人間というものは、それが怒りであろうと哀しみであろうと、

ずっと感情を高ぶらせておくことは出来ないらしい。

真っ赤に熱した鉄が嘘みたいに冷えてしまうように、

あれほど号泣していたも今はぐずぐずと鼻を鳴らすばかりとなった。

朝っぱら、公衆が通る渡り廊下の真ん中で、名にし負う魏将張遼に抱き締められている自分。

普段のなら、それがいかに洒落にならない状況か察することが出来たであろうが、

泣きじゃくった余韻でぼうっと呆けたままの頭は、

男から与えられる麻薬のような安心感にいとも容易く流された。

あの重厚な双鉞を容易く操る強い腕が、

今はそっと慈しむようにこの身を包み込んでくれている。

めいいっぱい伸ばした手が回りきらないほど広い背中は、

間違いなく数多の戦場を生き抜いてきた武人のものだ。

至高の武を体現するということは、

それすなわち最も猛々しい者であるという事に他ならぬはずなのに。



(なんでこんなに優しいんだろう・・・・)



もし彼が止めてくれなかったら、あやうく宮城で痴情沙汰を起こすところだったのだ。

助けられてばかりで、全く彼の役に立てない自分が不甲斐ない。

せめて少しでも感謝の気持ちを伝えられれば良いと、

その厚い胸板をおずおず抱きしめ返せば、

張遼は微かに息を飲んで、体を強張らせた。

先ほどよりほんの少しだけ強くなった腕の力に、

が深い安堵の溜息を零していると、


「えー・・・と、野暮なこたぁ言いたくないんだけどね。

そういうのは部屋に入ってからにしちゃどうですかい?」


のほほんとした口調が二人の間に割って入った。

途端に活動停止していた理性が、の頬を引っぱたいて現実へと戻してくれる。

慌てて身を捩って腕の中から逃げ出すと、

遅ればせながら深く頭を下げて非礼を詫びた。



「と、取り乱してしまい、本当に申し訳ございませんッ!」

「良い・・・気にするな。」



さすがは数多の兵士を統括する将といったところか、

耳まで真っ赤にして動揺しているとは対照的に、

張遼の方は相変わらず堂々としたものだ。

ただ、こちらを見下ろしてくる切れ長の目元が、

ほんの少しだけ赤く染まっている気がして、

はむず痒いような恥ずかしさに視線を泳がせた。

微妙な空気が二人の間に流れ出すのを阻止するように、


「はいはい、続きは中でやって下さいよ〜」


と梁元が官舎の入口に向かっての背中を押す。


「いや、私はこのまま練兵場へと向かおう。梁元はを連れて執務室の整理に行け。」


梁元の軽口をきっぱりと断って、張遼は淡々と命令を下すと、

まるで何事も無かったかのように、こちらに背を向けた。

大股で颯爽と去っていく上司の後ろ姿を目で追いながら、

ふと、張遼が清苑との関係を知っていた事に気付く。


(もしかして、酔い潰れた時に色々しゃべっちゃったのかしら・・・)


