであるため、
汗こそこまめに拭いてはいるものの、やはり体臭が気にかかる。
すんすんと肩口を嗅いで顔を顰めるを、
「明日の今頃には合肥城ですから、そうすればお風呂に入れますよ。」
そう笑って宥める郭単も随分旅塵に塗れていた。
せっかく川があるんだし、きっとお偉方の奥様達も体を清めたいはずだ。
今こそ権力を行使する時だろう、と密かに願うであったが、
どうやら彼女達は本物の淑女らしく職権乱用する気配は終ぞ見られなかった。
ようやく雑木林を抜け、人為的に切り開かれた広野へと出る。
寿春から合肥までは、大軍勢の移動のために道が整備されており、
所々にこうした使い勝手の良い野営地が造られていた。
雨が降らない限り天幕は使わないので、星空を天井に野宿ではあるが、
傾斜のきつい谷間にすし詰めで蹲るよりは、手足を伸ばして安眠出来そうである。
けれど、川へと向う前は夜の安息に包まれていた陣内が、
今や蜂の巣をつついたような有り様で、護衛の兵卒達が緊迫した面持ちで走り回っていた。
「何かあったんでしょうかね?」
いかにも人の良さそうな柔和な顔立ちを引き締めた郭単と顔を見合わせていると、
遠くでごぉおんごぉおんと銅鑼の鳴る音がけたたましく聞こえた。
「集合がかかったようですね。待機場所まで送りますから、一緒に戻りましょう。」
さすがは元兵士なだけあって、こういう時の対応は実に迅速だが、
は気乗りせず曖昧に頷いた。
「あーあ、嫌だなぁ。私も皆さんと一緒が良いのに。こういう時女って不便ですよね。」
従軍している女人は地位の上下に関わらず、陣の中央に集まって就寝すると決められている。
貴賓の乗る輿付の馬車を中心として、女官下婢、輜重車、の順に円形状に囲み、
一番外側で軍籍の有無に関わらず男達が雑魚寝するのだ。
男女混成。しかも上役の妻や娘まで居る以上、
彼女達に何かあれば下っ端の首が一つ二つ飛ぶだけじゃ済まない。
軍内の風紀を維持するためにも、これは適切な措置なのだろうが、
用を足すのさえいちいち衛兵に許可を貰い、
必ず二人一組で行動しなければならないのだから実に面倒だ。
男所帯の性質上、下手をしたら集団で酷い目に合わされる可能性もあると分かってはいるものの、
だけを考えれば、家人の皆と一緒に居た方がよほど安全な気がした。
「まぁ、さんは私達の傍が一番安全でしょうけどね。」
と、少ない言葉から真意を読み取った郭単が、慰めるように同意してくれ、
うんうんと思わず力強く頷き返す。
「ははは、信用して頂けるのは有難いですが我々も一応は男ですから、
やはり戻られた方が良いですよ。」
そう言って、野営地の中心に向かおうとする郭単を、だがは笑って引き留めた。
「郭単さんは皆の所に行って下さい。鍋も持ってるし。私は一人で大丈夫ですよ、すぐそこですから。」
「何をおっしゃられる!貴女にもしもの事があったら、私は将軍に何と言って詫びれば良いんですか!?」
死んだって償い切れませんよ!と至極真剣な顔で迫られて、思わず一歩後ずさる。
「ただでさえ、陣中が何やら騒がしくなってるんです。一人でなんて絶対行かせられません!」
今すぐ鍋を戻してきますからそこを動かないで下さいよ、と既に走り出しながら振り返って念を押す郭単を、
過保護だなぁ、とは乾いた笑いで見送った。
(みんな、私なんかに構ってる暇無さそうだけど・・・)
引っ切り無しに行き交う衛兵達を見ている限り、よほどの大事件が起きているようで、
とても女を襲ってるような余裕は無さそうだ。
男は口と下半身が別々の意思で動いているのよ、と昔女官仲間の誰かから聞いた気がするが、
軍内は今の所実に規律正しく、間違いが起こるような緩みは微塵も感じられない。
それだけの精鋭を揃えて、護衛につかせてあるのだろう。
これもこの軍の総帥たる張遼の采配なのだろうか。
(どうしよう・・・なんか今さら喉乾いてきちゃったな・・・)
尿意を避けるため余り水分を摂取しなかったのが裏目に出たのか、
一度気付いてしまうと、喉がひり付いて仕方ない。
木々の間をほんの数十歩ほど進めば、冷たい清水が流れており、
サラサラと聞こえてくる涼しげな水音がを誘惑した。
頼みの綱の郭単は何やら家人達と話し込んでおり、
すぐ戻ってくればバレないんじゃ、という気持ちが胸の中にむくむくと膨らんでいく。
(うーん、やっぱり我慢出来ない。ちょっとくらいなら大丈夫だよね。)
よし!行って来ようと決意して、は大急ぎで林の中へと入って行った。
予想通り、乱立する幹の隙間から野営地の篝火が見て取れるほどの近さに、
ごつごつと石の転がる河原が現れた。
それほど大きくは無い渓流の、流れの早い部分にせり出した岩の上へとしゃがみ込む。
重心が前にかかり過ぎないようおそるおそる両腕を伸ばし、そっと水に差し込めば、
ひんやりと心地よい感触が指の間をすり抜けていった。
月明かりがあるといえど河原は暗く、の他に人影は見えなかったが、
これほど近くに大勢の気配が感じられては、獣も現れまい。
とはいえ、さっさと飲んで戻らないと郭単に要らぬ心配をさせてしまう。
両手に掬い取った水を、雫を滴らせながらごくごく飲みほして、
は立ち上がり、すっかり濡れた口元を袖で拭った。
そよそよと吹く川風が、崩れかかった結い髪の後れ毛を棚引かせる。
夜闇の中、白く浮かび上がった無人の河原を見渡して、
「やっぱり水浴びしたいなぁ・・・・」
そう、叶うはずのない願望を愚痴っていると、突然何者かに手首を掴まれた。
ざぁざぁと五月蠅い水音のせいで、人の近付く足音が聞こえなかったのは致命的だった。
完全に油断していたの体が、突然湧き上がった恐怖で急激に硬直する。
反射的に腕を振り解こうとしたものの、
手首をがっちり掴んだ大きな手は到底の力では太刀打ち出来ず、
相手が男である事実を残酷に知らしめた。
(ああ!私、馬鹿だ!)
