太陽が西の空に傾く頃、船着き場には続々と漁を終えた小舟が帰ってきていた。
「おぉーい、お若いの。そろそろお前様も帰り支度を始めねぇと、嵐が来るぞぉ。」
目の前を横切って流れていく手漕ぎ船の上から、そう忠告をくれた顔なじみの漁師に、
孫も大きく手を振って答える。
今にも飛びそうな麦藁帽子を片手で押さえ込みながら空をふり仰げば、
黒々とした雨雲が凄い速さで風に流されていくのが見えた。
対岸が霞むほど広い川面は一面細波立ち、
所々に群生するガマの茂みが不安そうにざわめいている。
きっと今夜は豪雨になるだろう。
さっさと屋敷に戻らねば家路の途中で雨に降られてしまうと思いながら、
孫はどうしても竿を引き上げる気にならなかった。
既に餌として捕まえてきた蚯蚓は底をつき、
釣り糸の先に魚が食いつく事など万に一つも無いのだけれど、
どうにも帰り支度を始められないでいる。
「今日でもう5日・・・・」
そう口の中で独り言を転がして、無意識に首を掻く。
爪の先に小さな瘡蓋が引っ掛かって、なんだか触るのが癖になってしまったなと、苦笑した。
あの日、陸遜の妨害に合いながらも、なんとか明けの鳥が鳴く前に最後の巻を仕上げ、
朝一番に提出した孫に、上司が渋り顔で通達したのは、予想外の休暇であった。
発案元は、恐らく美貌の都督殿辺り。
孫が不在の間に、後処理を済ませてしまおうという腹積もりなのだろう。
けれど、奇跡に等しい6連休も、気付けば何もしない内に明日で終わりとなっていた。
書を読むでもなく、市を見に行くでもなく、
毎日自室に籠ってごろごろしている孫を見るに見かねた女中頭が、
あれほど嫌っていた釣竿と餌箱を持たせて外へと放り出したのが今朝の話。
とはいえ、糸が引いても気付かないほど呆けきった孫に、釣られる魚がいるはずも無く、
葦を編んで作った魚籠には雑魚一匹入っていなかった。
どこに居ても、何をやっても、出てくるのは溜め息ばかり。
思わず釣竿ごと膝を抱きこんで、その上に顔を埋める。
(なんでこんなに落ち込んでるのかしら・・・・)
そう自問して、すぐに酷い愚問だと自嘲した。
どうしてか、なんて。
(伯言を傷付けちゃったからに決まってるじゃないの。)
最後に見た悲しげな顔が頭から離れない。
もっと自分が上手く断っていれば、彼をあそこまで追い詰めずに済んだのではないか?
どうしたら、以前のように姉弟のような関係に戻れるのだろう?
ここ数日はそればかり考えて、夜も碌に眠れなかった。
(そんなの無理だと分かってはいるのよ・・・)
そもそも、陸遜が孫に向けていたのは恋慕の情で、
家族のように慕ってくれてる弟分なんて最初からいなかったのだ。
彼の本心を知った途端、手酷く拒絶しておいて、
なんとか以前の穏やかな関係に戻れないかと考えてしまう自分が、醜く浅ましい人間に思えた。
自己嫌悪にバシャバシャと竿の先で水面を叩いていると、
「やっほー、釣れてるぅ?」
と、暗い雰囲気ぶち壊しのやたら陽気な声が後ろから飛んできて、
すぐに肩口からひょこっと愛らしい顔が現れる。
突然の事に驚いて、孫がぱくぱくと二の句を継げずにいると、
10代と言われても疑わない容姿の義叔母はその場にしゃがみ込んで、
「なーんだ。からっぽじゃーん!」
