次の日、は起床の鐘の音に起こされて、

今までと変わらない普通の朝を迎えた。

大部屋は身支度をする女官でいつも通り騒がしかったし、

食堂で時間に追われながら掻きこんだ朝食も食べ慣れた味であった。

別に何か期待していたわけじゃなかったが、

これほど普段と同じ朝だと、一昨日から昨日にかけての出来事は、

単なる自分の妄想だったのではないかという気さえしてくる。

だが。


「いい?はちょっと遅れて来るのよ。

今頃先に行った夏陽が楊文官に説明してるはずだから。」


庁舎に向かって歩きながら、

隣で何度も念を押す親友の横顔をちらりと確認し、これが現実かと諦めた。


「ちょっと、聞いてるの?しっかりしないと本当に罷免になるわよ!」


分かってるの?と疑わしげに聞いてくる悠琳にうんうんと頷き返して、

は眠気を追い払うために目を何度も瞬いた。

何しろ昨夜は空腹で良く眠れなかったである。

格好つけて、私はいいや、などと夕飯を辞退しなければ良かったと、

ぐぅぅっと不服を申し立てる空きっ腹を抱えて、夜中に何度寝返りを打ったことか。

眠い。今すぐ女官室に戻って布団に潜り込みたいくらいに眠い。

けれども。

それじゃ頑張ってと背中を叩いて、親友が足早に自分の職場へと去っていくと、

眠気などすうっと何処かへ消えて無くなった。


(どうしよう・・・上手く誤魔化せるかな・・・)


昨日、目の前で閉じられてしまった扉が、

今はまるで地獄へ続く門のようにぽっかりと口を開けていて、

文官や女官がどんどん吸い込まれていく。


(どうか罷免になりませんように!!)


は腕の前で両手を組み、今日も美しく晴れ上がった空に祈りを捧げると、

根が生えたように重たい足を引きずって、扉の中へと入って行った。










が女官として仕えているのは、

国庫を管理する庁の中でも、軍の資金を管理する部署の下。

各軍ごとに別れた資金運用係の中で、張遼軍の武器防具兵器用予算を担当する部署である。

ようするに、序列の中でも最下層のそのまた末端というやつだ。

しかも、実際に帳簿をつけたり担当の武将と話し合ったりするのは、もっぱら文官連中で、

達女官の仕事といえば茶を入れたり、仕事部屋の掃除をしたり、必要な資料を棚から探してきたり、

およそ雑用と呼ばれるものばかりであった。

後は、出来あがった竹簡を担当武官の官舎まで届けるくらいで、

かく言うも、何度かお使いに出され、その途中で元恋人と知り合うことになった。




そして。

女官には女官の組織体制というものがある。

下っ端の女官から班長、室長、部署長、女官長と位が上がって、

それぞれに下の者を管理把握しているわけだが、

実際に人事を握っているのはその女官が務めている部署の直属の上司だったりする。

であるから、

が今から命乞いをしなければいけないのは、

目の前の部屋で執務に励んでいるであろう武器防具管理筆頭、楊文官という事になる。

悠琳が青瓢箪と称した、色白で瓜実顔の中年親父は怒らせると性質が悪いことで有名だった。

出来れば回れ右して帰りたい所だが、せっかく友人達がお膳立てしてくれたのだ、

せめて謝罪くらいは申し上げなくては。。


「し、失礼いたします。」


ぐっと両足を踏ん張って覚悟を決めた割に、引き攣った情けない声で、

は部屋の中へと声をかけた。


「入れ。」


扉の向こうから聞こえてきた返答はくぐもっていて、

それだけでは上司の機嫌が良いのか悪いのか伺い知ることは出来ない。

しっとりと汗で湿り始めた手のひらを女官服の裾で何度も拭いてから、

出来るだけ余計な音を立てない様にそっと扉を開けた。

ささっと部屋の中に滑り込むと、

その場に正座して床に額を擦りつけるように深く頭を下げる。


「さ、昨日はご迷惑をおかけしてしまい、大変・・・」

「声が小さい。聞こえんぞ。」


緊張のあまり首を締め上げられた鶏のような声で謝罪の言葉を口にすると、

間髪入れずに叱責が飛んでくる。

それだけでビクッと肩が跳ね上がり、は涙目になって声を張り上げた。


「昨日一昨日と急の御暇を頂いてしまい、誠に申し訳ありませんでした!

