※ caution ※
・『さしもしらじなも ゆるおもいを』『少女の瞳に銀河を見た』既読推奨
・ヒロインが失恋してる系
・登場人物が殆どオリキャラ。
・これからも捏造一筋で頑張っていきます。
以上を、寛大な御心で了承頂けると助かります。
小汚い野郎所帯には無縁の、甘く悩ましい香りを嗅ぎつけて、
はクンクンとしきりに鼻を鳴らした。
「お前、兎みたいだな」
とニヤニヤ揶揄してきた同じ部隊の先輩に、
「やだよ。あいつら、ちびのくせに凶暴だもん。」
そう膠も無く即答すれば、彼は胡乱な目をして、
「お前、兎みたいだな。」
と、もう一度同じ感想を述べた。
明らかに前述より評価の下がった口振りに、いぃっと歯を剥いて威嚇する。
うっわ不細工、とゲラゲラ指差して笑う馬鹿面へ、アンタもな、と返してやってから、
は嗅ぎ覚えのある匂いの元を探し、視線を巡らせた。
「うーん、やっぱり良い匂いがする・・・ねぇ、隊長?」
と、同意を求めて振り返れば、
さっきから妙に歩みの遅かった上司は、遂に立ち止まって右足の具足を外し始めていた。
途端にぎゃあっと野太い悲鳴が上がり、同僚達が我先に風上へと逃げる。
も慌てて鼻を摘みながら、
「ちょっと、やめて下さいよ隊長こんな所で!脱ぐなら宿舎に帰ってからにして下さい!!」
そう猛然と抗議すれば、片足立ちで器用に布靴を脱いだ卒伯は、
「仕方ねぇだろ!足の裏に何か刺さってて痛ぇんだよ・・それより、お前ら逃げんじゃねえ!」
傷付くだろうが!と怒鳴り返してきた。
そりゃあねぇ・・・と遠巻きに顔を見合わせる男達を代表して、
「だって隊長の足、腐ってるし・・・」
とが渋々答えれば、四十路に突入したばかりの卒伯は、
腐っとらんわ!とすぐさま否定した。
「お前らの足だって似たようなもんじゃねえか!このぉ!」
と、数多居る部隊長の中でも人格者で通っている男は、
薄情な部下達へ向かって、悪臭放つ具足を投げ付ける。
董卒伯ご乱心!と囃し立てては蜘蛛の子散らす彼等を無視して、
が甘い香りの正体を記憶の中に探し求めていると、
お!という感嘆が耳に飛び込んで来た。
見ればこの場のほぼ全員が、同じ方向を向いて同じように目尻を脂下げているではないか。
古来より、男共のこういう視線を独占出来るのは美女と相場が決まっていて、
今まさに庁舎の入り口を潜ろうとする妙齢の女を発見する。
後ろに幼い家人を従えた御令嬢は、
遠目にも出自の良さが伺える出で立ちで、
淡い琥珀色の長衣も、綺羅びやかな茜色の帯も、
そのツンと気位の高そうな目鼻立ちに良く似合っていた。
豊かな黒髪に咲きこぼれる楚々と白い花に見蕩れていると、
「誰だ?ありゃ・・」
と、自分が投げた具足を片足跳びで拾いに行きながら、卒伯が興味無さそうに尋ねる。
彼の部下達は、美女の背中が完全に見えなくなるまでしっかり見送ってから、
わらわらと鼻息荒く詰め寄ってきた。
「隊長、本気で知らないんすか!?」
「き、聞いてたのかよ・・で、あのお嬢ちゃんは何者なんだ?」
「俺ら下っ端の間じゃ、彼女の噂で持ち切りっすよ!!」
「佳い女っすよねぇ、うはぁー羨ましいぜ!楽将軍!!」
「だから、誰なんだって。な、なぁ!お前は知ってるか???」
独り者の情熱に気圧され気味の妻帯者から助けをもとめられるも、
それこそどうでも良さそうに、は首を振った。
「さぁ?でも、とっても綺麗な人で・・・」
と、取って付けたような賞賛を、
既に輪郭もあやふやな女の面影に向かって贈っていると、
首周りに無骨な二の腕が馴れ馴れしく巻き付いた。
「たっいちょー、コイツに女の事なんか聞いてどうするんすか。」
「々はお馬さんの方が好きでちゅもんねぇ〜?」
そう言いたい放題茶化しながら、
入隊した当初からの同輩はの頭をぐりぐり掻き回す。
やたら筋骨暑苦しい抱擁を躍起になって外し、
「もう!々って呼ぶな!ちゃんと笄礼だって済ましてんだからね!」
と、いかにも子供っぽい反論をぶつければ、彼等は全く取り合わないどころか、
「はぁ? 笄挿せるほど髪長くねぇだろ、お前。
そういう生意気な口は、育つもんを育ててからきくもんだ。」
「そうだぞ?さっきの美人の半分も俺らの目を楽しませられりゃ考えてやるがよ。」
これじゃあなぁ・・・と、哀れみの込もった視線をが着込んだまっ平らな胸当てに注いだ。
周囲の仲間達も概ね肯定らしく、うんうんと頷き合うばかりか、