とけらけら笑いながら、魚籠を逆さに振ってみせた。
「・・・・御無沙汰しております、義叔母様。」
一呼吸置いてから、改めてそう挨拶をする孫の顔は、誰がどう見ても引き攣っていて、
この天真爛漫な義理の叔母が、育ての母とはまた違った意味で苦手である事を如実に表していた。
「ひっどーい。ったら今絶対めんどくさーいとか思ったでしょ?」
途端にぷうっと栗鼠のように頬を膨らませて図星を指してくる小喬に、
いいえっ滅相も無いと慌てて言い訳しながら、孫は内心舌を巻いた。
野生の勘とでも言えば良いのだろうか。
普段は全く人の話を聞かないのに、変な所でずばっと核心をついて来るのだ、彼女は。
「えへへ、嘘嘘。怒ってないよ〜。びっくりした?」
そう言って小首を傾げる小喬に、
孫は、義叔母様もお人が悪い、と乾いた笑いを浮かべるしかなかった。
これはさっさと切り上げて立ち去るべきだな、と早々に逃げる算段をつけて、
いそいそと釣り糸を引き揚げながら、
「それにしても、今日はいかがされたのです?叔母上様ほどの高貴な方がこの様な所まで・・・。」
そう心なし早口に尋ねれば、
「んとね。この近くまでお買い物に来てたんだけど、
周瑜様にお願いされちゃったの思い出したから、ついでにとお話をしに来たんだ!」
と悪びれた様子も無く答える。
昔から正直にいらぬ事までしゃべる性格で、
義母などは、困った子なんだから!と時々諌めたりしていたが、
その嘘のつけない明け透けな物言いが孫は嫌いじゃなかった。
とはいえ、一体何を話せば良いのやら。
にこにこと邪気の無い笑顔で、さぁどんどん話してちょーだい!と両手を広げられ、
孫はうぅぅ、と頭を抱えた。
とりあえずいつでも逃げられるように、釣り道具を手元へと引き寄せていると、
同じくうーんと難しい顔で考え込んでいた小喬が、パッと顔を輝かせる。
「あのさあのさ、孫って陸遜が大好きだよね?」
前触れも無く突然投下された爆弾に、孫の顔が隠しようも無く赤くなった。
「な、な、なっ!!」
軽い言語障害に陥って、同じ文字を連呼する孫を尻目に、
江東の二喬とまで賛美された美女は、ニヤリと人の悪い笑みを浮かべた。
「やっぱりね〜!その反応は当たりでしょ!?
周瑜様やお姉ちゃんは、やっぱり年下は無理だったかもなんて言ってたけど、
私は絶対は陸遜に恋しちゃってるって思ったんだ〜!」
こちらが否とも応とも答えぬ内から、
立て板に水とばかりに好き勝手しゃべって、小喬は得意満面に同意を求めてくる。
真っ赤に染まった頬を今更ながら両手で隠し、
孫はくらくらと眩暈を覚えた。
「こ、恋だなどと!どうして、私がそのような!?」
「だって好きでしょ?陸遜のこと。
そんでー、陸遜もが好きだから、両思いだね!」
なんで結婚しないの?とその表情がくるくる変わる可憐な瞳で真っ直ぐこちらを見つめて、
ごもっともな質問をぶつけてくる。
「義叔母様。失礼ながら、婚姻というのは、感情に任せてするものでは無いと心得ます!
お互いの立場や家同士の思惑に従って為されるべきもので・・・」
そう仮にも年上の人妻に向かって噛んで含めるように説明すれば、
むっと唇を尖らせると面倒臭そうに途中で遮ってしまう。
「でーもー、私は周瑜様がだーい好きだから結婚したんだよ?
