初恋の君は、後ろ姿の美しい人だった。
ぴんと真っ直ぐ伸びた背筋や、少し撫で気味の肩。
時折襟元からのぞく項に、得も言われぬ清潔感を感じて、
まだ数え13になったばかりの孫は、生まれて初めての感情に胸をときめかせたものだ。
彼は、女児の教育のために新設された学府の師の一人で、
枯れ木のような老師達の中にあって、若木のごとく瑞々しく見えた。

(とは言っても、とうに三十路を過ぎてたんじゃなかったかしら?)

文机の上に広げられた、ここ数刻の成果をつらつらと眺めながら、
は頭の隅っこで愚にもつかない空想にほくそ笑んだ。
いくら身近に若い男が居なかったとはいえ、
初めての恋が20以上も年上の男とは、我ながら何と際物好きな事か。
もはや顔の造作もおぼろげで、名前すら覚えていないというのに、
あの凛とした後ろ姿ばかりが今も鮮明に瞼に焼き付いていた。
筆を持つ長くしなやかな指先や、考え込む時に口髭を撫でる癖、
声は穏やかで柔らかく少し高かったような・・・。
と、そのままずるずる余計な事まで思い出しそうになって、
は読み直していた竹簡から顔を上げると、雑念を払う様に凝り固まった首を回した。

呂蒙と話をしてから既に5日。
陸遜の襲来や周瑜の呼び出しに怯えながら、日々の仕事をこなすのは、
想像以上に孫の神経を摩耗した。
おかげで、どうにも仕事が捗らず、気付けば下らない物思いにばかり耽ってしまっている。
雑務の無い早朝の内に少しでも写本を終わらせておこうと、
わざわざ早起きしてまで登城したというのに、
先ほどからずっと、初恋の面影ばかり思い浮かべている始末。

(これは思ってたより重症だわ・・・。)

来た時には朝の静謐な空気に満たされていた司書室も、
今や慌ただしく動き回る司書達で溢れ、墨と古い竹簡の匂いが充満していた。
それなのに、明日の軍議までにと依頼されている兵法書10本の内、
写本が完了しているのは目の前の書きかけを含めても3本だけ。

(この調子だと、今夜は屋敷に帰れないかも・・・)

10代に比べ確実に辛くなってきている徹夜仕事も覚悟して、
ははぁぁっと深い溜め息をつくと、表面が乾き始めていた筆の先を硯に沈めた。

「随分と難儀されておられますね。」

ふと、文机に影が落ちたかと思うと、頭上からほわんと柔らかい口調で声を掛けられる。

「ええ。己の不甲斐なさに参っております。」

すらすらと流れる様に竹簡の上を滑る手を止めないまま、
はちらりと顔を上げ、情けなく笑った。
それを見下ろして、ご謙遜を、と福々しい猫のような顔で微笑んだのは、
広い司書室に整然と並べられた文机の、ちょうど目の前の席を定位置としている同僚だ。
彼は孫と同期に仕官した司書で、年の頃も似ているせいかお互いに仕事を手伝ったり、
愚痴を言い合ったりする仲であった。
育ちの良さからか、はたまた元からの性格か、温和で社交的な男は、
ともすると身分や性別ゆえに孤立しがちな孫と周囲との、緩衝材の役割を果たしてくれている。

「大分煮詰まっておられるようですし、少し休憩されてはいかがか?」

そろそろ昼時ですよ?と周囲を見回す彼の視線につられて、
も筆を置き、周りの様子を窺えば、先ほどまで仕事に勤しむ人々で溢れかえっていた司書室は、
いつの間にか閑散となっていた。
皆、銘々に昼食をとりに行ってしまったのだろう。
私達もどうですか、という彼の言葉に促され、今まですっかり忘れ去られていた空腹感が急に孫を苛みだす。
このまま作業を続けた所で、仕事の効率は下がる一方だ。