「けどよぉ、今更が色気づいたって微塵も勃たねぇ自信があるぜ、俺。」
「俺も。中身は山猿だって分かってて誰が手ぇ出すよ。」
などと失礼極まりない台詞を吐く始末だ。
これには元々沸点の低いの団栗眼が剣呑に据わり、
次の瞬間、しつこく首に巻きついてる腕へと思いっきり歯を立てた。
「あっだあああ!っこ、こいつ噛みやがった!!」
宙に浮いたのかと思うほど跳び上がって、腕を庇いながら後ずさる悪友に、
にんまり気味の悪い笑みを浮かべて無言でにじり寄る。
完全にどん引きしている隣の先輩にも同じ笑顔を向けてやれば、
狭い犬走りは一触即発の戦慄に包まれた。
が。
「じゃれあってる所悪いんだが、誰か俺にも分かる様に説明してくれ。」
と、元通り具足を履き終えた上司がぼやいたため、奇妙な緊張感は一瞬で霧散する。
「そうそう!私も知りたい!」
熱しやすいが冷め易いのが取り柄のも、けろッと話の尻馬に乗っかれば、
二の腕に立派な歯形をつけた同輩は胡乱な流し目をくれた。
「お前も訊くのかよー。まぁ、いいや。俺も又聞きなもんであんまり確かじゃねぇんですが、
?州は衛国県に住まう名士のご息女だとか。」
「えー俺は大昔に滅んだ衛の王族の子孫だって聞いてるぜ?」
「は?地元じゃ知らない奴は居ないっつー老舗の大店の一人娘だろ?」
むさ苦しい強面を突き合わせ、口々に噂話を出し合うものの早々に収集が付かなくなり、
見かねた上司が咳払い一つで再度仕切りなおす。
「と、とにかく!その、地方で幅効かせてる御大尽がだ、
募兵のためにたまたま郷里へ帰って来てた楽将軍・・つってもその頃は無名っすけど、
そんな一介の兵卒風情に援助を申し出てくれたわけです。」
「まったく。好機ってな、何処に転がってるか分かんねぇもんだぜ。
そん時の功績を曹公に認められて、今じゃ一軍を預かる将軍様なんっすから。」
「そりゃ、たかが地方の顔役からしたら、楽将軍はとんだ拾い物だったでしょうねぇ。
なにしろ軍中随一の出世頭だもの、そりゃ娘を嫁がせようって気になるわ。」
うんうん、と頷き合う同僚達のどこか誇らしげな顔を、
は冷や水を浴びせられた心地で呆然と見つめた。
「・・じゃあ、さっきの人は楽将軍の奥方様?」
ポツンと自分の口から零れた声が思ったよりずっとしょぼくれていた事に驚いたが、
下世話な憶測で盛り上がってる連中には気付かれなかったようだ。
「さぁな。俺ぁ結婚どころか婚約したなんて話さえ聞いてねぇけど?」
「俺も。けど、将軍直属の奴等が言うにゃ、
あの美人さん、用事にかこつけちゃ会いに来てるらしいぜ?」
「そうそう、仲睦まじく宮城内を散策してるの見たって奴が大勢居るしな。」
「男と女が一緒に居りゃ間違いが起こるのは天下の常だろ。ましてや美男美女ときてる。」
くっつくのは時間の問題じゃねぇのと、新参の仲間が知った顔で語れば、
雁首揃えた男達が一斉に、
「羨ましいぃぃ!!」
と虚しい雄叫びを上げた。
いつもなら、共感せずとも興味津々で与太話に参加するなのだが、
先ほど急落した気分はちっとも上がってこない。
「ふーん・・・ま、いいや。隊長!確かこの後は別命あるまで待機でしたよね?」
これ以上聞いていてもつまらないだけだと、あっさり見切りをつけて、
同じく輪の外に取り残されている上司に予定を確認した。
「ん?ああ、たぶん今日はもう夕刻の点呼までウチにお呼びはかからんだろ。
さすがに城下への外出は許可出来んが、それ以外なら好きに過ごして構わんぞ。」
久しぶりに本拠へ戻った安心感からか、
いつもなら必ず一言戒める隊長殿も、少々甘くなっているようだ。
「はーい!それでは兵卒は厩舎にて危急の事態に備えます!」
「はあ?お前、せっかくの空き時間に何が悲しくてあんな僻地に行くんだよ?」
「どうせ出陣すりゃ嫌でも乗らにゃならんっつーのに、お前ほんと馬好きだよな。」
がびしっと供手して行き先を告げた途端、
上司が了承するより先に、仲間の呆れ声が次々と飛んできた。
「いーじゃん、別に!隆々が待ってんの!」
不機嫌にそう宣言して、頬を膨らませたままは元来た道をずんずん戻っていく。
「馬場を使うならちゃんと許可取れよ!」
という上司の忠告に、振り向いてはぁい!と返事をすれば、
「ありゃまだ暫くはあのまんまだなぁ。」
なんて誰のものとも知れぬ呟きに追撃され、
は言い返すのも腹立たしく、ふんっと踵を返した。
『 敗者にくちなし 』
(なんだよ!みんなして鼻の下伸ばしちゃってさ〜!)