周瑜様だって私の事だーい好きだからお嫁さんにしたんだし。」
そうして、きゃー恥ずかしい☆と今頃になって照れてみせる小喬を横目に、
孫はげんなりとこめかみを押さえる。
まったく意志が伝わらない。というか微妙に会話が成りたってない。
これは本格的に逃げの体制へ移ろうかと逡巡していると、
「結局は何を隠してるの?」
と、すぐ右隣で声がして、はっと顔を上げれば、
しゃがみ込んだ小喬の綺麗な横顔があった。
一体どこから拾ってきたのか、
小さな枯れ枝で渇ききった地面に落書きを始める彼女を、
孫は目を見開いて見つめる。
「あのね。私って、思った事は何でもすぐに口から出ちゃうの。
だって言いたい事を溜めこんだら、胸が満杯になって爆発しそうなんだもん。
でもね、周瑜様はね。ぜんぜん思ってる事言ってくれないの。
それで、良く喧嘩しちゃったりするんだけど、
そうすると周瑜様、なんだか悲しそうに言うんだ。
本当の気持ちほど、大事な人には隠しちゃうんだって。
だって傷付けちゃったり軽蔑されちゃったりしたら辛いから。
怖くて言えないんだってさ。」
こちらを見ようともせずぽつぽつと紡がれる言葉に、
自分が酷く狼狽している事が分かる。
これ以上彼女の話を聞いてはいけない、と警告が聞こえる。
「孫も、陸遜が大事過ぎて怖いの?」
そう言ってこちらを向いた小喬の、
深淵のように澄んでいながら底の見えない大きな瞳に囚われて、
孫は逃げ出す機会はおろか反論する声さえ奪われた。
心臓を直接鷲掴みにされたような苦しさを覚えて、
浅い呼吸を繰り返す孫に、
義理の叔母は年上らしい慈しむような微笑みを向ける。
けれど、それもすぐにいつもの悪童のような満面の笑みへとすり替わった。
「・・・なーんてねー!ちょっとお姉ちゃんぶったら疲れちゃった。
迎えが来たから私もう帰るねー!」
萌黄色の漢服をぱんぱんっと勢いよく払って、
小喬はそう言いながら立ち上がると、くるりと後ろを振り返る。
つられて孫も振り返れば、
土手の上を小奇麗に着飾った侍女と腰に剣を履いた衛兵が5人ばかり、
遠目でも分かるほど慌てた様子でこちらに向かって走って来ていて。
「えへへ、あんまり遅いから置いてきちゃったんだー。」
そう言って照れ臭そうに笑った所を見ると、
一応この義叔母にも悪い事をした自覚はあるらしい。
彼女がぶっちぎりの俊足で従者を置き去りにする様を想像して、
孫は思わず噴き出してしまう。
すると、今度は拗ねたように唇を尖らせて、
自分だって一人でこんな所来てるじゃんか!と脇腹を思い切り小突かれた。
思いのほか激しい痛みが走って、イタタと孫がうずくまっている隙に、
「敵将討ち取っちゃった〜!」
と言い残して少女のような義叔母は跳ねるように土手を駆け上がる。
それを眩しそうに眺めていると、
彼女は従者と無事合流した所でこちらへと振り返り、大きく拳を振り回した。
「本当の気持ち、ちゃんと伝えないと爆発しちゃうんだからねー!!」
と風に乗って流れてきた有難い忠告に、孫は苦笑しながら深々と頭を下げる。
それを満足げに見届けて、小喬は来た時と同じく嵐のように去って行った。
しん、と元の静寂を取り戻した船着き場で、
孫も帰路につくべく、釣り糸を竿へと巻きつけながら、
「大事過ぎて怖いの・・・か。」
と、先ほど答えられなかった問いを呟いてみる。
義叔母が残して行った言葉達は、
心の奥底の柔らかな部分に幾つも引っ掻き傷を作って、誤魔化せないほど厄介な痛みを生んでいた。
本当の気持ちなんて、そんなもの分かり切っている。
「私は伯言に幸せになって欲しいのよ。」
それ以上でもそれ以下でも無い、と無理やりそう結論付けて、
孫は無邪気で残酷な問いを振り払うように、立ち上がる。
(結局、何しに来たのかしら。あの方は!)
