その人は、無遠慮に孫の秘密の部屋へと入って来た。
突然外から聞こえた、誰かそこにいるのかね?という声に、
例のごとく野薔薇の下に潜り込んでベソをかいていた孫は、
飛び上がって驚いたものだ。
やがて、イタ、イタタタ、という悲鳴と共に、
を守ってくれていた茨の檻が押し開かれ、ぬっと青白い細面が現れた。
頬に、額に、幾筋も引っ掻き傷を作った情けない笑顔で、
此処は君の隠れ家なのかな?と問われ、
ぽかんと見上げた彼の瞳に、自分の間抜け面が映っていたのを覚えている。

(優しい人だったのに・・・・)

竹簡の最後の行をギリギリまで書き込んで、孫は一息ついて筆を置いた。
長年使い込んだ木製の筆置きは墨まみれで、飾り彫りも擦り減って、
最早元の模様が何だったか分からない。
既に時刻は宵の口を回り、広い司書室に残っているのは孫のみであるというのに、
写本もあと一本分という所で、白地の竹簡を使い果たしてしまった。
どこかに残っていないかと一しきり辺りを探してみたものの、
結局は備品庫まで新しいのを取りに行くしかないと悟る。

(はぁぁ、ついてないわ・・・)

目算を誤るなんて、と愚痴りながらぐっと力いっぱい伸びをして、
は不承不承立ちあがる。
そうして、座卓の灯りとして使っていた小さな灯篭を左手で摘み上げると、
ほとんど夜闇に飲み込まれている司書室を慎重な足取りで出て行った。

最低限の灯しか焚かれていない廊下を、明かりめがけて飛んでくる羽虫を払いながら、
備品庫に向かって歩いていく。
一見しんと静まり返っているように見えて、
耳を澄ませば虫の鳴き声や、どこからか吹き込む隙間風の音など、夜の廊下は案外にぎやかだ。
こつこつと石畳に響く自分の足音を聞きながら、
はのんびりと先程中断してしまった物思いを再開した。

荊の城に侵入してきた珍客は、言葉巧みに孫を誑かし、
皆が帰って空っぽの学舎へと引っ張り出した。

(まぁ、正確に言えば琵琶の実に釣られたんだけども・・・)

他の方達には内緒ですよ?と渡された甘く瑞々しい橙色の果実は、
いとも簡単に孫の心を陥落した。
どんな気紛れで自分に声をかける気になったのかは分からないが、

「あんな所で泣いているくらいなら、私の元に来て文字の一つも覚えなさい。」

と笑った彼の言葉に従って、孫は野薔薇の下に引き籠ることをやめた。
それからは、講義の終わった学舎で日が暮れるまで彼に教えを乞う毎日で、
最初の内こそ、あまりの出来の悪さに見捨てられるのでは無いかとオドオドしていた孫も、
いつしか暇さえあれば彼を質問攻めにするようになっていった。
理解さえ出来れば、講義の時間はとても楽しいものになり、
だんだんと孫を馬鹿にする者も居なくなった。

(全部、師父のおかげだわ・・・)

今思えば、学府の師の中で最年少の彼は、あまり講義もさせてもらえず、
雑務ばかりを押し付けられて、面白く無かったのかもしれない。
落ち零れと若輩者、あぶれ者同士丁度良かったのだろう。

それにしても、今日はやけに昔の事ばかりを思い出す。
辿り着いた備品庫の前で、孫は朝から現れては消える思い出に苦笑を浮かべた。
司書になったばかりの頃は、夜の廊下が怖くて怖くて、
こんな風に考え事をする余裕など無かったから、随分図太くなったものだと思う。

(今でも備品庫は怖いけど・・・・)

鼠が足元を走り抜けたり、蜘蛛の糸が顔に絡み付いたりしませんように、と
目の前のさほど大きくない扉に祈る。
意を決して、立て付けの悪い木製の扉を押し開けると、
脆弱な灯篭の灯りだけを心の支えにして、真っ暗な備品庫の中へと足を踏み入れた。
ごちゃごちゃと色々な物が積まれた棚の中から、
白地の竹簡を三本ほど掴んで、大急ぎで出口へと向かう。
途中何かをしたたかに蹴飛ばしたがこの暗さでは確認しようもなく、
足の小指から伝わってくる激痛に思い切り顔を顰めながら、
はふらふらと備品庫から逃げ出した。

