※ caution ※

・若さゆえの情熱を持て余す年下攻め陸遜。
・年齢、年表、その他時間軸を気にしたら負け。
・設定捏造は正義☆

以上をご了承の上、読んで頂ければ幸いです。



















中庭へと続く扉を開け放った途端、むわっと湿り気を帯びた温い空気が全身を包み込んだ。
たまの休日だからと横着して、降ろしたままにしていた長い髪が首に纏わりついて気持ち悪い。
どんよりと分厚い雲に覆われた空は、今にも啜り泣きを始めそうな陰鬱さでもって、
ただでさえ低迷している孫の士気を存分に下げてくれた。

「そんなみっともない格好で窓辺に立つのはおやめなさい。」

と背後から呆れ声の小言が飛んでくるが、
生憎、この優秀な耳は都合の悪い雑音は受け付けぬように出来ている。
微かに聞こえてくる遠雷を言い訳にして、
は素知らぬ顔で遥か東の空へと目を凝らした。

(この分だと海の方は大荒れね・・・)

つま先立ちで眺めたところで、風に暴れる黒い大海が見える訳じゃ無かったが、
今置かれている状況からほんのちょっと逃避するには十分だった。

(天気が回復したら、さっそく釣りに行こう。)

「・・・・・・孫?」

(海水と一緒に逆流してきた魚で、河口付近はきっと大漁だわ。)

「・・・・・・孫!」

頑なに現実を拒んで己が妄想に逃げ込もうとする孫を、
怒っていても何処か優しく嫋やかな声が追いかけてくる。

「もうっ!ちゃんとここに来て私の話を聞いて!」

拗ねたようにそう言われ、情けなく眉尻を下げた孫は、
江南らしい派手な客間の真ん中で、年代物の紫檀の椅子に優雅に腰掛ける貴人へと、
渋々ながら振り返った。
この、年齢不詳と言っても良いだろう、いつまでも若く可憐な未亡人こそ、
がこの世で一番苦手としている人物であり、最も尊敬する女性。
早い話が義理の母、大喬である。
こちらが振り向いた事で満足したらしい彼女は、気品漂う美しい所作で、二つ並んだ白磁の飲杯へと青茶を注ぐと、
その内一つを隣の椅子の前に置いた。
そうしてにっこりと微笑みかけてから、自分の飲杯に口をつける。

(つまり、そこに座れということですか・・・)

と、彼女の慎ましげに伏せられた目元を見つめながら、孫はげんなりと顔を引き攣らせた。
冗談じゃない。
そんな間近で話を聞いたら、戦う前から負けると決まってしまうではないか。
なにしろ、孫は今まで一度たりとて大喬の懇願を拒否出来たためしが無いのだ。
あの慈愛に満ちた愛らしい瞳でじっと見つめられたが最後、うんと頷かずに居られる者などこの世に居るのだろうか。
もちろん、そのどれもが孫の身を思っての申し出ではあったのだが。

(今回ばかりは、絶対に折れませんよ!)

亡き義父の墓所の傍に居を移し、普段は滅多にこの屋敷へやって来ない彼女がわざわざ尋ねてきたのは、
意固地な娘を説得するために決まっている。
促された席を拒否するように、すぐ横の窓枠へ寄り掛かかると、
何を言われても動揺せぬよう身構えながら、
先手必勝とばかりに自分から要件を尋ねた。

「・・・で。本日はまた何故この様に天気の悪い中わざわざ屋敷にお越し下さったのです?」

「それは孫が一番良く分かっているでしょう?」

娘が隣に座ってくれなかったのがお気に召さないのか、
そう言って寂しそうに俯く義母を前に、孫は早くも言葉に詰まってしまう。
小柄で華奢な容姿と、聞いているこちらが悲しくなるような弱弱しい声音でもって、
罪悪感を誘うなど本当に卑怯だと思う。
しかも、意識してそう振る舞っているならまだしも、
彼女は真摯にこちらを案じてくれているだけなのだから、益々もってタチが悪い。

「そ、そんなお顔をされても駄目です!私の意志は変わりませんから!」

内心の動揺が声に滲んでしまわないよう、早口でそうまくし立てれば、
夫を亡くし、儚さに磨きのかかった未亡人は、その優美な眉を辛そうに顰めると、
悲しげに首を振った。