斜陽の濃くなり始めた河原を、とぼとぼと肩を落として歩きながら、
心が軽くなるどころか、ますます難解な気分にさせてくれた義叔母へと、
恨み言を零すのだった。
通り沿いに並んだ板葺の長屋では、
人々が雨戸を閉めたり屋根に重石を乗せたりと嵐に備えて忙しく働いていた。
船着き場から帰る際にいつも通る裏道も、
普段屯って遊んでいる子供達の姿は無く、いかにも手作りらしい虫篭や積み木が道端に寂しげに転がっている。
今にも飛びそうな麦藁帽子を必死に押さえながら、
孫は、地面に描かれた大熊猫らしき落書きを踏まぬよう気遣いながら通り抜けた。
どうせ雨が降り出せば消えてしまうと分かってはいても、
これを書いたであろう誰とも知らぬ幼子の心を思うと、
無神経に踏み越える事は憚れた。
ごうごうと耳元で暴れる風の音に混じって、
きゃらきゃらと笑い合う子供の声が聞こえた気がして、
そういえば、自分も昔は嵐が来ると意味も無く興奮していたと苦笑いする。
「どういうわけかワクワクしたのよねぇ・・・」
などと遠い昔の事のように呟いた孫の胸も、妙にざわついて落ち着かなかった。
東の空からは真っ黒い雷雲が時折白い稲妻を走らせながら、
家路を急ぐ人々を今にも飲み込まんと追いかけてくる。
人一人がやっと通れる程度の裏路地を、右へ左へとくねくね曲がって、
孫はようやく屋敷の門が構えられた大通りへと辿り着いた。
筵をかけた荷車が大慌てで通り過ぎて行くのを見送りながら、
駆け足で道の向こう側へと渡る。
なんとか雨が降り出す前に帰りつけたと安堵しながら、
門前で服の裾を正していると、
「・・・・様。」
そう、神妙な声で名前を呼ばれた。
完全に油断しきっていた孫がはい?と返事を返してそちらに振り返れば、
そこには、いつもの派手な戦装束をきっちりと着込んだ陸遜が、思い詰めた顔で礼をとっていて、
咄嗟に動揺を隠し切れず、一歩後ずさる。
(なんで・・・どうして貴方がここに居るのよ・・・。)
もう二度と、顔を合わす事は無いと思っていた。
あれほど一途に寄せてくれていた思いを真っ向から否定して、
5年にも及ぶ彼の努力を無碍に踏み躙ったのだ。
それこそ100年の恋も冷めてしまうほど、心底幻滅しただろう。
もしや、恨み言の一つでも言いに来たのだろうか?
罵倒されても仕方ない事をした、と分かってはいるものの、
やはり面と向かって憎しみをぶつけられる勇気は無く、
孫はみっともないほど狼狽した。
「・・・・・・・な、んの御用でしょう?」
怯えて固まった喉から、何とかそれだけを絞り出せば、
陸遜は礼を解いて、ゆっくりと顔を上げる。
こんな状況でも、
彼の琥珀色の双眸に自分の影が映り込んでいる事が嬉しい。
一瞬でもそう感じてしまう己の浅ましさが許せなかった。
「・・・差支えなければここで御用件をお聞かせくださいますか?」
と、表面ばかり平静を取り繕って尋ねれば、陸遜の眉間に既に刻まれていた皺が、
その陰影を濃くする。
「・・・今日は、謝罪に参りました。」
そう重々しく答えると、彼は旋毛が見える程深く頭を下げた。
「先日は、様に対し不埒極まりない真似を致してしまい、申し開きの言葉もありません。
尊い御身を傷付け穢すような無礼をはたらいた事、猛省しております。
この上は、どのような処罰も受ける覚悟にございます。」
粛々と陳謝する陸遜を、孫は苦々しく見下ろして、
そういう風聞を気にせぬ所が嫌なのだ、と内心悲鳴を上げた。
いくら嵐を前に人通りが少なくなっているとはいえ、
誰の目から見ても高位の武官と分かる真っ赤な戦装束を着込んだ青年が、
女相手に頭を下げている姿は目立ちすぎる。
「お止めなさい!このような往来で軍師が軽々しく頭を下げるなど!
