つい先ほどまで、欠伸を噛み殺す番兵以外、人っ子一人居なかった懲罰場は、

今や押せや押すなの大盛況であった。

見物人の顔が鈴生りになった竹柵の内側。

所々赤黒い血痕の跡がこびり付いている石畳の上で、

は小さく身を縮めてひれ伏している。

隣には、仮眠を叩き起こされ、血相変えてこの場に駆けつけた卒伯が、

同じように地面へと額を擦り付けていた。

彼女らの正面。前庭と同じ幅で作られた石段の最上段には、

書記官を従えた渋面の夏侯惇が、胡床にどっかり腰を据えていた。

彼の後ろには、独房や拷問部屋を備えた兵卒専用の牢獄が、ぽっかりとその口を開けており、

禍々しい伏魔伝を背負うその姿は、罪人に天罰を落とすという雷公もかくやの恐ろしさである。

せめて慈悲深い裁きを期待したいところだが、

彼の隣で涙目の美女がの非道を延々訴え続ける限り、一縷の望みも無いだろう。

がここへ連行されてくる間に、湯浴みでもしたのか、

御令嬢は髪も顔もこざっぱりとしており、服に至っては綿織りの女官服であった。

それでも、未だ土埃と馬糞に塗れ、兵装も解いていないよりはよほど美しかったが。

他に、が所属する軍の統括であり本来なら量刑を決めるべき楽進と、騒動の当事者である彼の副将。

同じくあの場に居た家人の少女が、壇上の隅に控えていた。


「ですから、わたくしはただあの門を通して頂けるよう、お願いしていただけ。

悪いのは全て、そんなわたくしにいきなり悍ましい汚物を投げつけ、

あまつさえ無理矢理地面へ引き倒した、その兵卒ですわ!

あのような辱め・・・思い出すだけでも耐えられないっ・・。」


そう芝居がかった仕草で目元を押さえ、御令嬢が顔を背けると、

ただ黙って囀りが途切れるのを待っていた夏侯惇が、ようやく重い口を開ける。


「聞いての通り、この姫氏とやらが、お前の狼藉を訴えている。

常ならば下の始末は上がつけるもんだが、楽進は姫氏の父君に恩義があるゆえ、

公平な判断に欠けるやも知れん。

まぁ、居合わせた以上知らぬ存ぜぬとはいかんのでな、今回は俺が裁きを下す。良いな?」


騒がしかった場内が水を打ったかのように静まり返り、

ははっ、という高音と低音の小気味よい返答が2つ空に響いた。


「ならば、に訊く。この女の申し立ては全て、嘘偽りの無い真実か?」


ただ聞いているだけで威圧されてしまう大将軍の声を、

一言一句違わぬよう耳を済ませて咀嚼したは、

だが灰色の石床を見詰めたまま、無言を貫いた。


「ど、どうか、今しばしお待ち下さい!このような詮議の場においては、

我等のような無学の徒は、緊張のあまり言葉も覚束なくなるものにございます。

まして、この者はまだ若輩。身の潔白を証明するにも、

失礼が無きよう慎重をきすのは道理というもの。

・・・・・・お、おい!なんでもいいから早く弁解しろ!」


と、懸命に時を稼いでくれていた卒伯が、にしか聞こえない小さな声で訴えるのだが。


(ごめんなさい、でも何も出てこないんだ・・・)