「どうして?断る理由などどこにも無いでしょう?むしろ私は貴女が喜んでいるとばかり思っていたのに・・・」

「そ、それは・・・・・・。」

「貴女には私が知る限りの淑女の嗜みを教えてきたつもりだし、貴女も一生懸命それに答えてくれたわ。

貴女は自分で思っているよりずっと魅力的で、どこに嫁いでも恥じない立派な娘よ?」

もっと自分に自信を持って!と優しく微笑みかけてくれる育ての母には悪いのだが、
ぬばたまの髪をきっちりと編み込んで、落ち着いた臙脂の長衣を華麗に着こなしている彼女にそう言われても、
ざんばら髪に洗いざらした部屋着姿の孫には、何の慰めにもならない。
悪意のない言葉の暴力で心が折れそうになっているこちらを尻目に、大喬は切々と懇願を続けた。

「私は貴女の亡き母君からたくさんの優しさをもらったわ。それを本人に返す事はもう出来ないけれど、
かわりに同じだけの幸せを玲蘭の娘である貴女へ贈りたいと思っているの。」

そう言った彼女の那智黒の瞳にはうっすらと涙が浮かんでいて、
久しぶりに聞いた生みの母の名前と相まって、孫の胸にも熱いものがこみ上げてくる。

「私の我儘で、貴女を複雑な立場にしてしまったから、中々良縁に恵まれなくて気を揉んだけれど、
これでようやく安心して孫策様に報告が出来るわ。」

ほっそりと女性らしい指で涙を掬い、赤くなった目尻をきゅっと弓なりにして、大喬は照れ臭そうに笑った。
生前は忙しい合間を縫って顔を見せに来ていた亡き義父の名前まで出され、
居心地の悪さに、うろうろと視線を彷徨わせる。
良心というのが体のどの辺りにあるのか孫には分からないが、
先ほどからズキズキと痛みっぱなしの胸を、黙れと理不尽に押さえつけた。

(いやいやいやいや、ここで絆されたらいつもと同じじゃないの!!)

親不孝は承知の上。

それでも譲れない理由が、自分にはある。

ぐらりと傾いだ決意を寸での所で立て直すと、
縋るようにもたれ掛かっていた窓枠から身をお越し、
神妙な面持ちで、可憐に小首を傾げている義母へと向き直った。

「何とおっしゃられようとも無駄ですよ。私は、陸軍師の元には嫁びッ・・・嫁ぎません!!」

力みすぎて最後の方は噛んでしまったが、気迫で誤魔化して、
異論は認めないとばかりに強く宣言する。
それに呼応するように、ざぁぁっという激しい雨音が周囲に鳴り響いた。
土と水の匂いが薄暗い客間を満たし、
時折走る稲光が、ゆっくり怒りを露わにしていく大喬の白い顔と、
だんだん勢いを失って冷や汗が噴き出し始めた孫の横顔とを、チカチカと浮かび上がらせる。

唸りを上げて轟く雷鳴が、対峙する二人の耳に、風雲急を告げた。





『 薔薇の下 』





もうっ!どうしてそう意地を張るの!?
の頑固者!!と、可愛らしく罵倒して、育ての母はぷりぷり怒りながら帰って行った。
それで諦めてくれるなら、どんな誹りも甘んじて受けるのだが、

「きっとまたいらっしゃるだろうな〜・・・」

実際、玄関の向こうから、必ず説得してみせるんだからっ!と、
お付きの下婢に息巻いているのが聞こえてきたから、間違いない。
次の休みも不毛な言い争いに潰されるのか、と、
は戻ってきた自室で、愛用の肘掛椅子にだらしなくしな垂れかかった。
まったくもって頭が痛い。
いつまでたっても話し合いは平行線で、最後の方は日頃の生活態度について涙ながらに説教されてしまった。
これには、普段とても良家の子女とはいえない振る舞いをしている孫であるから、
ただただ平謝りするしかない。

(本当に、親不孝でごめんなさい・・・)

いくら孫家の末席に迎え入れられたとはいえ、出自は異民族。それも人質として差し出された下脾の娘である。
確かに、孫策の病状がいよいよ絶望的となり気落ちする大喬への慰め役という、
分かり易い名目を背負った養子縁組ではあったが、やはり周囲の風当たりは強かった。
そんな孫が侮蔑され軽んじられる事が無いよう、
貴人としての教育を親身になって施してくれたのが、他ならぬ大喬である。
彼女の厳しく優しい指導があったからこそ、今の自分があるわけで。
それは、重々承知しているのだが・・・。
感慨に耽っていた孫の耳に、小さな咳払いが聞こえ、