だとしたらどこまで恥ずかしい女なんだろう自分は。

が自己嫌悪に陥りながら、遠ざかっていく武人らしい真っ直ぐな背筋を凝視していると、


「・・・・惚れちまったかい?」


と隣で同じく張遼を見送っていた梁元が茶化すように聞いてきた。

にやにやと人の悪い笑みを浮かべた老人の言葉に、

は一瞬目を見開いた後、苦笑を浮かべてゆるゆると首を横に振った。

すると梁元はあからさまに落胆した表情を浮かべ、


「じゃあ、まだあの小僧に未練があるってのかい?」


とあるで見合い話を断られた母親のような口調で問い返してくる。

まぁ、目の前であれだけの失態を演じたのだ、

勘の良い梁元がと清苑のただならぬ仲に気がつかぬはずが無い。

彼の言葉に促されるように、元恋人の姿を脳裏へと思い浮かべたものの、

結局、は首を縦には振らなかった。


「正直、分かりません。でも、今更寄りを戻したいとは思ってませんよ。」


あれだけはっきり現実を見せられたのだから。

ただ・・・と胸の内を確認するように間を置いて、は泣きそうな笑みを浮かべた。


「当分誰かを好きになるのはやめておきます。」


自分はもう、失う恐怖を知ってしまった。

心底信頼していた相手から、裏切られる悲しみを知ってしまった。

残ったのは、悔しい悔しいと怨嗟を吐きながら、

未だ鮮明な別離の記憶に怯えるちっぽけな恋心の残骸だけだ。

暗い物思いに沈みこみそうになるを気遣うように、

梁元は殊更陽気な調子で、


「そうかい?もったいないねぇ。」


もうちょっとわしが若かったらほっとかんかったのに、と使い古された冗談を飛ばした。

ふふふ、と空元気で笑って、それは光栄ですね、と告げるに、

老兵は労わる様な苦笑を浮かべたが、それ以上は何も言わず、

話題を変えるようにぐぅっと伸びをしてみせる。


「さぁて、そろそろわしらも仕事に戻らんとね。

先に行かせた秦能が首を長くして待っとるだろ。」

「へぇ、秦能さんも手伝いに来られてるんですか?」


どうせわしらが来ないのを良い事に油売っとるぞ、あいつは、と顔を顰める梁元の隣に並んで、

は、まだ燻ったままの哀しみを奥歯で噛み殺すと、官舎へと入って行った。







久しぶりに来た張遼軍の幹部官舎は、相変わらず実用性のみを重視した簡素な内装で、

華やかな宮城に比べるとなんとも殺風景だった。

飾り気の無い格子窓が何にも無い石畳の廊下に点々と光の足跡を落としている。

梁元の後ろについて、突き当たりにある階段へと向かいながら、

はなんとなく視線を感じて後ろを振り返った。

当然だが、そこには今まで進んできた分の廊下が長々と伸びていて、

各執務室の扉が等間隔に澄まし顔で並んでいる。

慎ましい静寂が保たれている廊下を眺め、

気のせいだったのかな、と納得しかけただったが、

一番手前の扉に何気なく目をとめて、ぎょっとなった。

他の物と同じ白木の格子扉が指三本分ほど開いていて、

そこから無数の瞳がじっとこちらを見つめていたのだ。

ぞぞぞっと背筋に悪寒が走って、が思わず立ち止まると、

部屋の中からは慌てた様な囁き声がいくつも聞こえ、

すぐにガタンっと音を立てて格子扉が閉まった。

すると、まるで申し合わせたかのように、

同じ音が廊下中に鳴り響く。

今度こそ全く人気の無くなった廊下を見つめ、


(・・・・私は珍獣ですか・・・・)


が顔を引き攣らせていると、


「おうおう、暇な奴らだねぇ〜。」


少し先で同じように立ち止った梁元がそう言ってひょっひょっと笑った。

何なんですか、あれ?とげんなりした顔でが問えば、

彼等と顔見知りであろう老人は、お前さんの事が気になるんだろうよ、と肩をすくめてみせる。


「まぁ、あんな目立つ所で大将と熱烈な抱擁をかましたんだ、

注目の的になっても仕方ないやね。」

「ね、ねね熱烈な抱擁なんてしてません!!さ、さぁ!そんな事より早く仕事に行きましょう!」


ぷしゅーっと頭の天辺から湯気が噴き出そうな勢いで真っ赤になったは、

それは曲解だとばかりに梁元の台詞を否定すると、

今にも走りだしそうな早足で彼を追い越し、階段の方へと向かう。

食わせ者の老兵は、明らかに面白がっている様子での後ろ姿を見送りながら、


「そんなに慌てるとこけちまうよ〜。」


と間延びした忠告を口にして、のんびり歩きだした。











二階の一番奥の部屋は以前から張遼の執務室となっていたが、

来たのはこれが初めてだった。

書簡を届ける時も、

大抵は官舎の入口付近で止められて、

使い走りの兵卒連中に渡すのが普通だったから、

こんなに奥まで入り込むことなど無かったのだ。


(この先が張将軍の執務室・・・・)