「・・・そうですね。お言葉に甘えてご一緒させて頂きます。」

ここは素直に彼の助言を受け入れる事にして、
は、まだもう少し続けていたい未練を断ち切るように、ぐいっと伸びをした。
正座に慣れているとはいえ、さすがに痺れてしまった足をさすりつつ立ち上がって、
苦笑しながら待ってくれていた同僚の隣に肩を並べる。
ふわりと鼻をくすぐった爽やかな香りに、香を変えたのですか?と尋ねれば、
つい二月ほど前に華燭の典を終えたばかりの男は、妻が焚き染めてくれたのだ、と照れ臭そうに笑った。
それはそれは仲の宜しい事で、とニヤニヤ笑ってやれば、
色白の同僚は、冷やかしは勘弁して下さい、と耳を仄かに赤くする。
幸せそうなその姿に、なんだか自分まで元気をもらった気がして、
少し気分の浮上した孫が、今日の昼は奢ってあげようかと考えていた矢先、

「失礼致す!孫氏様はこちらであらせられますか!」

いかにも兵士らしい威圧的で大きな声が、司書室にわんと木霊した。
こんな場所では滅多に見かけない異質な客に、数人残っていた司書達が不審そうな視線を一斉に入口へと向ける。
ついに来たか、と体温が急激に下がっていくのを感じながら、
は隣で怪訝そうに此方を窺う同僚に、

「御免なさい、食事はまた今度ご一緒致しましょう。」

と出来るだけ明るく笑いかけた。
そうして何か言いたそうな彼をその場に残し、敢えてゆっくりとした足取りで兵士の元へと向かう。
どうしてこう、軍人というのは配慮に欠ける生き物なのか。
大声で叫ばずとも、誰か司書の一人を捕まえて呼んでこさせれば済む事だろう。
ただでさえ浮きがちな孫にとって、職場での目立つ行動は厳禁であるというのに、
わざわざ身分を強調するような呼び付け方をされた事が、余計腹立たしかった。
ここにおります、と大柄な衛兵の前に立ち、

「司書室には繊細な作業を行っている者もおります。どうか、あまり声を荒らげられませぬよう。」

と、少々棘のある声音で釘を刺せば、まっ黒く日焼けした強面の兵士は、微かに鼻白んだものの、
以後気を付けまする、と浅く頭を下げた。

「周都督がお呼びです。どうぞこちらへ。」

と後ろをついて来るよう促され、無言でその背に従う。
司書室の入口を出ると、そこにもう一人兵士が待機していて、
まるで逃げ道でも塞ぐように孫の背後についた。
厳つい兵士二人に挟まれ歩く孫の姿はかなり目立つようで、
それなりに往来のある廊下では、容赦なく好奇の視線に晒される。
擦れ違う同僚の司書達が、眉を顰めてひそひそと囁き合うのを横目に流しながら、

(これじゃまるで罪人じゃないの。)

と孫は内心憤慨した。
まあ、確かに気分は刑場に引っ立てられる死刑囚そのものだ。
出来る事ならば今すぐ逃げ出したいが、脱出方法を何通り考えても、
最後は必ず兵士に取り押さえられるため、妄想だけに留めておく。
よもや、それを見越して二人も衛兵を寄越したのならば、

(さすが周都督、恐ろしい人です・・・)

今や5万を誇る呉軍の総統となった美貌の義叔父を思い出して、孫はぶるっと身震いした。
極度の緊張で胸がきゅううっと搾り上げられる。
どんどん息が苦しくなるのを、深呼吸で誤魔化しながら、
会いもしない内から怖気づいてどうすると、弱腰を叱責し、
必死に自分の言い分を頭の中で復唱した。

(大丈夫よ。ちゃんと筋は通っているはずだもの。)

後は、孫が彼を説得出来るだけの弁舌を振るえるかどうかにかかっているが、
普段書物とばかり会話しているから、人間相手の交渉事は苦手である。
びっしょりと汗の滲む手のひらを握ったり開いたりしながら、
大丈夫、大丈夫、と根拠の無い気休めを何度も呟いた。


(・・・一体どこに向かっているのかしら?)