貴方は結局何も理解しておられない。それでよく私の前に顔を出せましたね!」
そう叱責すれば、陸遜は無言で拳を握りしめたものの、頭を上げようとはしなかった。
怒りが混乱を凌駕した今ならば、彼がなぜわざわざ会いに来たのか冷静に推察出来る。
もし孫が今回の件を美貌の都督辺りにでも報告すれば、
彼は軍師を解任され、元の辺境警備軍へと左遷、最悪の場合罷免となるやもしれぬのだ。
必死に許しを請うのも当然だろう。
だからといって、門前で仲良く晒し者なんて冗談ではない。
さっさと屋敷の中へ逃げ込みたい一心で、
孫は早口に赦免の言葉を言い募った。
「たしかに、貴方が強いた行為は非礼と言ってあまりあるものです。
けれど、貴方をそこまで追い詰めた責が私にも無いとは言えません。
それに結局実害は無かったのですし、お互いの為にも、
二度と私に関わらないと誓って下さるなら、この件は不問と致しましょう。」
そう言って、なんとか笑みを作った孫が、
顔を上げるよう陸遜の肩へと手を置けば、記憶の中より随分大きく無骨になった彼の手がその上に重ねられる。
慌てて振り解いた孫を、身を起こした陸遜が縋るように見下ろした。
「それは・・・・出来ません。」
静かに、けれどきっぱりと拒否した彼の目は真剣そのもので、孫は呆気に取られて言葉を失った。
「なっ・・・謝罪に来てその態度とは、呆れ果てました。
せっかく貴方のお立場を慮って譲歩しようと言っているのに・・・。
了承出来ぬとおっしゃるのなら、今すぐ周都督に訴え出ても良いのですよ?」
「もとより処罰ならば甘んじて受けるつもりです。
様が死罪をお望みならば、それでも構わないと覚悟しております。
ですが、貴女をお慕いする事を禁じられるのは耐えられません。
どうか私の想いまで消してしまわないで下さい。」
そう言って寂しそうに微笑む彼の視線から我が身を守るように、強く己が二の腕を掴む。
「・・・どうやら今は話しても無駄のようですね。頭を冷やして出直して来て下さい。」
陸遜の顔を見る事が出来ず、足元へと視線を泳がせながらそう吐き捨てると、
孫は、失礼致します、と逃げるように身を翻した。
待って下さい!と叫んで、陸遜がなおもその背に追い縋る。
「話を・・・しませんか。もう、今すぐ貴女を妻にとは申しません。
だから、昔のように他愛もない話をしましょう。何でも良いのです。様の事を聞かせて下さい。」
「・・・そのような戯言に私が応じるとお思いですか?」
既に屋敷の門へと踏み入れかけていた足を止めて、彼に背を向けたまま孫が答えれば、
「貴女が応じて下さるまで、私はいつまでもここで待ち続けます!」
と、まるで意地にでもなったかのように陸遜が食い下がった。
一瞬、止めさせようと振り返りかけた孫であったが、
雨が降り出せば冷静さを取り戻すだろうと、思い直す。
「・・・嵐が来ます。どうかもうお引き取りを。」
そう一方的に会話を終わらせて、立ち尽くす陸遜を残したまま、
孫は視線を振り切るように屋敷の門を潜った。
湯殿から戻って来ると、薄暗い寝室はざぁざぁと壁に叩きつけられる雨の音に満たされていた。
日が落ちるのを待たず降り出した雨は激しさを増し、
外を吹き荒れる風に時折窓がカタカタと震えている。
しんと冷えた部屋の空気が、湯上りの火照った肌から急速に熱を奪っていくのを感じながら、
孫は、手持ちの小さな灯篭から、寝台の傍にある香炉へと火を移した。
ほどなく漂い始めた白檀の甘い香りを肺の奥へと深く吸い込んで、
綺麗に整えられた寝床へ静かに腰を下ろす。
「さすがにもう伯言も帰ったでしょうね・・・」
さも、今思い出したかのような口ぶりで独り言を零したものの、