いつもなら、屁理屈も誤魔化しもいくらだって思い付くのに、

今もずっと気遣わしげな視線を向けてくれているだろう、壇上の楽進を思うと、

言い訳する事は出来なかった。

もしが我が身可愛さに真実を話せば、

彼が憎からず想っているだろう女の本心を暴く事になる。

だからといって口から出任せに事の顛末を語れば、

夏侯惇から矛盾を追求されかねない。

何より、楽進の功績を貶める台詞を自ら口にするくらいなら、

一人で悪者になる方がよっぽど良かった。


「何も申し開きは無いのか?このままなら、お前は間違いなく打擲刑だ。

それも、1発や2発じゃ済まんだろう。その細身では、下手をすれば死ぬぞ?」


黙秘を続けるの背中に、夏侯惇の言葉が恐怖となって重く伸し掛かった。

まだ入隊したての頃、気性の荒い偵察兵の面々と軽い軍規違反を繰り返し、

その都度背中に刻まれた激痛が、遠い記憶の彼方から蘇る。

身体が勝手に緊張していき、全身から脂汗が吹き出したが、

は今にもカチカチ震え出しそうな歯を力いっぱい噛み締めた。


もとより、楽進のために死ぬと決めて戦場に立っている身だ。

何を迷う事がある。


みっともなく声が揺れないよう腹に力を込めて、ありません、と答えようとした所で、

背後の人だかりから、


「恐れながら!具申申し上げます!!」


と、喉も裂けそうな叫び声が上がった。

周囲に再びざわめきが広がる中、


「いいだろう、言ってみろ!」


と、夏侯惇が吠える。

柵を乗り越えの隣に跪いた乱入者を、驚愕の眼差しで見上げれば、

極度の緊張に顔を強張らせ拱手しているのは、見てりゃ分かると言った、あの元偵察兵であった。


「発言のお許し、有難うございます!

ここに居る兵卒は、法副将に対するお客人の横暴を見るに見かね、止めに入っただけでございます!

御客人が御婦人であらせられたため、同じ女人の兵卒が任を負った次第であります。

その後、御客人が抵抗したため、やむなく取り押さえましたが、

決して狼藉を働いたわけではございません。」


彼の懸命な申し立てが終わって、混乱気味のもようやく助けられたのだと理解した。


「副将!こいつはこう言ってるが、お前はどうだ?」


と、ずっと後ろに控えていた当事者へ夏侯惇が声をかければ、

深く頭を下げ、一歩前に進み出た副将は、拱手したまま厳かに口を開く。


「はっ、その者の申す通りにございます。

こちらの姫氏様は、楽将軍の元にお父君の書簡を届けると仰せになられ、

本城内の厩舎へお連れするよう、私に申しつけられました。

しかし、軍規が定めます通り、予め届け出ていない者は何人たりとも本城内に入る事は許されず、

その旨、姫氏様には再三に渡りご説明したのでございますが、了承を頂けず、

門前にて押し問答となっておりました。

元はといえば騒動の発端は、御客人をお諌め出来なかった私の不徳にございます。

兵卒に罰をお与えになるならば、私にもどうか相応の処分をお下し下さい。」


お願い申し上げます、と締めくくって、再び後ろに下がった副将を、

己の勝利に絶対の自信を持っていた御令嬢は、愕然と凝視した。


「お、お待ちくださいませ!確かに、わたくしは法副将にご無理を申し上げたかも知れません。

しかしだからといって、それを理由にこの者の狼藉をお許しになると言うのですか?

この者はわざわざ馬糞を用意し、出会いしなにいきなり浴びせかけたのでございますよ!?」


彼女はすぐさま哀れみを誘う涙声で反論すると、

最終的な決定権を持つ男の膝へ縋り付かんばかりに跪く。

しかし、またしても聴衆の中から手が上がった。

姫氏から距離を取るようにして立ち上がった夏侯惇がゆっくりと頷けば、

また一人兵卒が走り込んでくる。


「つい半刻前に交代するまで、厩舎の門の番を務めておりました!