考え事に夢中だった孫が、
そういえば目的地を聞いておくのを忘れていたと気付く頃には、
既に書庫どころか、一般庁舎が並ぶ区画をも抜けようとしていた。
かといって今更聞ける雰囲気でも無く、
黙々と歩みを進める兵士の背中に速足でついていけば、
やがて本城をぐるりと囲む城壁へと突き当たる。
見上げるほど高い壁に沿って土剥き出しの道をしばらく進んで行くと、
やがて巨大な正門が孫達の前にぽっかりと口を開けた。
薄曇りの弱弱しい陽光に照らされて聳え立つ黒瓦の楼門は、
相変わらず対峙する者に重苦しい威圧感を与えていて、

(子供の頃はここを通るのが怖かったのよねぇ)

と、孫は思い出し笑いを噛み殺す。
門前に並ぶ衛兵へと浅く会釈をしてから城門をくぐれば、
その先には踏み固められ草一つ生えていない前庭があり、
中門までまっすぐ石畳の通路が設けられていた。
そこを抜けると、視界は急激に広がって、
見渡す限り白亜の石材が敷き詰められた中庭が現れる。
大規模な式典の時など、この広大な中庭が文官武官で埋め尽くされ、
まさに圧巻の風景だったが、今は人影もなく侘しいばかりであった。
中門から左右に分かれ本殿の裏手まで続いている回廊を、兵士に連れられて奥へと進むと、
これまでとは趣を画した緑豊かな裏庭が孫を出迎えてくれる。
睡蓮の円い葉があちこちにいくつも浮かんだ、底の見えない大きな池。
その水面すれすれを、仲睦まじく飛び回る青い糸蜻蛉のつがい。

(ここは何もかも昔のままね・・・)

回廊沿いに植えられた緑に萌える花々を眺めながら、
は昔を思い出し眩しそうに眼を細めた。
あれからもう8年たつのか。
筆記用具の詰まった風呂敷包みを抱え、
大喬に手を引かれながらおっかなびっくりこの道を通ったのが、
まるで昨日の事のように孫の脳裏に蘇る。
初めて来た宮城は見るもの全てが荘厳で、
下婢上がりの純朴な娘は、巨大な宝箱のようだと目を輝かせたものだ。
記憶の中より少し草臥れた朱塗りの回廊は、紫陽花の垣根に沿ってゆるやかに蛇行し、
やがて分岐点へと差し掛かった。
左に曲がれば、まさに呉国の中枢と言って良いだろう、
高位の文官武官が執務を行う庁舎があり、
逆に右へと進めば、珍しい円形の門に行く手を阻まれる。
子宮を象ったというその門の先には、俗世と隔絶された妃嬪の城、後宮が存在した。
今や孫でさえくぐる事を許されない楼門を遠目に眺めながら、
頭の奥に仕舞い込まれていた記憶を懸命に引っ張り出す。
あの門を潜るとその先にも二つほど同じ形の門があり、それぞれに衛兵が居て、
持ち物や服装を検査されたものだ。
両脇を鬱蒼と茂る竹林に挟まれた回廊は、やがて途中で二つに別れ、
片方は平屋建ての真新しい学舎に繋がっていた。
もう片方は再び円形の門が道を塞いでいて、結局その先を見る事は無かったが、
恐らく後宮へと繋がっていたのだろう。
ざわざわと風に暴れる竹林を背景にひっそりと佇む異形の楼門は、
うら若き孫の目にまるで黄泉への入口のように映ったものだ。

思えば自分は年齢の割に随分臆病だった気がする。

ここ江南は河北に比べると女児への教育も熱心であり、
学府には孫一族はもちろん、有力な文官武官の娘も少なからず居たが、
養女になってからの修学だった孫は、他の子供より三つも四つも年長であった。

(あの野薔薇はもう散ってしまったかしら・・・)

既に季節は初夏へと差し掛かり、花の時季を過ぎている。
学舎の裏井戸の傍に生えていた荊の木の、びっしりと枝を覆った鋭い棘を思い出して、
は指の先にぴりりと痛みが走るのを感じた。
思わずまじまじと傷一つ無いはずの己が人差し指を見詰めていると、

