雨風に揉みくちゃにされながら、全身濡れ鼠の二人が玄関へと戻ってくると、
消えたはずの灯篭が温かな光を放っていた。
ぐっしょり重たい袖口や乱れた髪を絞れば、
あっという間に足元が水溜りと化す。
少し血の気が戻って来たのかガタガタと震え始めた陸遜を、有無を言わさず湯殿へと放り込んで、
も廊下に点々と足跡を残しながら自室に戻った。
持ってきた灯篭の火で部屋を丸く照らせば、
愛用の肘掛椅子の上に、脱衣用の木桶と新しい着替え一式が用意されていて、
は女中頭の準備の良さに舌を巻く。
濡れて肌にへばり付く夜着を桶へと脱ぎ捨てながら、
きっと一生彼女には頭が上がらないなと、
実母がまだ存命していた頃からの付き合いである老女に深く感謝した。
泥と葉屑にまみれた体を洗いざらしの布で綺麗に拭いて、
真新しい服へと着替えれば、先程までの妙な興奮も一応の落ち着きをみせる。

(まったく、子供みたいに意地を張って。何をやってるのかしら私達・・・。)

随分と幼稚な喧嘩をしたものだと呆れたものの、
考えてみれば、こんなふうに誰かと真っ向から対立する事など、久しく無かった気がする。
立場上仕方が無いとはいえ、思えば黙って受け入れる事の方が遥かに多い人生だった。
くしゅん、くしゅん、と二つくしゃみを繰り返して、
ぞわりと背筋を走った寒気に、孫は思わず肩をごしごし摩る。
ほんのちょっと雨に打たれただけでこの様なのだ、
陸遜は一体どれほどの寒さに耐えていたのだろう。

「・・・・白湯でも用意しておこうかしら。」

そう思い立って、孫は髪を拭くのもそこそこに、
既に火の落ちた炊事場へと向かった。

















かろうじて燃え残りが赤く燻る釜戸の灰で、
二人分の白湯を温めて部屋に戻って来ると、
扉の前では、錆浅葱の夜着に身を包んだ陸遜が、
何度も中へ声を掛けようとしては俯くを繰り返していた。

「少しは御体が温まりましたか?」

陸軍師、と後ろから声をかければ、
彼は慌てて此方へと振り返り、あ、とも、う、ともつかない返事を返す。
その姿は落ち着き払った普段の彼に比べ、年相応で微笑ましく、
は思わずクスリと笑いを零した。

「申し訳ないけれど扉を開けて下さる?両手が塞がってしまっていて。」

と杯が二つ並んだ盆へと視線を落とせば、
はい、と即答しながらもいささか戸惑った様子で、陸遜が扉を押し開く。
粛々とその脇を通り抜け部屋の中へ入ると、使い古された黒い卓の上に盆を置いて、
開けっ放しの扉の前で途方に暮れる彼に、どうぞこちらへ、と愛用の肘掛椅子を指し示した。
けれど、どういうわけか部屋へ入る事を躊躇う様子の青年に、

「話をするためにここへ来られたのではないのですか?」

と尋ねれば、彼は心なしか頬を赤らめながら、失礼致します、とようやく中へ足を踏み入れた。
後ろ手に扉を閉める陸遜を横目に見ながら、唯一の灯りである灯篭を卓の真ん中へと置けば、
二つ並んだ飲杯が仲良く影を伸ばす。
彼が椅子へと腰掛けるのを待って自分も対面に座ると、
ほんわり温かな湯気を上げる磁器の杯を、一つ手に取った。

「白湯で申し訳ないのだけれど・・・」

と断ってからそれを差し出せば、陸遜は神妙な面持ちで受け取って、そっと口をつける。
一口飲んでから、思わず温かいと零す陸遜に目を細めて、やおら孫も杯へと手を伸ばした。
ふぅふぅと息を吹きかけて冷ましながら、白湯を少しずつ飲み込めば、
体に染み渡る温もりにほっと溜息が出る。
薄暗い部屋は薫香の甘い香りに満たされ、外を吹き荒れる嵐の音も、まるで寝物語のようだ。
チリチリと揺れる灯篭の灯に照らされて、二人の間をしい沈黙が流れた。

(このまま、ずっとこの時間が続けば良いのに・・・)

そういうわけにはいかないのよね、と先程から肌に突き刺さる何か言いたげな陸遜の視線に、
はぐっと覚悟を決めた。
こんな事なら白湯じゃ無く酒にすべきだったと後悔しながら、
肩に掛けていた手布を引き抜いて、ゆっくりと立ち上がる。
そうして、こちらの動きに敏感に反応して体を硬直させる陸遜を尻目に、彼の背後へと回ると、
まだ雫をたっぷり含んでしょぼくれた頭を手布でわしわしと拭き始めた。

