「・・・・さて、何か申し開きがあるなら聞いておこう。」
巌のごとく眼前に聳え立った軍神は、常と変わらぬ威厳に満ちた声音で朗々と尋問した。
その表情は凪いだ湖面のように静かだが、
全身からは隠しきれない憤怒が立ち昇っている。
筆仕事を抜けて駆け付けたためか、いつもの戦装束でこそ無かったが、
それでも満身創痍の趙雲に比べれば、威風堂々たる立ち姿だ。
「や、ご、誤解だぜ!ちっとばかし熱くなっちまったが、ただの手合わせだからよ!
雲長兄が心配するようなこたぁ何にも・・・」
「黙れ、翼徳。拙者は趙雲に訊いているのだ。」
さすがにこれは不味いと思ったのか、慌てて身を乗り出した張飛も、
右目の瞼は鬱血して腫れ上がり、破れた鍛練着が辛うじて腰回りにしがみ付いている有様だ。
滂沱の冷や汗を流し言い訳する義弟をたった一言で黙らせ、
関羽はその鋭い眼光をギロリと此方へ向けた。
まるで罪人に天罰を下すという雷公のごとき威圧感に、我知らず喉が鳴る。
ここは潔く罪を認め、これ以上火に油を注がぬよう努めるべきだ。
「張飛殿の申された通り、いささか手合わせに熱中し過ぎたようです。
兵の規範となるべき身でありながら短慮であったと、猛省しております。」
嘘ではない。
少なくとも最初は正式な手順を踏んだ純然たる手合わせであった。
何しろ将兵同士の私闘は軍律で厳しく禁じられている。
さすがの張飛もそこは重々承知していたはずなのだが、
打ち合い始めて数合、彼の竹棍がへし折れた辺りから、にわかに雲行きが怪しくなった。
実戦ならばともかく、鍛練試合において武器の破損は即失格だ。
あくまで手合わせと称している以上、形式に則って勝敗を決めねば部下に示しがつかない。
さぁ負けは負けだと正論をかざす趙雲に、だが張飛は納得出来ないとしつこく食い下がった。
挙げ句再戦に応じなければ今すぐこの場に城中の下婢を全員招集する!などと嘯き出す始末。
実際、冗談みたいな思い付きを本気でやってのけてしまうから、この男は質が悪い。
こんな事ならわざと大振りの強打ばかり誘って竹棍が折れるよう仕向けるんじゃ無かったと、
後悔しても後の祭りであった。
を人質に取られた時点で、趙雲に退路は無い。
かくして馬上鍛練第二幕は、竹棍などそっちのけの徒手空拳血みどろ殴り合いと相成った。
力の張飛と技の趙雲。
互いに一歩も譲らぬまま、最後は仲良く掴み合って丸太台からなだれ落ちた。
絶対に負けられないという執念が実を結んだか。
フラフラとよろめきながらも先に立ち上がったのは趙雲で、
見物人もどん引きの、見るも無残な辛勝をなんとかもぎ取った。
その後、数秒遅れて目を覚ました張飛が再度不服を申し立て、
あわや第三戦の始まりかと思われたが、
雷鳴の如き軍神の怒号が練兵場に轟き渡り、阿鼻叫喚のお祭り騒ぎは呆気なく終息した。
「わざわざ関羽殿にまでお越し頂く事態になろうとは。
御手を煩わせてしまい、誠に申し訳ない。」
己が醜態に恥じ入るばかりです、と折り目正しく拱手する趙雲に、
ずっりぃい!という抗議がすかさず飛んでくる。
チラリと隣を流し見れば、
「てめっ趙雲!自分ばっか真面目ぶりゃあがってよぉ!」
と、地面にどっかり胡坐をかいた張飛が唇を尖らせていた。
理不尽極まる言い分だが、不貞腐れた小僧のような愛嬌があって、どうにも憎みきれない。
しかし厳格な義兄殿にその手は通用しなかったようで、
ひくりと米神を引き攣らせた関羽が、張飛の耳を無言で摘み上げた。
「痛っでぇえ!餓鬼じゃねぇんだ、耳はやめてくれよ雲長兄ぃ!