未だ苛々と怒りを燻らせながら、広大な練兵場の端を荷車の轍に沿って歩いて行く。
夏に向かって日々その輝きを増している太陽が容赦なくの黒髪を焼き、
さらりと乾いた土埃臭い風が、肌に滲んだ汗を心地よく攫って行った。
遥か彼方に微かな演習の怒号を聞きながら、視線を行く先へと向ければ、
白く乾ききった泥道は緩やかな曲線を描いて雑木林に吸い込まれた。
目的の厩舎に辿り着くためには、木々を通り抜け、もう2つほど練兵場を跨ぎ、
馬場を踏み越えなければならない。
それだって、城下郊外にある放牧場に比べればずっと狭く、
1万を超える軍馬の中でも、ここにいるのはこれから出陣や訓練を控えたほんの一部だ。
(もしかしたら、隆々はもう連れてかれちゃってるかな?)
宮城内に専用の厩を持つ高官ならばいざ知らず、
下っ端の乗る馬は用が無くなれば十把一絡げでさっさと放牧場に帰される。
午前中の偵察訓練で散々乗り回した相棒は、
が昼食をとっている間に家路に着いてしまった可能性が高かった。
そうなると、上司に城内待機を厳命された身では迎えに行く事すら叶わない。
自然と歩みを早めながら、ようやく冷えてきた頭にふわふわ透き通る茜色の帯が浮かんできた。
(・・・・・やっぱり男の人って、ああいう女の人が良いのかなぁ。)
艶やかで、生まれもっての気品に溢れていて、その分少し高飛車で。
遠からず人妻となるだろう美しい女。
(楽さんも、そうなんだ・・・。)
知らず、初めて言葉を交わしたあの日と同じ呼称を使ってしまい、
胸中の事とはいえ、はしまったと顔を顰めた。
あれから幾度か楽進の元へ任務の報告に参じたが、あくまで上司の随従であり、
二人きりで言葉を交わす機会は終ぞ訪れなかった。
その後、彼が将軍職に就いてからたった一度だけ、戦場で顔を合わせた事があったものの、
すぐさまに召集がかかり、碌に話も出来ぬまま別れた。
けれど、楽進が恥じ入るように語って聞かせた夢をずっと応援していたし、
帳下の吏の激務をこなす傍ら、人一倍武技の研鑽に勤しんでいるのも知っていた。
大望を果たした今では、敬慕の念すら抱いている。
彼の弛まぬ努力と直向な熱意があったればこそ、
衛の末裔だか老舗の大店だかの名士も、援助しようと名乗り出たのだ。
(すごいよなぁ・・全部、楽将軍の頑張りだよ。)
楽進の栄達を思えば、いつだっての胸には誇らしさが溢れるのに、
どういうわけか今日に限って微かな寂しさが隙間風のように忍び込む。
憂鬱の理由が思い当たらぬまま足取りばかり早めていると、
こんもり茂った雑木林の向こうから、裸馬を複数引き連れた騎乗の一団が現れた。
先頭を務める壮年の男は、帯刀どころか兵装さえ纏っておらず、一体何者かと目を凝らす。
けれどはすぐさま破顔すると、勢い良く駆け出した。
「父ちゃぁぁん!!」
そう叫びながら芦毛の老馬の前に立ちはだかれば、
のんびり進んでいた一団は、押し合いへし合いたたらを踏んで立ち止まった。
「か!?馬鹿野郎、前に飛び出すんじゃねぇ!危ねぇだろうが!!」
そう、馬上から雷を落とされて、えへへごめぇん、とは眉尻を下げる。
「どしたの、父ちゃん?宮城に来るなんて珍しいじゃん!」
穏やかに寄せられた灰色の馬面を撫でながら上機嫌に尋ねれば、
彼女の父親はしかめつらしい顔を崩さないまま、
「夏侯将軍に献上馬を届けに来たんだよ。前々から新しい馬を御所望でな。」
そう煩わしそうに答えた。
けれど、伊達に血が繋がってる訳じゃ無い。
無精髭を散らした口元が隠しきれずに緩むのを目敏く見とめて、
(こりゃ、今回は相当自信があるんだな。)
と、はほくそ笑んだ。
父である範は、遠く濮陽の外れで家業を再開しており、
曹操軍の庇護の下、豫州でも指折りの牧場主となっていた。
通常は馬商を通して軍馬を取引しているのだが
たまに駿馬が育つと、日頃の感謝も兼ねて幕下の諸将へ贈呈するのだ。
上手く名のある将のお眼鏡に適えば、馬飼いとしての評判を上げる事も出来る。
「ところでお前、なんでこんな所で油売ってんだ?お勤めはどしたい?」
同行している古馴染みの馬丁達に向かって気安く手を振っていると、
一張羅の漢服を着込んだ範が小言染みた口調で問うてきた。
そこでハっと当初の目的を思い出したが、
「そうだ!父ちゃん、兄ちゃん達にはもう会ったの!?」
と逆に問い返せば、
「お前はぁ・・相っ変わらず人の話を聞かねぇなぁ!」
そう咬み合わない会話に呆れながらも、父は律儀に頷き返す。
の他にこの宮城内には兄が二人、
向かっていた先の厩舎で馬丁として働いているのだ。