郭単の忠告をどうしてもっと深刻に受け止めなかったのか。
だが、自分の愚かしさに今頃気付いたってもう遅い。
必死に外そうと試みた男の手は、無慈悲な力で逆にの体を引っ張り寄せ、
いとも容易く抱き込まれる。
腰に回された腕に強烈な嫌悪を感じ、みるみる両目に涙が浮かんだ。
「嫌っ!!やめてっ!誰か助けっ・・張将軍っ!!」
我武者羅に身を捩って抵抗しながら、戦慄く口から必死に声を絞り出し助けを呼べば、
「こら、あまり暴れるな。落ちてしまうぞ。」
と、台詞の割には露ほども焦りを感じさせない冷静な声がの耳に届いた。
信じられない気持ちで、勢い良く相手の顔を振り仰げば、
そこには天へと跳ねる髭を蓄えた偉丈夫が、少々呆れ顔でこちらを見下ろしていて。
「え・・・なんで・・・・・・将軍?」
目を限界まで見開いて、おそるおそる敬称を呼ぶと、
なんだ?と当然のように返事が返ってきた。
え?え??と彼の腕の中で、未だ状況を把握しきれないが疑問符を連呼すれば、
眦からほろりと涙の名残が零れ落ちる。
それを指先で拾い上げながら、本格的に呆れ顔をした張遼が、
「泣くほど怖かったのなら今後は一人で行動せぬ事だな。
もし本当に暴漢であったらどうするつもりだったのだ?」
お前は迂闊過ぎる、と噛んで含めるように苦言を呈した。
相手が張遼だと分かった途端、虫唾が走るほど嫌だった抱擁が絶大な安心感を生み、
かくんと膝の力が抜ける。
「こ、怖かったぁ・・・・・・」
そうベソを掻きながらずるずる落ちていくの体を苦も無く支え、
彼女を恐怖のどん底に突き落とした張本人は、
「少々仕置きが過ぎたか?」
と口の端に苦笑を浮かべた。ようやく自分の失態を実感したが、
穴にでも埋められたい気分で、申し訳ありませんでした、と小さく縮こまって謝罪する。
先ほどまで必死に押し返していた分厚い胸板の上で、きゅっと後悔に拳を握れば、
武骨だがとても温かな手が上から壊れ物を触るように包み込んだ。
「あまり、心配させてくれるな。」
そっと落とされた囁き声に、頬がかぁっと熱くなる。
もう一度、蚊の鳴くような声音で申し訳ありませんでしたと謝れば、
ふっと音にならない笑みが零れた後、
「そう気に病む事もあるまい。得るものもあったからな。」
と張遼は落ち着いた口調に微かな愉悦を滲ませた。
拘束を解かれ、まだよろよろと覚束ない足で岩の上に立ったに、
先に下へと降りた上司は手を差し伸べながら満足そうに微笑む。
「私を呼んだであろう?」
無我夢中だったため良く覚えてないが、
そう言われれば、無意識に彼へと助けを求めた気がする。
ぶわっと全身から汗が吹き出したが、
「あ、あの、必死だったのでございます。本当に怖かったもので、
決して軽々しく将軍を頼ろうとしたわけでは・・・」
そう言い訳を空回りさせながら、差し出された固い掌に、
ちょこっと慎ましく自分の指を乗せた。
こちらの遠慮など物ともせず強く握り返された手を支えに、とんっと岩から降りれば、
「むしろもっと当てにして欲しいものだがな。」
と、役目を終えた後もなお掴んだままの指先に、張遼はそっと唇を押し当てる。
ぎゃあ、となんとも色気の無い悲鳴を上げ、
が力任せに引っぱれば、案外呆気なく手は引っこ抜けたが、
鉄面皮の上司は珍しく面白がってる様子で、器用に片眉を吊り上げた。
「はっ!し、し、失礼致しました!