様。お休みのところ申し訳ございませんが、よろしいでしょうか?」

という女中頭の控え目な声がそれに続いた。
慌てて寄り掛かっていた椅子の背から身を起こすと、手早く居住まいを正し、
出来るだけ優雅に、どうぞ、と返事を返す。
そっと扉が開き、失礼致しますと言って入ってきた女中頭が持っていたのは、大きな四角い盆で、
その上に、見るからに高価そうな絹地の反物と、
ここのところ毎日のように届けられている手紙が、並べて乗せられていた。

「陸軍師からのお届け物にございます。」

が小さい頃からこの屋敷に努めている女中頭が、どこか嬉しそうな声音でそう報告するのを聞いて、
の顔が誤魔化しきれないほど引き攣る。
ありがとう、と、
とても感謝しているとは思えない口調で礼を言えば、
女中頭はいそいそと孫の目の前に盆を置き、恭しく頭を下げて去って行った。
あからさまに上機嫌な足音が廊下に消えていくのをげんなりと見送ってから、
渋々ながら丁寧に折り畳まれた手紙を指で摘み上げる。
慎重に中を開けば、流麗な文字が整然と並んでいて、
送り主の几帳面な性格が滲み出ているようで、ついつい苦笑してしまった。

「全く、伯言もこんなもの書く暇なんか無いでしょうに・・・。」

新米の軍師殿は、周都督の厳しい指導の下、水軍の調練に明け暮れているようで、
手紙にも巨大な闘艦や楼船が陣形を組む様や、艨衝が白波を裂いて河面を走る姿が鮮明に書き綴られていた。
水上での用兵は陸上でのそれとは違い、独特の難しさがある。
何しろ船は簡単に後退出来ないし、河の流れや風の向きに多大な影響を受けるため、
敵の動きと自軍の動きの両方を予測し的確に指示を出さねば、そもそもまともに戦う事すら出来ないのだ。
慣れない船での生活に四苦八苦しながら、けれど陸遜がそれらにやりがいを感じているのが、
文面からも伝わってきて、孫の顔が嬉しそうに緩む。

「あらあら、いつか自分の船に招待します、なんて大きく出たわね?」

いつも慎重な彼にしては珍しい安請け合いからも、興奮の度合いが分かるというもので、
思わず手紙の向こうへと話しかけてしまってから、自分の間抜けさに気付いて顔が熱くなる。

(もう!一人でブツブツと何をやってるの、私・・・)

そう照れ隠しに悪態をついてみるものの、
にとって、三日と空けず送られてくる陸遜からの手紙は、
彼の文の上手さも手伝って、ここ最近の楽しみの一つとなっていた。
ただ、最後に必ず添えられている「お慕い申し上げております。」の一言さえ無ければもっと良いのにと、
読み終えた手紙を折り目正しく綺麗に畳みなおしながら、長い長いため息を吐く。

「どうして、こんな年増が良いのかしらね・・・」

陸遜に想いを請われたのは、まだ躑躅が美しく燃える春であった。
それから一月もせぬ内に、彼の後見人でもあり軍の最高責任者である周瑜を通じて密かに縁談の申し入れがあったのだが、
周囲の大方の予想を裏切って、孫はそれを即答で断った。
もちろん、説得を試みる者は後を絶たず、近しい者達は困惑顔で孫を宥め賺し諭した。
そりゃそうだ。
この縁談には政治的な思惑が多分に絡んでいる。
というか当事者以外にはそっちの方が重要で、
陸家の当主と、仇敵孫策の娘との縁談がまとまれば、
先代、先々代と確執のあった他の豪族達との関係も緩和され、
孫家の統治もより強固なものとなるだろう。
本来ならば孫の意思など関係無く強硬に進められて然るべき所を、
当の陸遜が「では頷いて貰えるよう誠意を尽くします。」と待ってくれたからこそ、
こうして我を通していられるわけで。
それもいつまでもつ事やら。

(それでも・・・・受け入れるわけにはいかないの。)

大きな書物棚の一番奥、実母の形見が仕舞われた漆塗りの文箱の中に、
届いたばかりの手紙を大事そうに仕舞い込む。
既に、決して小さくない文箱は陸遜からの手紙で溢れ、数日もすれば入り切らなくなってしまうだろう。
部屋の隅には、彼からの贈り物でちょっとした山が出来ようとしている。
美しい螺鈿の細工が施された文箱の上にそっと額を当て、孫はきつくきつく瞼を閉じた。