皆様に多大な御迷惑をおかけしたこと、心から猛省しております!

、本日よりまた誠心誠意お仕えさせて頂きますッ!」


一気に捲し立てると、床に這いつくばったままギュッと目を瞑って裁可を待つ。

だが、いつまで待っても上司から声がかかる事はなく、

は口がカラカラに乾いていくのを感じながら、

おそるおそる平伏していた顔を上げた。

件の上司は、一段高くなった板床で、

座卓に広げた竹簡にすらすらと忙しく何かを書き込んでいて、

こっちを見ようとすらしない。

背中に冷たい汗が噴き出すのを感じながら、

それでもじっと返答を待っていると、

嫌味で有名な上司は、殊更面倒くさそうにハァっと溜息をついてから、


「話は夏陽から聞いておる。その年で体調管理も出来ぬとはなんと情けない。

使えぬ部下に金を払うくらいなら、新しい筆でも買った方がよほど仕事が捗るわ。」


と、男にしては甲高い声で得意の毒舌を披露した。

容赦ない嫌味がぐさりと胸に刺さったが、

自業自得であるという自覚と、何の落ち度もない友人に嘘をつかせた罪悪感が、

を支えた。

それに、彼の言い分はもっともだと思う。腹立たしい事に変わりはないが。


「本当に申し訳ありませんでした!」

「あー、もう良い。たかが女官の失態にいちいちかかずり合っている暇は無いのだ。」


もう一度、床に額を擦りつけるに、

ようやく顔を上げた青瓢箪は苛々と自慢の泥鰌髭を撫でながら、

お前は罷免だ、と居丈高に言い捨てた。

そうなっても仕方がないと覚悟していたとはいえ、実際に罷免と言われるとその衝撃はすさまじく、

は愕然となって思わず顔を上げた。

嘘だと言ってくれと、目の前の上司を仰ぎみれば、

御世辞にも部下に好かれているとは言い難い男は、その瓜実顔に意地の悪い笑みを浮かべ、



「おお、すまんすまん。この場合は左遷と言うべきかな?」



と取っ手つけたような弁解を付け加えた。

左遷という事は部署が変わるだけで女官を罷免になるわけでは無い。

むしろ、この性質の悪い上司から離れられるのなら諸手を上げて歓迎するというものだ。



(良かった。本当に良かった。)



安心したせいで一気に緊張が緩み、涙目になって喜びを噛みしめるに、

だが、性格がねじ曲がった彼女の上司はこの時を待ってましたとばかりに捨て台詞を吐いた。


「喜べ、お前の左遷先は最前線の合肥城だ。しかも張将軍のお付き女官としてだぞ?

大出世だな。」


ニヤニヤと笑う青瓢箪の顔を見る事も出来ず、

は呆然と目の前の床を眺めた。

合肥といえば、常に孫呉の脅威にさらされている戦線の要ではないか。

昼夜を問わぬ臨戦態勢で、常に気が抜けないため、

どんな剛の者でも一月で神経衰弱になると、元恋人が冗談めかして話してくれた事がある。


「いやいや、そんな暗い顔をすべきでは無いぞ。何しろ将軍自らの御指名なのだからな。

たかが女官の分際でこんな栄誉を受けられるとは幸せ者だ、お前は。」


他人の不幸が嬉しくて堪らないと言った様子の上司に、

じゃあお前が行けよ、と怒鳴り返したかったが、

深く息を吐くことでなんとか怒りを散らして、は別の問いを口にした。


「僭越ながら、張将軍が合肥に派遣されるのは、二月後の予定ではございませんでしたか?」

「んん?ああ、その事ならば一昨日の夜、急に軍議で決まったらしい。

出立は3日後。おかげで我が部署も仕事が追いつかぬわ。」


それなのにどこぞの役立たずが病で倒れる始末、と上司が再び得意技を繰り出してきたが、

もはやの耳には聞こえてすらいなかった。

ここ数日の内に一生分の不運が怒涛のごとく押し寄せてきているのではないだろうか。

よりにもよって合肥とは。

しかも、何の因果かまたも張遼軍。

当然ながら元恋人も従軍しているわけで。


(私の人生はどっちに向かっているのかしら・・・)