「きちんと拭いておかないと、御体に障りますよ?」

多少乱暴に髪を掻き回しながら、固まったままの陸遜にそう告げれば、
ややあってから、

「髪を拭く暇も惜しかったので・・・」

と小さく返事が返ってくる。

「・・・それで?伯言は私から何が聞きたいのかしら?」

と、わざと昔のように馴れ馴れしい口調で尋ねれば、予想に反して彼は黙り込んでしまった。
ボサボサになった生乾きの猫毛を、すっかり濡れそぼった手布で丁寧に撫でつけながら、
は仕方なく、ずっと疑問だった事を自分から彼へと尋ねる事にする。

「ねぇ、伯言?貴方、どうして私を妻にしたいなんて思ったの?
貴方が私の元に居た時間はお世辞にも長いとは言えなかったし、
第一、貴方あの時まだ12になったばかりだったでしょ?
これほど執着する何かが私達の間にあったとは思えないのだけれど・・・。」

髪を拭き終わり、そう話しながら元の椅子へと戻ろうとした孫の手を、
それまでされるがままになっていた陸遜が掴んで引き留める。
まだ湿り気を帯びた前髪の隙間から、じっとこちらを見上げた琥珀の双眸は、
灰の中で赤く燃える炭の様に、激しい恋情を秘めていた。

「それは前にも申し上げたはずです。
貴女に拾っていただいた命を貴女の為に使いたい、そう思って何が悪いのですか?」

そう言って、思わず力の入った彼の手に、そっと自分の手を重ねて、
は噛んで含めるような声音で、心中を吐露した。

「あのね、伯言。もし・・・もしも貴方が、私に傷を負わせた事に引け目を感じているのなら、
そんな必要は全くないのよ?むしろ、これは私の誇りだわ。」

あの頃の孫は、司書見習いとなったばかりで、慣れない宮城での仕事に失敗も多く、
そして何より孤独であった。
女人でありながら特例として仕官を許された孫に、同僚の目は厳しく、
その上、政争の道具に使おうとする不穏な輩も後を絶たなかった。
侮りの透けた諂い笑みで擦り寄って来た者達が、
一人二人と身を滅ぼしていく姿は堪らなく恐ろしく、そして後ろめたかった。
私のせいでは無いと、そう訴えながらも、
その度に初恋の人の言葉が彼女を苛んだ。
いつしか、自分は他人を不幸にする事しか出来ないのではないか?と、
そう絶望する様にさえなっていた時、小さな護衛兵が孫の元へとやって来た。
全身全霊で拒絶する陸遜はあまりにも正直で、嘘の無い彼の態度がとても好ましかった。

「私はあの時、貴方を助けた事を後悔してないわ。きっと何度やり直しても同じ事をすると思う。
だって、争い事の火種になってばかりだった私が、初めて誰かの役に立てたんだもの。
だからこそ、貴方には誰に後ろ指さされる事もない幸せを築いて欲しいのよ。」

貴方の未来を守れた事をずっと誇りにしていけるように。

そう偽らざる本心を告げて、孫はすっかり力の抜けた陸遜の手から、
己の手を抜き取った。
すると、彼は弱弱しく首を振って、

「・・・・貴女が傍に居ない未来に価値なんて。」

と、悔しそうに食いしばった歯の間から絞り出す。
また激情に駆られるのではないかと身構えた孫だったが、
見上げてくる琥珀色の瞳には理性の光が宿っていて、杞憂だったと体の力を抜く。
気持ちを切り替えるように一つ深呼吸をして、
陸遜は、少し私の話をしましょう、と静かに自身の過去を語り出した。

「私には実の父の記憶がほとんどありません。幼い頃に急死した父に変わって、
私を育て導いてくれたのは、養父の陸康様でした。
呉郡の四姓とまで呼ばれた陸家の当主に相応しい、徳と誠心を具えた義烈の人で、
いずれ彼に仕え、その重責の一端を担う事が私の夢でした。
けれど、兵糧の問題で袁術と対立すると、私は一族の者達と末子の陸績を連れて、
呉郡に避難するように指示を受けました。
当時の私に、当主の命令を拒否出来るような力はありませんでしたが、
本当は廬江に残って養父と共に戦いたかった。」

そう呟いた陸遜の顔からは、苦渋の選択であった事がありありと伺えて、
も我が事のように目を伏せる。
その後、廬江の城は当時袁術配下であった他ならぬ孫策の手によって攻め落とされ、
当主陸康は病死。生き残った者達も散り散りになった。