ですが、こ、こういう御戯れは、私には少々身に余ると申しましょうか・・・」
これ以上心臓が乱高下を繰り返したらきっと止まってしまうと、が懸命に自重を訴えれば、
張遼はその切れ長の目に、呆れたような愛おしむような何とも形容しがたい色を揺らし、
「・・・・少し付いて参れ。」
と、唐突に踵を返した。
もしかしたら、怒らせてしまったのだろうか。
そう思うと逆上せ上った顔が一気に冷えたが、
この偉大な将軍が予測不可能な行動に出るのはいつもの事で、
結局は小石に足を取られながら彼の背におろおろと追い縋るのだった。
星々の儚い瞬きを掻き消して煌々と輝く満月が、時折木々の枝先に隠れながら、
二人の後ろをついてくる。
大中小と様々な岩が転がる河原を黙々と上流へ向う張遼を見失わぬよう、
もようやく闇に慣れた目で必死に追い掛けた。
たまに振り返っては、段差にもたついてる所を救出してくれる寡黙な上司は、
大変機嫌が良いようで、表情にこそ出ないものの纏う雰囲気がいつもより柔らかい。
「あの、張将軍はどうしてこちらへお出でなのです?てっきり合肥におられるものと・・・」
岩と岩の間に嵌っていた足を引き抜いてもらいながら、がずっと考えていた疑問を口にすれば、
再び歩き始めようとしていた張遼は、はるか頭上からちらっと視線を寄越してきた。
「殿軍の到着が遅れていたのでな、揚州刺史より直々に護衛の任を承った。
つい先ほど麾下と共にこの野営地へと合流したところだ。
何しろ温恢殿の御家族もこの軍に従軍しておられるゆえな。」
もっとも私から申し入れたのだが、と最後にしれっと付け足した主の顔は、
早くも遅れ始めたには残念ながら見えなかった。
(きっと皆から引き留められたんだろうなぁ・・・)
そりゃそうだろう、赴任早々守将が城を空けては守るものも守れない。
顔も見た事の無い揚州刺史様に心から同情しながら、
は、見た目の峻厳さとは裏腹に、時折とても型破りな事をする上司をしげしげと眺める。
もしかしたら、まだ馬を走らせ足りなかったのかも知れない。
あの愛馬への溺愛っぷりを見ていると当たらずとも遠からずな気がして、は思わずくすりと笑みを零したが、
前を行く張遼が一瞬だけ肩口からこちらを振り返り、鈍いな、と小さく零した事には気付かなかった。
「あ!そういえば私、郭単さんに黙って出てきてしまいました。」
どうしましょう、とだんだん夜の散歩が楽しくなり始めていたは、
急に思い出した重大な問題に顔を青くする。
「それならば、私が変わりに探しに行くと言い置いた。今頃は陣で待機しているだろう。」
心成しか先ほどより歩みを緩めた張遼が、振り返らないまま大事ないと説明したが、
なおさら罪悪感で胸がいっぱいになった。
「きっとすごく心配して下さってるでしょうね。後でちゃんと謝らないと・・・。」
「そうだな。随分と血相変えて探していたぞ。昔はどのような劣勢でも眉一つ動かさず敵兵を射殺す男だったが。」
変われば変わるものだ、と感慨深そうに言われ、はえぇぇ!?とつい叫び声を上げる。
今の温和で凡庸な物腰からは到底想像がつかないと、目を白黒させれば、
「郭単だけではない。梁元、佃益、秦能、韋徹。彼らは皆、私と共に至高の武を求め修羅場を潜った戦友だ。
その性根は今も変わってはおるまい。」
そう誇らしげに語って聞かせる群青色の背中を見つめ、は彼等の信頼関係にお腹がふつふつと熱くなるのを感じ、
同時に切なく眉を寄せた。
(私が将軍の真の姿を目にする事は、きっと一生無いだろうな。)
女官は所詮、平時にしか傍に侍る事を許されない。
けれど彼がその身命を賭すのは戦場であり、彼を本当の意味で理解出来るのは共に轡を並べた者だけだ。
どんなに望んだとしても、には彼の志を共有する事など出来ない。
(まさか、アンタを羨む日がくるなんてね・・・)
今や軽蔑しか残っていない元恋人を思い出し、
あんな男でさえ張遼と同じ物を見る資格があるのだと、腹立たしくなる。
遥か遠い場所から、ただ彼の無事を祈るしか術の無い自分。
それでも貴方を知りたいと願うのは、強欲だろうか。
今は夜闇を纏った凛と清しい戦装束を懸命に追い掛けながら、は振り向かない男に問いかけた。
「・・・着いたぞ。」
急に黙り込んだ連れを不審に思う様子も無く、淡々と目的地へ向かっていた張遼がようやくその歩みを止めた。
難しい顔付きで足元ばかりを睨んでいたが弾かれるように顔を上げれば、
そこは林の中にぽっかり開けた滝壺で、粉雪のように細かい飛沫が風に巻き上げられて辺り一帯を潤していた。
