プスプスと羞恥を燻らせながら、残飯桶を届けに行った厨で、
は年嵩の下婢から口やかましくお叱りを受けた。
曰く、破片が入ったまんまじゃ豚の餌にもなりゃしない、との事。
混じった陶器を一つ残らず取り出して来い、と裏口から叩き出され、
床を拭くどころか、井戸端で1人寂しく選別作業に勤しむはめになった。
「お腹空いたなぁ・・・」
結局何も食べないまま昼食時間が終わってしまった。
運が良いなんて気のせいだったんだと、美味しい水餃子の成れの果てを虚しく眺める。
(これ、案外食べれたり・・いや、さすがに無理かぁ。でも結構破片も取ったし、一口くらいなら・・・。)
人間、空腹が極まると正しい判断が出来なくなるものだ。
いくら合肥が前線基地で、食糧の備蓄に血道を上げているとはいえ、
誰もそこまで節約しろとは言ってない。
だが食欲に目が眩んだは、豚にやるくらいならこの私が、
と二度も床に落ちた残骸へ手を伸ばした。
一番無事そうな餃子を摘み上げ、あーんと口を開きかけたところで、
背後から遠慮がちに止められる。
「あの・・・それ、食べない方が良いと思うよ。」
「ぁえ!?ま、まさかぁ、さすがに食べませんよ!?お腹壊しちゃいますし、ハハハ。」
必死に否定しながらがそちらへ振り返れば、
申し訳無さそうに口を押さえて笑う童顔の女官が居た。
「て、あの・・な、何か私に御用です、か?」
話しかけてもらった喜びより警戒心が勝って、不自然にどもってしまう。
何しろつい先程、女官はみんな敵であると思い知らされた身だ。
挙動不審なより頭半分背が低い女官は、恥ずかしそうに視線を彷徨わせた後、
竹皮の包みをおずおず差し出してきた。
「これ、昼の残り。一個しかないんだけど。」
彼女の申し訳無なさそうな八の字眉と、掌にちょこんと乗るチマキを何度も交互に見比べる。
「え、それ私に!?くれるのっ!!?」
ようやく脳味噌が現状を正しく理解して、は素っ頓狂な大声を張り上げた。
途端に女官は血相を変え、シィーッと人差し指を立てる。
「お願い、静かにして!誰かに見つかったら私!」
おどおどと怯える彼女に、もヒヤリと背筋が冷えた。
自分を助けるという事は、つまり劉部署長の意向に逆らうという事だ。
他の女官に知られれば、親切な恩人までがと同じ仕打ちを受ける事になる。
ピリピリと神経を張り詰めてしばらく周囲を見回したが、
どうやらここは頻繁に人の通る場所では無いらしい。
ホッと肩の力を抜いてから、改めてこの奇特な女官へと小声で尋ねた。
「えと、本当に貰っちゃって良いんですか。こんな事して、貴女の立場が悪くなったら・・」
「うん・・劉部署長に知られたら、多分女官を罷免されて下婢にすら戻れないと思う。」
彼女の台詞から察するに、元は下婢だったのだろうか。
の疑問はまるっと顔に出ていたようで、彼女はくすりと苦笑した。
「ここの女官の半分は下婢上がりよ。酷い人は泥付きなんて呼ぶけど。」
自虐的な口振りで肯定しながら、こちらの影に隠れるようにして隣に座る。
はい、とチマキを手渡され、
は慌てて服の裾で手を拭くと恭しくそれを受け取った。
ごくりと無意識に喉が鳴る。
視線だけで食べても良いか伺えば、
実年齢よりかなり若く見える丸顔が、どうぞ召し上がれ、と困ったように笑った。
「ありがと!本当にありがと!!」
ぺこぺこと頭を下げつつ、竹皮を剥いて一口齧れば、
粟と稗と豆だけの味気ないチマキがやたら美味しくて仕方ない。
ぐすぐすと鼻を啜るだけじゃ間に合わず、とうとう袖口まで使って涙を拭い出したの背を、
彼女は優しく撫でてくれた。
あかぎれの目立つ小さな手だった。
「私は潘留穂(ハン・ルホ)、これからよろしくね。」
「わ、らし・・ッれす。よろしくおねがっします。」
つっかえひっかえの自己紹介に、瑠穂は知ってるよと穏やかに頷いてくれる。
「女官は凄いね。あの劉部署長に正々堂々言い返すなんて。
私には絶対出来ないよ、そんな勇気無いもん。
凄く恰好良かった。」
「うわぁぁやめてぇ、なんにも知らなかったんだよぉぉ。」
やはり彼女もあの場に居たのか。
食堂での失態を賞賛され、
は食べる手を止めると無様に項垂れた。
無知とは恐ろしい。
真相を知った今では、あの女郎蜘蛛の御前に立つだけで、
生まれたての小鹿になる事間違いなしだ。
けれど瑠穂は、それでもやっぱり勇敢だよ、と慰めを口にした後、寂しそうに視線を伏せた。
「あのね。黄女官の事、許してあげて欲しいの。彼女、弟がここの兵卒でね。
城下には怪我で卒伯を続けられ無くなったお父様も居るの。
もし劉部署長に逆らったりしたら家族全員が路頭に迷ってしまう。
だから言いなりになるしかなかったのよ。口は悪いけど本当は優しい人なの。」
「・・そ、か。潘女官は仲良いんだね。」