そこにいる兵卒は、献上馬を連れて参られた範殿に、

道すがら取りこぼした馬糞を拾ってくるよう命ぜられておりました。

御客人と法副将が門前に参られるよりずっと前の事にございます。」


確かか?と尋ねられ、名も知らぬ門番は拱手したまま、はい、ときっぱり肯定する。


「おい、どうなんだ?そいつの言ってる事は正しいのか?」


と、夏侯惇の峻厳な視線がこっちに向いたため、は無言のまま何度も必死に頷いた。


「ほう・・・となると申し立てにあるような狼藉は全く無かったという事になるな。」

「う、嘘ですわ!その女も、門番も、口裏を合わせて、将軍を謀っているのでございます!!」


腕を組み、その無骨な顎を指で撫でながら、熟考するように目を細める夏侯惇へ、

ついに余裕の無くなった姫氏が、淑やかさをかなぐり捨てて金切り声を張り上げる。

それと同時に、柵の向こうから次々と兵卒が滑り込んできた。

の周りに平伏しながら、


「恐れながら、俺も見てました!こいつは故意に馬糞をぶっかけたわけじゃないんです。

止めに入ろうとして自分が落とした馬糞に滑り、引っ繰り返っただけなんです!」

「その後、ちゃんと謝罪もしていました!それなのに、先に兵卒を平手打ちにしたのは、御客人の方です!」

「実際、兵卒は拘束する以外の目的で、暴力は一切振るっておりません!」


そう御令嬢へと口々に言い返す。

呆気に取られたが、座礼を科されている事も忘れて彼等の方を見つめれば、

それぞれ血の気の引いた青い顔が、引き攣った笑みを浮かべ、賛同の意志を示してくる。

即ち、が罰を受けてでも胸に秘そう決めたものに気付いている証で、

途端に喉の奥が情けなく痙攣し、慌てて石床に伏せなおした。

中に入りこそしないものの、野次馬達の間からも、そうだそうだ!と援護射撃が加わる。

だが、額に見事な青筋を浮かべた夏侯惇が、


「黙れぇい!!以後、俺の許しなくこの場に乱入した者は、全員首を刎ねる!」


と鼓膜がビリビリ痺れるほどの大声で一喝すれば、

見物人は野次はおろか衣擦れの音一つ立てぬほど大人しくなった。

彼等の様子に清々したと一つ鼻息を吐いて、

大将軍は書記官へ目配せすると、悠然と胡床に座りなおす。


「では、裁可を下す。一つ、待機中に所定の兵舎を離れ、危急の事態に対する備えを怠った罪。

一つ、宮城内の門前に馬糞を振り撒き、公道の衛生を著しく貶めた罪。

以上により、兵卒、貴様には汚した門前の清掃、

及び一昼夜の飲食禁止、三日間の独房入りを申し付ける。

刑の監督は董卒伯、お前がやれ。

なお、この裁きに異存のある者は、それ相応の理由をもって今この場で夏侯元譲に申し立てよ。」


低く渋味を帯びた声が朗々と刑の裁量を告知すると、

はもちろん、隣で事態の推移にハラハラしていた董卒伯や、加勢に入った兵卒達、

じっと夏侯惇の後ろで思い詰めた顔をしていた楽進までが、盛大に胸を撫で下ろした。

が、それで大人しく引き下がるようなしおらしい女なら、

そもそも兵であると取っ組み合いの喧嘩なんかしないわけで。


「大いに異存がございますわ!わたくしにあれほどの無礼を働いておいて、

この女は罰を受けるどころか、殆ど無罪放免ではありませぬか!?

夏侯将軍ほどのお方が、衛国姫姓の長たる姫尚の名代よりも、

愚劣な兵卒風情の言い分に信を置くなんて・・・。

曹公とわが父との末永い友好を案じめされるならば、どうかお考え直し下さいませ!