そして。
「ぅわぁ・・・・。」
と、が目をきらきらと輝かせた先に、滝を跨いで橋を渡すような儚い光の帯が浮かび上がっていて。
あまりに幻想的な光景にぽかんと口を開けたまま言葉も無く見入っていると、
隣に並んだ張遼が満足そうに、どうやら間に合ったな、と呟いた。
どういう事なのだろう、と怪訝な顔で彼を見上げれば、
「この地に住む者達の話では、これは月光彩虹というらしい。
なかなか珍しくてな。この季節の、満ちた月が晴天に昇る夜にしか見られぬのだそうだ。」
しかも夜半を過ぎれば失われてしまうと教えられ、は今にも消えてしまうのではないかと、
漆黒に美しく弧を描く淡い輝きを見上げた。
天女の羽衣が実在するとすれば、きっとそっくりに違いない。
この世にこれほど優美な現象があったのかと、
うっとり眺めながら深く感嘆の溜め息をついていると、
無防備にぶら下がったの掌に、さらりと乾いた温かい感触が滑り込んだ。
驚いて確認すれば、いつの間にか張遼の大きな手がこちらのそれをやんわりと握っていて、
「少し・・・話をせぬか。」
そう詠うように落とされた提案に、は彼の方を見る事が出来ぬまま、こくりと小さく頷いた。
無言のまま促され、滝の飛沫が届かない岩に二人並んで腰を下ろす。
互いの体温を感じ取れるほどの隙間を空けて、繋いだ手を離さぬまま座った張遼が、
「ここに駐留した時、偶然見つけてな。次は必ずお前と共に来ようと思ったのだが。」
これほど早く実現しようとはな、とゆらゆら朧に揺らめく月虹を見上げる。
その横顔は精悍で。
その眼光は刃のように鋭利で。
強靭な体躯に獰猛な魂を宿す生粋の武人。
それなのに、を傍に置く時の彼は酷く、甘い。
もっと張遼の事を知れば、この矛盾は解けるのだろうか。
それとも、ただ深淵に嵌って溺れ死ぬのだろうか。
「・・・・・一つ、訊いても良いですか?」
戦場まで共に征く事は叶わなくても、その志のほんの端っこくらいは分けて欲しい。
幼稚な疎外感の名残に背中を押され、が神妙な面持ちで尋ねれば、
彼は、なんだ?と何のてらいも無く了承をくれた。
「将軍の言う至高の武って、何ですか?」
訊いたところで、武器すら手にした事の無いには到底理解できないだろう。
それでも、叙情的な雰囲気を無視して単刀直入に切り出せば
案の定彼女の主は面食らったように目を見開いた。
「何故そのような事を訊く?」
「あ・・・えと、私、将軍の事を何も存じ上げないので、それで・・・」
当然の問い返しにしどろもどろ答えれば、
彼は考え込むように顎へと手を当て、やがて手探りするような拙さで答えを紡ぎ始める。
「至高の武とは何であるか・・・改めて言葉にするのは難しいものだな。
どれほど強さを極めれば、その域に達するか。
ましてや本当に武の極限など存在するのか。
それは、正直なところ私自身にも分からぬ。」
訥々と語られる言葉の一つ一つを聞き逃すまいと、緩やかに動く口元を凝視すれば、
絡み合った指に微かな力が入るのが分かる。
「だが、私の武が何をもって磨き上げられてきたかは理解しているつもりだ。」
幼い頃より刃を手にし、他者を屠って身を守る事を時勢が許した。
研鑽を詰めば詰んだだけ周囲は賛辞を浴びせ、
やがて時代の凶児が振り翳す圧倒的な暴力に魅せられて、
憧れるままに戦を渡り歩いた。
「呂布殿、関羽殿。最強と呼ばれた武人達に、今も畏敬の念を抱いてやまぬ。
だが、どだい私は彼等と同一にはなれぬし、そもそも歩んできた道が違う。
私が時に失い、時に得てきたものこそが、己が武を至高たらしめると今は思うのだ。
そしてそれらはやはり戦場にしか、無い。」
数多刃を交えた強敵、共に死地を生き抜いた部下達。
驚天動地の策謀を課す神算の士に、
侵攻、防衛、逃亡、殲滅、ありとあらゆる戦へと誘う覇王。
「余人が貫いてきた志を折り、生を奪えば、当然業も背負いこもう。
だが一方で味方は奮い立ち、より困難な使命へと私を押し上げる。
怨嗟と賞賛、その両方で私はより鋭く武を研ぎ澄ましてきた。
だからこそ、ただ勝利するだけでは意味を成さぬのだ。
私は私の宿願の糧となった者達のためにも、
生き残り、そして戦場に立ち続けねばならない。」
そこで言葉を切って、張遼は彼らしからぬ逡巡を見せると、
「これでは、お前の問いの答えになっていないな。」
と、自嘲しながら目を伏せる。
「もとより私は弁舌を操り意を語るを不得手としている。」
許せ、と気恥ずかしそうに眦を細める張遼を、
はより一層好ましい思いで見つめ返した。