黄女官の言い草を思い出すだに腹の底で憤りがとぐろを巻く。
とはいえそんな裏話を聞かされてしまうえば、単純に嫌悪する事も出来無くなった。
が憤然遣る方無く歯噛みしていると、
密やかな笑い声が上がる。
「ふふっ、やっぱり覚えてないのね。私達、一番最初の日に貴女から自己紹介を受けたわ。」
言われて初めて、そういえば張遼の執務室を片付ける時、
女官が2人居たのを思い出した。
あーあの時の!と合点のいったが声を張り上げれば、
すかさずしーっと叱られる。
もうっ!と可愛く呆れられて、ご免なさい、と素直に謝った。
「黄女官はね。私が下婢から女官に上がった時、最初に仲良くしてくれた人なの。
自分も元は下婢だったんだって教えてくれてね。
孤児の私と違って、父親が一応城仕えだったから、
劉部署長の派閥からも風当たりはそれほど強くなかったみたい。
そのせいで、今は彼女達の手下にされちゃってるけど。」
友人を思いやる瑠穂を見るにつけ、俄然あんな連中に屈してなるものかと反骨心が湧く。
絶対自分からは辞めないぞと決意を改めたは、ふいに彼女の一言が気になった。
「あれ?孤児って・・潘女官は、その、家族は誰も?」
「うん。戦で村ごと、ね。前揚州史刺が合肥に政庁を構えて下さるまで、
この辺りは荒れ放題だったの。
その後も賊の討伐や孫権軍との小競り合いで、
合肥には難民や戦災孤児がたくさん流入してきて。
劉刺史は彼等に食い扶持を与えるため、その殆どを下男下婢として召し上げたの。
だからここは下婢上がりの女官が多いんだよ。」
そりゃ良家出身の女官がこんな物騒な城にいつまでも居るわけが無い。
両親なり兄弟なりが、心配してさっさと遠くへ嫁がせてしまうだろう。
「じゃあ劉部署長って実は貰い手の無い行かず後家なのか・・・。」
正直過ぎる感想が口からぺろりと零れて、
ぷふっと慎ましく瑠穂が噴き出した。
苦しそうに肩を震わせ、それでも笑いを堪えようと頑張ってる。
ついその様子をニヤニヤ眺めていれば、頬を上気させた瑠穂が悔しげに肩を押してきた。
「っもう、変な事言うのやめてよ!苦しくなっちゃったじゃない!」
「ははっ、そんだけ笑った後じゃ潘女官も同罪でしょ。」
口では反論しつつ甘んじて攻撃を受け止めていると、
瑠穂で良いよ、と言われ、じゃあ私もで、とお互いに字で呼ぶ事を了承する。
「あ・・でも、あの、他の人が居る時は、その・・・。」
「うん、分かってる。というか、出来るだけ私には関わらない方が良いよ。
瑠穂まで嫌な思いする必要無いって。」
彼女の口振りは心から申し訳なさそうで、
気に病まぬようあっけらかんと笑って頷いた。
心優しい友人は、何度も何度も謝った後、
「・・・それで、あの、もう一つ気になったんだけど。
さっき食堂で、蘇女官と話してたよね?」
引き続き申し訳無さそうに尋ねてくる。
蘇女官?と首を傾げれば、瑞火さん、と言い直された。
「その・・彼女とは前から知り合いなの?」
「ううん、今日初めて話したよ。そうか、蘇瑞火っていうんだ。」
今度会った時に氏名を呼んで驚かせてやろう、とは内心ほくそ笑えんだが、
瑠穂の方は眉を潜めて黙り込む。
唇を噛んだり、目を泳がせたり、散々迷った挙句結局は声を潜めて忠告してきた。
「あのね、同僚に対してこういう事言うの良く無いって思ってるんだけど、
蘇女官とはちょっと、その、距離を置いた方が良いと思う。」
「え・・なんで?そりゃかなり口悪いし見た目も怖そうだけど。
悪い人では無いよ?」
確かに瑠穂のような大人しい性格では、勝気な瑞火に気後れするのも分からなくは無いが。
あまり他人を悪く言うようには見えない瑠穂の意外な発言に、
は目を丸くした。
「そう、なのかも知れ無いけど・・・彼女のお父様、
昔この辺を荒らし回っていた賊徒の頭目で、合肥軍に討伐されたの。
彼等の血縁者は殆ど処刑されたらしいけど、
まだ幼かった彼女は助命されて、下婢になったんだそうよ。
だから合肥を。何より、先代の末娘であらせられる劉部署長を恨んでるって。
黄女官に、聞いたから。」
瑠穂の口から飛び出してきた驚愕の情報に、
は思わず今聞いた話を耳から抜き取りたくなった。
他人の秘密を知り過ぎるのは揉め事の元だ。
賢い親友が噂好きの同僚にしょっちゅう忠告していたから、間違い無い。
「私、蘇女官ちょっと怖い。普段は乱暴なのに時々凄く冷めた目で皆を見てる。
も気をつけた方が良いよ。
あの人、自分の復讐に貴女を利用するつもりなのかもよ?」
「そ、そう?」
怖気でも走ったらしく我が身を抱き締める瑠穂に、
は遠い目をして呟いた。
勘弁してくれ。
陰謀も駆け引きももう充分だ。
チマキ1個しか食べて無いのに、なんだか胃もたれしてきた気がする。
「あはは、まあ私なんか使ったら失敗する事間違いなしだね!