そして、狼藉者に相応の処罰を!」


案の定、門前で副将に無理難題を要求した時と同じ態度で、彼女は夏侯惇に撤回を迫ったが、

彼がやれやれと心底面倒そうに胡床から立ち上がると、さすがに怯んで口籠った。

なにしろ相手は曹操軍筆頭武将、夏侯元譲である。


(そうじゃなくたって、あんなおっそろしい顔の大男に見下ろされたら、

一目散に逃げ出しちゃうよ。私なら。)


仮にも夏侯惇のおかげで、叩き殺されずに済んだというのに、

はそう胸中でぼやいて縮み上がる。

まさか情けをかけてやった罪人にそんな評価を受けているとはつゆ知らず、

夏侯惇は気丈に見上げてくる小娘を、その眼力で容赦なく威圧した。


「そのくらいにしておけ。貴様に罪を問えぬわけではないのだぞ。

どんな要件の客であれ、許可が降りるまでは庁舎の客間で待つのがこの城の決まりだ。

それを好き勝手歩き回った挙句、門に押し入ろうとは、

間者の疑いで捕縛されても仕方のないところだ。

だが、今回はそこの副将が常に随行していたゆえ不問としたのだ。

せいぜい楽進の采配に感謝するのだな。」

「だ、だとしても・・・父上がお知りになれば!」


台詞の割には全く相手にしていないのが丸分かりな彼の態度に、

姫氏はまたも伝家の宝刀を抜こうとしたが、


「勘違いするな。たかが一豪族の助力と法の厳守とを天秤にかけたなら、

必ず後者を取る。孟徳はそういう男だ。」


ギロリと音が聞こえそうな流し目を向け、夏侯惇はそう言ってとどめを刺した。

みるみる内に、御令嬢の大きな瞳が本物の涙で潤み、

助けを求めるようにして楽進の方へと振り返る。

しかし、追い打ちをかけるようにして夏侯惇が、


「楽進、後はお前に任せるぞ。さっさと連れて行け。」


と、どこか疲れた声音で命じ、当の楽進も彼女にただ、参りましょう、とだけ告げた。

そこでようやくこの場に味方など居ないと観念したのか、

化粧が無くとも十分に麗しい顔をくしゃくしゃに歪め、姫氏は楽進に促されるまま踵を返した。

その後ろを始終背景と化していた家人の少女が大慌てで追いかける。

けれど、細い肩を震わせ頼りなく零した真珠のような涙が、実は悔し涙であると、

その場の誰もが確信していた。







茜に染まった西の空を烏の番が鳴きながら飛んで行く。


「っはぁ〜、おっまえ今回ばかりは俺も心底肝を冷やしたぞ。

まさか、曹公とも懇意の人物に喧嘩売るなんて、本当に殺されちまうところだった。」

金輪際お前に単独行動はさせないからな、と半眼で苦言を呈す監視役の上司に、

「たーいちょー、正しくは曹公とも懇意の人物のご息女様でありまーす。」


と、もはや広がり過ぎて土か馬糞か分からなくなってるものを、鋤で拾い上げながら、

がどうでもよさそうに訂正する。

そのまま少し離れた馬糞桶の中へ放り込んだが、

適当にしたせいか半分近くが縁から零れ落ちた。


「おい!これも罰の一つなんだぞ。もうちょっと真面目にやれ、真面目に!」


そう、董卒伯殿のお怒りを受け、は不満タラタラ、へーいと返事を返す。


「だぁってー、私明日の夜までご飯抜きなんですよぉ。

今だって腹の虫が鳴きっぱなしなのに。」


こんな事なら昼飯を思いっきり食べ溜めしときゃよかったや、と拗ねるに、

食べ溜めなんて出来るもんなのか?と、とばっちりで付き合わされている上司は首を傾げた。