目の前にどんとそびえ立つ、他の執務室と全く同じ年季の入った白木の格子扉を見上げ、

は我知らず固唾を飲んだ。

元上司の青瓢箪でさえ、下っ端文官でありながら、

それなりに広く豪華な執務室を使っていたのだ、

まして将軍職ともなれば相当高価な家具に囲まれた美しい部屋だろう。

だが、遅れてのんびりとやってきた梁元が、


「何を構えとるんか知らんが、早よう入った入った。」


そう言って、の心の準備など知らぬ存ぜぬと扉を開けてしまう。

さっさと中に入っていく老人にくっついて、

失礼致しまぁす、とおっかなびっくり扉をくぐったであったが、


「・・・・・・・・何これ。」


その場で固まって動かなくなった。

いや、正確には動けなくなったが正しいだろう。

何しろ入口の前のちょっとした隙間意外、荷物が床を埋め尽くしていて文字通り足の踏み場も無かったのだ。


「こりゃ一体どうなっとるんかね・・・」


窮屈そうに隣に立つ梁元も、部屋のいたるところに積み上げられた荷物の山を眺め回して、

呆気にとられているから、どうやら普段からこんな状態では無いらしい。

二人で顔を見合わせていると、


「やっとお出ましかよ!おせぇぞ、元爺!!」


と、角刈り頭に手拭いを巻いた汗だくの男が続きの間の方からのしのしと現れた。

ついでに彼の後ろから兵卒が三人ほど顔を覗かせる。


「秦能、お前本当に片付けが下手やのう・・・」

「はぁ?だから人選間違ってるっつっただろうが!」


そう言って心底呆れた様子で周囲を見渡す梁元に、

秦能は唇を尖らせて子供の様な言い訳をすると、

散乱した荷物に足をぶつけながら強引にこちらへやってきた。

いかにも高価な陶器が入ってそうな白木の箱が、

彼に蹴飛ばされてカシャンっと華奢な悲鳴を上げる。


(あぁぁ!!ちょ、今の絶対中身が割れちゃったよ!)


見ているのほうがはらはらと顔を青くしているというのに、

秦能の方は全く気にする様子も無く、

ニヤニヤと人の悪い笑みを浮かべて目の前に立った。


「ところで、!お前、やるじゃねぇか!全く、見せつけてくれるぜ!!」


ひゅ〜ひゅ〜、と10代の小僧のように囃し立てる男に、

はただげんなりと口元を引き攣らせた。


「澄ました顔しやがって、意外と大胆な女だな、オイ!

まぁ、将軍もああ見えて情が深い御方だから、いい勝負だろうけどよ?」



やってらんねぇーよなぁ、と秦能が続きの間から顔を覗かせていた兵卒達に同意を求めれば、

彼等もニヤニヤと笑って首を縦に振った。

一体どこから見ていたのやら、全く暇な連中である。

その後もベラベラと冷やかしの言葉を並べる性質の悪い同僚に、

の顔はどんどん歪んでいった。


(どいつもこいつも〜〜〜〜〜っ!!!)


ぎりぎりと歯噛みしながら真っ赤な顔で睨みつけていると、


「おらっ、秦能!どうせ喋るんなら、この惨状の言い訳ぐらいせんかッ!

全く何をどうすりゃここまで散らかせるんかね???」


まるで助け舟を出すように、梁元がそう言って男の向こう脛をぽんっと蹴飛ばした。


「痛ってぇ、蹴る事ねぇだろ!?ったく・・・つうか、俺はさ、

とりあえず重たいもんから先に運び出した方が後で楽だと思ったんだよ、そしたらこいつらが・・・」

「私が秦能様のご意見に承服しかねたのです!!まずは用途ごとに整理し、まとめてからではございませぬか?