きっとあまりの役立たずっぷりに向こうからお断りしてくるよ。」
大丈夫大丈夫と、心配顔の瑠穂を軽口で励ます。
「それより、さすがにそろそろ人が来そうだし瑠穂は仕事に戻りなよ。」
私も帰らないと、となおも言い足りない様子の彼女へ帰路を促した。
分かったと頷いて、ようやく笑顔の戻った瑠穂が庁舎の入り口へと歩き出す。
途中振り返っては小さく手を振る彼女へ、もこそこそと手を振り返した。
「・・・潘瑠穂さんか。うん、ちゃんと名前覚えとかなきゃ。」
合肥に来て2人目の友達に、どうしようもなく顔が綻ぶ。
人生万事、塞翁が馬とは良く言ったものだ。
「さすが合肥。人生模様が複雑過ぎて、私の予想を遥かに超えちゃってるわ。」
蘇瑞火、潘瑠穂、あの小憎たらしい黄女官でさえ、
それぞれ裏に事情を抱え、それでも女官として必死に勤めを果たしてる。
(次はどんな陰謀が待ってるのやら。
なんと!韓部署長は前揚州史刺の隠し子で劉部署長とは腹違いの姉妹でした!
とか言われたってもう驚かないわ。)
故人の醜聞を心の中で好き勝手捏造しながら、
は集めた陶器の破片を割れ皿置き場へと放り捨てた。
その後すぐに厨へ残飯桶を渡しに戻っただったが、
瑠穂と話し込んでいる間に思ったより時間が経っていたらしい。
雑巾片手に駆け込んだ食堂では、既に下婢達が粗方後片付けを終えていた。
汁が飛び散っていたはずの床も綺麗さっぱり拭き清められており、
彼女達の視線は今更何しに来やがったと言わんばかりだ。
「あ、あの、有難うございました!!」
体をくの字に折って勢い良く御礼を叫び、
は肩身の狭い思いでその場から逃走した。
次から残り物すら恵んで貰えなかったらどうしよう。
そら恐ろしい想像にぶるりと震え上がる。
これ以上要らぬ反感を買わぬようこっそりと厨の裏口から雑巾を返して、
は執務室へと急いで戻ることにした。
・・・の、だが。
(ぅああ嫌だ、戻りたくないぃ。)
廊下を進む足がどうにも重た
い。
きっと鬼の形相をした黄女官が、山のような竹簡を用意して、
の帰りを今か今かと待ち構えているだろう。
偉そうに彼女を非難した所で、
職務に復帰すれば有能な先輩とその足を引っ張る役立たずだ。
もちろん先程の言い争いは絶対自分の方が正しかったと自負している。
謝るつもりも許すつもりも毛頭無い。
しかし、元々は争い事が苦手なである。
大抵は怒る前に悲しくなって押し黙るし、
よしんば言い返せても後からジワジワ良心の呵責に苛まれ、
早々に自分から謝ってしまう。
まして、瑠穂から黄女官の苦しい立場を聞かされては尚更だ。
「けどそんなの知らなかったし?
私が謝ったからって彼女が劉部署長の手先をやめてくれるわけでもないし?