いずれ清苑と結婚して女官を辞め、子供を産み家庭を築く。

最初の子はやっぱり男の子が良いな、なんて。

ほんの数日前まで、平凡で幸せな未来を夢見ていたのに。

固まったまま動かないにもう興味が失せたのか、

散々小馬鹿にした上司はさっさと竹簡の記入に戻ると、


「詳しいことは帰って女官長にでも聞くんだな。

おお、だからといって今日まではお前の所属はこの部署だ。

最後の奉公なのだからしっかり勤しめ。」


話は終わりだ、とあっさり言い放った。

そうして、まるで野良猫でも追っ払うようにしっしっと片手を振る上司に、

は心の中で思いつく限りの罵倒をぶつけながら、

のろのろと頭を下げ、おぼつかない足取りで部屋を出ていった。


















その日一日、は馬車馬のように遮二無二働いた。

仕事に没頭していると余計な事は考えずに済んだし、

渡りに船といわんばかりに武器防具管理部は忙しかった。

何しろ、張遼軍が遠征ということは必然的にこの部署も都と合肥の二つに分けることになるわけで、

仕事の引き継ぎに各軍との連絡と、

やらなければならない事は腐るほどあった。

広い官舎をかけずり回って、資料の複写やら引っ越し先で使う道具やらを運んでいる内に、

気付けば太陽は西の空から退場しようとしていた。

それでも仕事が終わらず、嘆き怒る文官達を尻目に、


「規則ですから。」


と昨日と同じ警備兵が庁舎の扉に鍵をかけて、本日の労働は終了した。

一番星が瞬き始めた夕暮れ時の廊下を寮に向かって疲労困憊で歩いていると、


「お疲れ、。」


と、こちらも似たようなやつれ顔の夏陽が後ろから声をかけてくる。

彼女が隣まで並んでくるのを待ってから、再びのろのろと歩き始めれば、


「どうだった?私の嘘!上手くいったでしょ?」


我ながら最高の演技だったと自画自賛しながら、さっそく結果を聞いてきた。


「うん、夏陽のおかげで罷免にはならなかったよ。」


ありがとう、と礼を言いながらもちっとも嬉しい気持ちになれないに、

他人の感情に無頓着な友人が珍しく怪訝な顔で尋ねてくる。




「どったの?女官続けられるのに嬉しくなさそうじゃん?」

「・・・・・左遷だって。」

「ええ!?どこに???」

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・合肥。」



えぇぇッ!!と静かな廊下に友人の叫び声が響き渡り、

同じように寮へと戻る途中の女官達が一斉にこちらを見た。

視線の集中に居心地が悪くなって、声が大きいよ、と苦々しく窘めるに、

だが鈍感な友人はこれまた大仰に眉を寄せると、


、可哀そ〜。よりにもよって合肥なんて。」


樊城の次に嫌がられてる所じゃん、と大声で言い放った。

おかげで周囲に居た女官連中が野次馬よろしく何だどうしたと話に加わってくる。

それをまた、まるで我が事のように夏陽が、


、文官でも無いのに合肥に左遷されちゃうんだよ〜。」


と言いふらすものだから、は頼んでもいないのにまるで悲劇の主人公扱いだ。

頑張るんだよ、だの、死なないでね、だの、

一通りの慰めの言葉を浴びせかけられながらトボトボ歩いていると、

ようやく見えてきた女官寮の入口に人だかりの山が出来ていた。

の左遷話で盛り上がっていた同僚達も、

すぐに興味がそちらへと向いたらしく、

さぁっと波が引くように人だかりの方へ行ってしまう。


「なんだろう!?私達も行ってみようよ!」


