※ caution ※
・『さしもしらじなも ゆるおもいを』既読推奨
・楽進マジ文官
・時系列とか割とどうでも良い。
・捏造は通常運転です。

以上を、寛大な御心で了承頂けると助かります。

























思えばあの時、

私は恋に落ちたのだ。











『 少女の瞳に銀河を見た 』










いつも報告に来てもらっている斥候部隊の隊長が、


「こいつがウチの一番です。」


そう言って紹介したのは、童子と見紛うほど幼い顔付きをした少女であった。

帳下の吏の天幕がそんなに物珍しいのか、

人目も憚らずきょろきょろと周囲を見回していた娘は、

董卒伯に無言で頭を小突かれ、慌てふためいて敬礼する。


「斥候隊、西側董班所属、と申します!」



予想に違わぬ高く愛らしい声が、形式ばった挨拶を緊張気味に諳んじ、

これまでの不調法を誤魔化すようにへらっと愛想笑いを付け足した。

笑うとますます幼さの増した少女の、色好く日焼けした頬に片笑窪を発見し、

実に似つかわしいなと思わず楽進も微笑んでしまう。


「帳下の吏の長を務めております。楽文謙です。以後お見知りおき頂きたい。」


座ったままでは礼を失するだろうと、

そう言って文机の前から立ち上がり腰を折れば、

えへへそんな、と少女は照れ臭そうにはにかんだが、

彼女の上官はもじもじ揺れる小さな頭を鷲掴みすると力任せに下げさせた。

そうして同じように深く頭を下げながら、


「丁寧な挨拶痛み入ります。見ての通り、この娘は礼儀も知らぬ若輩者でして、

不快な言動も多々あるとは思いますが、無知ゆえの戯言と、どうかお許し下さい。」


そろそろ四十路に突入しようかという面倒見の良い卒伯は、

まるで父兄のような口振りで部下の失態を詫びる。


「いえ、詳しい話を聞きたいとお願いしたのは私の方ですので。

こんな夜更けにわざわざ天幕にまで来て頂いて感謝しています。

貴重な待機時間を奪ってしまって申し訳ありません。」


楽進がそう言って、畏まる二人に顔を上げるよう促せば、

過分な心遣い有難うございます、と卒泊は神妙に礼を述べ、

少女は目を爛々と輝かせながら再び頬に片笑窪を浮かべた。


「それでは、私は持ち場に戻ります。

これは置いて行きますので、如何様なりとお使い下さい。」


と、最後まで折り目正しく去っていく斥候部隊隊長を見送って、

楽進は広い天幕にぽつんと残された少女へと、改めて向き直った。

文官に近い役職とはいえ、見知らぬ男と二人きりとはやはり心許なかろう。

せめて他に誰か居れば少しは安心させられたのだろうが、

あいにく楽進以外の帳下の吏は、皆すでに仮眠へと入っている。


(変に警戒されては話がし辛いのですが・・・)