「まだ未熟だった私には、一族の信頼を得るどころか、
慣れない土地で彼等の食い扶持を満たす事さえ困難でした。」

そう言って浮かべた自虐的な笑みが、灯篭の火にゆらゆらと揺れる。
時には地元の豪族に這いつくばって頭を下げ、時には賊まがいの連中に手を貸し、
それでも日々の糧にすら困窮する有様で、
結局は一族に押し切られる形で、陸遜は養父の仇である孫家へと仕官した。
おまけに、憤然やるかたない心中に追い討ちをかけるように、
仇の娘の護衛を命じられる始末。

「あの頃の私は、世の全てに怨嗟していましたよ。
飢えに負けて陸家の誇りを捨てた一族郎党を憎みましたし、
私に彼等を押し付けたくせに、自分は最後まで義憤を貫いて死んだ養父も恨んでいました。
もちろん、私の真意など知りもしない癖に、仲良くしましょうと寄ってくる貴女も大嫌いでした。」

と、今でこそ申し訳なさそうに告げるが、
当時の陸遜は本当に取り付く島も無かったと、孫も苦笑いする。

「でも一番許せなかったのは、他者を蔑みながら、
結局は現状に甘んじる事しか出来ない、無能な私自身でした。
貴女に命を助けられた時は、そんな己の無力さを痛感させられましたよ。」

孫家の令嬢というだけで守られて当然と思っているのだと、内心軽んじていた娘が、
たかが護衛兵の為に、そのなよやかな体を迫り来る白刃の盾としたのだ。
それに比べて自分はどうだ。
下らない煩悶にかまけて、目の前に居るたった一人さえ守りきれなかった。

「それでも己が失態を認められず食って掛かった私を、
貴方はあっさり笑って許してしまわれた。」

だって体が勝手に動いちゃったんだもの、仕方ないじゃない。

そう言った孫は、陸遜のせいで文字通り生死の境を彷徨ったというのに、
恩着せがましい素振りも、後悔した様子も無かった。

「憑き物が取れたというのは、ああいう事を言うのでしょうね。
養父から託された使命に固執するあまり、
いつしか私は虚勢ばかりで実力の伴わない空虚な人間となっていました。
けれど、ただ生きているだけで良いと言ってくれる人を得て、
私は初めて未熟な自分を認める事が出来たんです。
一つ一つ、身の丈に合った事から始めよう。足りない分はその都度努力すれば良い。」

貴女は命だけでなく、現実に押し潰されそうになっていた私の心も助けて下さいました。
そう嬉しそうに目を細めて、陸遜は慈しむように孫の手を両手で包み込んだ。
彼の手は酷く温かくて、孫は振り解く事が出来なかった。

様、私は決して貴女に引け目を感じているから、妻にと望んだのではありません。
あの時貴女が私に与えて下さった言葉と同じく、
私も、ただ貴女が生きて傍に居て下さるだけで良いのです。」

切々と紡がれる陸遜の真摯な想いが、胸の奥に押し込めた固い決意をほろほろと崩していく。
野薔薇の下で臆病な少女が悲鳴を上げている。

「嘘よっ・・・」

そう小さく彼の言葉を否定して、孫はこれ以上聞きたく無いとばかりに、両手で耳を塞いで俯いた。
嫌だ駄目だと胸中で頑なに拒絶を繰り返す孫の肩を、
いつの間にか椅子から立ち上がった陸遜が、両手でそっと撫でるように掴む。
覗き込んでくる真剣な視線に耐え切れず、
は逃げ場を求めて忙しなく視線を彷徨わせながら、
話題を変えようと必死に誤魔化し笑いを浮かべた。

「ね、ねえ、伯言。もうこんな話は止めましょう。それより、ほら!
周都督の元では、今どのような事を学んでい・・・」

「・・・教えて下さい。貴女は一体何に怯えておられるのですか?」

早口に捲し立てられる孫の声は、重苦しい空気の中で上滑りし、
強く揺るがない陸遜の問いに掻き消された。
まるで決壊寸前の堰のように、孫の唇が戦慄く。

「例え何を言われようと、私の心は変わりません。」

貴女をお慕いしています、とそう囁いて、陸遜の両腕がまるで壊れ物を抱くかのように、
優しく孫の体へと回された。
耳元で聞こえる彼の吐息や、触れ合った部分から伝わってくる温かな体温が、
を守ってきた強固な意志の壁を震わせる。
嘘よ、と再び弱弱しく声が零れたのを合図に、今まで隠し続けてきた感情が濁流となって溢れ出した。
離して!と悲鳴を上げながら逃げ出そうともがく孫を、
けれど陸遜は強く抱き締めて放さなかった。
間近にある秀麗な顔を、既に涙が滲み始めた目で睨み上げ、
は勢いに任せて思いをまき散らす。

「一時的な感情で、そんな事を軽々しく言わないで!この世に変わらないものなんて無いわ!!
どんなに深く愛したって、失いたく無いと願ったって、いつかは私を置いて皆去っていってしまうんだから!」