ひと気の無い門前に、大小2つの影が仲良く伸びる。


「・・・なぁ、。お前、あの時なんで弁解しなかったんだ?」


何か隠してんだろ、と慈しむように問われて、


「別に?隠してないし?」


と、唇を尖らせて答えれば、お前は嘘が下手だなぁ、と呆れ顔で笑われた。

そんな事無いと向きになって顔を上げたは、

けれど通りの先から奇妙な一団がやってくるのを見つけ、言いかけた台詞を飲み込んだ。

同じく訝しむ上司と顔を見合わせていると、

10人ほどの集団は通り過ぎるかと思いきや、二人を囲むようにして立ち止まる。

誰も彼も色良く日焼けした屈強な野朗共の先頭は、

懲罰所で真っ先にを庇ってくれた、あの元偵察兵で。


「え?え?こんな大勢でどしたの?巡回?それとも今から出陣??」


と、が目を白黒させて尋ねれば、


「別に。ただちょっと掃除しにな。」


と、意味深に片眉だけを持ち上げて、手にした竹製の熊手を振って見せる。


「勘違いすんなよ?城内を清潔に保つのも、兵の務めだ。」

「そうそう!決してお前の為じゃねぇぞ。罪人幇助で軍規違反なんて冗談じゃねぇからな。」


ね!董卒伯!と笑顔で念を押す兵卒連中に、

お前等そいつを甘やかし過ぎだ、と苦笑しながら、彼は何も見ていないとばかりに背を向けた。


「しっかし、根性あるなぁ。お前。」

「正直、ずっと腹立ってたからさ。凄ぇすっとしたぜ。」

「今度一杯奢らせやがれ!」


と朱く燃える西日よりも眩しい笑顔で、兵卒達は口々にを褒め称えた。

何についての賞賛なのかは皆口にしないけれど、

彼等が忠義を捧げている男の名前は分かっている。


「そいじゃ、さっさと終わらすぞー!」


という景気の良い掛け声を受けて、

泣き笑いを浮かべたのおぉー!という返事が、野太い雄叫びに混じった。

あっという間に馬糞らしきものを地面から削り尽くし、

心強い援軍は自分達の持ち場へと戻っていった。


「にしても、随分大勢に借りを作っちまったなぁ。」


と、彼等の背を見送りながら、卒泊がのんびり苦笑するのに対し、


「違うよ、借りを返しに来てくれたのさ。」


と、すこぶる機嫌の良いが答える。

あの傲慢な御令嬢の横暴を止め、尚且つ一矢報いる事が出来た。

しかも、彼女の暴言を楽進に知られる事無く、である。

これでお咎めが丸1日の飯抜きと3日間の独房入りで済んだのだから、最高じゃないか。


(楽さんはやっぱりみんなに慕われてるんだなぁ〜)


同志が多いと分かっただけで、十分満足だ。


「それじゃ私、桶と鋤を厩舎に返して来ます!」


今にも馬糞が零れ落ちそうな満杯の桶をぶらぶら振りながら、

がさっさと兵卒用の厩舎へと向かおうとすると、


「おい、監督役を置いていこうとするんじゃない。

お前を野放しにするわけ無いだろうが!」


と、苦りきった顔で上司が追いかけて来た。

ここにきて胃の腑がキリキリしやがる、とぼやく四十路に、

歳じゃないんですかぁ、と原因のほとんどを占めている問題児が能天気に相槌を打つ。

案の定、お前のせいだろうが!と頭を小突かれたが、

痛い酷いと喚きながら、その口元からは笑みが零れた。

懲罰所では死さえ覚悟していたのが嘘のように、

鼻歌を口ずさむほど上機嫌なを、三度、あの甘い香りが包み込む。


「うぉぉ、これ!この香り!あーもう昼真っから考えてんのに思い出せない!