先に兄達に会っているということはつまり、
彼等はそこからやってきたという事で。
「じゃあさじゃあさ!隆々は?隆々はいた???」
「はぁ?・・うんにゃ、見かけなかったなぁ。もう放牧場の方へ帰っちまってんじゃねぇか?」
一番聞きたかった事を勢い込んで尋ねたものの、
期待外れの答えが返ってきて、はちぇっと心底不服そうに舌打ちした。
けれど、すぐさまニヤリと含み笑いを浮かべると、
「そんじゃ私、父ちゃんについてこ!どうせ城に行くんでしょ?」
と、勝手に宣言する。
「何勝手なこと言ってやがんでぇ!大体、あっちに用事があったんじゃねぇのか!?」
「うん、もういいの。暇だから隆々に会いに来ただけ。でも居ないんじゃしょうがないや。」
「唐や浩にも会いに行ってやれ。お前も許昌は久しぶりなんだろ?」
「兄ちゃん達には帰ってきた日に顔を見せたよ。それに、父ちゃんと一緒の方が面白そうだもん。」
そう言いながら、そわそわ身動ぎしている裸馬の中から人懐っこそうなのを物色するに、
薄情な妹だ、と範は己が娘に向かって鼻白んだ。
散々迷った挙句、相棒と同じ青馬を選んで、
意気揚々その背に乗ろうとしていると、
「おい!一緒にくるってんなら、お前はこっちだ!」
と、彼女の父親は徒歩で付き従う馬丁の一人に目配せする。
すると彼は苦笑しながら、申し訳無さそうに手にした木桶と小さめの鋤を差し出して来た。
嫌な予感を覚えて、往生際も悪く馬の鬣に指を絡めたままが縋るように範を振り仰ぐ。
だが父はさも楽しそうな様子でにぃっと大きく口端を上げると、馬糞拾いだ、と無慈悲に宣告した。
ぽっくりぽっくり、なんとも暢気な蹄の音を立てて、裸馬の一団が庁舎の間を通り抜ける。
「大体お前は昔っから、後先考えずに好き勝手突っ走りやがって。
俺ぁ隊長さんの苦労を思うと、心底申し訳ねぇよ。
母ちゃんがどんだけ気を揉んでるか・・・。」
分かってんのか?と頭上から何度目かの念押しが降ってきて、
はぎりぎり歯噛みしながら、分ぁかってるってば!と叫び返した。
自分で馬糞を拾うよう命じたくせに、範は宮城へと向かう道すがら、
ずっとを隣に従え、お説教を垂れ流し続けている。
(あーあ、こんな事なら兄ちゃん達の方に行けば良かったや。)
活躍の機会をあまり与えてもらえない木製の鋤を担ぎ直し、
そう胸中で愚痴を零してみるが、どうせ似たような事言われるだけだと思い直す。
血は争えないとは、一体誰が最初に言ったのか。
「親父に向かってなんだその態度は!
そもそも、俺は許したわけじゃねぇからな!偵察兵なんて死にに行くようなもんだろうが!
夏侯将軍直々の申し入れじゃなきゃ、何が悲しくて末娘を・・・。」
激高したかと思いきや、今度は涙ぐんで鼻を啜りだす範を見上げ、
起伏の激しい性格は父譲りだなと妙に納得した。
元はといえば、が兵卒となったきっかけも、献上馬であった。
まだ彼女がようやく13の歳を数えた頃、
稀に見る上馬に育った隆々を、献上馬の目玉にしようという話が持ち上がった。
なんでも、その昔の曾祖父が、遥か大宛より来たという馬商から六博で巻き上げた、
たいそうな名馬の血を引いているらしい。
曾祖父さんは死ぬまで、あれは伝説の汗血馬だった、と豪語していた。
父の範は眉唾ものだと取り合わなかったが、
とまれ、隆々が優れた駿馬であるのは事実であったし、
にとっては、それこそ姉弟同然に育った相棒が奪われる危急の事態だった。
隆々は手の付けられない悍馬だ!
私でなければ到底宥められない!
もし将軍の御前で暴れ出したなら、一族郎党手打ちに合うぞ!
そう、毎日毎日父の後ろにへばりついて呪詛のように説得を繰り返し、
ようやく宮城まで同行する許可を取り付けた。
予想通り、試乗したいと言い出したどこぞのお偉いさんを振り落とし、
鼻捻棒片手に寄ってきた馬丁共を散々蹴散らして怒り狂う隆々に、
は待ってましたとあっさり跳び乗ると、そのまま馬場の柵を悠々越えて逃走した。
呆気にとられるお歴々や父親の顔を思い出すにつけ、の溜飲は大いに下がったが、
結局空腹には耐えられず、愛の逃避行は丸一日であっけなく終了した。
けれど、打首も覚悟で戻ってきた宮城で待っていたのは、
見たことも無いほどの渋面をした範と、
これまた見たことも無いほど恐ろしい面相の立派な将軍様で、
脳天が割れるほど強烈な拳骨一発と引き換えに、
は隆々共々偵察兵として召し抱えられる事になったのだった。
「もぉー、何年前の話を持ちだしてんのさ。私しか乗り手が居ないんだからしょうがないじゃん!
