昨日よりほんの少しだけ太った月が西の空でにんまりと笑っている。


(ええどうぞ、いくらでも私を笑うが良いわ・・・)


嫌というほど揺すられてぐったりと青白い顔をしたは、

そう空に向かって八つ当たりした。

黒瓦も立派な屋敷門の前で、上司に抱えられて馬から降りながら、


(こんなに乗り心地が悪いなんて・・・何が何でも断れば良かった!)


と、後悔を噛みしめる。

張遼の屋敷から宮城までは昨日走って帰れたほどだから、

大した距離じゃないと高を括ったのが間違いだった。

なにしろの事などお構いなしに、彼女の上司は愛馬を思いっきり駆けさせるものだから、

尻は痛いし気持ちは悪くなるしで、

今も、ようやく地面に足を着けたというのにまだ体が揺れているような感じがする。

乙女ならば一度は憧れる殿方との相乗りが、これほど根性と忍耐を要する苦行であったとは。


(夢は見ている間が一番楽しいってね・・・)


無残に壊れた浪漫の欠片を胸に仕舞いこみ、

げんなりと顔を引き攣らせているとは対照的に、

張遼の方は何がそんなに楽しかったのか、

御満悦といった様子で鹿毛の愛馬を撫でていた。

開門と屋敷の主が一声かけると、

ぎぎぎぎっと音を立てて分厚い木製の観音扉が開いていく。

すぐに中から猫背の老人がひょっこりと胡散臭い笑顔を覗かせた。


「はいはい、大将もお嬢さんも御帰りなさいよ。」


そう言って梁元が馬の手綱を引き受けると、

張遼は何も言わずにずんずん屋敷の中へ入っていってしまう。

一瞬ついていって良いものか悩んだだったが、

ここまで連れてきておいて追い返すなんてこともあるまいと思いなおし、


「失礼致します。」


と一応屋敷に向かって礼をとってから門をくぐった。

見事な広葉樹が林立する中庭を横目で見ながら、門から伸びた歩廊を早足で通り抜ける。

張遼の後ろ姿が屋敷の中に消えるのを確認して、

開け放たれた玄関に足を踏み入れただったが、

ギョッとなってその場に立ち止った。

そこにはこの屋敷の家人らしき人々が、行く手を阻むかのように雁首そろえて並んでいた。

どうやら彼等はが来るのを待っていたようなのだが、


(見事に女の人が一人もいないのね・・・・)


年齢も見た目もバラバラの家人達はどういうわけだか男だけである。

おまけに、どれもこれも強面で筋骨逞しい身体つきをしていて、

街の与太者集団ですと言われても全く違和感が無かった。


(もしかして歓迎されてないのかな・・・)