そもそも私、全然悪くないし。」
ぼそぼそブツブツ床に向かって言い訳してみたところで、
背筋が丸まっていくばかりだ。
このままじゃ午後の勤務にまで支障をきたしかねない。
深呼吸で気合を入れ直し、改めて大きく1歩踏み出したを、
若い兵卒が小走りに追い抜いて行った。
今にも肩が当たりそうな近さに泡を食って飛び退けば、
すぐ後ろから武官の集団が足早に迫ってきていた。
彼等の常ならぬ緊迫した表情に、他の通行人も何事かとそちらを凝視する。
肩で風を切って通り過ぎていく兵卒達の中心に、
張遼直属である周副将の横顔を見つけ、の首筋が総毛立った。
険しい表情を崩さず報告を受ける壮年の武人は、鋭い口調で次々部下に指示を飛ばす。
やがて集団が足音荒く去っていくと、
廊下は普段の静けさを取り戻し、通行人も落ち着いた。
けれどもだけは、青い顔をして走り出す。
(まさか、将軍に何かあったんじゃ・・。)
単に周副将を呼ばねばならない案件が出てきただけかも知れない。
軍議の召集という可能性だってある。
自分の早合点だと言い聞かせながら、は急き立てられるように足を動かした。
官舎を繋ぐ回廊の下を潜り抜け、裏口から裏口へと最短距離を駆ける。
この近道を教えてくれた古参の衛兵に、後で御礼を言わなくては。
残るは最上階まで直通の外付き階段だけ。
これを登りきれば張遼の執務室だと、が張り切って庁舎の角を曲がった所で、
ふと、今一番聞きたかった声に呼ばれた気がした。
「張将軍!?」
思わず来た道を振り返ったが、物寂しい裏路地に予想した人影は見当たらない。
なんだ気のせいかとがっかりしつつが前へ向き直った瞬間、
横様から身体ごと掻っ攫われた。
視界がぐるりと勢い良く流れる。
あっという間に階段下の薄暗い物置へ連れ込まれ、
剥き出しの太い両腕に背後からぎゅっと抱き竦められた。
深く満足気な吐息が頬を滑り落ち、
次いで肩口にぐりぐりと額が擦り付けられる。
野放図に跳ねる硬い髪が首筋をチクチク擽ったが、
は固まったまま悲鳴一つ上げられなかった。
「。」
と、至近距離で低く囁かれた単語が自分の名である事をようやく認識して、
瞬時に全身の血が沸騰した。
「なななななんですこれ!?なんなんですこれ!??
将軍?張将軍なんですよね???」
がっちり胴回りを固定されながらも、
が必死に身を捩って背後の人物へと問いかければ、
女1人を易々と拉致した張本人は、
くつくつ喉の奥で笑いながら、ああ、と簡潔に肯定する。
背中にぴったりくっついた彼の胸板から心地良い振動が伝わってきて、
途端に変な汗が噴き出した。
「うぅ・・お願いでございますから、
このようなお戯れはどうかこれきりにして下さいませ。
寿命が縮む思いを致しました。」
情けなく懇願して、ドクドク騒ぐ心臓を胸の上から擦る。
けれど返って来たのは、相すまぬ、という短い謝罪だけだった。
(それはつまり今後も止める気は無い、と?)
自分はそんなにからかい甲斐のある人間だろうか。
張遼からは見えないのを良いことに、
が前を向いたままげんなり顔を顰めていると、
「・・・仮眠室の窓からこちらに来るそなたの姿が見えてな。
座して待つなど出来なかった。
脅かさぬよう声をかけたつもりだったが、いささか性急過ぎたようだ。」
堪え性が足りず相すまぬ、ともう一度同じように謝られた。
照れの混じった穏やかな声音が、耳殻をチリチリと焦がす。
今振り返ればきっとあの蕩けるような優しい微笑みが見られたのだろうが、
如何せん真っ赤に熟れた自分の顔も晒さねばならないので、涙を飲んで諦めた。
(これで他意は無いんだからなぁ。)
思ったままをただ口にしただけ。
一見何を考えているか分からぬ鉄面皮をしておいて、
その実、この男は表裏を持たぬ正直者だ。
とてそれは重々承知しているけれど、
さらりと会話に混ざる熱烈な思慕にいつまで経っても慣れなかった。
とはいえ2人きりの逢瀬は、あの月夜の晩以来約一ヶ月振りだ。
会えない時間が想いを育てる。
そう言ったのは誰だったか。
いつの間にか制御不能なほど育った恋心に背を押され、
も精一杯の好意を伝えた。
「わ、わたしも将軍にお会いしたかったです!」
言ってから自分の馬鹿さ加減に辟易する。
専属女官である以上、毎日とはいかずとも数日おきに顔を合わせているではないか。
他にもっと気の利いた台詞がいくらでもあるだろう。