実際は門前が気になって、夕餉にもろくに箸をつけられなかった孫である。
だったら確認しに行けば良いだけの話なのだが、陸遜と顔を合わせるだけの勇気は無く、
つくづく色恋沙汰は苦手であると己の不甲斐なさに嘆息した。
(大体、初恋からして悲惨だったじゃないの・・・)
普段愛用している黄楊の簪を力無く引き抜けば、
ゆるく纏められていた髪がばさりと音を立てて肩に落ちてくる。
いつの間にか背中まで伸びていたそれの、ひんやりと冷たい感触を指先で感じながら、
子供時代の終わりを孫は思い出していた。
ちゃんと講義についていけるようになってからも、
孫は何かというと年若い師の後ろをついて回っていた。
毎日居残って彼の隣で復習するのは当たり前で、
次の日の講義の準備や、学舎の清掃、
果ては解れた文官服の繕いまでする事もあった。
一緒に居る時間が長くなれば、当然だが互いの身の上話もどんどん増えて行く。
苦学して学府の師となった事、
いずれは次代の皇帝を教育する賢人となりたい事など、
聞けば聞く程、若い孫は恋と自覚せぬまま、どんどん彼に惹かれていった。
やがてそれは学友達に冷やかされるほど態度に出るようになり、老師達からの不評を生んだ。
けれど、すっかり舞い上がって文字通り盲目となっていた孫は、
彼の態度が少しずつ硬化している事にも、
もともと少なかった彼の講義が皆無に等しいほど減った事にも気付けなかった。
ある日、いつものように全ての講義が終わった後、いそいそと会いに行った彼から、
「もう、私の元へは来ないで下さい。」
と告げられて、愚かな娘は男の変化に愕然となった。
取り返しのつかない不興を買ったのだと感じながら、
けれどそれが何か分からなくて、孫はただ謝りに行く事しか出来なかった。
以前の様に仲良くしたい。
はにかむ様な微笑みが見たい。
そんな願いとは裏腹に、やがて彼はあからさまに孫を避けるようになる。
それでも諦めきれず、謝罪を連ねた文を彼の居ない座卓に毎日置いていったが、
待てど暮らせど返事は来なかった。
そうして、その年の冬、とうとう学舎から彼の私物が消えて無くなった。
いつものように文を届けに来た孫が、血相を変えて他の師に尋ねると、
彼は今日を限りに罷免されたのだと、苦い顔で教えてくれた。
その時の孫にはどうして彼が辞めさせられるのか全く分からなかったが、
自分のせいである事は直感的に理解していた。
今彼がどこに居るのか見当もつかず、
けれど探しに行かずにはいられなくて、孫は勢い任せに学舎を飛び出した。
幸か不幸か。
ほどなく、外界と後宮とを隔てる二つの門の間、竹林を蛇行する回廊に、
小さな風呂敷包み一つ抱えて歩く後ろ姿を見つける事が出来た。
もう会えないんじゃないかという不安が、
再会出来た喜びへと急激に変換され、視界がどんどん滲んでいく。
ざわざわと風に戦ぐ竹の音に掻き消されないよう精一杯声を張り上げて、
待って!と呼び止めれば、彼はゆっくりと振り返って孫を見た。
その時の、男の顔を孫は生涯忘れないだろう。
ゆっくりと歪んでいく彼の細面からは、憎悪、悔恨、憤怒、あるいはその全てが混然と噴き出していて、
あれほど慈愛に満ちていた双眸には、凍り付くような冷たい拒絶が宿っていた。
「来るなッ!!!」
物静かで、どんなに生徒が粗相をしても声を荒げなかった彼の、初めて聞く怒号に、
孫の歓喜は無残に消し飛んで、震え上がってその場に立ち尽くす。
初めて向けられる剥き出しの悪意に、カチカチと歯が鳴った。
「・・・・恩を仇で返しやがって!お前さえいなければ、こんな風に惨めに追い出されずに済んだのだ!