(うぅ、痛すぎる・・・さすがに疲れてるなぁ。)

適当に掴んできた竹簡が本当に白地であるか確かめながら、
未だズキズキと鈍痛を訴える足先に、溜め息をつく。
今日は色々と濃い一日だった、と昼間の問答を思い返して、
気にしないように努めていた疲労感がどっと体に圧し掛かった。
なにしろ、呉の国主と偉大な都督を相手に一言物申したのだ、
今も頭と首がちゃんとくっついている事が奇跡に思える。

(・・・でも、これで問題事は片付いたわ。)

全て、孫の望む通りになった。
明日からはまたいつも通り、少々退屈だけれど穏やかな日々が帰ってくる。
もう強引な年下の求婚者に思い煩わされる心配は無い。
清々するわ、と嘯きながら、けれどちっとも晴れない気分を持て余して、
が元来た道をとぼとぼ帰っていると、ぼそぼそと人の話す声が耳に届いた。
見れば、司書室の入口から暗い廊下に向かって、か細い光が漏れ出ている。
自分の他にもまだ居残りしている者がいたのか、とそう思いながら、
扉へと手をかけた所で、聞こえてきた言葉に孫の顔が凍り付いた。

「先ほど、また来ておりましたよ、あの青二才。」

「それはそれは、陸軍師も出世の為とはいえ熱心な事ですなぁ。」

急激に体温が下がっていくのを感じながら、一歩後ずさる。
扉一枚向こうで孫が聞き耳を立てているとも知らず、話し声はなおも続いた。

「たかが地方軍の指揮官が、中央に呼ばれた途端軍師気取りなのですからねぇ。」

「何でも呂軍師の推薦で周都督が召還したとか。いやはやどうやって取り入ったのかご教授頂きたいものです。」

「まったくです。挙句、孫家のご息女様にまで食指を伸ばしているそうではありませぬか。
出世のためならば仇の娘でも抱けるというのだから、いっそ清々しいほど露骨な野心ですなぁ。」

次から次へと流れてくる誹謗中傷を聞きながら、

(まあ、これ位は当たり前よね。)

と、孫が冷めた笑みを浮かべる。
若く、才に溢れ、上司の覚えも目出度いとなれば、妬みを買うのは当然で、
司書ごとき末端の文官でさえこの有様なのだから、
陸遜に御株を奪われた連中に至っては、罵詈雑言の嵐であろう。
そして、彼等の会話は孫が予想した通りの方向へと向かっていく。

「まあ、ご息女などと称してはいても、相手はあの様ですからなぁ。」

「いやはや、形振り構っていられないのでしょうが、実は卑しい出自の女であると彼の御仁はご存知なのか。」

「貴殿、ちと言い過ぎではありませぬか?しかし、我が子に蛮族の血が混じるなど私なら御免こうむりますがね。」

「落ちぶれ一族の当主様は毛色の違う女がお好みなのでしょう。」

これはまた随分と言いたい放題言ってくれるものだ、と茶化しながら、
の目が剣呑な色を帯びる。
男社会の中でただ一人女だてらに司書を続けていれば、陰口など当たり前で、
今更目くじら立てるほどの事でも無かったが、
どういうわけか今日に限って聞き流す事が出来なかった。
ふつふつと胸に湧き上がる激しい怒りに任せて怒鳴り込んだら、
彼等はどんな顔をするだろう。
仮にも君主の縁戚にこれだけの侮蔑を吐いたのだ、
不敬罪で腕や足の一本くらい飛ばしても構わないはずだ。
努力して司書になったという自負があるからこそ、
孫という名に決して頼らぬよう今まで自分を戒めてきたが、
あまりの激憤に箍が外れそうになる。

(私を使って伯言を侮辱する事は絶対に許さない!)