隊長、これって何ですっけ!?」


ぐぬぬと頭を抱えて唸るに、


「こりゃ、梔子の花だろう。すぐそこを曲がればたくさん咲いとるぞ。」


と、上司は事も無げに答えた。


「あぁぁあ!そうだよ、そうそう。梔子!なんで分かんなかったんだろう!」


忘れている時は知りたくて苛々するが、

他人に教えられると、自力で思い出したかったとがっかりするのは何故なのか。

悔し紛れに、は教えられた曲がり角へと全速力で走って行く。


「お前ほんと、なんなんだよ急にー」


と、背中に上司の批難を聞きながら、別れ道へと飛び込めば、

大きな大きな梔子の木と、その枝を手折る人影が、

正面から差し込む紅蓮の落陽を受けて、黒く浮かび上がっていた。

むせ返るような梔子の香りに包まれて、幻想的な光景に息を呑む。

が呆然と立ち尽くしていると、


殿・・・殿ですよね!?」


と、夢幻の住人から呼びかけられた。

へぁ?と間抜けに返事を返せば、彼は朱い輝きの中からいそいそと歩み出て来る。

そこでようやく、


「本気で走りやがって、追いつけねぇだろが!」


などと文句を言いつつ卒伯が追いついてきたが、

視線をもう1人へと移した途端、焦ったように跪き拱手する。

まだふわふわと覚束ないも、彼に釣られて遅ればせながら礼をとった。


「この度は、私の部下がとんでもない騒動を起こし、

楽将軍にも多大な煩労をお掛けしていまい、上役として甚だ猛省しております!

誠に申し訳御座いませんでした!」


大きな手での頭を押さえつけながら、早口で捲くし立て陳謝する卒伯に、

けれど、楽進は同じようにして地面に膝をつき、


「おやめ下さい。もう姫氏様の件については、殿に非は無しと裁可が出たのですから。

それに、そもそもは私が姫氏様を長く待たせてしまったのが発端なのです。

謝罪すべきはこの私です。」


そう、いかにも心苦しそうに畏まる。

こちらが低頭を止めねば立ち上がりそうにない将軍殿の様子に、

卒伯の手は躊躇いながらもの頭から離れたが、彼女は顔を上げる事が出来なかった。


「あ、あの・・・姫氏様は・・その・・・未だ、お怒りですよ・・ね?」


地面の上に落ち着きなく視線を滑らせながら、蚊の鳴くような小声でおずおず尋ねれば、

いっこうに立ち上がらない楽進は、ははっと苦笑いしてみせる。


「先程よりは随分落ち着かれましたよ。今は客間にて、迎えの輿車をお待ちになっておられます。」

「で、でも!今日の事は、お父君にご報告されるのでしょ?そうなったら・・・」


将軍に責めが及ぶのでは、と最後まで訊けず、は項垂れて黙り込んだ。

消えた言葉の先を汲み取ってか、

楽進は彼らしい爽やかな口調で、大丈夫です、と力強く否定してみせる。


「姫氏様は確かに少々激し易く、気難しい方ではありますが、

利に聡く、大変賢明でもあらせられます。

父君に名代を任せられるほどの才女が、

夏侯将軍の苦言を無視するなどということは無いでしょう。」


そこまで言われて、ようやくがその泣きっ面を上げれば、

彼女の憧れの人は、いつもと変わらない明朗な笑顔を湛えて、こちらを覗き込んでいた。

結局また地面とにらめっこに戻ったが、

申し訳ありませんでした、と心底落ち込んで謝罪すれば、

将軍の寛大な酌量に心から感謝致します、と隣の上司も一緒になって頭を下げる。


「私の不徳が招いた事態で、そこまで謝って頂くのは恐縮なのですが・・・」


と眉尻を下げながら、それでも自分が立ち上がるまで彼女達は謝罪を止めないと悟り、

楽進は仕方なく重い腰を持ち上げた。


「それにしても、ここまで大事になってしまうとは。

李将軍の申される通りとなってしまいました。」


と、彼が噛み締めるように吐露した後悔を、はどういう事かと見上げる視線で問う。

すると楽進は、恥じ入るように後頭部を掻きながら、


殿もお聞きになったのでしょう?姫氏様の、私に対する批判を。」


そう、何でも無い事のように告げたが、

には打擲棒で思いっきり殴られたような衝撃であった。


(知って・・・たんだ。)