「・・・・どうかなさいましたか?」

と、低く固い声が背後からかけられて、
そこで初めて孫は、自分が分かれ道に立ち止まったままである事に気付く。

「ごめんなさい、何でもありません。」

先を急ぎましょう、と身を翻して歩き出せば、
兵士達はそれ以上問いただそうとはせず、淡々と彼女に付き従った。




ほどなく辿り着いた高官の庁舎は、さすがに豪奢な作りをしていて、
高い天井や広い廊下は解放感に溢れ、心地よい静けさを保っていた。
開け放たれた廊下の窓が歩く速度に合わせて後ろに流れるのを、
見るともなしに眺めながら、
は散らばった記憶の断片を一つ一つ丁寧に拾い集めた。

「秘密を隠すなら薔薇の下・・・か。」

生前、実母が寝物語に聞かせてくれた言葉をひっそりと口の中で転がす。
親鹿は生まれたばかりの仔鹿を荊の木の下に隠すのだという。
そうすれば鋭い棘や生い茂る葉が、虎や狼といった捕食者から子供を守ってくれるのだそうだ。

「だからお前も大切な物は薔薇の下に隠しなさい。」

きっと悪い人から守ってくれるわ、とそう言って、母はいつも隣で寝る孫の頭を優しく撫でてくれた。
数少ない実母との思い出を噛みしめていると、
チリリと再び指先に微かな痛みが走った気がして、孫はきゅっと拳を握った。

当たり前だが、学府に来る女児たちの大半は小さい頃から教育を受けていて、
抜きん出て年嵩でありながら、何一つまともに受け答え出来ない孫は、
彼女達の中で殊更に浮いていた。
義母である大喬もその事には随分心を砕いてくれていて、
せめて見た目だけでも劣らぬようにと、服装や修学用具などそれなりの品を揃えてくれたが、
それが益々彼女達の不評を買ったらしい。
やがて一月もせぬ内に、孫の出自が実は異民族であると学府内で噂になり、
元々遠巻きだった彼女達は、とうとう孫の存在を無視するようになった。
毎日毎日、老師達の呆れ顔や溜め息に打ちのめされ、学友達の嘲笑や陰口に傷付いては、
裏井戸に生える荊の木の下に隠れて泣いたものだ。
清楚な白い一重の花を満開にした野薔薇は、声を押し殺し泣きじゃくる孫の姿を上手く隠してくれて、
そこで涙を流し切ってから屋敷へと帰るのが日課だった。

みっともない姿を見せたくないという小娘なりの意地か、
はたまた義母を心配させたくないという配慮か。

(まぁ、愚鈍なりに考えてはいたのよね。)

しかし、毎日娘が目を真っ赤に泣き腫らし、顔や手足を傷だらけにして帰ってくれば、
大体の察しはつくものだ。
実は心配してこっそり学舎まで様子を見に行っていた、と大喬に告白されたのは、
無事修学を終え、なんとか司書見習いという官職の端っこを掴んだ頃だった。

今思い出しても、自分の浅はかさに赤面する。
どうして修羅場を前に士気が下がるような事を思い出すのかと、舌打ちしていると、
まるで見計らったかのように兵士達が声を揃えて、到着致しました、と告げてきた。
見れば、長い廊下の突き当たりで観音開きの黒い扉が異様な存在感を放っていて、
まさかあそこに行けと?とばかりに兵士達の顔を確認すれば、

「ここより先はお一人で、との周都督の仰せにございます。」

としかめつらしく礼をとる。
そこまで人払いして話さなきゃならないような恐ろしい話が待っているのかと思うと、
の顔が否応なく引き攣った。
おそらく、本当に限られた重臣のみを呼ぶための軍議の間なのだろう。
長い廊下には、他の部屋への入口どころか窓一つ設けられておらず、
一段高く作られた板張りの床に一歩足を置くと、ギシッと木の軋む嫌な音がした。

(ええい!これっくらい、誰もいない夜の書庫に比べれば全然怖く無いわ!)