一度箍の外れた感情は、唖然とする陸遜も、これ以上言ってはいけないと必死に止める孫自身も無視して、
勝手に口から流れ続けた。

「人の悪意は貴方が思うよりずっと怖いものなのよ、伯言。
今はまだ私に対する情が、どんな誹りも跳ね除けているのでしょう。
でも、ちょっとしたささくれが化膿して最後は指を腐り落とすように、
中傷は長い時間をかけて疑惑を生み出すわ。
いずれ貴方も、私が煩わしくなる。妻にした事を後悔する日が来る。」

こちらを見詰める陸遜の端整な顔に、最後に見た初恋の人の顔が重なって、
どうしようもない悲しみが孫の胸を真っ黒く塗り潰す。

「伯言に、あんな憎しみしか残っていない様な冷たい目で見られるくらいなら、
死んだ方がマシよ!!」

そう悲鳴のような叫びを上げて、孫は絶望に両手で顔を覆った。

こんな愚かで醜い姿を、陸遜には見せたくなかった。

ただ優しく微笑んで、彼の栄達を遠くから眺められればそれで良かった。

(だって私・・・貴方に慕われたままでいたかったんだもの。)

後はもう子供のようにしゃくり上げ、ぐずぐず泣くばかりの孫を抱き締めたまま、

陸遜が小さく息を飲む。

「それは、あの、つまり・・・様は、嫌われたら死んでしまいたくなるほど私を好いておいでだと、

そういう事ですか?」

どこか夢見心地な声音でおずおずと尋ねられて、かっと孫の顔が火を噴いた。
いたたまれず逃げをうつ体を、すかさず伸びてきた長い腕が背後から抱き寄せる。

「そうなんですね?ねぇ、首を振るだけで良いから答えて下さい!」

そう耳元で切なげに乞われ、
は長い沈黙の後、ようやく観念して小さく頷いた。
ああ、と感嘆の吐息が耳をくすぐったかと思うと、息も出来ぬほど強く抱き竦められる。

「は、伯言!苦しい・・・」

「それくらい我慢して下さい!私なんか、貴方に求婚を断られて以来ずっと苦しんできたんですから!!」

思わず苦情を訴えれば、陸遜は此方の首元に顔を埋め、そう非難がましく悪態をつきながらも、
ほんの少しだけ力を緩めてくれた。
びくともしない彼の腕を悔し紛れにぐいぐいと押し退けながら、

「ま、まだ妻になると認めたわけではありませんから!」

と往生際も悪く宣言すれば、途端に有無を言わさぬ力で、
体を返されて、正面から陸遜と向き合う事になる。
灯篭の火に照らされて揺らめく琥珀色の瞳に深い愛情を湛えて、
年下の想い人はそっと孫の手を取った。

「きっと私がどんなに言葉を尽くしても、様の不安を全て消す事は出来ないでしょうね。
それでも、言わせて下さい。
私は軍人ですから、永遠を約束する事は出来ませんが、
心臓が止まってしまうその瞬間まで、貴女に嘘はつかないと誓います。
もしこの先、貴女の言う悪意に私が飲まれかけたとしても、
二人がお互いに正直である事を止めなければ、きっと決定的な間違いは犯さないでしょう?」

どうか私の妻として一生を共に過ごしては頂けませんか、と手の甲に柔らかく口付けを落とされて、
の目から止まっていたはずの涙が再びポロポロと零れ落ちる。

「・・・でも、だって私貴方に酷い事いっぱい言ったし、
散々断ってきたじゃない!それなのに・・・。」

本当に私で良いの?と心許ない声音で尋ねれば、陸遜は愛おしげに微笑んで、

「貴女でなければ駄目なんです。」

とはっきり答えた。
おずおずと彼の背中に手を回しながら、大好きよ、と告げれば、
の何倍も強い力で抱き締め返される。
ぎゅうっと互いにしがみ付いて、しばらくの間込み上げてくる幸福感に酔いしれた。

そうしてどれくらい、ふわふわと夢見心地を味わっただろう。
不意に陸遜が、孫の耳元で恥ずかしげに、貴女に嘘はつかないと誓いましたので、と前置きした。

「あの・・・今夜、私と夫婦の契りを結んでもらえますか?」

と、酷く色めいた掠れ声で慎ましやかに懇願され、
首筋を撫でる燃えるような吐息に孫の体がきゅんっと甘く啼く。
急激に鼓動が早くなるのを感じながら顔を上げれば、
そこには情けないほど情欲に濡れた目をしておきながら、
それでも見惚れるほど整った陸遜の顔があって。
どうしてこんなに良い男が私なんかを欲するのだろうと、可笑しく思いながら、
承諾の変わりに、その魅力的な薄い唇へと口付けを返した。















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13/05/04 改訂