強く握りしめ過ぎて震える孫の拳を、しかし温かな何かがそっと包み込んだ。
はっとなって振り返れば、今一番会いたくなかった人物が、
その痩身に殺気を纏って立ち尽くしていて、
は頭から冷水を被ったかのように血の気が引いた。
美しい顔にぞっとする酷薄さを滲ませて、
無言の陸遜は孫の脇を通り抜けると、無遠慮に扉を開ける。
何事かと此方を注視した司書達の顔色がどんどん青くなっていくのは痛快な光景だったが、
当の孫にそれを嘲笑う余裕など無かった。

「伯言、駄目よ!」

悲鳴のように叫んで、
未だ激しい怒気を放ちながら、真っ直ぐに彼等の元へと向かう陸遜の、
握りしめられた拳を、寸での所で掴み取る。
放り投げた竹簡が床に落ちる乾いた音が、静まり返った司書室に空しく響いたが、
も、陸遜も、そして今や顔を土気色にして固まる司書達も、誰一人そちらに気を逸らす者はいなかった。
払いのけようと思えば容易く解ける脆弱な力は、けれど陸遜の動きを止める事に成功し、
は急いで彼を背に庇うようにして前へと進み出る。

「下世話なお話がお済みなのでしたら、お帰り下さい。灯り油が無駄になりますので。」

そう淡々と告げれば、彼等は普段の賢哲を気取った態度からは程遠い狼狽っぷりで、
我先に司書室を出て行った。
それを侮蔑の目で見送る孫に、

「・・・・なぜ止めたのですか。」

と、地を這うように不機嫌な声が背後からかけられる。
はきつく眉根を寄せると、問いかけを無視して、
床に散らばった竹簡を拾い集めた。
そうして、立ち尽くす陸遜を放ったらかしにしたまま、
さっさと自分の座卓の方へ戻ってしまう。
チリチリと密やかなに燃え続ける灯篭を硯の脇に置き、
竹簡を卓上に並べ、やおら座ろうとした所で、強く腕を掴まれた。

「なぜ止めたのです!彼等は貴女を侮辱した!」

いつの間にこんな近くまで来ていたのか、
すぐ横で同じ質問を繰り返す陸遜の顔をきっと睨みあげ、
は苛立たしげに吐き捨てた。

「まだ分からないのですか?
彼等にあれほど悪し様に罵られたのも、全ては貴方のその軽率な行動が原因でしょう?」

「それはっ・・・・」

そう不服そうに押し黙った陸遜の手を、力任せに振り解いて、
はなおも厳しい口調で言い募る。

「怒りに任せて食って掛かった所で、彼等の勘繰りを肯定する事にしかならない。
普段の冷静な貴方ならば、それ位容易に理解出来たでしょうに。
いくらなんでも最近の貴方の行動は浅慮に過ぎます。どうして、こんな所に来たのです?」

まるで悪童を叱りつけるように苦言を連ねれば、
間近に見上げた端正な顔が悔しそうに背けられ、

「どうしてなんて・・・・それを貴女様がお尋ねになるのですか?」

と、詰るような声音で問い返された。
胸の中に後味の悪い罪悪感が広がって、孫の視線が一瞬揺らいだが、
すぐに毅然とした態度を取り戻すと、それが浅慮だと言うのです、ときっぱり切り捨てる。

「貴方はまるで自分の立場を理解していない。
口さがない者達にとって、貴方の一挙手一投足全てが悪意の対象となっているのですよ?
だからこそ、今回の縁談も極秘裏に進められた。
その周都督のご配慮が分からない貴方ではないでしょう?」

「確かに、殿や周都督、呂蒙殿のご厚意には感謝しております。
けれど、私は何ら衆目に恥じる事はしていないつもりです。
我が身の潔白は然るべき方々に信じて頂ければ良く、
下衆の妄言に屈する謂れなどありません。」

そう強く反論する彼の澄んだ瞳の中に、
幼い頃垣間見せた高潔な魂が今もちゃんと輝いていて、
ああ、変わっていないのだな、と愛おしさがこみ上げてくる。
清廉で誇り高いがゆえに孤独だった少年は、
ようやく才を認められる場所を得られたのだ。
陸遜は、あんな下らない連中に蔑まれるべき人ではない。

(伯言が私のせいで傷付く必要なんか、どこにも無いわ。)

彼を守るためなら、いくらでも非情になる。どんな嘘もつく。

「貴方の、周囲を顧みない強固な態度は、いずれ貴方自身に禍となって返ってくるでしょう。
ですが、私まで巻き込まれるのは御免蒙ります。
貴方のような方から見れば、たかが司書などと鼻で笑う程度の職かもしれませんが、
それでも私にとっては、長年苦心して築き上げてきた大切な地位です。
決して目立たぬよう、波風立てぬよう、心を砕いて守ってきた立場を、
貴方が全て台無しにしてしまった。」