そう腹をくくると、孫は床をギシギシ鳴らしながら廊下の奥へ進んだ。
ここに来るまでの間、懐かしい風景にばかり心奪われていたせいか、
あれほど緊張していたというのに、今は不思議と気持ちが凪いでいる。

(案外、私って土壇場に強いのね。)

この分なら説得も容易かもしれない、と鼻息荒く意気込む孫だったが、
だんだん近づいてくる黒い扉に何やら違和感を覚えて、じぃっと目を凝らした。
唯でさえ薄暗い廊下の端、ひと際濃い暗がりに溶け込んでいるため遠目には分からなかったが、
黒い戦装束の男が一人、扉の脇に仁王立ちになっている。
反りの入った片刃の剣を腰に差し、目深に被った兜の下から猛禽類のような目でこちらを睥睨しているのは、
呉でも鉄壁を誇る護衛武将その人ではないか。
彼がここに居るということは、当然扉の向こうには彼の主人が居るということで。

(・・・・やっぱり駄目かも。)

急激に失われていく戦意に比例して、孫の足もどんどん遅くなる。
今からでも逃げてしまおうかと、元来た道をチラリと振り返れば、
先ほどの兵士二人がご丁寧に廊下の入口を塞いでいて、もはや自分は袋の中の鼠と悟った。
よろよろと扉の前まで辿り着き、ぴくりとも動かない周泰におそるおそる礼をとれば、
寡黙な男は目線だけをこちらに向け、微かに頭を傾けると、その視線を再び廊下の先へ戻した。
彼の放つ静かな威圧感に居心地の悪さを感じながら、
は片方の扉をほんの少しだけ押し開けると、その場に跪いた。

「孫、お召しにより参上致しました。」

と、中に向かって緊張気味に声を掛ければ、
ややあって、静かだが張りのある声で、入りたまえ、と返答が返ってくる。
衣擦れの音にさえ神経を尖らせながら、素早く中へ入り後ろ手に扉を閉めると、
すぐまたその場にひれ伏した。
すると今度は、耳触りの柔らかい男にしては高めの声が、

「そんな所で畏まらずとも、こちらへ来て顔を見せてくれ。」

と嬉しそうに催促する。
請われる通りに頭を上げ、そこでようやく孫は部屋の全貌を確認し、
ああやっぱり、と内心舌打ちした。
さほど広く無い軍議の間の、向かって右手の壁際に、
美貌の都督がまるで手本のような姿勢で正座しており、
正面の一段高くなった上座には、最近ようやく髭が似合う様になってきた若き君主が、
こちらは少々足を崩して座っていた。

(まあ、伯言が呼ばれていないだけ、最悪の事態は免れたと思っておきましょう。)

そう己を奮い立たせて、孫はしずしずと二人から近からず遠からずの絶妙な位置まで歩み寄る。
その場に正座し、深々と頭を下げながら、

「ご無沙汰致しております。殿におかれましては益々御健勝の由、大慶至極に存じまする。」

そう努めて静かな口調で挨拶したのだが、
心証の機微に妙に聡い所のある義叔父殿は、困り顔で苦笑を浮かべた。

「そう身構えずとも、お前を説教しに来たのではない。
今回の件は周瑜に一任しているからな。私はただ姪の顔を見に来ただけだ。」

尚香も会いたがっていたぞ、と告げられて、
雌鹿のように奔放な姫君を思い出し、孫の口元も思わず緩む。
人一倍正義感の強かった彼女は、養女になったばかりの孫に、

「苛められたら私に言いなさい!とっちめてやるんだから!」

と息巻いていた。

「私も、義叔母上様には大変良くして頂いておりました。
出来うるならば、お会いしとうございます。」

がそう正直な気持ちを口に出して伝えれば、
孫権も嬉しそうに目を細める。
ぴんと張りつめていた空気が束の間緩んだ所で、

「殿、そろそろ本題に入らせて頂いても宜しいでしょうか。
も、わざわざ執務を抜けて来ていますので。」

と、先ほどから沈黙を保っていた周瑜が、おもむろに口を開いた。
むしろこのまま雑談で終わってくれて構わないのだがなぁ、と内心げんなりしつつ、
は姿勢を正すと、彼の方へ向き直る。