俺が悪かったってぇ!」
「ならぬ。お前の悪かったは聞き飽きた。
我等が預かるはすべからく兄者の軍なのだ。
怠慢は即、兄者の権威を貶めるとなぜ分からぬ。」
痛みに顔を顰め情けなく許しを請う愚弟を淡々と叱りつけ、
軍律の番人は再びその矛先を趙雲へと戻す。
「趙雲、そなたもあまり此奴を甘やかすな。
軍務に差し障るとあらば、容赦など無用だ。きっぱり断って構わぬ。」
それが出来るのは貴方だけです、というのがこの場に居る全員の総意だろう。
もちろん趙雲も全面的に同意したが、口ではただ、
「胆に銘じておきます。」
とだけ告げて、神妙に目線を伏せた。
俯いたせいか、鼻の奥から生ぬるい感触が伝い落ちてきて、
地面に赤い点を作る。
(相変わらずの馬鹿力め。)
鉄臭い雫を親指の腹でぞんざいに拭いながら、
趙雲は悪童よろしく喚き散らす張飛へ胡乱な視線を送った。
鼻梁を掠っただけでこの威力なのだ、
まともに拳が入っていたなら顔面が陥没していただろう。
とはいえ彼もまた、他ならぬ趙雲の手で丸太台から真っ逆さまに引きずり落とされたのだ。
前髪の隙間からほたほたと血が滴り落ちてきているあたり、どこか頭皮を切ったのだろう。
つまりはお互い様である。
いっこうに止まる気配の無い鼻血をなんとか手の甲でせき止めていると、
呆れ顔で嘆息を零した関羽が、
「ひとまず説教はここまでと致す。この場は副将に任せて、貴公は救護所へ参られよ。」
そう勧めてきた。
その後方で、顔面蒼白の副将もうんうんと力強く頷いてみせる。
おそらくは彼が関羽を呼んできてくれたのだろう。
気の利く部下に感謝する反面、いらぬ苦労をかけた我が身が不甲斐ない。
「ではお言葉に甘えさせて頂きます。」
お心遣い感謝致すと、趙雲が再び丁寧に頭をさげれば、
「なら俺もちょっくら手当てしに行ってくるぜ!」
なんて張飛までが白々しく立ち去ろうとする。
未だ怒り心頭の関羽がそれを許すはずもなく、力いっぱい耳殻を引き戻された。
「痛っでぇえ!だから耳ぃぃ!!取れちまったらどうすんだよ、雲長兄ぃ!!」
「逃げようとするからだろう、この馬鹿者。お前は拙者と来るのだ。
今日という今日は、とことん話し合おうぞ。」
ぎゃあぎゃあと喧しく抗議する張飛を、やはり耳ごと引きずって、
関羽は手本のごとき黙礼を残し、颯爽と踵を返した。
去っていく半裸の巨漢に向けて、
「張飛殿!約束、違えるまいぞ!!」
と、趙雲がすかさず釘を刺す。
「あ゛ぁん!?言われなくても分ぁってらぁ!」
肩越しに振り向いた張飛は、自棄気味に凄むと、
これ見よがしにペッと腔内に溜まった血反吐を吐き捨てた。
すかさず関羽の拳が彼の脳天に落っこちて、
頭を押さえたままその場にしゃがみ込む。
傷口が広がらねば良いが。
涙目で詰め寄る三男坊と、それを冷たく受け流す次男坊の姿を見納めて、
趙雲は鍛練場の方に向き直った。
(あの様子なら二言はないと思うが・・)
傍若無人な振る舞いが目立つ張飛だが、勝負事を好む分、結果を蔑ろにはしない男だ。
一抹の不安は、酒が入ると悪乗りし過ぎる所か。
(これ以上厄介事を思い付いてくれるなよ。)
そう胸中で切に祈りながら、
趙雲は肩口から裂けて今にも取れそうになっている左袖を、力任せに引き千切った。
小汚い襤褸切れと化したそれを血止め代わりに鼻へ押し付けつつ、
改めて惨憺たる我が身を眺め直す。
剥き出しの左腕はあっちこっち青痣だらけで、
この分だと鍛練服の下も似たようなものだろう。
いつの間にか靴も片方すっぽ抜けており、裸足の爪先に血が滲んでいる。
とはいえ、劉備配下でも抜きん出た武技を誇る二人が、本気で白黒つけにいったのだ。