それより、かの有名な夏侯将軍から、あの馬をただ種馬として飼い殺すのは惜しい、
なんて御言葉まで頂けたんだよ?さしてお咎めも無かったわけだし、父ちゃんは贅沢だよ。」
「うるせぇ!そもそも全部お前のせいだろうが!ガキが生意気言うんじゃねぇ!!」
父の乗る老馬がぽろぽろ落とす糞をせっせと拾いながら、
が賢しらに諭せば、父は情けない鼻声で怒鳴り返してくる。
泣くか怒るかどっちかにすりゃ良いのに、と呆れながら、
「それにもう私は立派な大人だよ。父ちゃんが無理矢理笄礼させたんじゃないか。忘れたの?」
そう反論すれば、
「あぁん?まだ嫁の貰い手も居ねぇくせに笄なんか差させやがって。
お前はうちで唯一の娘なんだぞ!?
母ちゃんに晴れ姿も見せてやらねぇ内に、何かあったら遅ぇだろうが!!」
この親不孝もんが!とますます噛み付かれた。
長い事顔を見ていない母の話を持ちだされては、
こちらとしても口籠るしかなく、は苦し紛れにちぇっと舌打ちする。
対照的に、鬼の首でも取ったような顔をした範が、
なおも口を開こうとした所で、一行は高官用の厩舎に続く門前へと到着した。
「失礼、私めは馬飼いの範と申す者。
後ろに控えておりますのは当方子飼いの馬丁達でございます。
本日は届け出ました通り、献上馬をお持ち致しました。
どうか夏侯将軍にご検分のほど、お取次ぎ頂きたい。」
馬を降り、慣れた様子で門番に参内を願い出る父の隣で、はうきうきと心を踊らせた。
何しろ、この門の向こうには、曹操軍幹部所有の名馬が一同に顔を揃えているのだ。
おまけに献上馬の検分ともなれば、夏侯惇を筆頭に将軍職も何人かは呼ばれるだろう。
(もしかしたら、楽将軍も居るかも〜。)
そう思うと、堪え切れぬ笑みで口許がだらしなく緩む。
けれど、門番が4人がかりで押し開いた扉を、父の背に続いて意気揚々通り抜けようとした所で、
待ったがかかった。
「、お前はあいつらと一緒に残って、拾い損ねた馬糞がねぇか探して来い。」
粛々と歩みを止めぬまま振り返った範にそう言いつけられて、
人目も憚らずえぇぇえっ!?と大声を上げる。
私も行きたい!と遠慮もへったくれも無く詰め寄れば、
「一介の兵卒風情が入れる所じゃねぇんだよ。残念だったな!」
しっしっと、まるで野良猫を追っ払うように手を振って、実の父はニヤニヤ門の中に消えていった。
ゾロゾロと裸馬の群れがそれに続き、やがて門番と数人の馬丁を残し、元通りに扉が閉まる。
「こぉんのクソオヤジぃぃぃ!!」
と、門番の冷たい視線にもめげず、中に向かって罵倒したものの、
微かな馬の嘶きが聞こえてくるばかりだ。
そんなに落胆しなさんな、と長年父の下で働いている年配の馬丁に慰められ、
は仕方なく来た道をトボトボ戻り始めた。
身分の上下、文官武官の別に関わらず、通路を行き交う人々は皆忙しなく、
ダラダラと足を引きずって進むを、迷惑顔で追い越していく。
「さーん、急いで下さいよー。」
と、だいぶ先の方から馬丁の一人が声を掛けてきたが、
やる気なく鋤を振り返すだけで、追いつこうと試みすらしなかった。
それでも、練兵場の入り口辺りまで引き返せば、桶は馬糞でいっぱいになる。
これはもう拾えないなぁ、と期待の眼差しを馬丁達に向ければ、
彼等は苦笑いを浮かべ、後は自分達だけで大丈夫だと、帰還の許しをくれた。
もう少し先まで見て回るらしい馬丁達へ向け、頑張ってねー、とお座成りの声援を送って、
は打って変わった軽やかな足取りで厩舎の門へと急いだ。
なんとしても、父親が用事を終えるより早く帰り着かねば。
(こんなに扱き使われたんだもん、絶対中に入ってやる!!)