「いいえ、至福にございます。
私のような戦を知らぬ輩に、将軍は御心の内を真摯にお聞かせ下さいました。
ようやく、将軍の優しさがどこから来ているのか分かったように思います。」
敵味方問わず、清濁含めて自らの力だと言い切った張遼は、
それだけ多くの者と、厳格に、誠実に、対峙してきたのだろう。
だからこそ未熟極まりないの事も、在るがまま受け入れてくれるのだ。
(狡いなぁ。こんなの、誰だって貴方に命を捧げてしまいたくなる。)
やはり、彼を知れば知るほど深みに沈む予感がして、
が内心途方に暮れていると、張遼はなぜだか少しむっとした様子で、
「良く聞け、。男は裏に目的があるから優しくするのだ。
世に心から優しい男などおらぬ。」
胆に銘じておけ、と強く念を押す。
まるで父か兄のような物言いを真剣そのものの顔で聞かせるのだから、
は堪えきれずにくすくす声を立てて笑った。
ますます憮然とする張遼に、
「それが本当ならば、私に良くして下さる将軍にも二心があるという事になりませんか。」
と、当然の帰結を、ほとんど冗談のつもりで尋ねる。
けれど、さっきまで庇護者の目をしていた男は、
纏う空気をがらりと濃密なものに変化させ、情欲の滲む低い声音で、
「・・・触れても良いか。」
と、最初から拒否など許されぬ問いを投げかける。
張遼の突き刺すような鋭い視線に縫いとめられ、急激に口の中が乾いていくのを感じながら、
は喉に溜まった空気を辛うじて、はい、と音にした。
節の太い武骨な手が、すっかり温まった彼女の指先を離れ、繊細な仕草で肩へと触れる。
剥き出しの首筋を固い指の腹が滑ると、
擽られるのとは少し違うぞわりと蠱惑的な痺れが服の下を這い上がった。
大きな掌が熟れ切った桃を扱うように優しく頬を包み込んで、
その温かさに、は詰めていた息を切なげに吐き出した。
鼓動はとうに早鐘を打ち、羞恥心が毒のように全身を苛む。
けれどそれ以上に満ち足りた気分で張遼の手に自分の手を重ねれば、
驚くほどはっきり彼の体が硬直した。
天下広しと言えどこれほどの偉丈夫はなかなか居ないだろう。
名にし負う魏将張文遠を捕まえて、愛らしいなどとは烏滸がましいが、
それでもごときに反応を返してくれるのが嬉しくて、
「あの・・・私も将軍に触れてよろしいでしょうか?」
と、は同じ問いを投げ返した。
「それは、構わぬが・・・。」
と語尾に多分な迷いを含ませて言い澱む張遼は、
冷静果断な日頃の彼しか知らぬに新鮮な感動を与えくれる。
それだけで十分に稀有な姿を堪能できたのだが、せっかく機会を与えられたのだ、
もっと色々してみようと、自分の頬に吸い付いている手を引っぺがした。
同じ形をしていながら、規模も年季も違う彼のそれを、じっくり眺め、
分厚い皮をふにふにと押してみたり、幾つも隆起した胼胝をこわごわ指でなぞったりしてみる。
あんまり弄くると不興を買うかも知れないと危惧したものの、
張遼は眠る獣のように黙って戯れを受け入れてくれた。
時折、くすりと笑みさえ零してくれる事に気を良くして、
調子に乗ったが、その案外綺麗な形の爪にそっと唇を当てる。
ちゅっと小さく吸い上げれば、再び張遼の体が硬直した。
「こら、やめぬか・・・」
と、とても信憑性の薄い口調で制止する将軍殿の意向を尊重し、は彼の指を解放する。
自分がこれほど大胆な行動に出てしまうのは、
輪郭さえぼやけてしまうほど密やかな月明かりのせいか、
それともたかが十数日程度の別離のせいか。
羞恥を感じないわけでは無いが、湧き上がる好奇心にどうしても勝てず、
は張遼の攻略を続行した。
手首を守る頑強な手甲の、ひんやり冷たい金属面にぺたぺた指紋を付け、
肩当ての下に隠れた剥き出しの二の腕へと指を滑らす。
下手をすればの腿と同じ太さがありそうな腕を、
しなやかな筋肉のおうとつや、引き攣れた無数の古傷に沿って肩口までなぞって行けば、
「こら。」
と再び説得力の無い制止がかかった。
何が駄目だったんだろうか、と首を傾げながら張遼を振り仰げば、
視線を少々泳がせた後、擽ったいのだと白状した。
胸にきゅうっとえも言われぬ高鳴りを覚え、がにまにまと笑みを噛み殺していると、
彼は片手で口元を隠しながらそっぽを向いてしまった。
仕方なく腕から手を放し、代わりに帷子状に作られた肩当てへと触れる。
淡く透ける薄絹が優雅に波打ちながら裾を縁取る様は、
さながら今二人の頭上で儚く輝いている夜の虹のようで。
「まるで月虹みたいですね。綺麗。」
と、すべらかな感触を指先に味わいながら、素直な賛美を口にすれば、