不穏な雰囲気に、それ以上一歩も進めないでいたの後ろから、


「おや、まだこんな所に居たんかね?」


と与太者の筆頭のような梁元が声をかけてくる。

彼は玄関の中を見てすぐに合点がいったらしく、ほうほうと胡麻塩の不精髭を撫でると、


「ほれ、そんな汚ねぇ面並べてぼさっと突っ立ってねぇで、お嬢さんにご挨拶しな!」


と家人達に号令をかけた。

すると、男達は野太い声を揃えて、


「「「「「押忍ッ!!」」」」」


と気迫の籠った返事を返す。

まるで兵卒のような受け答えに、が目をぱちぱちと瞬かせていると、

右端の一番年が若そうな青年が一歩前に進み出て敬礼し、


「韋徹といいやす。主に庭の手入れを任されてるっス!」


お見知り置きを!っと天井に向かって叫んだ。

彼が終わると、また次の男が前に進み出て同じように敬礼し自分の名前と仕事を叫ぶ。


「郭単です。主に食事の支度を任されてます。」


事ここに至ってどうやら皆で自己紹介をしてくれているのだと気付き、

慌てても、どうぞよろしく、と軽く会釈を返した。

そうやって5人全員が紹介し終わると、今度はお前の番だと言わんばかりに視線がへと集中した。


「ええと。この度、新しく張将軍の専属女官となりました、と申します。

若輩なれば至らない所も多々ありますゆえ、皆様方よりの御鞭撻、ぜひに頂戴致したく存じます。」


さすがに、彼らほど気迫の籠った暑苦しい自己紹介は出来ないが、

女官らしく優雅な仕草で丁寧に礼を取る。


「うひょ〜、やっぱ女の子は良いぜぇ!」

「ですね。なんというか、華がありますよ。華が。」

「ウチは野郎ばっかでホントむさ苦しかったっスからね〜!」


途端に先ほどまでのピリピリした雰囲気が嘘のように消え失せ、

家人達は宴もたけなわといった盛り上がりを見せた。

ぴゅーぴゅーと口笛を吹く者まで現れる始末だ。

いきなりの変わりようで呆気にとられるに、


「ま、見てくれは悪ぃし品も無ぇが、気の良い奴らなんで、仲良くしてやってくんな。」


と梁元が所々歯の抜けた笑みを見せた。

たかが女官に家人全員がお出迎えとは驚いたが、

これほど好意的に接してもらえると、やはり嬉しいものだ。

こちらこそ仲良くして下さい、とが顔を綻ばせていると、


「お前達、いつまでそうしているつもりだ?用が済んだのならそろそろ仕事に戻れ。」


と、廊下の奥から戦装束を着たままの屋主が呆れ顔でやってくる。

それが鶴の一声となり、家人達は蜘蛛の子を散らすようにして自分達の持ち場へと帰って行った。


「梁元はを客間へ案内しろ。それが終わったら夕餉の準備を致せ。」


そう言い付けて張遼は再び廊下の奥へと消えてしまう。

その背中に深々と頭を下げる梁元に倣って、も同じように頭を下げながら、

ふと疑問がわいて、おそるおそる隣の老人に尋ねてみた。


「あのぉ・・・一応専属女官ではありますけど、普通、御屋敷にまで連れてくるものなのですか?」

「いんや?聞いた事ないねぇ。城で手伝いをするのがお付き女官ってもんだろ?」


実際のところ将軍職専属の女官が一体どんなものなのか良く分からないである。

もしかしたら住み込みで身の回りのお世話をするのかも知れないと思ったのだが、

梁元はあっさりとそれを否定した。


「やっぱりそうなんですか・・・では張将軍は何故私をお招き下さったのでしょう?」

「そりゃあ、やっぱり嫁にするつもりなんだろうよ。」


ますます謎が深まって不安そうに質問を重ねるに、

老人はひょっひょっと笑って、先日と同じような冗談を言う。


「も、もう!私、真剣に訊いてるんですよ?」

「わしも真面目に答えてるよ?まぁ、そんなに心配しなさんな。

わしら凡人にゃ分からんがね、大将にも深い考えがあっての事だろうよ。」


ついついむきになるに、梁元は相変わらずのらりくらりとした口調で答えながら、

のんびりと屋敷の奥へ案内した。


「どうせ、3日後にゃここを払って出てかなきゃならんからね。

当座はこの部屋に泊まってくんな。」


そう言って通された小さな部屋は、

どうやら急な来客用に用意されている場所らしく、

整然と並べられた豪華な調度品には大きな布がかけられ、

一応掃除はされているようだが、生活の匂いは全くしなかった。

巨大な天蓋がついた寝台だけ木綿の布が剥がされていて、

その上に家財道具一式が入ったの葛籠がちょこんと鎮座ましていた。



「あの・・・本当にここ使って良いんですか?

私も家人の皆さんと同じ所で寝るべきなんじゃ・・・」


そもそも、女官がこんな風に来客扱いされているのが変なのだ。

心配になってそう尋ねるに、梁元はひょっひょっと笑って、


「別にわしらと同じ部屋でも構いやしねぇよ?

でも、お嬢さんも知っての通り、野郎ばっかりで雑魚寝だからね。」


なんならわしが添い寝してあげようかね?と冗談めかして訊いてくる。

添い寝うんぬんはともかく、野郎ばっかり雑魚寝というのは本当だろう。

あんな筋骨たくましい猛者達と川の字になって眠るのは、

も若い女であるから出来れば遠慮願いたい。


「や、やっぱり良いです。お気遣いに甘えさせて頂きます。」


引き攣った笑みを浮かべ、丁寧に辞退すると、

そりゃあ残念だねぇ、と梁元はいかにも芝居がかった口調で落胆するふりをした。


「とりあえず、夕餉の支度が出来たら呼んであげるから、

それまではゆっくりしておきな。今日は色々あってあんたも疲れてるだろう?」


そう言って梁元は飄々と足取り軽く部屋を出ていった。


(ゆっくりしろ、なんて言われても・・・・)


一人きりになったは、とりあえず寝台の端へと申し訳程度に腰かけて、

気まずそうに辺りを見回してみる。

他人の、しかもうんと身分の高い上司の御屋敷で寛ぐなんて、恐れ多くて出来るわけがない。

居心地悪くもぞもぞと尻を動かしながら、


(悠琳や夏陽はどうしてるだろう。一応父さんや母さんにも知らせておくべきかな。

大体、仕事は何をしたら良いんだろう。きっと他にも何人か専属女官がいるよね?)


色々教えてもらわないと、と先行きの不安ばかりをぐるぐる考えて、

は結局休むことが出来なかった。




















湯上りの火照った肌に夜風が気持ち良い。

使い古した手拭いで洗い髪を絞りながら、は湯殿から続く廊下をてくてくと与えられた客間まで帰っていた。

さすがは張遼ほどの武将に与えられた御屋敷だけあって、

女官寮にあった沐浴場よりずっと広く、大きな湯船まで備え付けられていた。


(あれは掃除だけでも大変だろうな・・・)


それから風呂釜に水を張り、せっせと薪を燃やして沸かさなければならないのだ。

何回井戸と風呂場を往復すれば良いだろう、とついつい仕事の手間ばかり思いをはせてしまうのは、

自分が女官だからだろうか。


(なんだか本当に申し訳ないや。)