むしろこの程度の怪我で済んで幸運だった。
(素直に喜ぶ気にはなれないがな。)
よりにもよって最悪の相手に胸中を気取られた挙句、
挑発に乗って乱闘騒ぎとは。
どれを取っても前代未聞の大失態だ。
昔から色恋が絡むと碌な目に合わない。
雲には女難の相があるなと、笑ったのは今は亡き兄だったか。
苦笑いを浮かべつつ、土まみれの布靴を回収していると、将軍、と背後から呼び止められた。
振り向けば、副将が跪いて拱手しており、
「兵卒共にはひとまず鍛錬に戻るよう申し付けて置きました。
なに、しばらくすれば皆も落ち着くでしょう。
将軍はどうか救護所に向かわれて下さい。」
そう短く報告してくる。
彼の顔には、こちらへの気遣いが多分に滲んでいて、
常ならぬ上司の行動にも一切口出ししない忠節が胸に刺さった。
「何から何まで任せきりにして、本当にすまない。
定刻の前に雨が降り出すようなら、私が戻らずとも鍛練を終えてくれ。」
鼻を押さえたままで少々情けないが、それでも精一杯感謝を伝えれば、
古馴染の副将はにかっと殊更明るく破顔して、仰せの通りにと頭を下げた。
そうして小気味良く立ち上がると、
未だ鍛練に集中しきれずチラチラ好奇の視線を送ってくる部下達へ叱責を飛ばす。
趙雲もまた、少しでも早く軍務に復帰できるよう、急ぎ足で救護所に向かった。
広大な演習場のそのまた向こう。
兵卒宿舎に併設された救護所の、薬草独特の匂いが漏れる観音扉をくぐれば、
出迎えた老年の医術師は、あぁあ、と何やら勝手に一人で合点してみせた。
理由が分からず小首を傾げる趙雲を早々に弟子達へと任せ、
自分はあっさり部屋の奥へ引っ込んでしまう。
師匠の無礼をぺこぺこ詫びる医術師見習い達へ、
気にするなと苦笑交じりに首を振って、案内されるまま備え付けの臥牀へと腰を下ろした。
治療のために服を脱ぎがてら、消えた医術師を探して広い救護所内をなんともなしに眺める。
だが目的の人物より先に、異様な存在感を放つ二人組を発見し、
ようやく趙雲も老師の態度に納得がいった。
明らかに体格と合っていない床几に腰を下ろし、濡れ布巾で鬱血した瞼を冷やしているのは、
先ほど別れたばかりの張翼徳その人である。
もちろんその背後には仁王立ちでくどくどとお説教を続ける関羽が控えていた。
肝心の老師はといえば、二人の巨漢に挟まれながら涼しい顔で頭の傷を止血している。
「あの張将軍をここまで叩きのめしたのは誰かって、丁度噂していた所だったんですよ。」
趙雲の視線に気付いたのか、比較的顔見知りの見習いが、
薬瓶を作業机に並べながら説明してくれた。
まさか趙将軍であらせられたとは、と割れた足の爪から丁寧に砂利を取り除きながら、
冠礼を終えたばかりの少年が笑う。
悪意のない賞賛に、趙雲は居心地悪く首の後ろを掻くしかなかった。
その間もてきぱきと治療は進み、数種類の軟膏と、ちょっとした湿布だけで、
怪我の処置は完了した。
ボロボロの鍛練服を再び着込もうとした趙雲を見かねて、
見習いが医術師用の白い深衣を貸してくれる。
手渡すついでに、
「痛み止めの煎じ薬は、先ほど下婢が取りに参りましたので、前もってそちらに預けました。
執務室でお召し上がり下さい。」
と説明され、思わずきょとんと呆けてしまった。
一体誰が、なんて聞くまでもない。
真っ先に脳裏へと浮かんだ面影に、カッと頬が燃え上がった。
「正直、我々も怪我人への対応で手一杯でして。
そちらで薬湯を作って頂けるとあらば願ったりです。
迅速な差配に感謝致します。」
しきりに感心する見習いには悪いが、言葉が全く耳に入ってこない。
なぜが?