運び出すのは一番最後でよろしいと思います!」



再び口を尖らせながら秦能が説明を始めると、

今度はその言葉尻を取って、続きの間の方から兵卒の一人がざざっと話に割り込んでくる。

彼等の言い分としては、どこに何があるかも把握しない内から運び出したのでは、

合肥に着いてから整理するのが大変になるし、途中で物が無くなっていても気付かない、という事だった。


「ってこいつ等が言うからさぁ。とりあえずこうやって全部床に並べてみたってわけよ。」


そう言って、不服そうにガリガリと頭を掻いている秦能に、


(これを並べたとは言わないって・・・)


が苦笑いを浮かべていると、

先ほどしゃしゃり出てきた兵卒がやれやれと頭を振って、



「恐れながらご提案申し上げます。

片付けは私共のみで行いますゆえ、秦能様には荷物を運び出す時まで待機という事で、

お願いできませぬか?」


そう言ってちらりと梁元に流し眼を寄こしてきた。

これではどんな鈍感な人間だって彼が言外に、お前は邪魔だ、と告げていると気付くだろう。


「あぁ?お前、そりゃ俺が荷物運び以外使えねぇっつってんのか!?」

「いえいえ、そのような事はございませんが、そうおっしゃられるのであれば、

ご自身に身に覚えがあるという事ではありませぬか?」



すぐさま柄の悪い与太者のように低く凄む秦能に、兵卒の方も負けじと慇懃無礼に応戦した。

兵卒の分際で生意気だの、上官なら的確に指示を出して見せろだの、

どんどん熱くなっていく二人に、

は助けを求めてこの場で一番の権力者を見る。

だが、梁元は早々に匙を投げたらしく、


「お、こりゃ結構な上物だ。」


とかなんとか言いながら、床に無造作に転がされた大きな硯を見分するばかりで、

目を合わせようともしなかった。

頼りの綱に見放され、はらはらと大人げない言い争いを見守るばかりのだったが、

はっと良い方法を思いつく。


「そ、そうだ!梁元さん、他の専属女官の方はどちらに?」


張遼の専属女官ならば、この惨事も上手く片付けてくれるだろう。

今すぐ呼んでこなければ、と意気込むに、

けれど梁元はきょとんとこちらを見返して、


「大将に他の専属女官なんかおりゃせんよ?なにしろあんたが初めてだからね?」


あっけらかんと今頃になってそんな重大な事実を告げてきた。


「ぇええ?私だけ???でも、じゃあ書類仕事とか、張将軍の身の回りのお世話とかは???」

「そりゃ、兵卒連中の中から字の書ける奴を二、三人引き抜けば事足りるさね。

手が足りない時はわしらが借り出されたりもするがなぁ。

周撰も言っとったろ?ここは、女っ気が全く無いってよ。」


そういえばあの副将もそれっぽい事を言っていたなと思い出して、はさーっと青くなる。

どうりであんなに注目の的になったわけだ。

あれは、あの張遼が女官を連れてきた、という好奇の視線でもあったのだ。

急な話に、一体私はどうすれば、と頭を抱えていると、


「とりあえず、あいつらを止めておくれ。」


と梁元がにんまり笑って、今やそれぞれ手近な物を武器に一触即発といった様子の二人を指さした。

秦能が今にも振り降ろそうと構えているのは、

見事な透かしの入った白磁の一輪ざしで、は小さく悲鳴を上げると慌てて彼等の間に割って入った。


「も、もうお二人ともお止め下さいませ!」

「止めるんじゃねぇ!こいつのひん曲がった根性叩き直してやんだからよッ!!」

「はッ、そもそも叩き直すなどという発想からして、横暴極まりない!!」


大の男、それも兵役に就いた者を女官なんぞにどうにか出来るわけがなく、

押しとどめるどころかぐいぐいと巨体の板挟みに合う。

とうとう彼女を間に挟んだまま掴み合いを始めた二人に、

は悲鳴のような金切り声を上げた。


「もぉぉぉ!!!お止め下さいって言ってるでしょうがぁぁああ!!!」


脳髄にキーンと響く甲高い声に、二人が耳を押さえて顔を顰めていると、

肩で荒く息をしたが、彼等の手から一輪ざしと竹簡を奪い取る。


「お二人とも!一体何しにここに来られたのです?