女は一番最後に残り湯を、というのが世の常であるというのに、

ここの家人達は主人が入った後の二番風呂を快くに勧めてくれた。

お客さんよろしく何も仕事をしていない自分が、

一生懸命働いている人達を差し置いて風呂になど入れるわけがない。

そう言って何度も辞退したのだが、

彼等はまるでが昔から顔馴染みであるかのような気さくさで、


「俺達が入った後なんか垢がドロッドロで入れたもんじゃねーよ。」

「そうそう、特に韋徹の入った後なんかもう最悪ですね。床に油の膜が張っちゃいますからね。」

「あぁあ!なんってこと言うんスか、さんの前で!それなら、秦能さんの方が酷いっスよ。

面倒くさがって湯船の中で頭洗っちゃうから、毛が滅茶苦茶浮いてるじゃないっスか!」

「あぁ?お、俺ぁんな事してねーよ?おめぇの勘違いだ、勘違い。」


やいのやいのと内輪話を披露しながら、強引に押し切ってしまう。

最終的に御年78歳で隻脚の李榔爺さんが、


「わっかいむしゅめのつかったふろにひゃいれるとは、ありがたやぁ〜〜」


と非常に聞き取り難い冗談で駄目押ししたため、

結局先に風呂を頂くこととなった。


(それにしても、ここの人達は皆仲が良いなぁ・・・)


を説得する連携も上手かったが、

何より、この屋敷では家人達が全員、主人である張遼と一緒の卓で食事をとるのだ。

もちろん張遼が一番上座であるのは当然だが、その隣に一番年長の李榔が座り、

梁元が座り、そうして他の若い家人達も各々の指定席で食事をとっていた。

立派な寅髭を生やした坊主頭の佃益という家人に案内され、

食事の間に連れてこられたは、

部屋の真ん中で異様な存在感を放つ巨大な円卓に度肝を抜かれた。

軽く10人は座れそうな朱塗りの卓に、山盛り料理が盛られた皿が何枚も並べられ、

調理係の郭単がこれまた大きな御釜からせっせと人数分の御飯をついでいた。

も何か手伝おうと、慌てて卓の上に置いてあった水差しを掴む。

それぞれの席を回って杯に水を注ぎながら、



(これ・・・絶対食べきれないでしょ・・・)



と、宴会もかくやというほどの料理の量に目を白黒させた。

だが、の杞憂などどこ吹く風と、食事が終わるころには全ての皿が綺麗に嘗めつくされ、

飯釜の底にへばりついたお焦げの奪い合いさえ勃発する始末。

いつも、こんなに食べるんですか?と思わず隣に座っていた韋徹に尋ねると、

今日はいつもより少ないくらいっす!と予想を上回る答えが返って来て。


(男所帯ってすごい・・・・)


女官寮はもちろんのこと、

どちらかというと女系家族で父親と一番上の兄以外は全員女だったにとって、

あの騒々しい食事風景はとても新鮮だった。

皆、行儀が悪く食い意地が張っていて、すごく楽しそうに食べていた。

そんな事を思い出し、クスクスと笑みを溢しながら歩いていると、

前方から梁元が手拭いを片手に歩いてくるのが見えた。


「お風呂、先に使わせて頂きました。」


ありがとうございました、と立ち止って頭を下げれば、


「いやいや、どういたしまして。湯加減はどうだったかね?」


といかにも好々爺といった優しい笑顔を返してくれる。

調度良かったですよ、と返事を返して、

は先ほどまで考えていた素直な感想を梁元に伝えることにした。


「ここの皆さんは、とても仲が良いのですね。まるで家族みたいです。」

「はははっ、そうかい?まぁ、わしも含めて皆戦友だからねぇ。

お互い命を預け合って今まで生き伸びてきたから、仲は良いかも知れんね。」

「戦友・・・ですか?」


同僚ではなく戦友と言った梁元の言葉が引っかかって、怪訝な顔で小首を傾げる。

すると老人は、文字通りの意味だよ、と詳しく話してくれた。


「ここの連中はみんな元は大将の部下だったのさ。」

「え!?じゃあ、皆さん軍に籍を置いてらしたんですか?梁元さんも?」


そう言って目の前の老人をまじまじと見つめ返すと、

彼は気を悪くした様子もなく、ひょっひょっと笑って、


「これでも、まだ大将が董卓の下にいた頃から副将やっててね。張遼軍に梁元あり、って恐れられたもんだよ?」


といつもはくにゃりと曲がった猫背を伸ばし、わざとらしく胸を張って見せた。


「じゃ、じゃあ。佃益さんや韋徹さん、まさか李榔さんも?」

「ああ。みんな、年食って体にガタがきたり、怪我で働けなくなっちまって除隊した連中さね。

身寄りもねぇ、帰る家もねぇ、ってんで大将が拾ってくれたんだよ。

まったく、わしらは良い上司に恵まれたもんさ。」


そう言って懐かしそうに遠くを見る梁元の横顔を、はようやく謎が解けた気分で眺めた。

通りで皆一様に筋骨たくましく妙な迫力を持っているわけだ。

良く良く思い出せば、どの家人も多かれ少なかれ顔や手足に傷跡があった。


(そっか、それであんなに仲が良いんだ・・・・)


納得しただったが、なんだか少し寂しい気持ちになる。

彼等は新参者の自分にとても良くしてくれるが、決して本当の意味での仲間にはなれない気がした。


「そんな顔せんでも、お嬢さんはもうわしらの大切な仲間だよ。

何しろ大将が選んできたんだ。間違いないさ。」


の不安をずばり見抜いて、梁元は優しい口調で励ましてくれる。

老いたとはいえ、あの張遼の副将にまで上り詰めた男なのだ。

時折、恐ろしく鋭い老人に、子供っぽい疎外感を見抜かれて、は照れ笑いを浮かべた。

さて、風呂に入らせてもらおうかいの、とあっという間に元の好々爺に戻った老兵は、

所々歯がもげた愛嬌のある笑顔で、湯殿の方へと去っていく。

その猫背を見送って、


(私も、明日から頑張ろう!)