思わず両手で顔を覆うものの、ふと、剥き出しのうなじに酷く柔らかな何かが押し当てられて、
それどころでは無くなった。
肌に吸い付く湿った感触に、切ない痺れが爪先に向かってビリビリと走り抜ける。
ぴくんっと勝手に身体が跳ねて小さく息を飲んだ。
張遼に口付けられているという自覚が、甘い羞恥を伴って肌の内側にじわじわ広がっていく。
すっかり朱の乗ったの首筋を、彼は飽きる事無く啄ばんだ。
触れられた箇所から湧いてくる艶めいた感覚を、くすぐったさだと誤魔化して必死に耐える。
そんなの葛藤を知ってか知らずか、
「まだ少し湿っているな。」
張遼はそう言って、無骨な指先で襟元を一撫でした。
慌てて一応拭いたのだと言い訳すれば、
「随分激しくやり合ったそうだな?」
何を、とは言わず問い掛けてくる。
その揺るがない口振りから彼が一連の騒動を知っているのだと悟って、
は力なく俯いた。
「食堂での失態をお聞き及びになられたのですね。」
「城内の出来事は概ね部下に報告させているからな。実に凛々しかったと皆褒めていたぞ。」
誇張するでも窘めるでもなく、張遼はただ淡々と事実だけを告げてくる。
緩く首を振って彼等の賞賛を否定しながら、
せめて原因になった一言は耳に入っていませんようにと切に祈った。
だが現実はいつも残酷だ。
「言いたい者には言わせておけ。私のために、そなたが水まで被る事は無い。」
本人の口からあっさり希望を断たれ、は、あぁ、と思わず悲嘆を漏らした。
最悪だ。
こんな事なら餃子なんか放っといて、さっさと敵前逃亡すれば良かった。
それこそ水まで被ったのに全くの骨折り損ではないか。
どんより落ち込むに、けれど張遼はまた喉で笑って、
「私がそなたに言い寄っているのは周知の事実であろう?別段、隠してもおらぬしな。」
知られていて当然だと事も無げに言う。
だから気にするなと言いたいのだろうが、
いくら本人といえど将軍としての沽券に関わる問題だ。
黙ってはいられない。
「恐れながら。面白可笑しく尾鰭を付けるのが噂話とはいえ、
悪意ある歪曲には断固たる態度で望まねばなりませぬ!
まして、私のせいで将軍の声望に僅かなりとも傷が付くなど・・・。」
めいいっぱい身を捩って事態の深刻さを訴えるだったが、
ようやく視界に捉えた張遼の顔に真新しいよぎり傷を見つけ、言葉を無くした。
鍛錬であれ巡回であれ彼が傷を作るなど、合肥に来てから一度も無かった事だ。
おまけに、身に着けているのは普段戦装束の1番下に着込んでいる黒い短衣と袴だけ。
帽子すらも置いてきたのか、黒々と豊かな短髪がの眼前に惜しげもなく晒されている。
先程行き交った周副将の険しい横顔を思い出して、ゾッと血の気が引いた。
「午後一番のご予定は確か市中の巡回であらせられたはず。
御顔の傷といい、何があったのでございますか?」
腰に巻き付いた腕が僅かに緩んだのをこれ幸いと、正面から相手に向き直る。
彼自身の香りに混ざって、薬臭さが鼻を掠めた。
左頬を耳朶に向かって斜めに走る傷口は、既に瘡蓋で覆われていたが、
たかが掠り傷と呼ぶにはあまりに痛々しい。
ほんの僅かだが周辺の皮膚まで赤黒く変色している気がして、
が痛ましく眉を顰めると、張遼は困ったように視線を伏せた。
「巡回中、不覚を取った。隘路で一斉に射掛けられてな。
傷自体は浅いものの、矢尻に毒が塗られていたらしい。
死者こそ出なかったが、随従していた兵卒の内数名が重傷だ。」
そこまで言って、の顔色が雪のように白くなっているのに気付き、
案ずるなと苦笑する。
「毒は直ぐに抜いたゆえ、大事無い。傷の治りが少々遅くなる程度だ。」
しかし、と続ける張遼の表情は厳しく、低く押し殺した声は歯痒さを帯びていた。
「捕らえた刺客は金で雇われただけの河賊崩れであったが、
全員我が軍の兵装で偽装していた。
それらの入手方法も、合肥への侵入経路も現状何一つ分からない。
更には、毎日巡回の道順を変えているにも関わらず待ち伏せされたという事実。
これらを鑑みて、軍内部に手引きした者が居るのはまず間違い無いだろう。
無論、城内の警戒を厳しくはしたが、敵の間諜がかなり以前から合肥に潜伏し、
入念に計画を練っていたとなると、摘発には相応の時間が掛かる。」
そこで彼は言葉を切ったが、はあまりに生々しい襲撃の顛末に言葉も出なかった。
しかも、どう考えたって一女官が知る事を許される内容では無い。