一言一言を口にするたびにジクジクと増していく胸の痛みを飲み込んで、
が淡々と糾弾すれば、陸遜は辛そうに唇を噛んで俯いた。
彼の美しい瞳に哀しみが満ちるのを見つめ、
辛い辛いと体が悲鳴を上げている。
鼻の奥がツンと痛んで、じわりと視界が涙で滲みそうになるのを、
寸での所でぐっと我慢した。

ちゃんと別れを告げなくては未練が残る。

彼も、自分も。

「まぁ、それも今日までです。
まだ、お聞き及びではないようですから、今ここで私から申し上げますが、今回の婚姻は正式に破断と決まりました。
おって殿から陸軍師にも下知が下される事でしょう。
・・・さぁ、これで貴方がここに居る理由も無くなったはずです。」

どうぞもうお引き取り下さい、と冷たく突き放して背を向ける。
だが、最後まで言い切った事で一瞬気が抜けた孫を、
背後から伸びてきた二本の腕が横ざまに掻き抱いた。
ろくに抵抗も出来ぬまま、いとも簡単に体が反転し、
視界いっぱいに苦しげに歪んだ陸遜の顔が現れる。

「嫌です!絶対に認めない!!」

そう吐き捨てた彼の琥珀色の双眸は狂おしい恋情に燃えていて、
昏い眼光に射抜かれた孫はただ見つめ返すばかりだった。
骨が軋むほど容赦無く抱き締められて、息も出来ない。

「この5年間。私がどんな思いで戦功を上げて来たか、分かりますか?
臣従して間もない下位の武官である私が、
どうやったら先代の御息女であらせられる貴女をこの手に抱けるか、必死で考えましたよ。
呉の情勢と陸家の立場を考えれば、政略婚が一番可能性がある。
でもそれには求婚が許されるだけの地位と実績が必要で、
だから、呂蒙殿に頼み込んで軍師としての教えを乞うた。
それでも、僻地を転戦している間に貴方を誰かに奪われはしないかと、気が狂いそうでしたよ。
周都督に都へ召還され、正式に軍師となった時は天が私の味方をしたと思いました。
これで、ようやく貴女を迎えられる。そう思っていたのに、どうして・・・。」

こちらの肩口に顔をうずめ苦しげに言い募る陸遜の、
震える背中に腕を回し、力いっぱい抱き締め返せたならどんなに良いだろう。
けれど、持ち上げりかけた両手は弱弱しく彼の体を押し返すに留まった。

「お願いです、答えて下さい。」

そう絞り出された問いに、だが孫は返事を返す事が出来なかった。
今口を開けば、きっと声が震えてしまう。

気持ちを、

誤魔化せなくなる。

沈黙をどう捉えたのか。
互いの吐息がかかるほど間近で、こちらの真意を探っていた陸遜の瞳に、
不穏な色が浮かんだ。

「・・・まさか、他に想う男が居るんですか。」

「・・・っ、そうだとしても最早貴方には関係の無い事でしょう!」

これ以上は視線に耐えられないと、彼の尻馬に乗って出鱈目な言い訳で逃げを打つ。
瞬間、陸遜の体から膨れ上がったのは怒気か、殺気か。

「貴女は誰にも渡さない!!」

悲鳴のような叫びごと、陸遜の唇が孫のそれに押し付けられる。
柔らかく湿った感触が脳に伝わると同時に、目の前が真っ赤に染まって、
気付いた時には、孫の平手が陸遜の頬でぱんっと乾いた音を立てていた。
ふーふーと肩で荒く呼吸しながら、真っ赤な顔で睨みつければ、
状況を把握出来ずにいた陸遜の秀麗な顔が、ゆっくりと歪んでいく。
深く傷ついたと訴えている彼の瞳に気を取られている内に、
今までにないほど無慈悲な力で咢を掴まれたかと思うと、
有無を言わさず再び口付けられていた。
すぐに歯列が割られ、ぬめりを帯びた舌が荒々しく侵入してくる。
不快な感触に眉根を寄せて、孫が力いっぱい陸遜の体を押し返すものの、
彼の鍛え上げられた痩身はびくともしなかった。
その間も理不尽な侵略者は咥内を好き勝手に暴れ回り、
きつく舌を絡み取られた途端、孫の足がかくんっと力を失った。
そのまま乱暴に押し倒されて、噛みつかれたままの唇からガチガチと歯の当たる嫌な音がする。
なおも執拗に追ってくる陸遜の唇から逃げようともがけばもがく程、
服は乱れ、圧し掛かる体が重みを増した。
上顎を舐め上げ、甘い唾液を啜り、柔らかな舌を思う存分貪って、
ようやく陸遜は孫の唇を解放する。
呼吸を制限されていたせいで意識の朦朧としている孫の、生理的な涙が滲んだ視界に、
頬を薔薇色に蒸気させ、狂気に染まった陸遜の顔が映った。