と、決意も新たに自室へと向かって歩き出した。


少々道に迷いかけたものの、はなんとか無事に与えられた客間まで戻って来た。

最近女官の間で流行っている異郷の恋歌を口ずさみながら、

葛籠の中から昔朝市で買った安物の櫛を取り出すと、生乾きの髪を丁寧に梳る。

ほんの少し開けられた窓の隙間から、夜風がそっと忍び込んではひんやりと足先を撫でていった。


、いるか?」


ふいに部屋の外から凛と張りのある声が聞こえてきて、

は慌てて居住まいを正すと、はい、と返事を返して急いで扉を開けに行った。

そこには、湯浴みをし夜着に着替えた主が立っていて、

すっかり寛いで気が緩んでいたを縮み上がらせる。


「こ、これは張将軍。お召しで御座いますか?」


突然の来訪に動揺を隠せないまま、がその場に平伏し礼を取ろうとすると、

張遼はすかさずその二の腕を掴んで引き上げた。


「礼はとらずとも良い。夜着が汚れるぞ。」


いきなり腕を取られて硬直するに、彼女の上司は淡々とそう言うと、

何事も無かったかのように手を離した。

良いと言われた以上跪くまではしないが、礼はとっておくべきだろうと、

手を合わせて俯き、内心戸惑いながら言葉の続きを待つ。

しかし、張遼はいつまでもこちらを眺めているばかりで全く口を開かなかった。

乾ききらぬ遅れ毛が頬に張り付くのを不快に思いながら、


(ま、まさか夜伽を命ぜられるんじゃないよ・・・ね?)


一抹の不安が頭を過ぎり、我知らず固唾を飲む。

戦装束とは違い、銀鼠色をした薄手の夜着は歴戦の猛者たる張遼の逞しい体の線を強調し、

腰の下辺りで緩く締められた海老茶色の帯が、なんとも色めいて見える。

野放図に跳ねていた固い髪も、今は湿り気を帯びているせいか無造作に後ろへと撫でつけられていて、

先ほど食事の間で見た彼とはまるで別人のようだ。

思慮深く伏せられた切れ長の瞳は、灯篭の淡い光と相まって、蠱惑的にさえ見える。

なんとなく目に毒な気がして、はふらふらと視線を泳がせた。

とはいえ、戦地でならばいざ知らず、都に戻ってくれば女なんぞよりどりみどりだろう。

まして張遼ほどの将ならば、放っておいても向こうから擦り寄ってくるというものだ。

何より、相手は同衾しておいて隣で爆睡していた男だ。

きっと自分は彼の好みとは天と地ほどもかけ離れているのだろうと、

勝手に決め付けているである。

まさかそれは無いな、と浮かんだ予想をすぐさま否定して、


「あの・・・いかが致しましょう?」


と黙りこくったままの主人におそるおそる声をかけてみる。

張遼はそこでようやく口を開いて、何かを言いかけてみるものの結局口を閉じ、

それを何回か繰り返した後ようやく、いや・・・、と言葉を濁した。

挙動不審の上司をそれでも辛抱強く待っていると、


「・・・・明日は宮城で執務室の荷造りを命じる。私と共に出仕してもらうぞ。」


早めに休め、と言い付けて新しい主はさっさと帰って行ってしまった。


(たったそれだけを言うためにわざわざお越しになったのかしら???)


だとしたら随分と律儀な将軍様だ、と呆れながらは開きっぱなしの扉を閉める。


(というか、じゃあ何のために私を御屋敷まで連れて来たんだろ???)