「あ・・私・・。」
緊張のあまり何度も固唾を飲んで、ようやくたったそれだけを口にしたへ、
張遼は重々しく、そなたは知っておくべきだ、と断言した。
「実を言えば、私が狙われたのはこれが初めてではない。
合肥に来てから既に幾度かこのような襲撃を受けている。
首謀者を捕らえない限り今後も止むことはあるまい。
今はまだ被害は私の麾下のみに留まっているが、
いずれは武器を持たぬ者にすら危険が及ぶやも知れぬ。」
それはつまり専属女官であるも巻き込まれる可能性があるという事で。
死が、急激に現実味を帯びる。
見えない手で命そのものを掴まれた気がして怖気が止まらなくなったを、
温かな腕が包み込むように掻き抱いた。
ぎゅうっと頬を胸板に押し付けられ、
薄い布越しに張遼の心音を聞いた途端、涙腺が熱く緩んだ。
触れ合う部分から染み込んでくる安心感に吐息を震わせていると、
苦渋の滲む苦しげな声がの旋毛に零れ落ちた。
「そなたを・・危険に晒したくはない。
だが、敵の手が軍内部にまで及んでいると分かった以上、
守軍を預かる身として素性の知れぬ輩を側近に置くわけにはいかぬのだ。
私は合肥に来て日が浅い。
背を預けられる者は未だ少なく、まして心から信ずるに足る女官はそなた一人だ。
すまぬが例え現状がどれほど酷くなろうと、
そなたを専属の任から外してやる事は出来ない。」
黙して耐えろと言外に言い放ちながら、その大きな手は労るようにの背中を撫でる。
「ただでさえ苦しい立場のそなたに、更なる負担を強いるのだ。
いくらでも私を責めてくれて構わぬ。
助けが必要ならばどんな事でも手を貸そう。
我が武にかけての命は必ず守り通す。」
だから、どうか。
私の傍に居てくれ。
食いしばった歯の隙間から絞り出される小さな懇願を、
は目も眩むような歓喜の中で聞いた。
優しい人だ。
誠実な人だ。
危険を知らせぬまま傍に置いておく事だって出来たはずなのに。
そうすればに対する責任まで背負わずとも済んだのに。
それでも。
着替えを途中で放り出してまで、彼は真実を伝えに降りてきてくれた。
好いた男がそこまで誠意を尽くしてくれたのだ、
何があろうと離れるものか。
「もちろんです。むしろ恩返しの機会を頂けて嬉しいくらいですよ。
微力ではありますが誠心誠意張将軍をお守り致します!」
目の前にある分厚い身体を力いっぱい抱き締め返し、
がとびきりの笑顔で宣誓する。
だが喜ぶかと思いきや、張遼はみるみる渋面になると、
「待て、。私を守れと言ったのでは無い。
むしろ、何かあれば我が身の安全を一番に優先せよ。
そなたの代わりはおらぬのだからな?」
そう生真面目に諭してくるのだから可笑しくて仕方ない。
ふふふ、と彼の温かな胸に頬を押し付けて笑えば、
聞いているのか?と不貞腐れた声音で念を押してきた。
こつん、と額に額がぶつけられ、
焦点の合わぬ榛色の瞳が熱情を湛えてこちらを覗きこむ。
「・・・口を吸っても良いか。」
今にもくっついてしまいそうな唇が許しを求めてきて、
が何か言うより先に有無を言わさず押し当てられた。
二度、三度、と下唇を食んで、すぐに柔い感触は離れていったが、
不埒な両腕はの背中を名残惜しげに掻き乱す。
「少しは抵抗してくれ。さもなくば私はどんどんつけ上がるぞ?」
恨みがましく忠告とも警告とも取れる台詞を呟き、
巨大な猫は甘えた仕草での髪に鼻先をうずめた。
(散々好き勝手しておいて今更何言ってんですか!)
猫というより虎だ!猛獣だ!と、本当は声を大にして言いたかったが、
如何せん今ごろになって噴火した顔を俯かせるので手一杯だ。
が大人しいのを良いことに、張遼はぎゅうぎゅうとなお一層強く抱き締めた。
どうやら鎧越しよりずっと近い互いの感触を、存分に味わっているらしい。
確かにこれだけ密着されれば、嫌でも身体の造りをはっきり感じられる。
ようやく冷静さを取り戻し始めたの脳裏に、余計な天啓が舞い降りた。
「張将軍てもしかして・・・・不能なのか???」
(っっっ瑞火さんが余計な事言うから!)
鼓膜に甦った下世話な質問を、必死で意識の外へと追い出すものの、
丁度臍の上辺りに当たる感触が気になりだす。
気取られぬようそぉっと身体を離せば、すぐに引き戻されてもっと隙間無く押し付けられた。
「ぅええっと、そろそろ戻りませんと!!
そういえば周副将が執務室にてお待ちであらせられるかも知れません!