どうやって知った?
ぐるぐる考え込んだ所で答えが出るはずもなく、
とにかく本人を問いただそうと、趙雲は火照った頬を摩りながら気持ちを切り替えた。
手当てをしてくれた医術師見習いへおざなりに礼を言い、
慌ただしく救護所を出ようとして、ふと張飛の事を思い出す。
振り返って確認すれば、治療は粗方終わったようだが、
関羽の説教は最高潮のようで、過去の悪行へと内容が移っている。
(ああなると長いのだ、関羽殿は。)
触らぬ軍神に祟りなし。
せめて禁酒の刑に処されぬよう戦友の健闘を祈りつつ、
趙雲はこっそりと扉の隙間から滑り出た。
時折ピリリと爪先に走る痛みを無視して、執務室へと急ぐ。
窓の外では目に見えぬほど小さな雨粒が音も無く落ち始めていた。
本降りになる前に現場へ戻らねば鍛錬が終わってしまう。
焦って小走りになる趙雲を、擦れ違う文官達が目を丸くして見送った。
何しろ派手な擦り傷を頬へ貼り付けた白装束の武将が、
解けかけの髪を振り乱して廊下を邁進しているのだ。
人目を引いて当然である。
忸怩たる思いを噛み潰し、
もういっそ外してしまえと、趙雲が緩み切った髪結い紐を引き抜いていると、
遠く視界の先、廊下の一番突き当りに、丁度角を曲がるを見つけた。
その手には見覚えのある陶器の杯が大事そうに抱えらており、
大方中身は医術師見習いの言っていた薬湯だろうと予想がつく。
彼女の事だ、どうせまた杯だけ残してさっさと立ち去るに決まっている。
逃げ足ばかり天下一品の想い人を現行犯で取り押さえるべく、
趙雲は大雑把に髪を結い直しながら歩調を早めた。
彼女から大分遅れて曲がり角を曲がる。
すると廊下の遥か先に、深く黙礼して執務室へと入る下婢の姿が見えた。
殆ど小走りになりながら間に合え!間に合え!と一心不乱に念じる。
果たして天に祈りが通じたのか、が中から出てくる前に、執務室へと辿りつく事が出来た。
ここまで来ればさすがに逃げられまい。
そう確信した途端、己の必死さが酷く滑稽に思えてきた。
こんなに息を乱していては、慌てて追いかけてきたのが丸分かりだ。
ここは一度冷静になろうと、
半開きの扉を前に思わず立ち止まった趙雲の耳へ、甲高い女性の罵倒が飛び込んできた。
金切り声に吸い寄せられて顔を上げれば、
丁度拳一つ分の隙間から、執務室の中が嫌でも目に入る。
「ちょっと、丸眉!臭いんだけど、これ!!」
そう、床に平伏した下婢を激しく叱責しているのは、趙雲の御付き女官である紅蘭だった。
しかし、その優美な顔立ちは居丈高に歪み、
子犬を思わせる円らな瞳も毒蛇のごとくギラついている。
あまりの豹変っぷりに趙雲が愕然と固まっている間も、
別人と化した紅蘭は、床に小さく畏まるに向かって怒鳴り散らした。
「こんなものを子龍様に飲ませようとするなんて。不評をかうのは私なのよ!?」
女性らしい柳腰に片手を当て、バンバンと机を叩く女官の足元で、
哀れな下婢が、申し訳ありません、と震えながら謝罪する。
「ですが、それは痛み止めの薬湯でございまして。
将軍にお召し上がり頂くよう、医術師様から仰せつかったものにございます。」
「はぁあ?だったら最初にそう説明しなさいよ!まったく愚図なんだから・・。
それとも貴女、前みたいに私が子龍様の前で恥をかけば良いとでも思ったのかしら?」
「いいえ、決してそのような・・。」
が消え入りそうな小声で弁明すれば、紅蘭は細く整えられた眉を聳やかし、
誰が顔を上げて良いと言ったのよ!と吐き捨てた。
一体何が起きている?