、君を呼んだ理由はどうせ呂蒙辺りから伝わっているだろうが、
改めて私からお願いする。
どうか陸遜との婚姻の件、承諾してはくれまいか。」

もっと回りくどく諭してくるかと思いきや、
美貌の都督は単刀直入にそう言い切って、あろうことか頭を下げようとした。
これには孫も泡を食って、

「お待ち下さい!恐れながら、周都督ほどのお方に頭を下げられては、
もはや従うより他に道がなくなってしまいます。
せめて、拒む理由を申し上げる機会だけでも私にお与え下さいませ!!」

悲鳴のようにそう叫びながら腰を浮かせる。
それで何とか周瑜を押し留める事には成功したが、
彼はその秀麗な顔に陰りを浮かべ、

「いや、私は君に頭を下げてしかるべきだろう。
君をそのような立場に追い込んだ責任が私にはある。」

そう淡々と懺悔を続けた。
あらゆる感情が瞬間的に胸へとせり上がったが、
はそれをぐっと飲み込むと、落ち着いてその場に座り直す。

実のところ、孫を養女に、と進言したのは他ならぬ周瑜だった。
表向きは大喬の心痛を慰めるため。
だが実際は、主君の代替わりによって再び反旗を翻そうと結束し始めた異民族を、
牽制するための布石であった。
呉は父祖伝来の地と言えど、現状は孫策が前領主達から力づくで奪い取ったに過ぎず、
次代を任された孫権にその威勢無しと見れば、有力な豪族達はすぐに不穏な動きを見せるだろう。
その上、各地に点在している少数部族にまで決起されては、
ようやく走り出した孫呉という船が、大海を見ぬまま水底へと沈みかねない。
そこで、一番有力な部族からの人質であった孫を国主の縁戚に加える事で、
彼等を味方に引き入れ、あわよくば他の部族への押さえにしようとしたのだ。

(これ以上敵を増やさぬためとはいえ、
周都督も随分と思い切った策を断行されたものだわ。)

だが素直に認めるのは癪だと、背中の古傷が引き攣るような痛みを訴える。
自分が背負った名の重さも知らぬ下婢の娘を待っていたのは、
権力を巡った陰謀計略の嵐であった。
が持つ、旧君主の養女という肩書や、異民族との繋がりは、
野心ある者達を次々に引き寄せて、破滅の道へと追い込んだ。

(周都督にしてみれば、私は不穏な輩を炙り出すのに丁度良い囮だったのでしょうね。)

もし、孫がほんの少しでも野心というものに興味を抱いていたならば、
今頃は闘争に巻き込まれ、刑場の露と消えていたかもしれない。
何しろ本当に血の繋がった孫策の娘ではないから、
いざとなれば切り捨ててもなんら惜しく無い命だ。
臣従したばかりの陸遜を孫の護衛兵にしたのも、
おそらくは、彼に二心が無いか探るためだったに違いない。
まあ、その事に気付いたのは、孫が司書となり、
少なからず政の世界を理解するようになってからだったが。

「本来ならば、君の母君が亡くなった時点で人質の任を解かれ、
故郷へと帰れるはずだったのだ。それを、このような立場にした挙句、
今度は意に沿わぬ婚姻を押し付けているのだから、私を恨むのも無理はないだろう。
だが、それでも敢えて君に頼みたい。孫呉の未来のため、陸遜の元に嫁いでくれ。」

そう言って、目を伏せる美貌の都督を見つめて、
さてどうしようか、と孫は頭を悩ませた。
恨んでいないと言えば嘘である。
けれど、周瑜には恩義も感じていた。
もし彼が進言してくれなければ、
学府に通う事も、女人の身で司書になる事も、
そもそも、貴人として振る舞う事さえ孫には許されなかったのだから。

(でも、ここは敢えて周都督を批難し情に訴える方が、要求を突っぱね易いかしら?)