そう憂慮しながら少女の様子を窺えば、

彼女はお目付け役が居なくなったのをこれ幸いと、

気持ちよさそうに伸びをしていた。

それから、お澄ましをやめた猫よろしくふらふらと天幕内を物色し、

勝手に文机の前までやって来ると、ところ狭しと広げられた地形図や竹簡をしげしげと眺め、


「えぇっと、それで帳下の吏様!私は何を話せば良いの!?」


そう言って興味津々にこちらを振り仰いだ。

言葉にするなら、わくわく、どきどき。

華奢な体から溢れ出る好奇心に少々気圧されしつつ、


「本日の索敵報告に敵軍の伏兵を発見とあったのですが、

董卒伯の話では貴女が一番最初に気付いたという事でしたので。」


看破した状況を詳しく教えて下さい、と元の位置に座りなおしながら答えれば、

質問したはずの本人は、兎を模した筆置きを摘み上げ、うわっ変な顔ーと笑っていた。


「あの・・・兵卒?」


本当にこの娘で大丈夫なんだろうか、と呼びつけておいて早々不安になりだした楽進が、

少女の名前をおそるおそる呼べば、


「へぁ!ご、ごめんなさい!大丈夫だよ、帳下の吏様。ちゃんと聞いてるから!」


と慌てて筆置きを元に戻し、姿勢を正す。

いくらなんでも順応が早すぎると呆れながら、

気持ちを切り替えるように、んんっと一つ咳を落とすと、


「私の事は楽官吏とお呼び下さい。立ち話も辛いでしょうから、どうぞこちらへ。」


そう一段高くなった床に座るよう促す。

すると彼女は遠慮もへったくれも無くどっかりそこへ胡坐をかき、


「それじゃ楽さんも私の事はって呼んでよ。」


と無邪気に勧めてきた。

が、楽さん???と聞き慣れない呼び方にいささか取り乱すも、

表面上は平静を装った楽進が、さっさと本題に入るべく広げた地図に視線を落とした。


「まずは、殿が昼間索敵した道順を分かる範囲で良いので教えて頂けますか?」


本陣の場所を指し示し、そう尋ねれば、


「何これ、凄く分かりやすい!私も欲しいなぁ。」


と、同じように地図を覗き込んだ少女が、なんとも素直な感想を述べた。

兵士らしいマメとタコだらけの小さな手が、地図の上を軽快に滑り出すのを確認しながら、

この地図一枚で彼女の俸禄一年分が飛んでいくと聞かせたら一体どんな顔をするだろう、と内心ほくそ笑む。

きっと期待に違わぬ反応で楽しませてくれるに違いないと予想して、

楽進は彼女に引き摺られて自分まで集中力が散漫になっている事に気付き、苦笑いした。



「・・でね、目の前に大きな岩山があったから真北よりちょっと右寄りで半里くらい避けて・・・て、

ちょっと楽さん聞いてる???」

「はい、聞いております。」


お前が言うな、と董卒伯辺りが傍にいれば怒鳴りつけてきそうな台詞を吐いて、少女が唇を尖らせる。

記録用の竹簡に筆を走らせていた楽進は、その顔を見ないまま律儀に生真面目な返事を返した。

最初こそ、やはり別の者を呼んで来てもらおうか迷った楽進だったが、

彼女の詳細かつ正確な説明に、第一印象を改める。

口調こそ無学の者特有のたどたどしさがあったが、

時間の経過や進んだ方角を、太陽の高さと風向きから裏付けし、実に論理的に解説した。

なおかつ、地図上には記されていない細かな地形や目印と成り得る特徴的な山林などを、

克明に指し示す記憶力は、同じ兵として羨望すら覚える。

なるほどあの有能な部隊長が一番と賞賛するわけだ、と納得しながら、

楽進は彼女の文言を正しい用語に置き換えて、逐一漏らさず竹簡に書き込んだ。

どうやら説明を終えたらしい少女の、

穴が開きそうなほど真っ直ぐな視線を指先に感じながら、最後まで澱まず筆を動かす。

おおーと小さく上がった歓声を聞きつけて、耳が勝手に熱くなるのを自覚しつつ、

楽進は次の質問へと移った。


「それでは次に伏兵を看破した経緯をお教え頂きたい。

敵兵が潜む地の随分手前で気付かれたようですが、

同じ部隊の中でもなぜ貴女一人だけが察知出来たのしょう?」