「好きです。自分でもどうしようも無いくらい、好きなんです。」

どうか私のものになって下さい。
そう耳元に囁きを落としながら、不埒な手が孫の体に沿って滑り降りる。
その手を必死に押し留めながら、逃げようと身を捩れば、
より一層熱い体が押し付けられ、太ももの辺りに当たる固い感触に気付いた途端、
全身の血がカっと沸騰した。
薄暗い司書室に、しばしの間、荒い息と、抵抗する衣擦れの音だけが響く。
いい加減不毛な攻防に焦れた陸遜が、服の上から柔らかく膨らんだ胸の頂きを甘噛みすれば、
途端に体の芯をゾクゾクと切ない痺れが走って、孫ははっと息を詰めた。
びくんと体が跳ねた隙に、とうとう服の裾を割って陸遜の手が内股へと侵入してくる。
しっとりと霧を吹いた柔肌の上をざらついた固い掌が滑り、孫はぎゅっと目を瞑った。

これ以上はいけない。

その瞬間に覚悟を決めて、孫は素早く文官用の冠から簪を引き抜いた。
長い髪が床へと散乱し、驚いた陸遜が顔を上げる。
その鼻先に鋭く尖らせた簪の先を突き付けて、孫は無言で彼を睨みつけた。

「・・・・どうぞ刺して下さって構いませんよ。それで引き下がるつもりは毛頭ありませんがね。」

挑発するようにそう言って、勝ち誇った表情で嘲笑った陸遜だったが、
がどこか凄みを帯びた目でひたと見つめ返すと、
だんだんとその顔から興奮が抜け落ちる。

「これで貴方を止められるなどと己の力量を過信するほど、私は愚かではありませんよ。」

完全に沈黙した陸遜に、淡々とそう言うと、孫はくるりと簪を反転させ、自分の喉元に当てた。

「これは、私が自害するためのものです。」

決して揺るがぬ声音で静かに告げれば、
彼は信じていないのか、まるで駄々を捏ねる子供の相手をするかのように、苦笑を浮かべた。

「そんな見え透いた脅しに乗るわけがないでしょう。
慣れない事をすると本当に怪我をしますよ。」

そう言って簪を取り上げようと伸ばされた手を、無碍に叩き落とし、
唖然とする陸遜を真っ直ぐ見据えて、先程と変わらぬ覚悟で言葉を紡いだ。

「脅しとお思いならばそれも結構。
ですが、貴方が私の何を御存知だというのです?
五年も前にたった一年足らず護衛兵として仕えただけではありませんか。」

場違いとも思える程冷静に話す孫を、
陸遜はまるで見知らぬ誰かと相対しているかのような目で見下ろしてくる。
返事が返ってこない事を肯定と取って、孫は冷笑を浮かべた。

「私は、孫という名を頂いてよりずっと、
我が命を懸けて、純潔を守ってきました。
あの不安定な情勢下で、私が不逞の輩共に屈する事は、
とりもなおさず無用な権力闘争を生む事を指していた。
私は確かに非力です。けれど、貴方が戦場で命を賭して使命を全うするように、
私も私に課せられた責務のため、命を投げ出す覚悟くらいは持っているのですよ。」

例え伯言と言えど侮る事は許さない、と強く警告すれば、

「そんなつもりでは!!」

と反論して陸遜が焦ったように此方の両肩を掴もうとする。
反射的に、触らないで!!と絶叫して、
は両手に握った簪をより強く喉へと突き付けた。
先端が柔らかな薄皮を破り、つっと生ぬるい雫が首筋を流れ落ちる。
白い喉を裂いて伝う真っ赤な鮮血に、陸遜の顔が青ざめた。