あの日からずっと、色恋など無縁と思って生きてきた。

人質として連れてこられ、一生を下脾として過ごすはずが、
学ぶ事を許され、官職を与えられ、義理とはいえ孫家の末席に加えてもらえただけで、
この上も無く幸福であったから。
いずれは、政の一端を担って顔も知らぬ男の妻となる事を覚悟していたし、
ここ最近に至っては、このままひっそり独り身で生きるのも良いとさえ思っていた。
実際、他の誰かが相手ならば、すぐにでも嫁いでいただろう。

「・・・・・・・私じゃ駄目なのよ、伯言。」

の引き結ばれた唇から、小さく絞り出された弱弱しい懇願は、
窓を打つ激しい雨音に紛れ、薄暗い部屋の中に儚く消えた。

















天井近くまであろうかという書棚の間を、山のような竹簡を抱えてぱたぱたと歩き回る。
何しろ今日中に写本せねばならない古書が三本もあって、
しかも、その内一本は注釈まで付けなくてはならないのだ。
そのための資料を広い書庫の中から見つけ出すだけでも、相当な手間である。
墨でまっ黒く汚れた指先を洗う暇もないと嘆息しながら、
が少し高い位置にある竹簡を引き抜こうと背伸びをした所で、
背後から伸びてきた手が、それを横からかすめ取って行った。
ぎょっとなって後ろを振り返れば、
良く見知った青年がにこにこと満面の笑みを浮かべて立っていて、
がみるみる渋面に変わる。

「酷いですね。いくらなんでも、その反応は傷つきましたよ。」

と、苦笑交じりに差し出された竹簡を受け取って、

「あら、生まれつきこういう顔なんですの。おほほほほ。」

ごめん遊ばせ、と礼を言う変わりに憎まれ口を叩いた。
だが、敵はこちらの悪態などものともせず、再び余裕の笑みを浮かべると、

「いえいえ、どんな顔でも貴女が私に向けて下さってると思えば幸せですよ。」

しれっとそんな台詞で反撃してくる。

「・・・っ!く、君子がそのような軽薄な事を言うべきではありません!!」

と強気に言い返す孫であったが、頬が勝手に熱を増し、
逃げを打つようにくるりと踵を返した。
よくも素面であんな恥ずかしい台詞が吐けるものだ、と赤い顔でぶつぶつ不貞腐れながら、
狭い通路を次の棚へと足早に歩いていく。
その後ろをまるで忠実な小姓のように陸遜がついてきた。

「ちょ、ついて来ないで下さいません?」

「何故です?」

「何故ってそれはっ・・・」

「私は貴女に会いに来たんですから、ついて行くのは当然でしょう。」

後ろを振り向かないままイライラと詰問しても、
暗い書庫には似つかわしくない派手な戦装束に身を包んだ青年は、
笑ってばかりでちっとも取り合わない。
それどころか、

「ところで、昨日お届けした反物は気に入って頂けましたか?」

などと、逆に贈り物の感想なんか訊いてくる始末だ。
けれど、孫は待ってましたとばかりにニヤリと人の悪い笑みを浮かべ、
前もって用意しておいた答えを、
頭の中で何度も練習した通りに厭味ったらしく言い返した。

「ああ、あれですか?申し訳ありませんけど私、紫はあまり好きではありませんの。
どうやら陸軍師とはまっっっったく趣味が合わないようですわね。
不用な物ばかり押し付けられてたまりませんわ。
今まで頂いた品は全部そちらにお返し致しますから、どうなりと処分して下さいませ。」

やった!言ってやった!見事に嫌な女だ、私は!!
そう孫は内心拳を握りしめる。
無償の好意をここまで悪しざまに言われれば、いかな陸遜とて憤慨するだろう。

(さぁ、思う存分幻滅するが良い!)

そうニヤニヤしながら反応を待ったが、4つも年下の求婚者は涼しげな顔を崩さないどころか、

「それは気が利かずすみません。では、良い機会ですし一緒に選びに行きましょう。
そうすればきっと様の気に入る品が見つかりますよ。」

私の事ももっと良く知って頂ける、とさも嬉しそうに提案してきた。
まさに、暖簾に腕押し、糠に釘。
ことごとく思惑を外されて、怒髪天の孫は、
のしのし歩いていた足を止め振り返ると、小首を傾げる陸遜にずいっと詰め寄った。

「もぉぉぉう!何が良い機会ですか!!
お金を無駄遣いするなと言っているんです!私は!」

「ああ、なるほど。でも元々使い道も無いまま貯まる一方だったものですから、
貴女に喜んでもらえるなら本望ですよ。」

「ちがぁぁう!!ぜんっぜん分かってない!伯言、貴方軍師になったのよ?
買うなら女物の布切れなんかより新しい武具!ううん、それよりもまずは馬かしら?
ただでさえ江南は良馬がなかなか手に入らないんだから!
まして船を怖がらない馬なんて、見つける事さえ難しいんですからね!?」