俺はいずれ、この国で最も偉大な賢人になる男だぞ!それをっ!!」
全部、全部お前が悪いんだ!と、まるで人が変わったように口汚く罵り続ける男を、
孫はただ滂沱の涙を流して見つめる事しか出来なかった。
やがて騒ぎを聞きつけた門兵が何事だ!と叫びながらこちらへ向かって来ると、
男はひぃっと悲鳴を上げ、まろつ転びつ走り去って、
もう二度と孫の前に現れる事は無かった。
結局、彼が何故罷免されたのか、老師達からきちんと説明される事は無く、
学徒達の間では、派閥争いに負けただとか、都の生活に疲れ故郷に戻っただとか、
好き勝手に囁かれた。
もちろん、孫との関係についても極彩色な噂が流れたが、
春を迎える頃には全て忘れ去られた。
(案外当たらずとも遠からずってところかも・・・)
前君主の養女が特定の人物に心を寄せる事を、上の者達は許さなかったのだろう。
世の成り立ちを舐める程度には理解した今の孫が、
冷静にそう結論を出す一方で、胸の奥では、
幼いままの少女が手酷く壊された恋心を抱きしめて、今も泣きながら謝り続けていた。
もっと自分の立場を自覚していたなら、もっと周囲の目を気にしていたなら、
そもそも恋なんかしなければ、彼が夢を諦める必要なんか無かったのだ。
何度も何度も思い返しては後悔ばかりを募らせている内に、
いつの間にか、異性が歩み寄ってきても無意識に距離を置くようになってしまった。
(私、本当は全然成長してない・・・)
今も、拒絶されるのが怖くて野薔薇の下で膝を抱えている。
ごろりと寝台に寝転がれば、
暗闇を溜めた天井に、あの時の憎しみに歪んだ男の顔が浮かんできて、
孫はいつまでも褪せる事の無い後悔に目を伏せる。
瞼の奥から勝手に溢れてきた涙が、今にも眦から零れ落ちようとした時、
トントン、と扉を密やかに叩く音が、雨音に紛れ込んだ。
慌ててごしごしと袖口で目元を拭ってから、何ですか?と返事を返せば、
少々よろしいでしょうか?と扉の向こうから女中頭のくぐもった声が聞こえてくる。
沈んだ気持ちを追い払うように寝台から立ち上がり、
簪で適当に髪を纏め上げながら、急いで扉を開けに行くと、
既に夜着へと着替えた女中頭が、そっと礼をとった。
「お休みのところ申し訳ありません。ですが・・・下男の一人が気になる事を申しまして。」
気丈な彼女にしては珍しく不安げな様子に、孫も顔を引き締めて言葉の続きを促す。
すると、ますます心配そうに手を揉みながら、
「それが、どうも門前に誰かいるようだと言うんです。
こんな嵐の夜に馬鹿をお言いでないよと嗜めたんですが・・・」
そう話し続ける女中頭には悪いのだが、途中から孫の耳には全く入って来なくなっていた。
ふつふつと腹の底から沸き上がってくる、憤りのような恥ずかしさのような感情を持て余す。
こんな雨の中、自分なんかと話をするためだけに、ずっと待っていたというのだろうか?
(ああもう!本当に馬鹿なんだから!!)