「それ以上私に触れれば、今度こそこの喉を突きます。
もう分ったでしょう?貴方が5年もの間想い続けてきたものはただの幻想です。
実際の私は、あの司書達が言った通り、
孫家の息女とは名ばかりの、浅はかで狡い蛮族の女なのですよ。」

だから、私のために泣かないで、と口には出さぬまま、
今にも零れ落ちそうなほど涙に潤んだ彼の双眸を、孫は切なげに見つめ返す。
先程までの熱気が嘘の様に、簪を握る手が冷たい。
司書室に夜の静寂が戻ってきて、どっどっと早い己の鼓動がやけに五月蠅く感じた。
ほの暗い灯篭の明かりに陰影を濃くした陸遜の端整な顔が、ゆっくりと絶望に歪み、
苦しそうに眇められた赤い眦から、透明な雫が一つほろりと孫の頬に落ちる。
彼の形の良い唇が何か言いたげに開きかけ、けれど獣のような低い唸りを発し、
きつく引き結ばれた。
頬に触れようとおずおず伸ばされた手は、
が顔を背けて拒絶した事で、ガンッと力任せに床へと打ちつけられる。
そのまま、体を押さえ付けていた重みが消え、
見上げれば、陸遜が孫の足元で茫然と立ち尽くしていた。
こちらと目が合った途端、ぎゅっと辛そうに眉根を寄せ、脱兎のごとくその身を翻す。
陸遜の取り乱した足音が、どんどん遠ざかっていくのを、
は身を起こす事も追いかける事も出来ないまま、聞き続けた。

やがてどんなに耳を澄ましても外で鳴く虫の声意外聞こえなくなった頃、
ずっと睨みつけていた漆黒の天井がぼんやりと滲み始める。
ぽろりと握りしめていた簪が床へと転げ落ちて、
は長い長い溜め息を吐くと、むっくりと起き上がった。

「あーあ、これは酷いわね・・・」

くしゃくしゃに乱れた髪とかろうじてそれにしがみ付いている冠、
文官服も、ちょっと仮眠してて着崩れしましたと言い訳するには苦しいほどボロボロで、
全力で抵抗したせいか、体中あちこちが痛かった。
ふと座卓を見れば、先程持ってきた白地の竹簡が無造作に転がっていて、
まだ、あと一巻分写本が残っている事を思い出す。
とりあえず早く終わらせてしまおうと座卓に座り直し、
けれど、暴れている間に筆が何処かへ転がっていってしまっている事に気付いた。
このままでは、灯篭の油の方が先に尽きてしまう。
仕方なく、座卓の下をごそごそとまるで穴熊のように探し回りながら、
私は一体何をしているんだろうと惨めさがこみ上げる。

「それもこれも全部伯言のせいだわ。案外堪え性がないんだから・・・」

若さって恐ろしいわね、なんて茶化しても滲む視界は止められず、
とうとう誤魔化しきれなくなって、両手で顔を覆った。

(どうして私が泣かなきゃいけないのよ。全部望み通りになったじゃないの。)

ここまではっきり拒絶すれば、陸遜も妙な期待は抱かないだろう。

もう、彼の贈り物に部屋が浸食される事も無い。

不意に甘ったるい睦言を囁かれて、冷や汗を掻く事も無い。

同僚の司書達に奇異の目で見られて、居心地悪い思いをする事も無い。

やっと元の生活に戻れるというのに、
服の袖では間に合わないほど涙が幾筋も頬を滑り落ち、
幼い子供のような嗚咽が引っ切り無しに口から漏れるのは何故なのだ。

(伯言にとっても私にとっても、これが最善なのよ!間違ってなんかないわ!!)

そう頑なに自分に言い聞かせて、ぐっと奥歯を噛みしめる。
月日が流れ、いつか今夜の事を懐かしく思い返した時に、
やっぱり自分の選択は間違っていなかったと、きっと笑えるはずだ。
それを信じて、孫は体の中で別離の痛みにのた打ち回る己が恋心を必死に押さえ込む。

背中を走る傷が、燃えるように熱かった。



















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13/05/04 改訂