せっかく拾った馬糞が零れ落ちそうな勢いで前のめりに歩きながら、
どうやってあの重たい扉を門番に開けさせるか、あれこれ考えを巡らせる。
すると、まだ見ぬ名馬達に思いを馳せつつ息せき切って帰るの鼻に、
ふわりとまたあの芳醇な香りが忍び込んできた。
(まただ・・・これって何の匂いだっけ?絶対知ってるはずなんだけど・・・)
立ち止まり、そこそこ広い路地を見渡すものの、
両側とも庁舎の壁が続くばかりで犯人の姿は見当たらず、首を傾げて唸る。
(美味しそうって感じじゃないから、たぶん花の香りなんだろうけど。
あああ、あとちょっとで分かりそうなのにぃ!!)
ど忘れというのは一度気になりだすと、思い出すまでどうにも頭から離れなくなるものだ。
当初の目的などすっかり放り出し、ブツブツと記憶の箱を引っ掻き回していると、
進む先の曲がり角に奇妙な人だかりを見つけた。
途端に謎の香りはの脳裏から消え失せ、野次馬よろしく爛々と目を輝かせながら、
そちらへふらふら寄っていく。
居並ぶ見物人達は、後ろから割り込もうとするへ向かって、最初こそ邪魔そうな視線を寄越すが、
彼女が手にしている馬糞桶に気付くと、大変快く道を開けてくれた。
「はいはい、前を失礼ー。」
そう断りを入れつつ、聴衆の先頭へ強引に進み出れば、彼等が遠巻きに見つめる先には、
腰に剣を佩いた兵装の男と押し問答している、件の美女が居た。
おおよそ楽進の婚約者と認知されている佳人は、目にも彩かな薄絹の袖を振りかざし、
彼の向こうに聳える、厩舎への門をしきりに指差している。
「わぁ、なにこれ。ねぇねぇ、あの人どしたの?」
と、人混みの中から、最近楽進麾下へと引き抜かれた同僚を見つけて、
興味本位丸出しでひそひそ尋ねれば、
ますます精悍な顔立ちになった元偵察兵は、嫌悪も露わに見てりゃ分かると吐き捨てた。
はて、こいつはこんなに無愛想な男だっただろうかと首を竦めつつ、視線を門前へと戻せば、
御令嬢は家人の少年が止めるのも聞かず、ますます金切り声を張り上げていた。
「ですから!わたくしにはその門を通る資格が十分にあると申し上げているではありませんか!
仮にも父、姫尚の名代としてこちらへ参っているのですよ?
我が父がどれだけ曹公と懇意にしているか、貴方はご存知ないのかしら!?」
周囲に響き渡る高慢な台詞に大体の状況を理解して、
(ははっ、私以外にも中に入りたい人、発見。)
とは生温い笑みを浮かべる。
その間も彼女の剣幕は留まることを知らず、
「楽将軍も楽将軍ですわ!客人が来ているというのに馬の検分などと・・。
まず副将である貴方がお諫めするべきではなくって?」
そう、臆すること無く目の前の年長者を叱りつけた。
良く良く顔を見れば、彼は楽進配下の副将の一人で、
仕事とはいえ気の毒にと、人だかりのあちこちから密やかな同情が集まる。
立場上、平身低頭を貫くしか無いとはいえ、
一角の将が小娘に罵倒される様は見るに耐えない。まして直属の上司なら尚更だ。
これは確かに気分が悪くなると、先ほどの元同僚の態度に納得する。
しかも、彼女はその美しい顔に傲慢さをより一層滲ませて、不穏な方向へ暴走し始めた。
「やはり、あの御方が礼節を重んじて下さらないのは、
元は卑しい身分であらせられるからかしら。
それとも将に昇進なさったとたん、
我が父への恩義など泡沫のように消え失せたとでもおっしゃるの?」
一体誰についての嫌味なのかはっきり言及していないが、
鮮やかに紅が引かれた厚めの唇がそう零した途端、野次馬の一部がざわりと殺気立った。
気色ばんだのは間違いなく楽進配下の兵士達で、
もちろんも、そいつは聞き捨てならないと顔色を変える。
この場の空気にいち早く気付いたのは主人の後ろでオロオロ狼狽えていた家人の少女で、
どうかお気をお沈め下さい、と涙目になって懇願するものの、
当の本人は大衆に背を向け続けているため、自分がどれほど危うい発言をしているか理解できない。
「まったく・・・ご自分のお立場を少しはご理解願いたいものだわ。
悠長に馬なんて選んでいられるのも、陥陣都尉などと武張っていられるのも、
全てはわたくしの父の援助があったればこそ!」
と、醜い嘲笑を浮かべた女の顔は、先ほど遠目に眺めた淑女のものとは到底思えず、
は、お前が言うなと、ぐつぐつ煮え滾り始めた腹の底で大いに憤慨した。
周囲の見物人も、ほとんどが怒りに目を据わらせていて、
これはいよいよ乱闘か、という雰囲気であるが、ここで参戦するわけにはいかない。
(くっそー!物凄く言い返してやりたい!!でもでも、私どうしても厩舎に入りたいんだもん!)