散らかし放題散らかした揚句乱闘ですか!!時間が無いのはお分かりでしょう!?

荷造りが終わらないので出発出来ません、などと張将軍に御報告されるおつもりですか?」

「そ、そりゃ、その、なんだ・・・。」

「申し訳ありません・・・。」


の剣幕があまりに凄かったせいか、

秦能も兵卒も素直にそう言うとしゅんっと項垂れた。

分かればよろしい、っとばかりに鼻息を吐くと、

はこの惨状を本格的にやっつけるべく覚悟を決めて、

矢継ぎ早に命令した。


「良いですか?まずは、使わない物、重たい物、壊れにくい物から片付けます!

そこの貴方!空いている木箱や葛籠を貰ってきて下さい!」

「は、ハイ!」


そう言って、続きの間から様子を伺っていた兵卒の一人をビシっと指さすと、

彼は反射的に敬礼してから、まろつころびつ部屋を出ていった。


「次!貴方はいらなくなった布をもらってきて、割れ易い物を包んで下さい!」

「あ、あの、布はどこから手に入れれば・・・」

「洗濯下婢の所に行けば使い物にならなくなったボロ切れがいくらでもあります!!」

「ハイぃ!!」



が放つ絶対零度の視線に怯えきった様子で、もう一人の兵卒も部屋を飛び出して行く。

それを見届けてから、今度は目の前の二人に向き直った。


「貴方はここで、まだこちらで使う物と合肥に行ってすぐ必要になる物とをまとめておいて下さい。

私はあちらの間で、もう使わない物を用途に合わせて分別します。

秦能さんは私が分別した物を箱や葛籠に詰めて下さい。

重たい物は小さめの箱に、軽い物は大きめの箱にお願いします。

あと梁元さんは出来た箱や葛籠に中身を書いた札を付けて下さい。」


それでは皆さんよろしくお願いします!とここまでを立て板に水のごとく命令すると、

は女官服の袖を勇ましくまくりあげる。

伊達に5年も女官をやってたわけじゃない、

整理整頓、掃除雑用、雪崩を起こした書簡棚から、阿鼻叫喚の宴会跡まで、

全部この腕一本で片付けてきたのだ。


(この様を嘗めてもらっちゃ困るわ!!)