胸倉を掴み掛らんばかりに捲し立てる孫に、
陸遜は困った顔をしてしぃっと口元に指を立てた。

「私の心配をして下さるのは大変嬉しいのですが、
少々声を落とさないと、他の方の迷惑になりますよ。」

そこでようやく自分達が周りの視線を一心に集めている事に気付いて、
は気まずい雰囲気に耐え切れず、そそくさと本棚の袋小路に逃げ込んだ。

(なんで私がコソコソ隠れなくちゃいけないのかしら!)

後ろからのんびり追ってくる元凶を恨みがましい目で睨みつつ、
は回りくどい言い方は止めにして、直球勝負に出る。

「と、とにかく。どんな事をされても私は貴方の妻になるつもりはありません。
もういい加減諦めて頂戴!」

けれど、面と向かってはっきり拒絶を示したというのに、
陸遜はやれやれと小さく首を振ると、

様こそ、いい加減ご理解頂きたいものです。私は貴女が応と返事を下さるまで、
絶対に諦めませんよ?」

まるで駄々っ子を説得するような声音でそう言って、その端整な顔に微笑を浮かべた。

が。

(・・・・明らかに目が笑って無いんですけど・・・。)

涼やかな奥二重の双眸に不穏な色を揺らめかせ、陸遜がずいっと一歩こちらに間合いを詰める。
思わず孫も一歩後ずさろうとして、ここが逃げ場のない袋小路である事を思い出し愕然とした。
人目を気にするあまり、邪魔にならない書庫の端っこへ移動したのが間違いだったと、
は己が失態に顔を顰める。

(まさか、嵌められたんじゃ・・・)

軍師という輩はどいつもこいつも恐ろしいほど先読みに長けている。
を言葉巧みにこの場所へ誘導するなど、彼にとっては雑作も無いのではないだろうか。
そんな疑惑渦巻くこちらの胸中などお構いなしに、陸遜はどんどん距離を縮めてきて、
それに押されるように孫はとうとう書庫の壁際まで追い詰められた。
だらだらと冷や汗を流しながら、資料用の竹簡の山を体の前に抱き直して、
迫りくる陸遜へのせめてもの盾とする。
けれど、敵はこちらの抵抗など物ともせず、
その長い両腕を孫の顔の横につくと、逃げ道を完全に塞いでしまった。
そうして、上から覆いかぶさるように覗き込み、

「今日こそは逃がしませんよ?」

と、聞き慣れない低い声で囁いた。
その秀麗な顔には相変わらず優しげな笑みが浮かんでいたが、
間近にある鳶色の瞳が、まるで獲物を狙う肉食獣の様にすうっと細められる。
その表情にぞっとするような色気を感じて、
は蛇に睨まれた蛙よろしく、固まったまま動けなくなった。
強張った頬の逆立った産毛を、陸遜の指先がやわやわと撫で上げる。
その、肌にぎりぎり触れるか触れないかの微妙な感触に、
の頭の中でカンカンカンと叩き割れんばかりの警鐘が鳴った。

(こ、これはもしかしなくても怒ってらっしゃいます・・・?)

美形は怒っていても美形なのだな、とどうでも良い事が思い浮かぶ辺り、
自分は相当取り乱しているらしい。
けれど、ここで負けてしまっては年上の名折れである。
干上がった喉に無理やり生唾を流し込むと、孫は意地になって陸遜を睨み返した。
互いの息遣いが聞こえるほど間近で見つめ合って数秒、
先に視線が揺らいだのは陸遜の方であった。
頬を離れた彼の手は孫の耳元で強く拳を握りしめ、
切ない色の浮かんだ琥珀の瞳が哀しげに伏せられる。

「・・・私の事が、お嫌いですか?」

絞り出された小さな問いに、
の胸がぎゅううっと締め上げられるような痛みを訴えた。
それは・・・と言葉に詰まった孫を再び見つめ、

「せめて、拒む理由をお聞かせ下さい。そうでなければ私は・・・」

陸遜が苦しげな声音でそう懇願してくる。
彼の顔を見る事が出来ず、孫はその視線から逃げるように俯いた。
長い沈黙が続いて。
焦れた陸遜が返答を求めて再び口を開こうとした時だ。