別に明日の朝女官寮から出仕させれば済む事だったのではないだろうか。

張遼の考えている事がにはさっぱり理解出来ない。


「あーもう、やめやめ。どうせ私にはあの方のお考えなんか分かりっこないもの。」


今日一日でそれだけは嫌というほど良く理解した。

くぁ〜と大きな欠伸を一つ零すと、

はやれやれと肩を揉みながら、ごろんと寝台の上に寝転がる。

賓客用の布団は、蒸かしたての饅頭のように柔らかくて、

女官寮の使い古されたぺったんこ布団とは比べようも無かった。





























「・・・お嬢さんよ!ちょっと、良いかね!?」


梁元の大きな呼び声とガンガンと叩かれる扉の音に意識が覚醒して、

はまだ眠い目を擦りながら、ふぁーい、と生返事を返した。

夢も見ないほど深く眠ったのは一体いつ以来だろう。

よほど疲れていたのだなぁ、と昨日の出来事を反芻しながら、

扉を開けるべく身を起こそうとして、

はそこで初めて、自分の腰にがっちりと何かが巻きついている事に気がついた。

夢見心地が一気に吹き飛び、血相変えて掛け布をめくれば、

覚えのある両腕が離すまいとするかのようにの胴を抱え込んでいた。


「きぃやぁぁぁあああッッ!!!」


今回こそは思う存分若い娘らしい悲鳴を張り上げて、

が不自由な体制ながらなんとか背後へと首を向けた。

そこには予想通り見覚えのある光景が広がっていて、


「ちょ、ちょちょちょちょ張将軍!!?」


なんでッ!?とが叫ぶのと同時に、バキっという嫌な音がして客間の扉が強引に開け放たれる。

立て続けに起こる出来事にただただ混乱するばかりのを尻目に、

無理矢理扉を押し開けた張本人は、


「おやおや、やっぱりここに居なさったか。」


と笑いながらのんびり部屋の中に入ってきた。

後ろからがっしりと捕まえらて身動きが取れないとはいえ、

寝乱れた姿を見られるのは恥ずかしい。

せめて手が届く範囲だけでもと慌てて夜着を整えながら、


「梁元さん!?これってどういう事なんですか!?なんで張将軍がここに???」


そうが涙目になって説明を求める。

この屋敷で2番目に偉いであろう老人は、

これだけ騒いでも微動だにせず眠っている主人を見て目を丸くすると、

ひょっひょっとさも楽しげに笑う。


「大将にも困ったもんだ。そんなにお嬢さんの傍が良かったのかね〜。」

「ちょ、冗談なんか言ってないで助けて下さいよ!本当に困ってるんですよ!!」


眺めてばかりでいっこうに動こうとしない梁元に、

は心底情けない顔をして甲羅を掴まれた亀のごとく、手足ばかりをバタバタさせた。



「まぁ、待ちなさいよ。昔っから大将は寝起きが悪いというか寝穢いというか、

寝惚けて勝手にどっか行きなさる人でねぇ。」



戦場ではそうでも無いのになんでかねぇ、と首を傾げる梁元に、

なんとはた迷惑な、とは顔をしかめて見せた。


「朝になって部屋に呼びに行ったら姿が消えてた、なんてのはしょっちゅうでね。

おまけに、ちょっとやそっとじゃ起きないから連れ戻すのも大変だったんだけども。」


今はもう大丈夫と言って大きく息を吸った老人を、が訝しげに見上げていると、

彼はその痩身からは想像もつかないような大声を張り上げた。


「敵襲じゃぁぁぁあああああ!!!!」


狭い客間に梁元の声がわんと木霊した途端、

これまでぐっすり眠りこけていた張遼の瞼がぱちりと開き、


「なにッ!?敵襲かッ!」


と気合の籠った掛け声とともに勢いよく立ち上がった。


「え、ちょ、待って、わぁぁぁ!!」


当然と言えば当然だが、の体も為す術無く抱え上げられる。


「梁元!龍咬双鉞を持てい!!」


を小脇に抱えたまま、寝台の上に仁王立ちになって咆哮する張遼に、

梁元はいたって暢気な様子で、おはようございます、と挨拶する。

全身から恐ろしい殺気を発していた張遼は、それだけでぴたりと大人しくなり、

寝惚け眼で周囲を見回した。

窓の隙間から入る朝の光を見つめ、左腕にぶらーんと抱えられたを見つめ、

最後に目の前でニコニコと笑っている梁元を見つめて、


「・・・・・・敵はどこだ?」


とまだ半分夢の中のような声音でぽつりと尋ねる。


「そりゃ夢でも見たんですよ大将。」


いけしゃあしゃあと嘘をつく梁元に、は胡乱な目をしてみせたが、

張遼の方は素直に、そうか、と納得すると、やおら寝台から降りた。

そうしてを抱えたまま部屋を出ていこうとする張遼に、


「あ、あの、張将軍!よろしければ降ろして頂けないでしょうか!」


大慌てで懇願する。

ちゃんと話が通じたのかいまいち分からなかったが、

彼は無言でじっとこちらを見返した後、そっと床に降ろしてくれた。

ようやく自分の足で立ったが強く締めあげられていた脇腹をさすりながら、

ありがとうございます、と一応礼を言うと、

歴戦の猛将は子供のような仕草でこくんと頷いて踵を返す。

寝癖で大爆発の頭をゆらゆらと揺らして去っていく張遼を、

はぽかーんと呆気にとられて見送った。

まるで嵐のような朝だった、と脱力していると、


「とりあえず、お嬢さんは着替えて食事の間に来んさい。すぐに朝餉だよ。」


そう言い残して、日常茶飯事といった顔の梁元が主の後を追っていく。

果たしてこれからあの主人と上手くやっていけるのだろうか・・・。
そう自問自答しながらが着替えるために扉を閉めようとしたところで、ふと、気付く。


(あれ?私寝る前にちゃんと閂かけたよね・・・???)


と。
ならば張遼は一体どうやってこの部屋に入ったのだろう?


「あははは、よっぽど疲れてたのね〜。閉めた気になって忘れるなんて。」


そうだ。きっとそうに違いない。

そう自分に言い聞かせて、はそれ以上深く考えない事にした。
















着慣れた女官服に腕を通し、ささっと髪を結いあげて、

井戸端で顔を洗い歯を磨く。

てきぱきと身支度をすませると、は言われた通り食事の間にやってきた。

既に巨大な食卓には朝餉が並んでいて、

昨夜と同じように、郭単が大きな御釜から御飯をお椀に盛っている。

こちらに気付いて、おはよう、と声をかけてくるひょろりと背の高い調理係に、


「おはようございます、郭単さん。私も手伝いますね!」


そう笑顔で返事して、既についである飯茶碗をそれぞれの席へと運んだ。

上座では先に席についた張遼が、こくんこくんと船を漕いでは、

目をしょぼしょぼと瞬いて欠伸ばかり溢している。

その間も、一人また一人と家人達が食事の間へと集まり始め、やがて全員が席についた。

わいわいと騒々しく食事を始めた人々を横目に、

がそっと主の方を盗み見れば、彼はぼーっと虚空を見つめたまま、

それでもちゃんと箸を動かして食べているようだった。


(寝起きが悪いって本当だったんだ・・・)