気炎万丈、ずんずん荷物の山の中へ別け入っていく彼女の後姿を、

残された三人はしばらくの間ぽかーんと眺めていたが、


「さあ!急いで!皆で力を合わせれば、これくらいの荷造り一日で終わりますよ!」


と振り返ったに叱責されて、ようやく動き始める。

札を作るために白地の竹簡を解きながら、


「・・・こりゃ大将、尻にしかれちまうかもしれんなぁ・・・」


と梁元がこっそり呟いたのを、

はふんっと鼻を鳴らして聞かなかった事にした。









昼食もそこそこに黙々と作業を続けて丸一日、

ようやく全ての荷物を木箱に仕舞い終えた時には、

格子窓から射し込んで来る日差しが燃えるような橙色へと変化していた。


「そいじゃ、俺達はこいつを捨ててくるぜ!」


すっかり物が無くなってがらんとした執務室を満足そうに眺めながら、

秦能が最後まで残った使い道の無いガラクタ達を担ぎ上げる。

兵卒達もそれに倣って手に手に要らなくなった物を抱えると、

さぁ、もう一頑張り、と笑って部屋を出て行った。

それを見送りながら、が続きの間に堪った塵を使い古しの竹箒で掃き出していると、

木箱に付けた札を再点検していた梁元がひょいっと顔を覗かせた。


「お嬢さん、あんたにお客さんだよ〜。」


のんびりとそう告げる老人に、はて心当たりが無いけれど、と怪訝な顔をしてみせれば、

すぐに彼の隣から見知った女官が進み出てきた。


「急ぎの書簡をお持ちしましたので、至急将軍にお目通しをお願い致します。」


そう言ってにっこり笑ったのは、ずっとどうしているか気になっていた親友で、

はみるみる満面の笑みになると、と竹箒を放り出して彼女の元に駆け寄った。


「悠琳!会いたかった!!色々話したい事がいっぱいあったのよ!!」

「はいはい、落ち着いて。まだお仕事中なんでしょう?」


親友の手を、持ってる書簡ごと両手で握りしめて、

感極まったかのように捲し立てるを、

悠琳は苦笑いを浮かべながら、興奮した子供を宥めるような口調でいなした。

彼女の台詞に、すぐ隣で傍観していた梁元を上目使いで伺えば、


「はっはっは、良いよ、今日の仕事はこれでお終いだ。

後はわしらで適当に報告しとくから、行っておいで。」


つもる話があるんだろう?と悠琳の手から書簡を引き抜いて、

梁元はそれでぽんぽんっと自分の肩を叩きながら器用に片目だけ瞑ってみせた。


「ありがとうございます!梁元さん!」

「御配慮、感謝いたします!」


お許しが出た事が嬉しくて、はもちろん悠琳まで嬉しそうにぺこりと頭を下げる。

そのまま屋敷に帰っちまって良いよと言う梁元の言葉に甘えて、

はもう一度礼を言うと連れ立って執務室を出た。









幹部官舎から武器管理庁舎までの長い道のりを、のんびりと歩きながら、

はこれまでのあらましを悠琳に話して聞かせた。

昨夜は張遼の屋敷に泊まったこと、

今朝元恋人とその婚約者に会ったこと、

執務室の荷造りを任せられて酷い目にあったこと、

それらを面白おかしく大げさに語った。

もちろん、新しい上司が勝手に同衾していた事や、

朝っぱらの渡り廊下で抱き合った事なんかは、

将軍の輝かしい名誉を守るために伏せておいたが。

しかし、てっきりまたお説教の一つも頂くだろうと覚悟していたに、

悠琳はなんだか寂しそうな声音で、


「もう大丈夫みたいね?」


と柔らかく笑ってみせた。

いつも強気で自信に満ちた親友が今日はやけに大人しくて、

は、どうしたの?何かあったの?とついつい彼女を問い詰めてしまう。

すると悠琳は大きく息を吐いてから、


「転属願いを出したのよ。たぶん一月以内に樊城の方へ配属されると思う。」


と覚悟を決めているような強い口調で言った。

親友の口から飛び出した合肥に次ぐ激戦地の名前に、の顔がさっと険しくなる。


「なんで!?わざわざあんな危険な所に行かなくたって悠琳ならここで十分出世出来るじゃない?」

「・・・貴女を見ててね、私も挑戦したくなったのよ。」


が反対するであろう事は大体予想していたのだろう、

親友は思った通りというように苦笑してそう答えた。

挑戦、と悠琳は言うけれど、自分の場合はただ状況に流されているだけに過ぎないと、

は唇を噛む。


「そんな立派なものじゃないよ、気が付いたらとんでも無い事になってて、

途方に暮れてばかりだもの・・・」

「だとしたら、すごく勿体ないわ。

せっかく人生の変わり目が向こうからやってきてくれたのよ?