そう、堪忍袋の尾を必死に繋ぎ止め、
混乱に乗じていつでも門に滑り込めるよう身構えただったが。
「もし父が手を差し伸べねば、あの方は今も惨めな兵卒のまま、
身の程知らずな夢に一生縋り付いていた事でし「煩いっ!お前なんかに将軍の何が分かるってのさ!!」」
と、気付いた時には馬糞桶を掴んだまま、たった一人聴衆の輪から跳び出していた。
さっき不機嫌に八つ当たりしてきた元同僚はもちろん、この場に居る全ての者の視線が、
一点に集中する。
「な、なんですの、貴女は!?」
甲高く裏返った女の声が、しんと静まり返った通りに響くが、
頭の天辺から間欠泉が噴き出しそうな勢いで激高するの耳には入らなかった。
楽進の夢は、いわば曹操軍に籍を置く兵卒全ての夢だ。
帳下の吏という、武功とは程遠い境遇に有りながら、
決して腐らず、諦めず、志を折らない彼の姿は、
いつ何時荒野の骸と成り果てるかも分からぬ下っ端兵にとって、希望そのものだった。
だからこそ、楽進配下はその末端まで己が大将に心酔し、無謀極まりない突撃にさえ喜んで付き従うのだ。
楽進がどれほど勇敢に戦場を駆けるか。
その魂がいかに高潔であるか。
(お前等なんかの助けを借りなくったってなぁ!楽さんは絶対、絶対将軍になったんだ!!)
そう怒り狂う胸中で声を限りに叫ぶものの、頭に血が登りすぎているせいか、
「くそっ!このっ!おまっ、お前!お前なんか、っっばかぁ!」
と、はまるで要領を得ない単語ばかり言い募った。
最初こそ動揺していた女も、すぐに勢いを取り戻し、
「なんと野蛮な・・・父上は、意気盛んで実に規律正しい軍だなどと申しておいででしたけれど、
底辺の兵卒に至っては、やはりこの程度。
部下がこの様ですもの、上に立つ楽将軍の教養も知れたものですわね。」
そう言って、猫が鼠を甚振るようにジロジロとこちらの姿を眺め回した。
もはや言葉さえ失ったが、頬をぱんぱんに紅潮させ、
ふてぶてしい笑みを浮かべる女へと、掴みかからん勢いで詰め寄る。
けれど何の因果か悪戯か。
満杯の桶から馬糞がポロリと零れ落ち、それをの踵がものの見事に踏み抜いた。
ずるりと足の裏が横滑りし、平衡感覚を失った体は慣性に従って前のめりに倒れこむ。
咄嗟に地面へと両手を着いたため、なんとか顔面を殴打するのだけは回避したが、
握っていたはずの鋤と馬糞桶はどこかに姿を消していた。
瞬きほどの間を置いて、カランカランと乾いた音が次々に鳴り響く。
「痛ぁ・・・・」
と、砂利がこびり付いた掌を叩きながら、あちこち鈍痛を訴える体を起こしたが見たのは、
地面に転がる空っぽの馬糞桶と、
琥珀色の長衣を馬糞まみれにしてワナワナ震えている御令嬢の姿であった。
肩口からひざ下までばっさり斜めに走っているのが真っ赤な鮮血だったならば、
綺羅びやかな衣装と相俟ってさぞ悲劇的な美しさであったろうが、
出したてほやほやの芳しい馬糞では、誰の目にも滑稽にしか映らない。
「・・・・・ご、ごめんなさい。」
と思わずが謝ったのをきっかけに、聴衆は爆笑の渦に包まれた。
哀れなほど顔を青くしてその場に座り込む家人の少女と、
丁度御令嬢が盾になって被害が最小限に済んだ副将と、
未だ膝立ちで呆然と辺りを見回している。
そして笑われている本人だけが、不気味な沈黙を保っている。
(ど、どうしよう。ここはみんなと一緒に笑い飛ばすべき???)