そう言って目をキラキラさせながらしきりに急かす夏陽を、

まったくこの女は、と半眼で見つめ返していると、

野次馬達の方から親友がこちらに向かって走ってくるのが見えた。


「あ!悠琳!!ねぇねぇ、あれなぁに!何の騒ぎ!?」


喜び勇んで飛び出していく夏陽を、しかし悠琳は素通りしての前までやってくると、


!!貴女一体何をやらかしたの!?」


そう言って問答無用でこちらの腕を引っ掴んだ。


「え???悠琳、何の話なの?」

「それはこっちが聞きたいわよ。一体何がどうなってるんだか。」


全く事態が把握出来ずに焦るを引っ張って、

無二の親友はずんずんと人ごみの方へ進んでいく。

夏陽はといえば、いかにも楽しそうに二人の後をついてきながら、

さっそく悠琳に報告を始めた。


「あのねあのね、悠琳。ってば合肥に左遷されるんだよ!」

「アンタねぇ、他人事だと思ってぺらぺらと・・・」


さすがに腹が立って文句の一つも言いたくなっただったが、

それより先に前を歩いていた親友がはっとなって振り返ると、


「それだッ!!」


と何やら合点がいったらしく目を見開いて叫んだ。


「それって何?どういう事?何が分かったの???」


すぐにまた前を向いて、一直線に女官寮へと向かう親友に、

は引き摺られながら何度も尋ねるのだが、

彼女は何やら一人考え込んでいて答えてはくれなかった。

やがて人だかりの前まで来ると、それまで寮の入口を必死に覗いていた女官達が一斉にの方を凝視し、

ぞろぞろと道を開けた。

真っ二つに割れた人の山の間を、堂々と胸を張って進む悠琳と、不格好に引き摺られる

そして楽しそうにキョロキョロと辺りを見回す夏陽とが、順番に歩いていく。


「ただいまを連れて参りました。」


はきはきと歯切れの良い声で親友はそう報告すると、

困惑顔のをずずいっと前に押し出した。


「ありがとう、悠琳。もう下がって良いわ。」


三人の前に立っていたのは、この宮城に務める全ての女官を統括している女官、

今年とうとう50の大台に乗ったという女官長その人で、

悠琳が深くお辞儀を返すのを見て、も夏陽も慌ててそれに倣った。


「はい、失礼致します!」


そう言って、今度は興味津々といった様子の夏陽を引っ掴み、

これまた堂々と胸を張って悠琳が下がると、

衆目の視線にさらされ身の置き所の無いだけが残された。


「大変お待たせ致しました。これがにございます。」


さすが勤続35年の貫録を誇る淑女は品の良い声で穏やかにそう言うと、

すぐ側に立つ人物に恭しく拝礼する。

も同じく礼を取ったため相手を良く確かめられなかったが、

彼女の態度から余程身分の高い人物なのだろうと予想できた。


「手を煩わせてしまったな。礼を言う。」


こちらへ振り向いたらしい衣擦れの音とともに降ってきた声に、

視線を伏せたまま、はてどこかで聞いたようなと訝しむ。

顔を上げよ、と言われ指示通りおそるおそるそちらへと視線を上げて、

は思わずあぁ!!っと叫んだ。

群青の戦装束を身に纏い涼しげな眼をしてこちらを見下ろしている武将は、

だが間違いなく、一昨日酔い潰れたを助けてくれたあの男で、

は礼儀も忘れてあんぐりと口を開いた。


「なんという無礼をッ!張将軍にお謝りなさい!!」


女官長の叱責が飛んできて、申し訳ありません、と反射的にその場に這いつくばっただったが。


(い、今なんとおおせられましたか・・・・?)