あれは本当に自分の知っている紅蘭か?
馴れ馴れしい字呼びもさることながら、
普段の態度とはあまりにかけ離れた横柄さに、思考が追いつかない。
とんでもない言い掛かりにも関わらず、
申し訳ありません、と再び顔を伏せるへ、
丸眉ちゃんさぁ、と聞き覚えの無い女の声が浴びせられた。
予期せぬ第三者の存在に、もはや瞬きすら忘れた趙雲が声の出処を探せば、
見知らぬ女官が一人、肘置き付きの籐編み椅子を我が物顔で占拠していた。
綺麗に足を揃えて座した姿からは育ちの良さが感じられたが、
長い睫毛に縁取られた垂れ気味の双眸には高慢さが滲み出ている。
「口答えなんて最近ちょっと生意気なんじゃない?
私らはあんたがどうしてもってお願いするから、仕方なく仕事を手伝わせてあげてんのよ?」
「そうよ。本当なら貴女みたいな下婢風情が官吏様方のお世話をする事なんて許されないんだから。
こうして趙将軍の御部屋に入れるのも、あの御方の私物に触れられるのも、全て私のお陰でしょう?
もっともぉっと感謝して、職務に励むべきだわ。」
分かったら早く私の代わりに掃除なさい!と紅蘭は水桶から汚れた雑巾を摘み上げ、
床に揃えられたの指先めがけて投げつけた。
びしゃりと跳ねた飛沫が、彼女の白い横顔を汚す。
従順に雑巾を拾うその手が震えるほど強く握り締められているのに気付いて、急激に頭が冷えた。
立ち聞きの後ろめたさも忘れ、衝動のまま割って入ろうとした趙雲だったが、
謀ったかのような間の悪さでもって、籐編み椅子を陣取っていた女官が立ち上がる。
奇しくも機先を制されて、反射的に足が止まった。
くぁ、と一つ欠伸を零した女官は、濡れた頬もそのまま黙って雑巾を絞るへゆったり歩み寄ると、
嫌味たらしく腕を組む。
「ねぇ、もっと急いでくんない?
早くしないと麋文官帰ってきちゃうんだけど。
あの爺さん毎日掃除しないと煩いんだよね。」
口振りから察するに 麋竺のお付き女官らしいが、
どうやら彼女も紅蘭同様、日常的に自分の仕事をへと押し付けているようだ。
欠片も悪びれた様子の無い女官は、
「ったく、下婢の分際で色気付いてるから時間に遅れんのよ。これって怠慢なんじゃないかなぁ。」
罰としてこの簪は没収しまーす、などとニヤニヤ笑いながら、
あろうことか懸命に床を拭くの髪から素朴な蓮花を勝手に引き抜いた。
長い黒絹が湿った床へと乱雑に散らばる。
「っっ返して下さい!!!」
突然、悲痛な悲鳴が狭い室内にわんと木霊して、
ずっと無抵抗だった下婢が勢いよく女官に掴みかかった。
思わぬ不意打ちに腰の引けた女の手から簪を奪い返すと、
心底大事そうに胸の内へ抱き締める。
「な、なに向きになっちゃってんの?