「ん?それはね、隆々が怖がってたからだよ?あの子、人見知りだから。」



名前を尋ねたら弓が得意ですと返ってきたような、辻褄の合わない珍解答を、

少女はニコニコと誇らしげに答える。

今の説明をどう咀嚼し飲み込むべきなのか、楽進が無言で眉間の皺を増やしていると、

再び評価が急落し始めた娘は、


「あ、隆々っていうのはね、私の幼馴染でね、大事な相棒なの。

凄いんだよ!肩とか腰とかもりもりでさぁ。」


などと、あさっての方向に話を進め始めた。


「はぁ・・えぇと、幼馴染で相棒とはつまり同じ斥候兵の方でしょうか?」

「んーん、馬!筋肉隆々だから隆々って名前にしたんだ。

まだほんの仔馬の頃からなんだよ!格好良いでしょ!?」

「それは凄いですね・・・って、そうではなくて。

馬の様子以外に何か無いのですか?もっとこう、具体的には。」


もう十分振り回されている楽進がそれでも懸命に軌道修正をかけると、

少女は、そんな事言われてもなぁ、と両手を後ろに着き、やる気無さそうに天を仰ぐ。


「みんなの馬もそわそわしながら走ってたよ。

あんまり先に行きたくなさそうだったし。それじゃ駄目?」


駄目です、と楽進が返せば、え〜、と不服そうに唸り頭が逆さになるほど背を反り返す。

血が昇ってしまうんじゃないかと心配し始めた頃、あ、と間の抜けた声を一つ上げて、

少女はぐいんとこちらに身体を戻した。


「そういえば、昨日同じ所を偵察した時は天人唐草がいっぱい咲いてて綺麗だったのに、

今日は1つも見当たらなかったのよ。あれ、触ると花びらがすぐ散っちゃうんだ。

あれだけ広く咲いてたのが全部消えちゃうって事は、大勢が踏みつけて行ったんだろなって。

でも、あんな傾斜のきつい山肌を普通は通らないし、絶対変でしょう?」


前屈みになって文机に顎を乗せ、これも駄目?と上目使いに伺ってくる少女の姿は、

なんだか主人の命令を待つ忠犬のようだ。

その、兵士にあるまじき素行の無邪気さは、彼女の行く末をいささか心配させるものだったが、

斥候兵としての慧眼には目を見張るものがあった。

馬と花、この二つだけで伏兵を看破し、少女は見事我が軍を大勝利へ導いたのだ。

伏兵にかかったふりをして大将首を釣り出し、逆にこちらの罠へと誘い込む今回の作戦は、

彼女が敵兵の存在に逸早く気付き、なおかつ彼等の潜む箇所を正確に報告したからこそ成し得た策だった。


「・・・・私は自分が情けないです。」


真っ先に感じた本音をついぽろりと零せば、

未だ文机に顎を乗せたままだった少女が、きょとんと首を傾げた。

肩口で切り揃えられた癖の無い黒髪が頬にかかる様はどこか艶かしく、

幼くともやはり女人なのだと思い知らされる。


殿のような方が最前線で命を賭しておられるのに、

大の男たる私が安全な本陣で書き物など・・・」


自分自身でもなんと女々しい愚痴なのだと嫌悪しながら、

それでも押し込めていた鬱屈をついつい口に出してしまったのは、

少女が纏う他事無い雰囲気のせいだろうか。


「なんで、そんな事言うの。」


打てば響くようにすぐさま返ってきた返答は予想の範疇を越えないものだったが、

そう発した少女の顔は楽進を狼狽させた。


「なんでそんな事言うの!」


もう一度同じ台詞を語気荒く叫んで、少女は勢い良く立ち上がった。

丸い童顔を赤く上気させ、落っこちそうなほど大きい瞳に真っ直ぐな怒りを湛えている。


「い、いかがされたのです?殿?」

「楽さんこそ、なんでそんな酷い事言うのさ!」

「酷い、ですか?」

「酷いよ!私さ、楽さん凄いなぁ、偉いなぁって思ってたのに!」


はぁ、と混乱した楽進が不明瞭な返事を返せば、

それが益々火に油を注いだのか、少女の眦がキリキリと釣上がる。


「全然分かって無いし!私知ってるんだよ、本当は私の話なんか記録しなくて良いの。

董卒伯が言ってたもん。だから他の帳下の吏の人達は居ないんでしょ?