聞き間違いでなければ、女官長は「張将軍」に謝れと言ったはず。

ああそうか。

どおりで見たことがある顔なわけだ。

昔、女官の仕事で張遼軍の官舎に行った時、

元恋人が弓矢の鍛錬場に居る上官をこっそり見せてくれたのだ。

近くで彼を見たのはその一度きりだったが、

威風堂々たる立ち姿と眼光の鋭さに感銘を受けた覚えがある。

いつか俺もあんな武将になる、と言った元恋人の姿を思い出し、

あの頃はあんなに楽しかったのに、と今自分が一体どういう状況に居るかも忘れて黄昏る。


「申し訳ございませんッ!後で厳しく処罰しておきますので、どうかご容赦を!」

「気にするな。それより、今からこの者の身柄はこちらで預かるが、構わぬか?」


思い出に意識を飛ばすを置いてけぼりにして、

同じように隣に平伏し謝る女官長に、張遼は気を悪くした様子もなく淡々と用件だけを告げた。

その内容に、本人はおろか、周りの野次馬からもえぇっ!?というどよめきが起きて、

女官長の厳しい視線が周囲へと向けられる。

途端に、好奇の視線を注いでいた人の山はさぁっとばらけてしまったが、

噂好きの女官達があちこちで集まっては遠巻きにこちらを伺っていた。

その中にはもちろん悠琳と夏陽の心配そうな顔も混じっていて。

女官長はそれを忌々しげに見渡してから、改めて張遼の方に向き直った。


「ええ、それはもちろん。は明日付けで将軍の専属女官となるわけですから。」


多少早くても問題ありませんわ、と丁寧な物腰で安請け合いする女官長を、

いきなりそれはあんまりだ、とは懇願するように見上げた。

朝から晩まで働き詰めだったのだ、今夜くらい馴染んだ寝床でゆっくり休みたい。

でなければ、せめて仲の良かった友人達と別れを惜しむくらいさせてくれたって良いだろう。

必死に視線で訴えてみるものの、どうやらの意見は聞いてもらえないらしく、

女官長は彼女に立ち上がるよう促しながら、貴女も良いですね、と同意を求めてきた。

立場を考えれば、片や将軍、片や女官の頂点、どうあがいたって了承以外の返事を返せるわけがない。

いっそ泣きたい気持ちで、はい、と頷けば、


「いささか未熟な端女ではございますが、何卒ご指導のほど宜しくお願い申し上げます。」


と娘を嫁がせる母親のような台詞を告げて女官長は頭を下げた。

それに対して張遼は、うむ、と重々しく返事を返すと、


「梁元!こちらに参れ!」


そう女官寮の中へ声をかける。

するとのんびりとした嗄れ声と共に、見覚えのある老人がひょっこり現れた。


「はいはい、もう準備は出来とりますよ。」


そう言って背中に担いだ大きな風呂敷包みをぽんぽんと叩いて見せる。

良く見るとそれは使い古された葛籠で、

風呂敷からはみ出した部分に、の名前が書かれているのがはっきりと見えた。



「そ、それは私の・・・!!」

「ほうほう、一日振りだねぇ。体はもう大丈夫かい?お嬢さんよ。」



思わず将軍の御前である事も忘れて叫べば、梁元は歯がまばらにしか生えていない口を大きく開けて笑った。

なにゆえこの老人が自分の全財産を運び出そうとしているのか、と目を白黒させていると、

命令を出したであろう張本人は、


「お前は先にそれを屋敷へと運んでおけ。私はと馬で戻る。」


と至極当然のような口ぶりで老人に言いつける。

え?え?と梁元と張遼を交互に伺うものの、

に対する説明は何も無く、老人はよっこいせと掛け声をかけて足早に去っていってしまう。


「それでは我々はこれで失礼する。騒がせたな。」


そう言って爽やかな蒼の戦袍を翻し、張遼が颯爽と踵を返すが、

はついて行って良いものか分からず、

おろおろしながら隣で深々と頭を下げている女官長に指示を仰いだ。


「何しているの!早くお行きなさい!」


いつまでも動かないに業を煮やしたのか、

先ほどまでの鷹揚な口調とは打って変わった厳しい声音で、

女官の頂点に立つ淑女が捲し立てる。


「は、はいぃぃッ!!」


その言葉に追い立てられるようにして、

は既に廊下の先で見えなくなりかけている新しい上司の姿を追いかけた。





















女官寮の敷地を出て、通い慣れた官舎の区画を抜けると、

そこから先はのような身分の低い人間には一生縁の無い未知の領域となる。

高貴な人々が行き交う宮城の中心部は、

廊下一つとっても、柱には緻密な龍の彫り物が天井近くまで施され、

床では正確に切り出された大理石が幾何学模様を描いていた。



(も、物凄く場違いな所に来てしまった・・・)



数歩前をずんずん歩いていく張遼に置いて行かれないよう、

小走りでついて行きながら、は全身から冷や汗が噴き出るのを感じていた。

別になんら悪い事はしていないのだから、堂々としていれば良いのだろうが、

気付くと出来るだけ身を縮こまらせて、上司の影に隠れようとしている自分が居る。

時折擦れ違う、普段ならなどお目に掛ることさえ出来ないだろう高名な文官達が、

前を行く張遼に深々と頭を下げるたび、

は心臓が止まる思いをして、ぺこぺこと何度もお辞儀を繰り返した。

通り過ぎる文官達から向けられる、氷のように冷たい視線が痛い。



(何もそんなに睨まなくたって・・・・)



何しろ本来ならば女官はその場に平伏して、

相手が通り過ぎるまでじっと待たなければいけないのだ。

けれど、擦れ違う人々全員にそんな事をしていたら置いてけぼりにされてしまう。

こんな場所で迷子になったらと考えるだけで、は真っ青になって震え上がり、

先ほどから一度もこちらを振り返ることのない上司の背中に必死で追い縋った。


(どうして将軍は私を指名したんだろう?)