「・・・・ん?陸遜ではないか?」

と、場違いなほど暢気な声が、彼の背後、袋小路の唯一の出口から掛けられた。
途端に陸遜は苦虫を潰したように顔を歪ませたが、
逆に孫は天の助けとばかりにぱぁぁっと顔を輝かせる。
一瞬陸遜の体が脱力したのを見逃さず、力任せに彼を押しのけると、

「呂軍師!!」

そう藁をも縋る思いで救世主の名を呼んだ。
思っていたものとは別の人物に名前を呼ばれ、呂蒙は一瞬ぎょっとなったものの、
喜色満面で寄ってくる孫と、その後ろで不機嫌を隠そうともしない陸遜とを順番に見比べて、
いち早く状況を理解し、青ざめた。

「こ、これは様もおいででしたか。気が付かず申し訳ない。」

まさに、しまった、という言葉がぴったりの顔で視線を泳がす呂蒙には申し訳ないが、
この場から逃げ出すための尊い犠牲となってもらおう。

「本っっ当に、丁度良い所にお越しくださいました!お会いしたいと思っておりましたのよ!
立ち話も何ですし、どうぞ私の文机の方へ参りましょう!」

そう早口に捲し立てれば、お人良しの軍師殿はその男らしい眉を情けなく下げて、

「いや、しかし、それがしはただ地形図を探しに来ただけでして・・・・」

とあからさまに及び腰で言葉を詰まらせる。
けれど、孫とてみすみす掴んだ蜘蛛の糸を放すつもりはない。

「それでしたら、すぐに司書に持って来させますゆえ、
呂軍師は私とお茶でも飲んで待っていましょう!ちょうど、義母上に頂いた蓮蓉月餅もあります!」

お好きでしたでしょう!?と必死に言い募りながら、逃がすまいと彼の袖を掴んだ。
瞬間、陸遜の痩身からどす黒い何かがゆらりと立ち昇ったような気がしたが、
あれは目の錯覚だったのだろうか。
意図的にそちらを見ないようにしながら、孫がぐいぐいと強引に引っ張れば、
どうやら同じ物が見えたらしい呂蒙が、ひくりと引き攣った顔で、り、陸遜?と心配そうに後輩の名を呼んだ。
それをどのように受け取ったのか、

「ああ、私の事はお気になさらないで下さい。もう、周都督の元に戻らねばなりませんから。」

どうぞ、ごゆっくり、と慇懃無礼に告げて、陸遜は不穏極まりない笑みを浮かべる。
一瞬にして周囲の空気が凍り付き、孫どころか呂蒙でさえひっと悲鳴を飲み込んだ。
ぴりぴりと剣呑な雰囲気をまき散らす彼をこのままにして逃げるのは末恐ろしかったが、
かといって、この場に踏み止まった所で孫には百害あって一利無し。

「りりり、陸軍師もああおっしゃっておられますし!さあ、今すぐ!今すぐ、こちらへッ!!」

とにかく今は安全地帯まで避難するのが先決だと、固まったままの呂蒙を早口に説得し、
それでは御機嫌ようと陸遜に向かっておざなりに腰を折った。

「ええ、様。また機を改めて会いに参りますよ。」

いつも通りの物静かな口調とは裏腹に、花のかんばせには暗黒の微笑を湛えたまま、
陸遜が丁寧に礼を返す。
その時は覚えておけよ、と幻聴が聞こえた気がして、
すっかり怯えきった孫は戸惑う呂蒙の背を力任せに押しながら、
脱兎のようにその場を逃げ出すのだった。




その日、昼時の書庫にやってきた者達は、最近すっかり此処の常連となった将軍と、
珍しい女人の司書が、顔面蒼白で我先に廊下へ飛び出す珍妙な姿を見たという。
開け放たれた入口の扉を潜り抜けた所で振り返り、陸遜が追って来ない事を確認して、
二人はようやく歩みを緩めた。
山盛り抱えた竹簡を一つも落とす事無くここまで来れたと、
は内心あらん限りの賞賛を自分に送る。
ゼイゼイと肩で息をつきながら、はっと我に返って隣を見れば、
こちらはさすがに息一つ乱していない呂蒙が、胡乱な目でこちらを見ていて。