でも、ちゃんと記しておけば、この先役に立つかも知れないからって、

楽さんは自分の寝る暇を削ってこんな夜中まで頑張ってるんじゃないの?」


そこまでひと息に言い募って口をへの字に噤んだ少女を、

楽進は目を点にして見上げた。

両腕を大袈裟に振りながら仁王立ちで唾を飛ばすのは、なんとも稚拙な怒り方だと思う。

彼女の言い分も、まるで憧憬を貶された子供のようだ。

けれど、一方的に責められている楽進の胸は正体不明の熱でじぃんと熱くなった。


「しかし、それが私の職務でして・・」


迫り上がった感情で喉を詰まらせながら、かろうじてそう弁明すれば、

じゃあ私だっておんなじだよ、と彼女はなお食って掛かる。


「私は確かに馬が大好きだから斥候兵になったけど、

剣とか弓とかはちっとも上手くならないから、もっと頑張らなきゃって思ってる。

だから、楽さんが私の話聞きたいって言ってくれて。

あんなに一生懸命書いてくれて。

ああ、こんな私でも誰かの役に立てたんだって、凄ぉく嬉しかったんだよ!」


だから、あんな酷い事言って欲しく無い、と訴える少女の瞳の中で、

何か恐ろしく貴いものがキラキラ輝いていた。

言いたい事を全部言ってスッキリしたのか、

すとんっと再びその場に座り込んだ少女を目で追いつつ、

楽進は無言で違うのだと否定した。

決して今の職を軽んじている訳ではない。

任された以上は最善を尽くして責務にあたっている。

けれど。

忘れる事など出来なかった。

軍に志願した最初の日、広い練兵場の隅から仰ぎ見た、

主公の隣に威風堂々並び立つ両将軍の姿を。

蒼天へとうねり昇る大歓声を。

総毛だった肌の下で滾り狂った、己が血潮を。


私は。


何としても。


「・・・・将になりたいのです。」


と、驚くほど素直に夢が口から零れ落ちた。

自分には分不相応な望みだと、今まで誰にも語らず秘密にしてきたというのに、

今夜はなぜこうも簡単に胸の内を言葉へと変えてしまうのか。


殿も呆れておられるでしょうね、たかが帳下の吏の分際でこんな滑稽な・・・)


己の軽率さを恥じ入りながら、忸怩たる思いで視線を上げれば、

少女はこれまた予想外の顔をして楽進を狼狽させた。

先ほどと全く変わらぬ貴い輝きを両目に宿したまま、

薔薇色に染まった頬にはくっきりと片笑窪が刻まれている。


「へぇぇ、そうなんだぁぁ!」


ただでさえ高い声をさらに数段跳ね上げて感心する娘の周囲に、

ぱぁっと花が散るのが、楽進には確かに見えた。


「うんうん、それなら前線で活躍したいって思うよねぇ!

そりゃ帳下の吏も凄いけど、将軍には敵わないもん。」


納得納得としきりに頷く少女の口振りには、無謀な夢への嘲りなど微塵も滲んでおらず、

楽進は固く縮こまっていた心がすぅっと軽くなるのを感じた。



とくんっと密やかに、身体の奥で泉が湧く。




「お笑いに・・ならないのですか?」

「え、私が?楽さんを?なんで???」

「それは・・・私のような強力な後ろ盾も恵まれた体格も持たない者が、将などと・・・」

「そうかなぁ?難しい事は良く分からないけど、

少なくとも私は楽さんが将になってくれたら嬉しいよ?絶対楽さんの軍の斥候兵に志願する!