の気持ちはどうであれ、これは異例の大出世である。

今のところ失態しか見せていない自分を、

わざわざ側仕えに任命する理由は何なのだろう。


(というかまだ、なぜあの夜助けてくれたかも分かって無いし・・・)


前を行く、黒に銀で縁どられた具足を見つめながら、

たくさんの疑問を捏ね繰り回して歩いているうち、

広い廊下はだんだんと人通りもまばらになる。

おまけに細い脇道へと逸れたため、

これ以上誰かに会う事は無いだろうと、が内心胸を撫で下ろした時だった。


「おい、張遼。お前、今夜は自邸に戻るのか?」


ちょうど曲がり角を曲がった所で、前から来た隻眼の男が気安げに張遼を呼びとめた。

必然的にも足を止めることになったが、視界に入って来た男の姿を確認した途端、

反射的に上司の影に隠れると、大慌てで膝をついて床に額を擦りつけた。


(どどどどどどど、どうしよう。この人!この人たしか・・・!!)


「は、荷造りの様子を見て参ろうかと。夏侯将軍は何故このような所へ?」


もしや殿から私に御下知が?と尋ねる張遼はさすがに慣れている様子だが、

は怯えた子兎のごとくぷるぷると震えて縮こまる。


(やっぱり、本物だ・・・)


隻眼の夏候惇といえば魏国で知らぬ者など居ない、大将軍では無いか。

主君の旗揚げ当初から仕えてきた古参の武将の一人であり、

夏候淵と並んで曹操の右腕左腕とまで謳われる男が、今目の前で談笑しているのだ。

恐れ多いどころでは無い。

落ちる髪の毛一本、吐き出す呼吸の一息でさえ、不敬に問われそうで、

はいっそ空気に溶けて無くなってしまいたいとさえ感じた。


(誰か私をここから助けて出してー!!)


でなければ、せめて私の存在に気付かないで!と心の中で何度も呪詛のように唱える。

だが、天下の大将軍は、何かあるわけではないんだが、と言葉を濁しつつ、

床にへばりついて動かない女官へと視線を向けた。


「ところで・・・後ろのそいつは何だ?」

「新しく私の元に配属された女官です。」


顔を伏せているため、二人のやりとりを見る事は出来ないが、

夏候惇の言った「そいつ」が自分である事だけはハッキリと理解できる。

これで終わりじゃないだろうな、とが固唾を飲んで身構えていると、

案の定、


「顔を上げてみろ。」


と低音の渋い声が命令してきた。


(うぅぅ・・・怖いよ〜!)