「りょ、呂軍師も、ご無事で、何より・・・」

と、荒い呼吸の下、労いの言葉を口にしながら、にへらと諂い笑みを浮かべれば、
呂蒙は呆れた様子で、ふーっと長い長い溜め息を吐いた。

「あ、あの、危ない所を助けて頂いて本当に感謝しておりますのよ?」

と、ぽしょぽしょ蚊の鳴くような声で上目がちに彼の顔色を窺えば、
元々寛容な男は、別に怒ってはおりませぬぞ、とその無骨な顔に苦笑を浮かべた。
全ての窓を開け放った真昼の廊下は、埃っぽい書庫に比べ眩しいほどに明るく、
のんびりと肩を並べて歩く二人の横を爽やかな風が絶えず走り抜けていく。
時折擦れ違う司書達がこちらに向けて深々と礼をとるのを、
浅く会釈を返して通り過ぎながら、呂蒙がやれやれと頭を振ってみせた。

「まったく、様も罪作りな事をされますな。あれでは陸遜も報われまい。」

「な!?まるで人を悪者みたいにおっしゃって!酷い目にあったのは私の方ですよ?」

心外だと唇を尖らせた孫が即座にそう言い返せば、
一見色事とは無縁といった様子の野暮ったい男は、
自覚無しとは質の悪い、と苦笑いを零した。

「逃げられれば尚追いたくなるのが人の性というもの。
まして目の前で別の男の袖を引くなど、嫉妬を煽るだけでしょう?」

あれは益々陸遜を焚きつけましたな、と呂蒙が暢気に笑うのをジト目で見ながら、
は勘弁してくれと頭を抱えた。
それに追い打ちをかける様に、

「しかも怒らせると厄介なんだ、あいつは。」

と、さも昔何か酷い目にあったかのような口振りで呂蒙が顔を顰める。

「ちょっと!脅かすのは止めてくださいませ!」

と、人の良さにかけては呉軍でも右に出る者無しと噂される男を、
既に顔色の悪い孫が恨めし気に見上げた。
まあ確かに、昔も淡泊そうに見えていつまでも根に持つ性格だった気がする。
きっと素直に謝ったところで、

「はて?様は一体何について私に謝罪しておられるのでしょう?」とか何とか嫌味ったらしく空っ惚けるのだろう。

挙句、「よしんば謝らねばならない事をしたというのなら、それ相応の誠意を見せて頂きたいものですね。」
とかなんとか言いながら、ここぞとばかりに婚姻をごり押しして来そうだ。
かといって、彼の怒りをそのまま放っておいたら、後でどんな復讐をされるか分かったものではない。
背筋にぞぞぞっと悪寒が走って、震え上がる孫の隣で、
いっそ甘寧くらい単純ならば一発殴られてそれで終わりなんだがなぁ、と呂蒙も面倒そうにぼやいた。

「はぁ、どうして私がこんな理不尽な事で悩まねばならないのでしょう・・・。」

と思わず不満を口にすれば、やはりあの対応は拙かったですな、と改めて先ほどの態度を注意され、
は納得いかないと憤慨する。

「では、どうすれば良かったのです?
あの場を穏便に切り抜ける方法が他にあったというなら、是非ご教授して頂きたいのですけど?」

「それはなんだ、いっそ陸遜の請いを受け入れればよろしいのではないかと。」

子供のように頬を膨らませて詰め寄る孫に、呂蒙は元も子もない答えをあっさり返してきた。
これは話が嫌な方向へ流れそうだと、だんまりを決め込むことにすれば、
予想通り彼は、もういい加減折れてはいかがか、と陸遜からの回し者に変貌した。

「そもそも、それほど頑なに拒まれる理由が分からねば、陸遜とて引くに引けますまい?
それがしが申し上げるのも野暮というものだが、
辺境を転戦していた5年間、あれは貴女様の為に武功を上げてきたようなものだ。
その直向きさに答えてやっては貰えませぬか?」

呂蒙の口振りは上司というよりむしろ弟を憂う兄のようで、
は今度こそ自分が悪者になった気がして、口に広がる苦い味を飲み込んだ。

「・・・そういう所が問題なのですよ。」

立ち止り俯いて、冷たい石畳の床に小さくそう零せば、
呂蒙も同じように歩みを止めて、無言で彼女に言葉の続きを促す。
は一瞬迷う様に唇を噛んだ後、
意を決して隣に立つ男の顔を真っ直ぐ見据えた。

「私への執着が強すぎるのです。過ぎた執着は時に弱みとなってしまいます。
私を妻にするという事は、自ら進んで大きな弱点を背負い込むも同じ事です。
身内の贔屓目と笑われようとも、私は伯言が優秀な軍師になると信じています。
いずれは呉国にとって社稷の臣となるやもしれません。
けれど、地位が上がれば上がるほど敵は増え、味方は減るもの。
彼の失墜を望む者にとって、私の存在は格好の餌となる事でしょう。」