いるわけないじゃん、そんな安物。
古臭いし、地味だし、趣味疑っちゃうわ。」
彼女のただならぬ様子に気圧されたのか、
女官は強がりを口にしながら空っぽになった手をぎこちなく引っ込める。
そちらをキッと涙目で睨みつけたは、けれど迷うように何度も唇を噛み締めた後、
ご無礼をお許し下さい、とだけ謝った。
「はぁぁああ?謝って済むと思ってんの!?下婢が女官に逆らうなんて、罷免よ罷免!覚悟してなさい!」
勢いを取り戻した女官が見苦しく喚く隣で、
ずっと黙り込んだままの紅蘭が、の胸に咲く蓮花へと鋭い流し目をくれる。
「・・・・・ねぇ、丸眉。貴女その簪をどこで買ったのかしら?」
やがて得物を狙う猫のような狡猾さで、殊更優しくゆっくりと問い掛けた。
途端にの細い肩がびくっと跳ねて、
紅蘭の真っ赤な唇が我が意を得たりと吊り上がる。
「やっぱりね!おかしいと思ったのよ。貴女にそんな高価な簪、買える訳無いんだもの。
一体どこから盗んできたのよ!白状なさい!!」
敵将の首でも取ったかのような威勢で断罪する紅蘭に、
は酷く傷ついた目をして何度も首を横に振った。
「こ、紅蘭てばぁ。あんな汚い簪、そこらへんの露店に二束三文で売ってるって。」
「はぁ・・・貴女って本当に無学ね。あれは黒檀よ。
私、ずっと以前に劉州牧の奥方の一人から見せて貰ったもの。
あの時は櫛だったけれど、見間違ったりしないわ。
それに、あの見事な彫り細工。並みの職人技じゃないわね。相当値の張る逸品よ。」
半信半疑の友人に向かって目利きには自信があると豪語する娘は、もはや顔が土気色と化した下婢を、
心底侮蔑しきった眼差しで睥睨した。
「これだから身分の卑しい輩は嫌なのよ。
さぁ、言いなさい!誰からくすねたの!?甘夫人?麋夫人?それとも宝物庫からかしら?」
「っっ違います!これは・・さる尊い御方から頂いた謝礼の品で・・!
た、確かに、下婢には分不相応な至宝にございますが、
あの御方が私のような者にまで礼を尽くして下さった、
世に二つと無い誠意の証にございます!」
「よくもそんな白々しい嘘を!だったらその尊い御方とやらの名前を、私の目を見て言ってみなさいよ!!」
「っ!?・・・そ、れは・・。」
盗品であると頑なに信じて疑わぬ紅蘭がずいっと一歩前に出れば、
は可哀想なほど動揺して胸に簪を庇ったまま二歩も三歩も後ずさる。
そのまま俯いて口を引き結んだ彼女を趙雲は歯痒く見詰めた。
(言ってくれ!言えば良いのだ!私から貰った物だと!)
趙雲の名を出せば疑いなどすぐに晴れる。
それが分かっていながらが口を割らぬのは、
彼女が偏に趙雲の体面を慮っているからだ。
罪人の汚名を着せられてなおこちらの立場を案ずる彼女の真心が、今は腹が立つほどもどかしい。
「ほら、盗人猛々しいとはまさにこの事だわ。
今更逃げられないわよ!観念しなさい!!」
そうとは知らぬ紅蘭は彼女の黙秘に己が正義を確信し、
大義名分を振りかざして力づくで簪を奪いにかかった。
もまた決して取られるものかと、腹に簪を抱えて蹲り抵抗する。
「このっ!往生際の悪い女ね!一体誰が貴女にそんな物をくれるっていうのよ!