この優美な戦装束が妙にしっくり似合う猛将は嬉しそうに、そうか、とだけ返してきた。
肩当てから離れ、日の下では鮮烈な蒼を放つ首巻の襞で遊び、
彼をより一層清廉に見せる詰襟の角をなぞって、はとうとう念願の顔に辿り着いた。
絶対誰しも一度は触ってみたいはずの、張遼のあれ。
「あの・・・よろしいでしょうか?」
と、一応もう一度お伺いを立てれば、あまりに無遠慮なにすっかり諦めた様子の上司は、
構わぬ、と二言は無いとばかりに許可を与えた。
俄然やる気が出て、いそいそと立ち上がり、どっかり岩の上に座る張遼の前へ回り込むと、
真正面から彼の顔を覗き込む。
相変わらず立派に天へと跳ねている髭を、おそるおそる指で触れば、
予想よりずっと柔らかな感触で、
「わぁ!私もっと固いのかと思っておりました!」
と興奮気味に言い募る。に気を使ってか、はたまた危険を回避するためか、
瞼を下ろしている張遼が、そういうものか?と意外そうに尋ねてくるのを、
見えるはずが無いのに、うんうんと力強く頷いた。
「むしろ顎髭の方が余程しっかりしておりますね。」
と今度は顎の方に触れ、帽垂布に隠れたえらに向かって撫で上げるように頬を両手で挟んだ。
思えば彼に拾われた日、同衾などという破廉恥な状況で、存外あどけない寝顔を眺めた気がする。
再びこうして巡ってきた幸運を最大限利用し、は無防備に差し出された精悍な顔を目の底に刻み付けた。
左右に引き絞られた、いかにも意志の強そうな薄い唇や、少し鉤気味の高い鼻梁。
まるで荒々しく削り出された木像のように、武骨で厳しい武人の顔だ。
明るい場所でこんな風に近寄ったら間違いなく恥ずかしさで憤死するなと、
今の自分が置かれている状況にそら恐ろしくなりながら、
閉じられていてもやはり鋭角に吊り上っている眦へと、そっと唇を落とした。
年端もいかぬ童同士がじゃれ合うかのような温い抱擁に、
はこの期に及んで気恥ずかしくなって、そそくさと身を引く。
けれど、それまできっちり閉じられていた張遼の双眸が、ぱちりと音を立てて開いた。
あまりにも近すぎる位置から、猛禽類のように鋭い視線で真っ向射抜かれて、
「あ・・・」
と小さく悲鳴を上げたきり、言葉を失う。
固まった体の内側を、羞恥と憧憬が濁流となって駆け巡った。
視線一つで彼女の自由を奪った男は、自身もまた短く息を詰め、
「そのような顔をしてくれるな。」
と苦しそうに絞り出す。
一体今自分はどんな顔をしているのだろう。
頭のどこか端っこで、そんな他人事のような疑問が浮かんだが、
答えへと辿り着く前に張遼の腕がの腰へ巻き付いて、力任せに引き寄せた。
あっという間に大きな手が後頭部を鷲掴みし、
唇に覚えのある感触が、記憶より荒々しく押し付けられる。
口付けされていると頭で理解した時には、
既に何度も角度を変えながら、他人の柔らかな唇が自分のそれに惜しみなく降り注いでいた。
時折ちゅっと音を立てて吸い上げられると、
甘い感覚がゆっくりと全身に染み渡り、緊張で強張っていた筋肉が弛緩していく。
ようやく本来の機能を取り戻した腕で、おずおず彼の肩口へと縋り付けば、
途端に閉じる事さえ忘れていた歯列を、ぬめりを帯びた熱い何かが割り開いた。
これは舌だ、と停止寸前の脳が伝達してくるが、
の意識は極彩色の感覚に塗り潰され、正しく反応出来ない。
んっ、と鼻を抜ける吐息は、果たして本当に自分のものか。
唾液を掻き回すように、彼の舌が明確な意思を持って咥内を探る。
誘うようにこちらの舌へと絡んでは、焦らすように唇をなぞる度、
知っている感覚が背筋をぞくぞくと粟立てた。
そうだ、自分は知っているはずだ。
元恋人とだってこういう深い口付けを幾度となく交わした。
けれど何か。
決定的な何かが違うのだ。
張遼の口付けは、とても、甘い。
音が鳴るほど強く歯をぶつけられる事も無ければ、
舌を強引に引っ張られて痛い思いをする事も無い。
最初こそ乱暴に抱き寄せられたが、
今、襟足を愛おしげに撫でている手付きは、驚くほど優しかった。
一見我が物顔で蹂躙している熱い舌も、
ちゃんとの息遣いを見計らってくれている。
それでいて、彼が狂おしく自分を求めている事が、目を瞑っていても痛いほど良く分かった。
ぬるりと柔らかく、それでいてざらついた感触が上顎をなぞり、
ふぁ、と今度こそ甘く色めいた声がくぐもって漏れる。
ぐずぐずと指の先から溶けていきそうな気持ち良さに、
遠く遠く意識の外から、叩き割れんばかりの警鐘音が聞こえた。