そう一瞬判断に迷ったものの、すぐに無駄だと諦めた。
周瑜にしろ孫権にしろ、相手は孫などよりずっと多くの私情を殺して、
国に忠を尽くしてきた海千山千の猛者である。

(ここはやはり利を説くのが一番有効でしょうね。)

と冷静に結論を出しながら、
随分小狡くなったものだと、自嘲する。
野薔薇の下で母を思って泣きじゃくっていた少女はもうどこにも居なかった。

さもとんでもないという顔を作って、

「そのようなお言葉を頂くなど、恐れ多いことにございます。
今の私があるのは全て周都督のお力添えがあったればこそ。
感謝こそすれ恨むなど、おこがましいというものです。」

そう諂いながら深々と頭を下げれば、
周瑜の纏う峻厳な空気がほんの少しだけ和らいだのを感じる。
そのわずかな変化を見逃さず、孫はしおらしい態度を崩さぬまま、
ゆるりと反撃に転じた。

「ですが、孫呉の未来のためとおっしゃられるならば、
恐れながら、私めと陸軍師との婚姻はいささか早計であると思われます。」

「・・・なるほど、先ほども拒む理由があると申していたな。
確かに当事者である君の意見も聞いておくべきだろう。」

続けてくれ、と言った周瑜の表情は、伏したままの孫には分からないが、
少なくとも声音に反論への憤りは感じられず、
態度が硬化されなかった事に、ほっと胸を撫で下ろす。
ご配慮感謝致します、と一言言い置いてから、
はゆっくりと顔を上げた。

「まず一つに、時期の問題がございます。
確かに、大殿や義父上様と確執のあった豪族達から忠心を得る事は、
政を進めていく上で重要な課題であります。
ですが、陸軍師はまだ歳若く、山越討伐に功を上げたとはいえ官位も低い。
孫家に仕える数多の武官の中に置いては、新参者に過ぎません。
例え周都督が軍師として将来を見込んでいらっしゃるとしても、
さしたる功績も無い者に、養女とはいえ先代君主の娘を与えたとなれば、
当然不満に思う臣も現れましょう。
いよいよ河北が平定され、年内にも曹操が南征を始めると噂されている今、
臣下の間に亀裂を生むような事は避けるべきかと存じます。」

そこで一端言葉を切って、孫は知らず大きく息を吐いた。
汗でじっとりと濡れた掌を太ももの横で擦って、
チラリと周瑜の顔色を窺えば、
彼は軽く目を伏せて沈思黙考を崩さない。
話を続けて良いものか分からず、
助け舟を求める様に正面の主君へと目を向ければ、
こちらは瞬きすらせぬほど真っ直ぐに孫を見つめていて、
居心地の悪さに慌てて視線を逸らした。
しん、と耳に痛い沈黙が流れ、
耐え切れなくなった孫が、急かされるように言葉を紡ぐ。

「も、もう一つに、陸家の面目という問題があります。
私には、この求婚が陸軍師一人の意向によるものに思えてなりません。
婚姻とは古来より家と家とを繋ぐもの、
まして当主の正室ともなれば一族の同意は必須でごさいましょう?」

と、今度こそ何らかの応答を期待して語尾を上げれば、
女であれば誰もが振り返るだろう秀麗な顔に厳格さを滲ませて
周瑜が重い口を開いた。

「それは君が口を出すべき話ではあるまい。
一族内の問題は当主である陸遜に任せるのが筋であろう。
それに、本来ならば一家臣から国主の一族へ求婚など、不遜な申し入れである。
それを敢えて受諾したのは、この婚姻が孫家にとって、
陸家との蟠りを流し臣従を強固にする絶好の機会であるからだ。
君とてその事は理解しているはずだろう?」

それはまさに礼節を重んじる彼らしい言葉だったが、孫は我が意を得たりと目を光らせた。

「ならば、なおさら私では意味がございません!
周都督もご存知でしょう?
私の体に孫家の尊い血は一滴たりと流れておらぬ事を!!」

持てる気迫を全て込めてそう一喝すれば、普段眉一つ動かさない冷徹な都督も、
黙って話に耳を傾けていた君主も、大きく目を見開いた。
自分で大声を張り上げておいて、言い終えた途端ふるふると手が震えるのが情けない。
からからに乾き切った喉に無理やり生唾を飲み込んでから、
は話を再開した。