身内はもう商家で飼われてる死にかけの老いぼれだけのくせに!」
普段のたおやかさをかなぐり捨て、乱暴な手つきでの乱れ髪を鷲掴みにすると、
紅蘭は忌々し気に罵った。
悪意に塗れた醜悪な言葉達が、加虐心に歪んだ唇から溢れた途端、
気付けば趙雲は執務室の扉を蹴破っていた。
バァァンっと激しく壁にぶつかった格子戸が、蝶番ごとへし折れる。
「・・・・何をしている。」
低く。
無理矢理怒気を押し殺した声音で趙雲が淡々と問いただす。
どうやら紅蘭達は彼の存在に微塵も気付いていなかったようで、
三者三様、目を見開いたまま凍り付いた。
「何をしているのかと訊いているのだ、紅蘭。」
趙雲が再度問いを口にして、自らが得手とする龍槍のごとき眼光をそちらへ向ければ、
名指しされた専属女官は目に見えて震え上がった。
未だ掴んだままになっていたの髪を慌てて放り出し、片膝をついて拱手する。
拘束が解かれたもまた、逃げるように二人から距離を取ると、部屋の隅で深く平伏した。
一切こちらを見ないまま小さく縮こまる様が
まるで趙雲すら拒絶しているようで、強く拳を握りしめる。
彼の視線がに逸れたのを好機と見たか、紅蘭が取り繕った猫撫で声で弁解を始めた。
「あ、あの、趙将軍。お見苦しい様を大変失礼致しました。
ですが、これは決して私刑などではありませんのよ?
この下婢があろうことか城内で盗みを働いたのでございます。
それに気付いたわたくしが友人とともに問いただしました所、急に暴れ始めまして。
もし将軍が駆けつけて下さらなかったら今頃どうなっていたか。」
恐ろしゅう御座いました、と円らな瞳に涙さえ浮かべ、殆ど蚊帳の外扱いだった友人へと同意を求める。
無関係ですと言わんばかりに壁際で畏まっていた女官は、紅蘭の尻馬に乗ってうんうんと頷いた。
よくもまあ抜け抜けと嘘をつけたものだ。
先ほどの豹変ぶりと、の人となりを知らなかったなら、彼女の言い分をうっかり信じていたかもしれない。
あの娘に腹芸は無理だろうと判断した数ヵ月前の自分を鼻で笑う。
媚びと期待が入り混じった女官二人の上目遣いに冷めきった一瞥をくれ、趙雲は再びに視線を戻した。
そうしてじっと彼女の反論を待ったが、まるで冬眠中の亀のように丸まって沈黙している。
(やはり私に助けを求めてはくれぬか。)
無条件に頼って貰えるなどと自惚れてはいないが、味方だとすら思って貰えないのはさすがに堪える。
行き場の無い恋心が、それでも守りたいと狂おしく鳴いた。
はぁ、と嘆息1つで心を決めて、
「それで?が何を盗んだというのだ?」
そう万が一にも聞き間違わないようはっきりと彼女の字を口にした。
予想通り揃ってぽかんと間抜け顔を晒す女官達はもちろん、
床と睨めっこに勤しんでいた想い人までが、信じられないとばかりにこちらを凝視した。
真ん丸の綺麗な猫目が真っ直ぐ自分だけを見ている。
それだけで胸を掻き毟るようだったやるせなさがあっさり霧散してしまうのだから、我ながら末期だ。
「あ、え?なんで名前、ぁ・・で、ですが!わたくしはこの目で確かに見たのでございます!!