この先を求められても、きっと抵抗出来ない。
(どうしよう・・・いい加減止めないと・・・。)
もはや手遅れの感が否めないが、なけなしの理性が最後の足掻きを見せる。
けれど、を骨抜きにしてしまった凶器は、
名残惜しそうに舌先をひと舐めし、大人しく去って行った。
くったりと力の抜けたの体が、重力に従い張遼へとしなだれ落ちる。
はぁ、はぁ、と焼けつくような吐息を荒く吐きながら、
息苦しさにさえ気付けぬほど、与えられる接吻に夢中になっていたのかと、
猛烈に恥ずかしい。
どっどっどっと身体全体に響く鼓動が、身を預けている相手にも伝わってしまいそうで、
彼の視線から逃げるように、赤く茹る顔を肩口へと埋めた。
張遼の方はといえば、相変わらずの胴を片腕でがっちりと抱き込んで、
もう片方の手で辛うじて髪に引っかかっていた櫛を引き抜いてしまう。
ゆるゆると解けて落ちた乱れ髪を、満足そうに彼が撫でるのを、
「あ、あの、私、ずっと身を清めておりませんので、そのように触るのは・・。」
と、慌ててその腕から逃げ出そうと試みれば、
「構わぬ。お前の香りがする。」
そう言いながら、張遼はますます愛おしげに、
の赤く熟れた耳へと頬を摺り寄せた。
「むしろ、鎧を着こんでしまっている事が残念でならぬな。
これさえ無ければ、もっとそなたの温もりを感じられたであろうに。」
他の男が言ったなら薄っぺらい口説き文句だと鼻の頭に皺を寄せる所だが、
残念ながらこの将軍殿は美辞麗句の類を持たない。
心底の本音を語っているからこそ質が悪く、
はもう黙っていてくれと耳を覆いたくなった。
「ところで、いい加減こちらを向いてはくれまいか?」
、と強請るように字を呼ばれ、今はまだとても見せられないのにと嘆きながら、
おずおず面を上げる。
間近にある張遼の顔は、酷く満ち足りているように見えるが、
その怜悧な瞳の奥には、狂おしいほどの餓えが潜んでいて、ドキリと心臓が跳ね上がった。
「そなたの気持ちを待つと言いながら、この体たらくだ。不快に思ったのならば二度と触れぬと誓う。」
すまなかった、と伏せられた長い睫にさえ、ぞっとするほどの色香を感じて、
はどう答えて良いのか分からず、結局逃げ戻るように元の肩口へと突っ伏す。
ぎゅうぎゅう締め付けられる胸の痛みに耐えながら、なんとかいいえと否定の返事を返せば、
ありがとう、と泣きたくなるほど優しい声が重なり合った身体から響いてきた。
「・・・・・・・消えてしまったな。」
ふと顔を上げた張遼が、先ほどまでの興奮が嘘のように冷静な声音で夢幻の終わりを告げる。
つられても彼の視線の先を振り仰ぐと、そこには羽衣を失った龍が、
ごうごうと唸りを上げながら漆黒の淵へ落ちていくのみであった。
帰るか、と張遼に促され、無言のまま身を放せば、途端に夜の冷たい風が身を包む。
頂点へと昇り切った満月もなんだか色褪せてしまった気がして、
せめて指先に絡む温もりだけは失いたくないと、張遼を縋るように見上げれば、
視線こそすぐに逸らされたが、繋いだ手はほんの少しだけ力を増した。
行き道に比べのんびりとした足取りで、月明かりに沈む河原を帰る。
二人の距離を腕の長さの分だけ開いたり縮めたりさせながら、
はぽつんぽつんと一方的に最近の出来事を話した。
家人の皆からとても良くしてもらっている事。
夜が明ける直前に見た空の美しさ。
足が治って本格的に歩き出した途端出来た、いくつもの靴擦れ。
もちろん今夜あの場所に連れて行ってくれた事も、言葉を尽くして礼を述べた。
その度に右隣を半歩先んじて進む張遼が、振り向かないまま短い返事を返してくれる。
けれど、会話の大半はの記憶に留まる事も無く泡のように消えていき、
あとどれくらい帰路が残っているのか、そればかりが気にかかった。
やがて見覚えのある岩場が見えてきて、張遼が河原から木々の間へと入っていく。
先導されるまま惰性でそれに付いて行ったの足は、
けれど野営地に入る直前、林の入り口でぴたりと止まった。
当然だが指に絡んでいた温もりも消失し、驚いたように振り返った張遼へ、
「ここまでお導き頂き、誠に有り難う御座いました。
これよりは私一人でも歩けましょう。将軍の厚情なるご配慮に感謝致します。」
と、慎ましく礼をとり深く腰を折る。
まだ本格的に野営地へと足を踏み込んだわけでは無かったが、
どこで誰が見ているかも分からず、彼の立場を慮るとここで別れるのが賢明だった。
女官と仲良く手を繋いで夜の森から出てくるなど、醜聞以外の何だというのだ。
顔を上げる事無く返事を待てば、