ゆっくりと立ち上がりつつ、へらっと頬を引き攣らせ誤魔化し笑いを御令嬢へと向ければ、
美しい白面がみるみる鬼の形相へと変貌した。
ひぃっとが恐怖に息を呑むより早く、彼女はつかつかと間合いを詰めたかと思うと、
大きく右手を振りかぶった。
やけにゆっくり迫り来る白魚の手を見つめ、
まぁ一発くらいは甘んじて受けるべきだろうと、刹那の合間での脳が判断する。
やがて訪れる衝撃に備え歯を食いしばるのと同時に、思った以上の痛みが左頬を襲った。
叩かれたのだからそりゃ痛いに決まっているが、
それでもこの程度ならば、兵役を務めているにとっちゃ耐えられないものじゃない。
けれど終わったと気を緩めた瞬間、二発目の衝撃が右頬を襲い、
すぐさま左頬に三発目が弾けた。
瞼の裏にちかちか火花が散って、口の中にじわっと血の味が広がる。
それでも素人相手に遅れを取るほど、も落ちこぼれではないから、
四発目を見舞うべく迫ってきた手の甲を、一回り大きな手で掴み取った。
「っ・・ゃんと私謝ったのに・・・3回も殴ることないじゃんかぁぁああ!」
そう雄叫びを上げながら、間髪入れずに足払いをかければ、
眦に色粉を掃いた大きな瞳を驚愕に見開いたまま、女は呆気無く地面に転がった。
一応、頭を打たぬよう掴んだ手は離さないでおいたが、
それが彼女の復活を早めたのだろう。
つぅっと鼻の奥から垂れてきた生温い血液を、親指の腹で煩わし気に拭っていたは、
突然右足に走った激痛に声にならない悲鳴を上げた。
見れば倒れこんでいたはずの御令嬢がこちらの足を両腕で抱え込み、
脹脛に噛み付いているではないか。
振り解こうと足を振って暴れれば、逆に引き倒されて尻餅をつく。
慌てて起き上がろうとするの上に、もはや髪も衣装も化粧すら崩れかかった女が馬乗りになった。
「よくも!下賤の!分際で!このような!辱めを!わたくしにっ!!」
そう狂犬のごとく吠え立てながら、胸ぐらを掴んでがっくんがっくん力任せに地面へと打ち付ける。
後頭部に走る衝撃に顔をしかめて耐えながら、
「だからっ!悪かったって!言ってるじゃんかぁあ!」
と、全身の筋肉を総動員して、上に覆い被さる女ごと寝返りを打った。
きゃぁという悲鳴ばかりしおらしくひっくり返った御令嬢へと、
今度はが馬乗りになって両腕を抑えにかかるも、
敵は鋭利に尖らせた爪で腕だろうが顔だろうがお構いなしに引っ掻いてくる。
あやうく目潰しをくらいかけて怯んだ隙に、再び態勢をひっくり返された。
そうやって散らばった馬糞の上を右に左に転げまわり、
なんとかが暴れる彼女をうつ伏せに押さえつけ、腕を背にねじり上げる。
「この・・恥知らず!わたくしを・・こんな目に合わせて・・どうなるか分かっているのでしょうね!!」
はぁはぁと肩で息をつきながら、それでも好戦的に目を血走らせる様は、
呆れを通り越してむしろ賞賛すら送りたい気の強さだ。
痛い!放して!と喚き散らしながら、隙あらばこちらに蹴りを入れようと足をバタつかせるから、
大興奮で野次を飛ばす見物人達に中身が見えやしないかと、のほうが冷や汗をかいた。
怒りが天元突破していた間は、しがらみなんてものはお空の遥か彼方に飛んでいっていたが、
理性が戻りつつある今、いくら馬鹿の阿呆のと言われるとて、
己が何をやらかしたか理解出来る。
色々ともう手遅れだが、一番の問題はこの御令嬢が楽進の支援者の愛娘であるという事実だった。
もし彼女の父親から怒りを買ったとして、被害を被るのはよりもむしろ楽進の方だ。
ようやく叶った彼の悲願が、水泡に帰すなんて事態になったら・・・。
(でも・・・!だって・・・!!)
今にも後悔のどん底へと落ちていきそうな己を、必死に反論することで押し留める。
どうしても許せなかった。
彼の夢を馬鹿にされた事が。
叶うはず無かったと決め付けられた事が。
彼の伴侶に選ばれた人だからこそ、尚更。
しかし、どうにか正当化しようと自分に言い訳を繰り返すの目の前で、
審判の門が厳かに押し開かれる。
「・・・おい、こいつは何の騒ぎだ。門番!」
と、重低音の渋い声が地を這うようにして身体の芯を震え上がらせ、
汚い罵声も下品な歓声も、あっという間に鎮火した。
圧倒的な威圧感を振りまいて、男が一歩また一歩と門の外へ出てくれば、
関係の無い者はそそくさとその場を立ち去り、
軍籍に身を置くものは、一斉に跪き拱手する。
も後から後から嫌な汗が背中を伝うのを感じながら、
脱兎のごとく御令嬢の上から飛び退いて、その場で深く拱手した。
さすがの跳ねっ返りも、大慌てで起き上がり、恥じ入るようにひれ伏している。
凍りつくような緊張感に満たされた通りを、ゆっくりと睥睨した後、
猛将夏侯惇は、その険しい両眼を再びへ向けた。
「顔を上げろ・・・これは一体何の騒ぎだ。」
と、尋ねる声は静かだが、目に見えない重圧がの肺を押しつぶし、
重ねた掌にぐっしょり汗が滲む。
下手な言い訳など無用。
正直に真実を話すしか無いと、意を決してが顔を上げた所で、
中途半端に開いた門から、もう一人人影が躍り出た。
「姫氏様?姫氏様ではありませんか!これは・・・酷いですね。なにゆえこのような。」
と、平伏したままの御令嬢に真っ直ぐ迷い無く歩み寄ったのは、
あれほどが会いたいと思っていた、楽進その人である。
彼女を庇うように片膝をついた楽進が、所々爪の割れた手を優しく取れば、
さっきまでの強気が嘘のように、女はぽろぽろと大粒の涙を零し始めた。
わぁっと咽び泣きながら、その胸板に縋り付く御令嬢を、難なく受け止めて、
困惑気味に顔を上げた楽進と目が合う。
その唇が小さく殿・・・と動いたのを見届けて、
はいっそ消えてしまいたいと、きつくきつく瞼を閉じた。
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