全身の血がどんどん引いていくのを感じながら、表情を繕う余裕もなく彼を凝視すれば、

数多の兵卒から一心に羨望される将は、なんともばつが悪そうに俯いてしまう。


「忌憚のない意見を頂けるので、私は特にお止めしていなかったのですが、

李将軍に、主の悪口を聞かされる部下の身にもなれと叱られました。

今の内にお前が釘を刺さねば、あの手の女はどんどん増長して、いずれ問題を起こすとも。

ただ、女人の身で父君の名代を果たそうと、あの方も必死であらせられたので。

結局このような騒ぎになるまで、姫氏殿をお諌め出来ませんでした。

私はどうも人心の機微を読むのが下手なようです。」


そう苦笑する楽進の言葉が、耳から入って頭蓋の中でぐるぐる反響するものの、

は深い深い奈落の底へ、今まさに落下の最中であった。

せめて何か返事を返さねばと、茫然自失のまま瞳をのろのろ彷徨わせれば、

普段は双鉤を繰る手に、清楚に零れ咲く梔子の枝が一本手折られていた。


「それは・・・・」


と呟くの視線を辿って、彼女が何について訪ねているのかを理解した楽進が、

照れ臭そうな笑みを絶やさぬまま、これは姫氏殿に、と答えた。


「髪に挿すので取ってきて欲しいと頼まれたのです。

どうしても梔子で無ければ駄目だと言われ、宮城内を随分探し回りました。」


それはまた難儀でありましたな、と上司が相槌を打つ隣で、

は眉間にめいいっぱい皺を寄せて押し黙る。


それは姫氏様もお喜びになられましょう。


将軍自ら手折られずともお申しつけ下されば皆喜んで探して参ります。


返事はいくらだって思いついたのに、喉の奥に溜まるばかりで、どれ一つ吐き出せなかった。

常に無く大人しいを心配そうに伺いながらも、


「そろそろ、戻らねば。姫氏殿をこれ以上お待たせするわけにはいきませんので。」


そう言って、楽進は兵卒であった頃と変わらぬ真摯な拱手を披露し、

迷いを断つように颯爽と踵を返す。

頬当ての長い帯が斜陽の中で白く透けて翻る様を、跪いたままいつまでも見送っていると、

先に立ち上がった卒伯に、俺達も行くぞ、と促される。

逃げ出すようにその場を立ち去るの鼻先に、

梔子の残り香がいつまでも纏わり付いて離れなかった。







夕日はもはや山裾の後ろにその姿を隠し、残照だけが空を禍々しい紅に染めている。

人通りの絶えた路地のそこかしこから夜闇が滲み出し、

言葉少に歩き続ける二人を今にも飲み込もうとしていた。

最初のうちこそあれこれ独り言を呟いていた上司も、いつの間にか一緒になって黙り込んでいる。

どれくらい無言が続いただろうか。

少し後ろから唐突に、おい、と声をかけられて、憂いの澱に溺れかけていたははっと我に返った。

既に道は、昼間が父と会った所まで戻って来ていて、

黒々と茂る雑木林の向こうに厩舎の屋根が小さく見えている。

振り返れば、訳知り顔をした卒伯が数歩手前で立ち止まっていて、


「俺は、先に懲罰場へ行ってるぞ。

お前はそれを厩舎に返して、ついでにその汚ぇ格好を何とかしてから来い。」


そう面倒くさそうに告げると、やおら元来た道を帰り始めた。


「でも・・・監督役と一緒じゃないとまずいんじゃ・・・。」


と、沈んだ声で尋ねれば、お前って奴は変な所で律儀なんだよな、と呆れながら、


「家族が城内に居るってのにばっくれるなんて、お前にゃ出来ねぇだろ?」


なんて尋ね返してくる。

恐らく、妹の処遇を心配して気を揉んでいるだろう兄達と、話す時間をくれたのだ。

なんだかんだ言いながら一番に甘いのは、この、お節介でお人好しな上司であった。

有難うございます、と素直に礼を言えば彼は、いつもそれ位しおらしけりゃな、と憎まれ口を叩きながらも、

笑顔で去って行く。

独りきりになって。

まだ辛うじて自分の影が判別出来る薄暗い道を、はとぼとぼ歩き始めた。


後悔はしていなかった。

怒りに任せて言い返した台詞は嘘じゃない。

恥じたりなんかしない。


(でも、結局は楽さんを困らせただけだった・・・)