明哲な上司はの浅知恵を全て理解してくれたのだろう、
しばしの沈黙の後、分かった、と簡潔な答えを残し、野営地に向かって踵を返す。
あっけなく終わってしまった逢瀬に堪らない寂しさを噛みしめながら、
がゆるゆる顔を上げれば、まだ十分に声の届く距離に、凛と背筋の伸びた美しい後姿があって。
文遠様、と。
今、彼の字を呼べば、きっと振り向いてくれるだろう。
そして、すぐさま戻ってきてこの身をひしと抱き締めてくれるに違いない。
けれど、唇の手前まで出かかった痛切な叫びは、決して外へと漏れる事は無く、
目敏い衛兵に発見された張遼は、たちまち兵卒達の人だかりに守られて見えなくなった。
まだ、彼の想いに答える事は出来ない。
(私はまだ何も成していないもの。)
共に戦場を駆ける事は叶わずとも、彼が、選んだ事を誇りに思える女官でありたい。
情に負け、安易にあの優しい腕へと身を任せても、
卑屈な自分は偉大な男との天と地ほども離れた格の違いに打ちのめされ、
寵愛を頂く事にさえ耐えられなくなってしまうだろう。
せめて、彼が直向きに寄せてくれている誠実な想いに、恥じぬだけの自信が欲しい。
それまでは決して張遼の字を呼ぶまいと心に固く誓い、
彼等が遠く本陣へと去っていくのを見届けて、
は根が生えたように重い足を引き摺りながら就寝場所へと帰った。
円陣を組んで等間隔に並んだ輜重車の間をすり抜け、
すっかり寝静まった貴賓の馬車群へと、とぼとぼ歩いて行く。
そういえば配給される敷き布を取り損ねたなぁと、
固い地面に直接寝なければいけない事実がに重く伸し掛かかった。
けれど、銘々雑魚寝している女官達の顔がはっきり見て取れる距離まで近付いた所で、
馬車に備え付けられた輿の一つから、誰かがいそいそ降りてくる。
寝ている女達を踏まぬよう気を遣いながらこちらへ向ってやってきた、
月の精かと見紛うような楚々とした娘は、様、と嬉しそうにの字を呼んだ。
「白蓉様!?このような夜分に貴女様のような麗人が輿の外へ出るなど、危のうございます!」
と、輜重車の警備に付いている衛兵共の視線を気にしてきょろきょろ警戒するに、
何度言っても様付けをやめてくれない鷹揚な美少女は、
貰いっぱぐれたはずの小汚い敷き布を差し出した。
「刻限を回りましても様の御姿が見当たらなかったものですから、
わたくしが代わりに一枚頂いて置きましたの。」
そう誇らしげに胸を張る無邪気な白蓉に、は好ましい苦笑を浮かべながら、
「大変助かりました。お手間を取らせてしまい、はなはだ申し訳ございません。」
と折り目正しく礼をとれば、彼女はその瑞々しい円らな瞳を期待に輝かせた。
本格的に眉を八の字に垂れ下げたが、きょろきょろと再び周囲の目を気にした後、
形の良い小さな頭をよしよしと優しく撫でてやる。
それを目を弓なりにして喜ぶうら若き淑女は、なんだかご褒美を強請る仔犬のようで、
すっかり元恋敵に懐かれてしまったと、は複雑な心境に嘆息した。
「そう言えば、様はお聞きになりまして?つい先ほど、護衛の増援が到着したそうなのですが、
なんと、率いておられるのは張将軍なのだそうでございます。」
ひとしきり撫でられて満足したらしい白蓉が、既知の事実を嬉々として伝えてくる。
「わたくしも先ほど父上にご挨拶申し上げたのですが、
様はもう張将軍にお目通りされましたかしら?」
彼女の果実のように艶やかな唇から零れた想い人の名に、
ここへ来る道すがらしっかりきっちり閉めたはずだった記憶の蓋が呆気なく開き、
今夜の密やかな逢瀬が止め処無く溢れ出た。
唇へと新たに上書きされた甘い甘い感触。
問いに答えられず言葉を失ったの顔をしげしげと眺め上げ、
にっこりと邪気の無い笑顔を浮かべた少女が、
「もうお済みのようですわね?」
と言葉の暴力を行使する。
「・・・っささ!もう馬車へとお戻りになりませんと、御母君が心配されておられます!」
そうもっともらしい事を早口に言い募って、
は訳知り顔の視線から逃げるように歩き出した。
どんどん熱を増す頬を、ごしごしと乱暴に袖口へ擦りつける。
果たして、今夜はちゃんと眠れるだろうか。
ふわふわと覚束なくなった足が、安らかな寝息を立てている誰かの手を踏みかけて、
情けなくよろめく。
後ろから付き従う貞淑な乙女の、慎ましく押し殺された笑い声を背中に聞きながら、
それもこれも全部今宵の満月がいけないんだと、
雲一つない夜空に悠然と浮かぶ銀盤を、は恨めし気に睨み上げた。
つまり 愛してるって事。
了
〜13/07/09