「恐れながら、これは衆目一致の事実にございます。
そのような紛い物を押し付けて、果たして陸家から真に忠を得る事など出来ましょうか?
陸軍師はまだ若く、これから周都督の元で研鑽に励めば、おのずと武功も重ねられましょう。
その時に、改めて私などより相応しい孫家の子女と婚姻を結ばせる方が、
陸家側からも、そして数多の家臣からも賛同を得られ、
孫呉にとっても最良の道であると存じ上げます。」

先ほどとは打って変わった静かな口調で、そう持論を締めくくると、
は裁可を待つべく、床に額を擦り付けた。

言うべき事は全て言い切ったと思う。
後は、彼等がどう判断するかだ。

「・・・・一つ、聞いても良いか?」

長い沈黙の後、口火を切ったのは意外にも今まで聞き役に徹していた孫権の方であった。

「もし、陸遜に他の娘を嫁がせたとして、お前はそれで構わぬのか?」

ぽつりと問われた言葉が耳に入った途端、ズキリと胸に激しい痛みが走った。
今更になって、陸遜の隣に他の誰かが並び立つ、その意味を思い知る。
政略婚といえど義を重んじる陸遜の事だ。妻と迎えた者を無碍にはしないだろう。
いずれは孫にしていたように、
あの照れくさそうな笑みで睦言を囁くやも知れない。
そうして、妻となった女を愛で、抱き、子を育む。
仲睦まじい二人の姿が脳裏を過ぎり、
床を見つめる孫の顔がくしゃりと歪んだ。

「・・・・・・・・構いません。」

そう喉の奥から絞り出した声は明らかに震えていて、
己の無様さに笑いがこみ上げる。
だが、既に賽は投げられた。
もう後戻りは出来ないし、するつもりも無い。
これ以上何も申し上げる事は無いとばかりに、平身低頭を貫けば、
孫権はただ一言、そうか、とだけ呟いた。

「顔を上げよ、。」

彼と交代するように周瑜の固い声が軍議の間に響く。
促された通り背を戻せば、心なしか苦い顔をした美貌の都督は、
君主へと目配せをした後、おもむろに裁可を下した。

「私は、望むものを与える事が人心掌握における一番有効な手段であると考えている。
だが、今回は君の進言にも一理あると、そう思う。
よって陸遜との婚姻は白紙に戻す事とした。彼には殿からおって下知を下して頂く。」

それで良いな?と念を押され、孫は再度深々と頭を下げた。
正直、こんなにあっさり意見が通るとは露ほども思っていなかったため、
一気に緊張が解けて、今にもこの場にへたり込んでしまいそうだ。

「私などの言葉をお聞き入れ下さいまして、誠にありがとうございます!」

必死に感謝の気持ちを言い募れば、返事の代わりに長い長い溜め息が聞こえてくる。
まだ公にする前だったとはいえ、これから後始末に奔走せねばならないだろう周瑜の身を思うと、
今更ながら良心が痛んだ。

「私はまだ殿に話がある。君はもう執務に戻りたまえ。」

と、どこか疲れた声音で退室を促され、申し訳ございません、と改めて額を床に擦り付ける。

「それでは、殿、周都督。私はこれにて失礼仕ります。」

そう暇を告げて、粛々と立ち上がったを孫を引き留めるように、
ずっと何か言いたげに眉を寄せていた孫権が口を開いた。

「・・・。私は、お前にも幸せになって欲しいと思っているのだぞ。」

ひっそりと吐き出された労りの言葉は、本当にこれで良かったのか?と言外に滲ませていて、
は既に半分背を向けていた体をゆっくりと戻し、真っ直ぐ彼に向き直る。

「そのお言葉を殿から頂けただけで、私は幸せにございます。」

そう偽らざる本心を笑顔で告げて、深々と腰を折れば、
若き君主は益々眉間に皺を増やして黙り込んだ。
苦笑しながら、もう行ってもよろしいかと周瑜の方に視線で問えば、
その胸中を億尾にも出さぬ秀麗な顔が小さく頷き返す。
二人に向けて丁寧に礼をとると、孫は今度こそ軍議の間を後にした。






















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〜11/06/14
〜13/05/04 改訂