騒ぎを大きくして。

いらぬ恨みを買って。

仲間に嘘をつかせてまで必死に隠したというのに。

楽進は最初から女の本心を知っていたのだ。


知っていてなお、許し、慈しんでいる。


(あーあ、嫌だなぁ・・・こんなの。)


土塊を蹴飛ばして進む足がどんどん加速していく。

奥歯を食いしばり、じっと、苦く焦げついた西の空を睨んだ。



何が嫌って。



今、の胸を激しく掻き乱しているのが、狂おしい梔子の香りである事だ。



あの馥郁たる贈り物を、きっと楽進は手ずから女の髪にさしてやるのだろう。



大樹いっぱいに咲き零れていた高貴な白と、春野を彩った素朴な黄。



どちらも等しく花であるというのに。



の心でいつも誇らしく輝いていた蒲公英が。



無事を祈って差し出してくれた、はにかみがちな笑顔が。



大切に大切に仕舞っておいた楽進との思い出が。



みるみる色褪せ、無価値なものへと成り果てる。



(そんな風にしか思えなくなっちゃった、私が嫌だっ!)



ついに、桶の馬糞を撒き散らしながら駆けだしただったが、

篝火の灯された厩舎の前で、落ち着きなく歩き回っている父親の姿を見とめると、

みるみる勢いを失った。


「父ちゃん・・・帰ってなかったんだ・・・。」


覚束ない足取りに戻ったとは反対に、

こちらに気付いた範が、転がるようにして走り寄って来る。


「おま、お前!お前なっ!くそっ!こ、この、阿呆!大馬鹿野郎っ!!」


と、どこぞの誰かと同じく興奮のあまり単語で罵る父に、娘はただ一言ごめんと謝った。

さすがの跳ねっ返りもこれは心底落ち込んでいるようだ、と怒りを収めた範が、


「なんだ、塩かけた菜っ葉みたいに萎びやがって。

お前は昔っからそうやって、喧嘩に負けちゃベソかいて帰ってきてたよな。」


弱いくせに気だけは強くてよ、と昔話で茶化して不器用に励ましてくる。

けれど、いつもなら簡単に挑発に乗ってしまうは、

への字に結んだ唇を微かに震わせると、

母譲りの円な瞳からぽろぽろと大粒の涙を溢れさせた。

期待していたのとは違う反応を返されて、狼狽え始める父を尻目に、


「勝ったもん・・・私。負けてないもんっ・・ふっ・・うぅ・・・」


そう、上ずった涙声で言い返したかと思うと、わぁぁ〜っと盛大な嗚咽を上げて本格的に泣き出した。


「お、おい、父ちゃんが悪かった!この通り謝るから、な?だから泣くなよぉ・・泣くなってぇ!」


と、おろおろ近寄ってきた父の一張羅を力任せに引き寄せて、

その胸ぐらに涙も鼻水も全部押し付ける。

あぁもうどうにでもしてくれ、と早々に諦めた範が、震える背中を恐る恐る撫でてやれば、

はいよいよ子供のように嗚咽を引き攣らせた。

空の際で、最後の最後の残照が星空に儚く飲み込まれる。













の初恋はそれと気付かれぬまま、

涙に溶けて、消えた。
































NEXT『 柳、葦原、かざぐるま  』


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いつまでたっても懲罰場にやって来ない部下を、
内心ドッキドキで待ってる四十路のおっさんが大好きです(笑)


〜2014/03/25