小魚の甘露煮を口に運びながら、

は天下に名を馳せる将軍の、意外な一面に驚きを隠せなかった。

勝手に人の寝床に潜り込んでみたり、

家人の戯言を真に受けて飛び起きたり、

御世辞にも威厳がある行動とは言い難い。

けれど、元恋人から聞かされた英雄談や、巷で流れる噂話に出てくる様な、

理想化された至高の武人とは全く違う、

人間臭い姿を見せてもらえるのは、実をいうと嬉しかったりする。

小芋を摘まみ損ねてぽろりと落としては、隣に座る梁元に窘められている屋敷の主を、

は微笑ましい気持ちで見つめた。




やがて、食事もあらかた終わり、

片付けを始めた郭単と一緒に、も空っぽになった大皿を重ねていると、


「お嬢さん、ちょっと手伝ってくれるかね。」


と張遼の世話をしていたはずの梁元がわざわざ呼びに来た。

なんだろう、と訝しく思いつつも丁度厠から戻って来た秦能と交代して、

大急ぎで梁元の元に向かう。

すると連れて行かれたのは調理場の隣にある井戸端で、

そこには小さな木製の椅子に座らされた張遼の姿があった。

首の周りには前掛けのような布が巻かれ、その前で膝をついた佃益が、

剃刀を手に真剣な顔をしていた。


「何をしてるんですか??」

「ん?見ての通り髭を剃るんだよ?」


その場に漂うぴんと張り詰めた空気に、が何事かと尋ねれば、

梁元は慣れた手つきで主の頭を押さえながら、さらっと答えた。

それにしては物々しい雰囲気に尻ごみしていると、

正面を向いたままの佃益がちょいちょいっと手招きする。

慌てて隣に寄っていくと、


「持っておけ。」


と小さな油壺を掌に乗せられた。



(佃益さんがしゃべった・・・)



しかし、寡黙な大男はそれ以上何も語らず、その太くて無骨な指を器用に動かして、

張遼の髭を整え始める。

なめらかなその動きに感心しながら、

持っている渋い緑の壺に鼻を近づけると、爽やかな香りがふわりと広がった。


(髭剃り用の香油なのかな?)


と、中身を想像しながら、剃られている張本人を伺えば、

果たして寝ているのやら起きているのやら、目を瞑ったまま微動だにしない。

そうこうしている間も佃益はどんどん髭を整えていき、

最後に糸切りばさみで口髭の毛先を整えると、ようやく髭剃りが完了した。


「それを寄こせ。」


言葉少なに命じられて、が足元にあった湯気を立ち上らせている木桶を持ちあげれば、

中に浸かっていた手布を絞って、張遼の顔を丁寧に拭き始める。


「佃益さんって凄く器用なんですね。羨ましいです。」


思わず称賛の言葉をかけると、そんなことは無い、と言いつつも厳つい横顔が微かに赤らんだ。

佃益が満足そうに出来栄えを眺めるのを見上げ、

なるほど、こうやって将軍の立派な髭が維持されてるわけか、と感心していると、

ずっと頭を押さえていた梁元がやおら主人の肩を叩く。


「大将、終わりましたよ。起きて歯を磨いて下さいな。」


すると、これまで沈黙を保っていた張遼は、ああ、とも、うう、とも分からない返事を返し、

のっそりと立ち上がった。


(やっぱり寝てたんだ・・・・)


思わず苦笑するに気付く様子も無く、

張遼はふらふらと石を積み上げて造られた掘り抜き井戸の方に足を運んだ。

歯を磨き顔を洗い、それから部屋に戻って戦装束を身に纏う。

あれほど眠りかぶっていた張遼も、具足をつける頃には、

誰もが憧れる厳格な武将に戻っていた。

ぴしっと美しく背筋を伸ばし、鋭い眼光からは睡魔など微塵も感じられない。

先ほどまでこっくりこっくり船を漕いでいた人物とはとても思えず、

梁元と一緒に身支度の手伝いをしながら、は彼の変わりように呆れた。

寝穢かった名残といえば、何度梳いてもしぶとく残っている寝癖くらいだが、

それも、あの派手な房飾りがついた帽子を被せれば全く見えなくなってしまう。


(まさか寝癖を隠すための帽子だったりして・・・)


が疑いたくなるほど、支度の完了した張遼に隙は見当たらなかった。


「少し遅くなったな。急いで暁紅を連れてまいれ。」


冷淡とも感じられる声音で梁元に申しつけると、

群青の戦袍を翻し颯爽と部屋を出ていった。

はその威厳に満ちた後ろ姿を見つめ、思わず惚けてしまう。


「行くぞ、。」


それを知ってか知らずか彼女の上司は振り返らないまま鋭く呼びかける。


(やっぱり、張将軍は格好良い!)