下婢の給金では到底買えぬ大変高価な・・。」
「蓮の花が彫られた黒檀の簪。そうだな?」
自分の言い分が信用されていない事に勘づいて、紅蘭が姦しく反論を捲し立てる。
それを途中で遮って、趙雲は彼が知るはずのない情報をつらつらと諳じて見せた。
心無しか顔色が悪くなり始めた女官達が呆然と絶句する。
「ならば問題ない。あれは正真正銘の物だ。何しろ贈ったのは・・。」
「趙将軍っ!!」
そのまま真実を暴露しようとした趙雲を、今度はの悲痛な叫びが遮った。
その特徴的な眉を悲しげに顰め、縋り付くような眼差しで嫌々と首を振る。
この期に及んでも趙雲の体裁を案じる娘にカッと鳩尾が燃えた。
醜聞など構うものか。
そう、腹立ちまぎれに無視を決め込めれば良かったのだが。
「・・・・・あの簪の贈り主は、私も良く知る御仁だ。の兄代わりを自称しているらしく、
日頃の精勤を労いたかったそうだ。」
結局は彼女の懇願に屈して、尤もらしい説明で曖昧に誤魔化した。
これで良いのだろう?と、胸中複雑な気分で流し目を送れば、
は青褪めた顔にあからさまな安堵を浮かべる。
「そんな・・で、でも!まさか・・。」
まだ納得できないと口籠る女官達の疑惑の眼差しを背なで跳ね返し、
趙雲は荒れた足取りでの前に来ると、迷わず手を差し伸べた。
「立てるか?」
そう尋ねる声に多少不服が混じるのはご愛嬌だ。
案の定、身分を重んじる下婢はたっぷり1分ほど狼狽した後、
「申し訳ございません。」
と 蚊の鳴くような謝罪を口にし、慎ましやかに指先を乗せた。
その赤切れの目立つ小さな手をぎゅっと愛おしく握り込んで、力強く引っ張りあげる。
いっそ心配になるほど軽い痩身は難なく立ち上がり、彼女は目を白黒させながら深々と頭を下げた。
有り難うございましたと、律儀に下げられたざんばら頭へ、
「ここはもう良いから、そなたは身なりを整えてきなさい。」
と内心彼女の手の感触を名残惜しく思いながら、趙雲が退室を勧める。
けれどもはソワソワと視線を彷徨わせ、しきりに机の上を気にした。
彼女の目線を追いかけ、やっと原因に思い当たった趙雲は、毒気を抜かれて情けなく眉尻を下げる。
「薬湯は必ず飲むから、早く行っておいで。」
そう約束すると生真面目な下婢はようやく安心したようで、ぺこりとお辞儀をしたまま脱兎の如く逃げ去った。
隣を通り過ぎる際に見えた彼女の眦は赤く潤んでいて、もっと早く助けに入るべきだったと胸が軋む。
今すぐその華奢な後ろ姿を追い駆けたかったが、趙雲にはまだやり残した事があった。
「あ、あの、趙将軍?此度の件はわたくしの早合点だったようで・・。
むやみに騒ぎ立てして大変お恥ずかしゅうございます。ですが、その、先程の下婢にも非がないわけでは・・。」
責任逃れか、それともを無罪放免にしたのが気に食わないのか。
優美なかんばせに諂い笑みを浮かべ、跪いたまま擦り寄ってくる紅蘭へと、
趙雲は情を挟まぬ厳格な口調で尋ね返す。
「果たしての非と、お前達の所業。どちらが咎に問われるのだろうな?」
全て知っているのだ、と言葉の裏に潜ませれば、後ろめたい心当たりばかりある女官達はヒッと息を飲む。
「此度の件は女官長に報告する。もちろん麋竺殿にもだ。
・・が、5日間だけ猶予を与える。その間に自ら身の処し方を決めるのだな。
お前達もあくまで女官と自負するならば、それくらいの矜持は持ち合わせていよう。」
そう皮肉混じりの最後通牒を突き付けて、趙雲は紅蘭達がまたあれこれ言い訳を始める前に、
薬湯の杯を掴んで仮眠室へと引っ込んだ。
一拍間を置いて、扉の向こうから聞こえ始めた醜い罵り合いに、軽蔑以外沸いてこない。
「誤解なのです!」
「お許しください!」
「どうか御慈悲を!」
やがて女官達の叫びは涙交じりの懇願へと変わったが、
形振り構わず扉を叩く音が、趙雲の嫌悪を加速させた。
弱者から搾取する事を当然と考える傲慢さにも。
それを平然と己の功績にしてしまえる不誠実さにも。
そして何より、
彼女達の性根にも気付かず、結果としてを虐げる要因となってしまった、
自分自身に一番腹が立つ。
しつこく纏わりつく啜り泣きを耳穴から追い出すように、
冷え切った薬湯を苛々と飲み干せば、
自業自得の苦味がいつまでも趙雲の舌を苛んだ。
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ええ、イケメンの鼻血萌えですが何か?ww