・・・私、チビだし。

報告するたんびいちいち首が痛くなるような大男より、楽さんの方が声も届き易いでしょ。」


どうせ命を懸けるなら、ちゃんと顔の見える人が良い。


そう言ってにししと白い歯を見せる少女を、楽進は直視する事が出来なかった。

先ほど生まれたばかりの泉から、黄金色の蜜がみるみる湧き上がって、

あっという間に全身を飲み込んでしまう。

優しく、温かく、けれどなぜか泣きたくなるような感情に、溺れて息もできない。


「ありがとう、ございます・・・」


じわじわ熱くなっていく顔を片手で隠しながら、

窒息しかけている喉からなんとかそれだけを絞りだすと、

楽進を瀕死に追い込んだ張本人は、

なぜ礼を言われたか理解できない様子で、ぱちぱち瞬きを繰り返した。







「これで・・・ようやく終わりました。御協力に感謝致します。」


そう言って、全ての報告を竹簡に記し終えた楽進が顔を上げると、

少女の丸い頭は右へ左へ船を漕ぎ始めていた。

文机についた頬杖からかくんっと顎が落ちるたび、おろおろと涎を拭く様を微笑ましく眺めながら、

殿、と声をかければ、あぁともうぅとも分からぬ寝ぼけ声が返ってくる。

既に片足どころか首までどっぷり夢の中へと突っ込んでしまっているのだろう。

出来ればこのまま寝かせておいてあげたいが、ここは未だ臨戦態勢の陣中である。

そんな中で、帳下の吏の天幕に女兵を一晩泊めるというのは、軍内の風紀を乱しかねず、

下手をすれば楽進はもちろん、無辜なる彼女まで処罰されてしまいかねない。

仕方なく文机の向かいへと回り込み、ゆらゆらと不安定に揺れる少女の身体へ手をかける。

殿、と名前を呼ぶはずだった唇は、掴んだ肩の思いもよらない薄さに、びくりと戦いた。

ようやく静けさを取り戻した胸の中の泉が、ざわざわと漣立つ。

指に少し力を入れただけで簡単に折ってしまえそうな細い骨格が、

常に最前線で敵の脅威に晒され続ける小さな体を支えているのだ。


抱き締めたい。


単純な衝動が瞬間的に沸き起こり、楽進は少女に触れていた手を勢いよく引っ込めた。

激しい困惑に固まったまま、息をするのも忘れて眠る横顔を凝視していると、

短い睫が黒々と縁取った瞼が微かに震え、やがて命の輝きそのものを宿した瞳が現れる。


「・・・あれぇ?楽さん?私、もしかして寝ちゃってた?」


ぐりぐりと掌で目を擦り、大きな欠伸を一つ零した少女が、

むにゃむにゃと尋ねてきて、呪縛が解けるように楽進の時も動き出した。


「は、はい。お疲れのところ長々と付き合って頂き申し訳ありませんでした。」


慌ててそう取り繕いながら、距離を置くように立ち上がれば、

ぐいっと背を逸らして伸びをする少女の、日に焼けた鎖骨から胸元までが丁度目に入り、

不自然に視線を泳がせる。

ぅん、と身体が解れる気持ちよさに零れた声さえ、楽進の耳には妙に艶を帯びて聞こえ、

今すぐこの場から逃げ出してしまいたくなった。

きっと色々なものが溜まってしまっているのだ。そうに違いない。

早く仮眠を取ろうと、強く決意する楽進の胸中など知る由もない少女は、

勢いよく立ち上がり、芝居がかった動きで大げさに敬礼をした。


「それでは、兵卒はこれより自隊の天幕へと帰投致します!」

「なら私もお供致しましょう。呼びつけておいて、お一人で帰って頂くのは礼に反しますので。」


これ以上傍に居られると都合が悪いが、離れがたさにも逆らえず、

楽進はそれらしい提案を口走る。

けれど、無邪気な娘は眩しい笑顔を浮かべ、大丈夫と首を横に振った。


「楽さんはずっと仕事してたんだから、早く寝ちゃいなよ。

きっと明日には陣を払うって隊長言ってたから、そしたらまた歩き詰めだよ。」


そう言いながら、さっさと天幕の外へと向かう彼女を、楽進も慌てて追いかける。

入り口の垂れ幕をたくし上げれば、しっとりと涼しい夜の空気が吹き込んできて、

中の温度に慣れた少女は、ぶるりと肌を総毛立てた。

何か肩に掛けるものでも持って来るべきかと楽進が逡巡している間に、

頭一つ分小さな身体は、脇を通り抜けて夜闇の中へと躍り出る。

同じように天幕の外へと一歩足を踏み出せば、

さすがに辺りは静まり返っており、ずっと遠くで鳴く梟の声だけが密やかに木霊していた。

夜の底に沈んだ幾つもの天幕を背景に、くるりと振り返った少女は、


「えぇと、今夜は御招き頂き有難う御座いました。

またお役に立てそうな時は是非お呼び下さい!」


と今さら言葉使いを改めて、恥ずかしそうにはにかんだ。


「それから、楽官吏ならきっと立派な将軍になれるって思います。私、応援してますよ!」


頭上に広がる満点の星空にも負けないほど、キラキラと双眸を輝かせる少女に、

楽進もこの期に及んで顔から火が噴くのを感じながら、


「あの、それについてはその、他言無用でお願いしたいのですが。」


と、往生際も悪く懇願する。


「じゃあ、楽さんと私だけの秘密ね!」


すぐさま返ってきた少女の言葉に、

甘い他意など微塵も含まれてはいなかったが、楽進の顔はいよいよ大火計を起こした。

もっと声を聞いていたくて、愚にも付かない話で引き留めようと口を開いた時、

陣内を巡回中の兵卒が視界の端に映る。

どうやら少女の方も同様だったらしく、

二人の間に満ちていた穏やかな空気が、泡沫のように溶けて消えた。


「では、失礼致します。」


兵卒らしい厳格な敬礼を残して、無邪気な性根を戦装束の下に隠した少女は、踵を返した。

遠ざかっていく小さな背中が、居並ぶ天幕群に紛れて見えなくなる。

まさか日々生死が鬩ぎ合う殺伐とした戦場で、あれほど無垢な命に出会おうとは。

守ってやりたい、と。

楽進は強く願う。

そんな事彼女は望んでいないし、

そもそも帳下の吏である自分は、彼女と同じ戦場に立つことさえ敵わないのだけれど。


「私は・・・必ず、将になってみせる。」


悔しさと闘志、そして理解される喜びを掴んだ拳が、決意に狂おしく震えた。


誰よりも速く深く敵陣を裂く、自分はそんな強者を目指そう。

最前線を駆け続ける少女の隣に、いつも並び立てるように。


漆黒の天を睨んだ楽進の双眸に、幾千万の星が瞬いていた。















〜13/06/26







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