誇らしい気持ちに胸を高鳴らせながら、

は、はい、と元気良く返事を返すと駆け足で張遼に付き従った。










東の空で真っ白な太陽が燦々と午前の光を降り注いでいる。


(ああ許して、今の私にお前の光は強すぎるわ・・・・)


むかむかとせり上がってくる吐き気をこらえながら、

は昨日と同じく青白い顔で空に向かって弱音を吐く。

厩から裏庭を通って宮城へと向かう張遼の背中を追いながら、

は隙を見ては口から脱出を試みる消化しきれなかった朝食と、

一進一退の攻防を繰り広げていた。

なにしろ、今朝も昨日と同様、

有無を言わさず横抱きにされ、荒らぶる暁紅に乗せられて、

ガンガン揺すぶられながら宮城まで連れてこられたのだ。

吐かずに頑張っている自分をちょっとくらい憐れんだって、良いじゃないか。


(うぅぅ、だから走ってついていくって言ったのに・・・)


どうしてもの上司は自慢の愛馬に相乗りさせたいらしい。


(そりゃ、信じられないくらい栄誉な事だって分かってるわよ?)


女官なんて、何万という軍勢を預かる将軍様からしてみれば、

視界の隅にさえ入らないほど下賤な存在だろう。

本来なら、彼の愛馬に触れようとするだけでも不敬で処罰されるのに、

乗せてもらった挙句、宮城まで連れてきてもらっているのだ。

たかが専属女官にそこまでしてくれる者など、

魏国広しと言えど、我が主くらいに思えた。


(でもなんでだろ。あんまり嬉しくない・・・・)


のろのろと足取り重く歩いていれば、おのずと前を行く張遼との距離が開いてしまう。

さすがにが遅れているのに気がついたのか、彼は立ち止まって振り返ると、


「辛そうだな。あまり無理はするなよ。」


そう言って気遣わしげな顔をした。

天下の張遼にそんな優しい言葉をかけられては、

貴方様のせいでしょう!!と心の中で責める事も出来ないではないか。


「だ、大丈夫です・・・・」


は涙目でこくこくと頷きながら、聞こえないほどか細い声音でそう答えた。









朝の宮城は、出仕してきた高位の文官武官達で溢れている。

擦れ違うたびに繰り出されるお辞儀攻撃を、は上司の影に隠れてひたすら平身低頭でやりすごした。

皆急いでいるからだろう。昨日ほど奇異の視線を注がれない。

夏候惇のような、超大物と遭遇する事も無く、

二人は順調に宮城内を抜け幹部官舎まで辿り着いた。

ようやく吐き気が治まって、顔色も元に戻ったが、

そういえば良く書簡を届けに来たなと、

だんだんと近づいてくる二階建ての建物を眺めていると、

その入口付近で見覚えのある老人が、これまた見覚えのある人々と話し込んでいた。


「おや、大将。今お着きですか?」


いち早くこちらに気付いた梁元が、にんまりと歯の抜けた笑みを浮かべて声をかけてくる。

すると梁元の隣に立っていた男女三人がそれに倣ってこちらへと振りむいた。

一人は背が高く体格も良い、いかにも武人といった感じの壮年の男。

もう一人は、よりも幾分若い清楚な装いの可憐な娘。

そして最後の一人に視線を移し。


「げッ・・・・」


は踏みつぶされた蛙のような呻き声を上げて、

さっと張遼の後ろに逃げ込んだ。


(なんで、よりにもよってあいつが居るのよ!!)


見間違えるはずがない。

一番後ろで居心地悪そうに頭を掻いているのは、

が陥っている状況全ての原因になった元恋人、清苑その人ではないか。

出来ればこのまま彼らには関わらず通り過ぎて欲しいの思いとは裏腹に、

彼女の上司は4人の前で立ち止まった。


「これは張将軍。お早うございまする。」


そう言って、魏の軍装を着込んだ壮年の武人がびしっと拝礼すると、

後ろの娘も元恋人もそれに倣う。

これ幸いと、は急いでその場に平伏し、深く頭を下げることで顔を隠した。



「珍しいな。周撰が宮城に愛娘を連れてくるとは。」



心なしか顔を綻ばせた張遼が、そう言って周撰の後ろに控えている娘に目を向ければ、

彼女は長い睫毛に縁どられた瞳をそっと伏せて深々と会釈を返す。

豊かな黒髪に色白のほっそりとした出で立ちは、

まるで早春に咲く白水仙のような儚さだ。

張遼の言葉に、いかにも生真面目そうな副将は苦笑を浮かべ、


「いえ、娘の婚姻が決まりましたので将軍にご報告しようと参った次第でして。」


そう言って、おい、と一番後ろにいた清苑を呼んだ。

平伏したの肩がぴくりと小さく跳ねる。

緊張気味に周撰の隣へと進み出た元恋人は、さっと素早く跪くと、力強く礼をとり、


「姓を李、名を雄、字を清苑といいます!!」


紅潮した顔で精一杯声を張り上げて名を名乗った。

張遼はそれを無表情で見下ろしていたが、


「・・・・周撰の下で什長をしているな。」


知っている、とおもむろに口を開いた。

軍の頂点に立っている人物が、

何百人と居る什長の中で、自分の事を知っていると言うのだ。

清苑が喜びのあまり言葉を失って震えている姿など、

顔を伏せたままのにも容易に想像できた。



(嬉しいだろうな、清苑・・・・)




伊達に5年も恋人をしていたわけじゃない。

彼の、に対する愛情は偽物だったかも知れないが、

張遼に対する憧れは紛れも無く本物だった。

忘れたはずの哀しみがじんわりと胸に広がり、ぎゅっと拳を握り締める。



「これは、ご存知であらせられたか。この男は某が以前から目をかけておりまして。

人となりは未熟でございますが、武芸に関しましては光るものを持っておると思っております。」



まるで己が息子のように清苑の事を語る周撰に、

男は神妙な面持ちで、勿体ないお言葉です、と頭を下げた。


(そっか。もう私の知ってる清苑じゃ無いんだね・・・)