「わざわざ報告してくれてありがとう。恐らく心配はいらないと思います。
申し訳ないけれど汪香さんは、湯殿に新しい湯桶と賓客用の夜着を用意しておいてもらえないかしら。
それが終わったら、先に休んで下さい。」
そう言って誤魔化すように微笑めば、何十年と仕えてきた海千山千の女中頭は、
あからさまに不自然な説明を平然と承諾して、粛々と廊下の先に去っていった。
彼女の姿が見えなくなった途端、孫は大急ぎで肘掛椅子の背にかけてあった長衣を羽織ると、
手持ち用の灯篭を引っ掴んで、部屋を飛び出した。
夜着の前を盛大に肌蹴させながら、真っ暗な廊下を手の中の仄かな灯りを頼りにひた走る。
夜闇に満たされた屋敷は、見慣れているはずなのにまるで知らない場所のようだった。
ようやく辿り着いた玄関で、風圧に硬くなった扉を力一杯押し開ければ、
途端に隙間から飛沫の混じった突風がなだれ込んできて、脆弱な灯篭の火を掻き消してしまう。
仕方なく、役立たずとなった灯りを置いて、
叩きつけてくる雨粒から顔を両腕で庇いながら外へと出れば、
あっという間に全身ずぶ濡れになってしまい、上掛けなんて何の意味も無かったと嘆息した。
バシャバシャと、川と化した石畳の道を走り抜け、表門の下へと逃げ込む。
けれど、当然ながら分厚い木製の扉は閉じられていて、到底孫だけの力じゃ開きそうに無かった。
やっとこさっとこ重たい閂を抜いて、形振り構わず全力で押したものの、
やはり聳え立つ扉は身動ぎ一つしてくれず、
孫は、もうっ!と八つ当たり気味に罵ると、仕方なく裏門の方に回った。
大雨の中、髪を振り乱して広い庭を徘徊する自分の姿は傍から見たらさぞ無様だろうと、
思わず笑いがこみ上げてくる。
額を伝って目に入ってくる雫を煩わしく拭いながら、
門というより勝手口と称するべき小さな扉に飛び付くと、こじ開けた隙間に身を滑らせた。
嵐の吹き荒れる大通りは、夜に慣れてきた目にさえ見通す事が出来ず、
怖気づきながら一歩足を踏み出せば、ぬかるんだ地面に踝まで沈んだ。
強風に何度も吹き飛ばされそうになりながら、
塀伝いに屋敷の正面へと回れば、
土砂降りの雨の向こうに、ぼんやりと立ち尽くす人影を見つける。
「伯言っ!!!」
万に一つも違わないだろう、彼の字を怒鳴りつければ、
人影は俯いていた顔をびくりと上げて、
ごうごうと轟く風の音に消し飛ばされそうな小さな声で、様?と呟いた。
途端に込み上げてくるぐちゃぐちゃの感情に、孫は堪らえきれず彼の元へと走り寄る。
「貴方、なんっっって馬鹿なの!こんな事してっ!こんなに冷たくなってっ!!」
悲鳴のように叫びながら、陸遜のしとどに濡れた髪を掻き分け、冷たい両頬を掌で包み込む。
そこに恐る恐る重ねられた彼の手も、血が通っていないのかと思うほど冷え切っていて、
ああ、私のせいだ、と孫は自分を責めた。
このまま陸遜が病床に伏してしまったら、後悔してもしきれない。
軽い流感にかかり、大した事無いわと言いながら、
最後は命まで落としてしまった生母の姿が脳裏にチラついた。
「とにかく、屋敷の中に入りましょう。体を温めなくては・・・」
と、濡れた肩や背中をごしごしと摩りながら、強引に連れて行こうとする孫を、
けれど当の本人が引き止めた。
動かない彼を苛立たしく見上げれば、生気の失った青い顔で、
「私はまだ・・・様から、話をするとの了承を得ておりません。」
と、この後に及んでもまだそんな主張を繰り返す。
「もうっ!!話なら後でいくらでもしてあげますっ!!だから今は大人しく言う事を聞いて頂戴!!」
あまりに意固地な態度に、孫も自棄になってそう叫び返せば、
まるで人形の様に表情の無かった陸遜の顔に、今にも泣き出しそうな満面の笑みが浮かんで。
(なんて顔するのよ・・・・)
乱暴に彼の腕を掴んで裏口へと引っ張りながら、
孫はどんどん熱を増していく顔を、くしゃりと恨めし気に歪めた。
next
13/05/04 改訂