先程、たいへん難しい御顔でそちらに向かわれる姿をお見掛け致しましたので。
きっと張将軍に御報告がお有りなのですよ!絶対!!」
びくともしない胸板を両腕でつっぱって引き剥がしにかかりながら、
早口に捲くし立てる。
急変したの態度に、張遼は鋭い眦を剣呑に細め、
離してくれるどころか肩口に顔を伏せ沈黙してしまった。
内心羞恥で憤死しそうになりながらも根気強く待つこと少々。
、とおもむろに名前を呼ばれ、はい、と声を引っくり返して即答すれば、
大きな掌が頬をすっぽり包み込んだ。
鋭く研ぎ澄まされた精悍な顔が、
愛おしくて仕方が無いというように柔らかく微笑む。
「私の心はいつもそなたと共にある。」
それだけは忘れてくれるな、と厳かに囁いて、
あれほど離れたがらなかった両腕がふわりと解けた。
「しばし、ここで熱を冷ましてから戻れ。」
すっかりいつもの怜悧冷徹な武人に戻った張遼は淡々とそう言い残すと、
背筋のピンと伸びた雄雄しい後ろ姿を物置部屋の外へと消した。
(言われなくても、こんな顔して戻れませんよぉ・・・)
放っておいたら発火しそうな両耳をぎゅっと塞いで、へにゃりとその場に蹲る。
いつもながらなんでそんなに切り替えが早いんだ!
振り回されるこちらの身にもなれ!
恨み言を次々並べ立てながら、けれど甘く高鳴る鼓動がその全てを裏切った。
いつの間にこれほど張遼を好きになっていたのだろうと、
肥大の一途を辿る恋心を抱えて途方に暮れる。
(ああもうっ!地獄の果てだってお供しますからね!)
今のの地位は謂わば張遼がくれた信頼の証だ。
有象無象のその他女官に明け渡すなんて冗談じゃない。
劉部署長にも、韓部署長にも、
自分こそが張遼の専属女官であると絶対に認めさせてやる。
そうして、誰もが一人前だと太鼓判を押してくれた暁には。
(きっと、自信を持って文遠様って呼べる気がする。)
新たな記憶に塗り替えられた唇をそっと指先でなぞる。
立ち上がり、大きく深呼吸すれば、心地良い残り香が勇気を与えてくれた。
「さぁって、頑張ろっかねぇ!」
明確な目標が出来たんだから、あとはただ人事を尽くすだけだ。
凝り固まった全身を大きく伸びをして解すと、勢い良く物置部屋を飛び出した。
恋する乙女は単純で強いのだ。
今なら黄女官の嫌味だろうが挑発だろうが余裕で受け流せる。
燃え上っていたの士気は予想外の法方で鎮火される事になった。
辿り付いた執務室の前でいつものごとく、
「、只今戻りました!」
と声をかければ、
扉が拳一つ分ほど開いて険の強い黄女官の顔がちらりと覗いてくる。
すると、てっきり先制攻撃を繰り出してくると思っていた相手は、
一度バタンっと戸を閉ざし、
しばらくして今度は竹簡が山を成した盆を無言で廊下に押し出した。
そうして始終一言も喋らぬまま扉を音も無く閉めきり、もう二度と出てこなかった。
目の前には1人じゃ到底持ち上がりそうも無い盆と、
届け先も分からぬ竹簡の乱雑な山。
呆気に取られつつ一つ一つ手にとって確認してみれば、
届け先も内容もてんでバラバラだ。
張遼がこんな効率の悪い裁可の仕方をするはずが無いため、
誰かさんが後からごちゃ混ぜにしたのは明白だった。
(なるほど自分で選別しろと、そういう事ですか・・・。)
一応、開かずの扉に向かって追い出された猫よろしく何度か呼び掛けてみたが、
聞こえているはずなのに反応はまるで無し。
あまり騒ぐと執務中の張遼にまで迷惑がかかる上、
どうせ彼女の気が変わる事もないため早々に諦めた。
(政務を滞らせてまで嫌がらせに勤しむなんて、合肥の女官も大した事無いなぁ!)
片や、兵卒達は殉職の危険と隣り合わせで市中を巡回しているというのに。
そう憤ってはみたものの、
重要書類の届け遅れで文官達の心労を増やしているのは他ならぬである。
援軍が無いなら孤軍奮闘するのみ。
ずっしり重たい盆をよたよたと抱え上げると、
とにかく仕分け出来る場所を探して、亀の歩みで出発した。
それからしばらく同じ階で空いてる部屋を探してみたが、
使われて無い書室はどれも施錠されており、
結局階段下の物置部屋へと引き返す事になった。
まさかこんな所で合肥の厳重警備が仇となるとは。
狭くて急な階段を両腕に盆を抱えて降りながら、
やっぱり餃子なんか放っておけば良かったと、
己が食い意地の汚さを嘆く。
時折足の裏が宙を蹴る事数回。
滂沱の冷や汗で脇の下をじっとり濡らすも、なんとか地面に辿り付いた。
先走った竹簡が既に何本か到着していたが、この際見なかった事にする。
一応周囲を確認してから、おそるおそる物置部屋に入った。
(間者に間違われたらどうしよう・・・)
我ながら怪しい行動だと自覚しているが、他に選択の余地は無い。
(衛兵が来たら、洗いざらい全部黄女官のせいにしてやる!)