今目の前に居るのは、将来を有望され、相応しい伴侶を手に入れた、前途洋々たる若者だ。

いい加減で大口ばかり叩いていた飢民上がりの恋人はもう何処にも存在しないのだと、

この期に及んで思い知らされる。

同時に、まだ心のどこかで戻ってきてくれるのではないかと期待していた自分に気付き、

愕然とした。


「ところで、そちらの女官は?」


なんとも間の悪い事に、ここにきて周撰がの存在に気付いたのか、

わざわざ話を振ってくる。

どうして皆そっとしておいてくれないのだろう、と歯噛みするに、

彼女の主人はもっと残酷な命令を出した。


「ああ、今日から私の専属となった女官だ。、顔を上げろ。」


どうかそれだけはお許しを、と喉まで出かかった懇願をぐっと飲みこんで、

覚悟を決めたがゆっくりと視線を上げる。

ともすると歪みそうになる口元を引き締めて、


「お初にお目にかかります。と申します。

これより張将軍に誠心誠意お仕えさせて頂きます。」


声の震えを悟られないよう、殊更ゆっくり挨拶を述べた。

挑むように周撰を見上げた視界の端で、元恋人が息を飲んだのが分かる。


「ふむ、私は周撰という。張将軍には副将として仕えている身だ。

我が軍には女人が全くと言って良いほど居なかったのでな、

何かとこれから世話になると思う。

特にこの白蓉はこれまであまり同じ年頃の娘と話す機会が無かったのでな、

どうか娘の良き相談相手となってくれ。」


そう言って笑う周撰には何の落ち度もないのだけれど。


(なんと惨い事をおっしゃられるか・・・)


と、は心の内で冷笑した。


「わたくしからも是非お願い致します。

合肥での暮らしを思うと、いささか心細くあったところなのです。

貴女も共に赴いてくれるというのなら、とても嬉しいわ。」


そう言ってはんなりと微笑む娘の、

みを帯びた黒い瞳は憎らしいほどに澄みきっていて、

何も知らないのだという事を如実に現わしていた。


(まぁ、当たり前よね・・・)


誰が好き好んで別れた女の話などするだろう。

有り難きお言葉です、と感情の籠らない口先だけの感謝を告げて、

は拒絶するように、再び床に平伏した。

美しい人だ。

清楚で優雅で、生まれもっての気品に満ちていて、

貧乏女官のでは逆立ちしたってかなわない。


(そりゃ、あいつだって心変わりするよ・・・)


当たり前だ。仕方ないじゃないか。

この娘が悪いわけじゃない。

あの父親が悪いわけじゃない。

そうやって必死に相手を正当化して、

既にボロボロの矜持をまだ守ろうと足掻いている己自身が情けなかった。

本当は惨めで、悔しくて、

今にも叫び出しそうなのに、ただ床を睨みつけることしか許されない立場の自分。


「それでは、我等はこれにて失礼仕ります。」


用件が済んで安心した様子の周撰は、

再び張遼に礼をとると、後ろの二人を伴って練兵場の方へと去っていく。

早く行け!早く行け!

そう呪詛のように胸中で繰り返しながら、彼等が見えなくなるのを奥歯を噛みしめてじっと待つ。

けれど、


「行っちまいましたねぇ・・・」


そう梁元が呟いた途端、は弾かれるようにして顔を上げた。

今にも見えなくなりそうな元恋人と婚約者の後ろ姿を、

はっきりと視界にとらえて、みるみる内に顔が歪んでいく。

仲睦まじく並んで歩く二人の後ろ姿は、ずっと思い描いてきた幸せな未来そのものなのに、

どうして今男の隣に居るのは自分じゃ無いのだろう。

瞬間的に膨れ上がった感情が憎悪なのか未練なのか、

それすら分からないまま、は情動に任せて立ち上がった。

だが、二人を追いかけようと飛び出した彼女の腕を、

隣に立っていた張遼が無言で掴まえる。


「ッ!どうしてッ・・・・!!」

「追ってどうなる?どちらにしろ傷付くのはお前だ。」


自分の身分も忘れ感情に任せて食ってかかるに、

だが彼女の上司はいつになく強い口調で言葉を返した。

そうだ、

張遼の言うことは正しい。

今更追い縋った所で、男の心が戻るわけじゃない。

あの娘に詰め寄ったって、昔の女が逆恨みしているとしか思われないだろう。

どちらにしろ、惨めな思いをするのはばかりだ。

そう冷静に判断する自分と、許せない悔しいと訴える自分とが、

ぐちゃぐちゃに混ざって胸をかき乱す。

両の拳を震えるほど力いっぱい握り締めて、

行く事も退く事も出来ぬまま俯くの耳に、


「・・・もう、あのような男のために泣くな。」


と慈しむような張遼の声が沁み込んできて。

堪えていたはずの涙がみるみる溢れだし、ぼろぼろと頬を伝って落ちていった。

肩を震わせ声を押し殺して泣くを、張遼が無言で腕の中に抱きしめる。

その広い背中にぎゅうっとしがみついて、は涙が枯れ果てるまで泣き続けた。

























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