の強い視線に面喰った呂蒙は、少々黙り込んだ後、
困惑顔で苦笑を浮かべる。

「それは少々杞憂が過ぎるのではありませぬか。陸遜とて・・・」

「呂軍師!」


まるでこちらの早計をいなす様に優しく告げられた言葉を、
は押し殺した声で遮った。

「なにゆえ私が、女だてらに学を修め、官職に就き、碌を頂いているのか。
なにゆえこのような年増になるまで誰にも嫁がずにきたのか。
貴方様ならばお分かりでしょう?」

ずっと高い位置にある理知的な双眸を挑むように見つめれば、
見た目よりずっと鋭い洞察力を持った男は、微かに息を飲む。

「私は、自分の立場を誰より理解しているつもりです。
今の孫呉において、私は過去の残骸。」

前途揚々たる若者に後始末を押し付けるのは酷というものです、と自虐的な笑みを浮かべれば、
呂蒙の聡明な瞳に一瞬だけ憐れむような色が浮かんだ。

「・・・・様は、陸遜を・・・。」

「おっと。その続きは無用に願います。野暮は若い娘に嫌われましてよ?」

半ば確信している口調で尋ねらた質問を、冗談めかして誤魔化せば、
優しい友人は男らしい眉を情けなく垂れ下げて、それは困りますなぁ、と敢えて話を合わせてくれる。

「ただでさえ甘寧辺りにはおっさん呼ばわりされているというのに、
これ以上周りに女っ気が無くなっては、いよいよ心まで老けてしまいます。」

「またまた、ご冗談を。夜は未だ蛮勇を振るっておいでだと、女官達からお噂はかねがね。」

ぞりぞりと無精髭の伸びた顎を親指で摩りながら唸る呂蒙を、
ニヤニヤと人の悪い笑みを浮かべてからかえば、
そのような下品な物言いを何処で覚えて来られたのか!と、
たちまち小姑へ早変わりするのだから面白い。
がひとしきり声を上げて笑ったところで、
同じように口元を綻ばせていた呂蒙は、ふいに真面目な顔に戻った。

「・・・・やはり意志は固いのですな?」

と重々しく念を押され、無言で頷く。
すると努力によって慧眼を手に入れた軍師殿は、その眉間に深く皺を刻んだ。

「ですが、この婚姻が陸家への政略を帯びている以上、そう簡単には覆りませぬぞ?
恐らく、この数日中にも最後通告が為されるでしょう。そうなれば、貴女の意思に関わらず婚姻は進められる。
周都督を懐柔するのは至難の業ですぞ。」

「それはもう、覚悟の上ですわ。私とて、勝ち目のない戦に挑むつもりはありませんよ?
理に叶った言い分は用意したつもりです。」

心配そうな呂蒙に、孫が殊更明るく笑って、ぴんと背筋を伸ばしてみせた。
すると、ずっと年上の友人は知り合った頃から変わらない温かな笑みを浮かべ、

「どのような結果になろうと、俺は貴女と陸遜の味方だ。
心許ない時はいつでも話を聞くぞ」

そう言ってその武人らしい大きな手でわしわしと孫の頭を撫でまわした。
そうして、そろそろ探し物に戻らねばな、と宣言すると、
もう用は済んだとばかりに踵を返して、書庫の方へ戻ってしまう。

「お、お待ちを!書簡をお探しでしたら他の司書に頼んで持って来てもらいますよ。」

温かな感触が離れていくのが寂しくて、もっともらしい提案で去っていく大きな背中を呼び止める。
けれど振り返った呂蒙は、やんわりと首を横に振った。

「それがしも随分と書庫には詳しくなりましたので。気遣いは無用です。」

「で、ではせめてお茶菓子だけでも召し上がっていって下さい!」

迷惑をおかけしてしまったお詫びです、と尚も言い募れば、
彼はいかにも人の良さそうな苦笑いを浮かべ、

「仮にも妻請いを受けている女人が他の男と親しく茶を飲んでいては、さすがに外聞が悪いだろう。」

陸遜にも申し訳ない、とそう言って短く手を振った。
小さくなっていく呂蒙の後ろ姿を見送りながら、
は急に抱えている竹簡が重たくなったような気がして、微かに眉を寄せる。

優しくされて、弱気になったのだろうか?

本当の正念場はこれからだというのに、と己を叱責しながら、
けれど、孫は友の姿が廊下の先の曲がり角に消えても、
しばらくその場を動く事が出来なかった。

















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