そう心に誓って、はいそいそと仕分け作業に取りかかった。
竹簡の総数23本。
その内実に19本が政務担当の文官宛てである。
受け取る女官はほぼ全員劉部署長の息がかかってるとみて間違い無い。
なんとも用意周到な嫌がらせだ。
だが例え針の筵を歩かされようと仕事は仕事。
(これ、配り終える頃には日が暮れてるな。)
今日も定刻で寮へは帰れそうにないと覚悟して、よっこらせ、と盆を抱え上げる。
とにかくまずは量を減らさねば、腕がちぎれそうだ。
1番近い部署までの道のりを頭に描きつつ、
最近すっかり癖になりつつある溜め息を零した。
悲しいかなの予想はばっちり的中し、
最後の竹簡を届け終えた頃にはとっくに日が暮れていた。
何しろまず部屋へ行っても受け取り役の女官が中から出てこない。
1回呼び、2回呼び、しばらく待って3回呼び。
やけくそ気味に4回目を叫んで、
中から文官の止めさせろというお叱りが飛んでから、ようやく扉が開くのだ。
当然、出てきた女官は仏頂面で、お前のせいだと言わんばかりに手荒く竹簡を奪い取る。
まぁ態度の悪さは今更として、居留守作戦は地味にを弱らせた。
部署を回るほど配達はどんどん遅れ、焦りから苛々ばかりが募る。
最後の方は文官自ら受け取りに出てきて、有り難いお説教を頂く始末。
つい先程も、
「お前のような低脳にはこの書簡の大切さなど微塵も分からぬのだろうな!!」
と、額に青筋浮かべた文官様から、唾と一緒に盛大な罵倒を叩きつけられた所だ。
袖口で顔に付いた飛沫を拭い、鉛のような手足を引き摺って女官寮へと帰る。
盆はまた明日、執務室へ持っていこう。
とにかく今は沐浴の時間が終わる前に寮へと戻らねば。
殆どずっと全力疾走だったため、全身汗みどろの埃まみれだ。
ベタつく肌の感触が、ただでさえ疲労困憊の身体をなお重たくする。
(まさか毎日これが続くのかな・・・)
多分そうなるだろう。
が劉部署長の要求を飲むまでは。
権力が間違った使われ方をするとどうなるか、身を持って実感した。
すっかり夜闇に包まれた北通路を、月の光を頼りに進む。
最低限篝火の焚かれた女官寮の門を無気力に潜り、ようやく建物内へと帰り着いたが、
廊下で擦れ違う女官は皆、まるでなど存在しないかのように通り過ぎていく。
宛てがわれた大部屋に足を踏み入れれば、
楽しげな喧騒がピタリと止まり、視線ばかりがの背中に突き刺さる。
もうすっかり日常と化している彼女達の態度だが、今夜はどうにも神経を逆撫でた。
苛々と私物を漁り、沐浴に必用な物を引っ掴むと荒々しく身を翻す。
なにあれ、と鼻で嗤う誰かの声が、しつこく鼓膜にこびり付いた。
半分走り出しながら、自分の爪先だけを睨み付けて、沐浴場に急ぐ。
けれど、まだ充分時間内であるにも関わらず、
立て付けの悪い引き戸は開けられなかった。
ガタガタと音を立てながら力任せに引っ張るものの、ほんの隙間すら出来ない。
中から閂でもかけられているのかと、遠慮がちに扉を叩いて見るものの、
しんと沈黙が返ってくるばかりだ。
「すいませーん!入れて下さーい!」
今度は強く叩きながら声をかけてみるが、やはり反応は無かった。
まさか時間を間違えたか?
それとも急遽使用禁止になったのか?
どうしたものかと途方にくれて誰も居ない廊下を見回していると、
ほんの微かにだが、クスクスという笑い声が耳に届いた。
次いで、
「シッ!馬鹿に聞こえちゃうじゃん。」
という、笑みを含んだ囁き声が扉の中から響いて、
は全てを悟り絶望した。
笑い声は止むどころか複数に増え、
時折、まだ居んの?や気付かないとか鈍ーい!などという台詞も混ざる。
クスクス。
クスクス。
あははっ。
扉の向こうから漏れ続ける女官達の楽しげな笑い声を頭から浴びながら、
は呆然と立ち尽くした。
next
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さて、駒鳥を殺すのは誰でしょう?