きゅうっと胃が縮み上がる感覚に必死で耐えながら、

おそるおそる視線を上げていけば、噂通りの鋭い隻眼が何かを探るようにの顔を凝視していた。

床に揃えた掌にじんわりと汗が滲んで、今すぐ逃げ出したい衝動に駆られる。


「・・・お前、名前は?」

「えっ・・・あっ・・・と申しますッ!!」


しばらく無言でこちらを眺めていた大将軍は、

何を思ったか、取るに足らない一女官の名前をわざわざ聞いてくる。

緊張で頭が真っ白になっていたは、彼の言葉が一瞬理解出来ず、

数秒遅れて我に返ると、慌てて質問に答えた。

それだけで致命的な失敗をしてしまった気がして、

一気に全身の血の気が引く。

だが、夏候惇にとっては名前などそれほど重要では無かったのか、

もう一度まじまじとこちらの顔を見つめると、


「お前が女官をなぁ・・・・・」


そう言って、どこか面白そうな様子で張遼の方へと話を振った。


「・・・・・・・何か?」


対する張遼の答えは、相変わらず淡々としたものだったが、

そこはかとなくぶっきら棒な感じがして、

は気付かれないかドキドキしながら上司の背中をそっと盗み見た。

一体張遼がどんな顔をしていたのか、後ろにいるには分からなかったが、

夏候惇の方は、隻眼をきょとんと丸くすると、微かに苦笑いを浮かべ、


「ま、俺にはどうでも良い事だがな。

もし本気なら孟徳にだけは気を付けておけよ?知られると厄介だぞ。」


碌な事を思いつかん、と何か嫌な事でも思い出したように顔をしかめた。


「御忠告、感謝いたす。」


と、やはり淡々と答える張遼に、じゃあな、と片手を上げて、

隻眼の大将軍はあっさり立ち去ってしまう。

彼は結局何が言いたかったのだろうかと、内心首を捻りながら、

平伏したまま遠ざかっていく足音を聞いていると、


「そろそろ、行くぞ。」


と、彼女の上司が初めて声をかけてきた。


「は、はい。申し訳ございません!」


そう言って、急いで裾の埃を払い立ち上がる。

すると、これまで全く視線さえ寄こさなかった上司が、


「今日は随分大人しいのだな。」


あの時は手を焼かされたが、と冗談とも本気ともつかぬ台詞をぽつりと呟いた。

不意を突かれたは、どう反応して良いかわからず、


「ぅえっ???」


と思わず素っ頓狂な返事を返してしまう。

彼の言う「あの時」とは、当然だが酔い潰れて介抱された夜の事だろう。

今まで張遼が全くその事に触れてこなかったため、

もしかしたら人違いなんじゃないかとさえ、思い始めていただったが、

やっぱりあの時の男は彼だったのだと、慌ててその場に平伏した。


「あ、あのッ!その節は誠にお世話になりまして!

まさかあの親切な殿方が張将軍であらせられたとは思いもよらず、

数々の不敬、誠に申し訳なく、そのッあのッ!」


ちゃんと感謝を伝えなければと言葉を探すのだが、

気持ちばかりが空回りして、上手くまとまらない。

焦りばかりを募らせるに、恩人はどこか楽しげな様子で、


「今更何をしおらしい事を。私はお前にフニャチン野郎と言われたぞ。」


と恐ろしい台詞で追撃してくる。


(ひえぇぇぇえええ!!なんっって事を!!)


と内心の驚愕とは裏腹に口ばかりパクパクと動かして、

の顔が真っ赤に染まった。

およそ、貞淑であらねばならない女官が口にして良い類の台詞ではない。

思わず顔を上げて上司の強面を、探るようにじっと凝視するも、

その切れ長の瞳に嘘をついているような色は見いだせず、

の顔色が、今度は真っ青に変化した。

本当ならとんでもない不敬だ。

その場で手打ちにされなかったのが不思議なくらいである。


「も、ももも申し訳ございません!!恩人である貴方様にそのような無礼極まりない言葉を。

わたくしめに出来うる事ならば、どのような罰もお受けいたしますゆえ、どうか命だけはっ!!」


もはや張遼の顔など見る事が出来ず、は額を床に押し付けて目を瞑った。

もう絶対に酒は飲むものか、と後悔のどん底に沈む部下を尻目に、

新しい上司は思案顔で、どのような罰でもか・・・と独り言のように呟いた。


「その言葉に偽りは無いな?」

「もちろんでございます!なんなりとおおせ下さいませ!」

「・・・では、これよりは常に私の側に侍るのだ。良いな?片時も離れてはならぬぞ。」


そう言いつけた張遼は相変わらず冗談なのか本気なのか全く読めない顔をしていて。


(そんな事が罰になるのかしら・・・??)


そもそもお付き女官なのだから、側に侍るのは当たり前だろう。

は彼の本意が全く分からないまま、こくこくと首が取れるほど勢い良く頷いた。

が素直に了承したことで、張遼は満足したのか、


「では行くぞ。屋敷で梁元が待っている。」


そう言って再び廊下を進み始める。

先ほどから何度も石の床に平伏したせいで、じんわりと痛くなった膝小僧をさすりながら、

も立ち上がるとそれを追いかけた。



















長い廊下を抜け、中庭を横切り、上司の後ろを黙々と歩き続けて、

もはや宮城のどの辺りに居るのかさえ分からなくなった頃、

はようやく目的地である厩へとたどり着いた。

何棟も並んだ馬小屋は干し草と馬糞の匂いに包まれていて、

馬丁達が忙しそうに飼葉桶を担いで通路を行き来している。

各部屋に一頭ずつ顔を並べた馬たちは、

さすがに身分の高い文官武官が所有しているだけあって、

どれも立派な体格と美しい毛並みをしていた。

つい先日が蓄えの全てをはたいて元恋人に買ってやった駄馬とは比べものにならない。


「うわぁ・・・」


上司の後にくっついて厩の中を進みながら、

は物珍しさにきょろきょろと落ち着きなく辺りを見回した。

青毛、葦毛、栗毛。

色とりどりの鬣を靡かせた、女官などよりずっと好待遇であろう貴人達は、

その優しい瞳を不安そうに曇らせて、怪しい侵入者を警戒している。

柱に吊り下げられている、何に使うのかも分からない道具をおっかなびっくり触っていると、



!早く来い!」



と、少し先で立ち止った張遼が、名前を呼んだ。

慌ててそちらの方に走り寄ると、

ひと際立派な体格をした鹿毛の馬が、柵から出した大きな頭を張遼の肩へと擦りつけていた。


「私の馬だ、名は暁紅。」


これには何度も戦場で命を救ってもらった、とその滑らかな首筋を撫でる上司は、

慈愛に満ちた柔らかな眼差しをしていて、

こんな顔もするのか、とは落ち着かない気分でその横顔から目を逸らした。

馬丁が背中に鞍をつけるのを、大人しく待っている駿馬に、

もおそるおそる近寄ってみる。

鼻息がかかりそうなほど側に来た所で、上司の愛馬は不機嫌そうにぶるるっと鼻を鳴らした。



「それ以上は近づかぬ方が身の為だ。暁紅は気が荒い、気に入らぬ者には容赦せぬぞ。」


驚いて後ずさりしたに、張遼が今更そんな重要な事を忠告をしてくる。



(そういう事はもっと早く言って下さいよ!)



と、口に出せるわけもなく。

胸の中だけで悪態をついて、

ふーふーと深呼吸することで跳ね上がった鼓動を落ち着かせた。

やがて、美しい馬具をつけた鹿毛の馬が馬丁に引かれて小屋から出てくる。

燃えるような銅褐色の肌と艶やかな黒い鬣が紫紺の鞍飾りに映えて、

より一層美しく見えた。

は、先ほど馬から受けた仕打ちなどすっかり忘れて、うっとりと見惚れてしまう。

すると、馬丁から手綱を受け取った張遼が、群青の戦袍を翻し颯爽と騎乗した。

人馬一体となった姿は、まさに威風堂々といった風情で、

気圧されするほどの迫力に、は感動して目をうるうると輝かせる。


(こんな立派な人の女官になれるなんて、夢みたいだ・・・)


この雄々しい騎馬が戦場を縦横無尽に駆け抜ける様を想像すれば、

元恋人がいつかああなりたいと憧れたのも頷けるというものだ。



(って、なんでアンタが出てくるのよッ!)



降って湧いた憎らしい男の面影を、が首を振って頭から追い出していると、

コツコツと蹄の音を響かせて張遼が隣に馬を寄せてきた。

そうして、身を乗り出し、未だ呆けているの腹に腕を回すと、

片手でひょいっと馬上に抱きあげてしまう。



「ぅわッ、ちょ、お待ち下さいませ!な、何故私まで???」



ちょうど抱きこまれる形で鞍に横座りさせられたは、

今にも落ちそうな不安定な態勢に悲鳴を上げた。

馬なんて今まで生きてきて一度も乗った事が無い。

想像以上に高い視界と間近に感じる男の息遣いに混乱状態に陥ったを、

彼女の上司は一瞥すると、



「しっかり掴まっておかぬと、落ちるぞ。」



と答えになっていない助言をくれる。



(そんな事言ったって、どこに捕まれば良いんですかー!)



まさか張遼にしがみ付くわけにもいかないだろう。

そんな恐れ多い事を、しかも馬丁が見ている前で堂々と出来るほど、厚顔無恥では無い。

しかし、いつまでも迷っているに業を煮やしたのか、

張遼はこちらの腕を取ると、強引に自らの腰へと抱きつかせた。



「ど、どうか降ろして下さいませ!私は走ってついて参りますので!」

「口を閉じておかぬと舌を噛むぞ。」



弾かれる様に腰から手を離し、がへどもどと許しを請うけれど、

またしても願いはきいてもらえず、

それどころか張遼はそう言い捨てるとさっさと鐙をくれてしまう。

待ちくたびれていた彼の愛馬は喜び勇んで走りだし、

強烈な上下の振動には結局張遼の腰にしがみ付くしか無かった。



(もう、何考えてるのかぜんっぜん分からない!!)



がくんがくんと揺すぶられて、振り落とされる恐怖に怯えながら、

は新しく上司になった男の顔を、

まるで全く別の生き物を見るような眼で見上げた。






































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