新しい何かを得られる絶好の機会じゃない!」


待っていたって駄目なのよ、とまるで自分に言い聞かせるように呟く悠琳の瞳は、

挑む者の目だった。

どちらかと言えば保守的で、堅物と称されることの多かった親友が、

まさかこれほど変化を求めていたとは。

もしかしたら彼女もここで働く日々に無力感を募らせていたのかもしれない。

けど何も樊城じゃなくたって・・・、となお言い募るに、


「私ね、今だから言うけど。貴女にこっそり憧れていたのよ?」


悠琳は茶化すような口振りでそう言った。

ぽろりと呟かれた言葉はにとってまさに寝耳に水で、

おもわずまじまじと親友の顔を凝視する。


「だって・・・悠琳が憧れるような所、私一つも無いよ?」


むしろの方こそ、この二つ年上の同僚に憧れていた。

美人で、仕事が出来て、頭の回転も早くて、皆から頼りにされる、

女官としてだけじゃなく、同じ女としても目標だった。


「私の方こそ、悠琳みたいになれたらって思ってた。」


素直な賛辞を惜しげもなく並べたてたに、


「まったく、本当に憎らしいわね。貴女の純真さは。」


そう言って悠琳は彼女の額をぽんっと小突く。

じんわりと痛む額を納得いかない顔でがさすっていると、


「私はね、貴女のその素直な所に憧れてたのよ。

普段は泣き虫で臆病なくせに、

大切な誰かの為なら自分が傷付く事なんてお構いなしで、

全身全霊頑張っちゃうんだもの。」



それは凄く勇気のいる事なのよ。



そう言って、遠く西の山裾に沈もうとしている真っ赤な太陽を、

悠琳は眩しそうに振り仰いだ。

その、ほんの少しだけ自分より高い位置にある横顔を見上げて、


「・・・馬鹿だ馬鹿だって連呼してたのに?」


が唇を尖らせれば、


「あら、馬鹿なのは本当でしょ?あんな男に散々貢いだあげく捨てられたんだもの。」


とさっきまでのしおらしさが嘘のように、刃物のような鋭い言葉でばっさり切り捨てる。

そこまで言うか?と半眼になるに、

悠琳はさも楽しそうな苦笑を浮かべ、


「でも私は貴女のそういう我武者羅な所が好きなんだから、

合肥に行っても大事にしなさいよ?何しろ唯一無二の長所なんだもの。」


そんな褒めているのか貶しているのか分からない台詞をくれた。


「何よ、悠琳のくせに!!」


と憎まれ口を叩きながら、

けれど親友からこれ以上ないほどの立向けの言葉を貰った気がして、

は勝手に湧いてこようとする涙を誤魔化すために彼女に抱きついた。


「馬鹿ね、何泣いてんのよ。貴女って人は・・・」


そう言って呆れ果てたように笑う悠琳も誰が聞いたって分かる鼻声で、

ただ黙って二人抱きしめあった。



お互いまだ鼻の頭が赤いまま、悠琳と武器管理市庁舎で別れると、

は胸にいっぱい詰まった様々な思いを噛みしめながら、

帰路についた。

もしかしたら、もう二度と彼女に会うことは出来無いかも知れない。

そう思うと締めつけられるような悲しみが膨れ上がるけれど。


「一度きりの人生だもの、悔いだけは残さない様にしないとね。」


そう言って晴れやかに笑った別れ際の親友を思い出すと、

悲しみを打ち消すように温かな勇気が湧いてくる。

変化に怯える必要なんかないんだ。

有りのままの自分を受け入れれば良いんだ。

悠琳がくれた優しい想いが、隙間風が通り抜けていた心の穴にぴったりと嵌った気がして、

思わず胸に手を当てる。


(ありがとう、悠琳・・・)


これまで何度となく彼女に言った感謝の言葉を、もう一度囁いて、

は今にも駆け出しそうな気持ちで足早に張遼の屋敷へと急いだ。










、ただいま戻りました〜!!」



屋敷の門をくぐり、歩廊を跳ねるように走り抜け、

勢いよく玄関に飛び込んだだったが、

そこに広がっていた景色に、抗いがたい既視感を覚えた。


「何これ・・・」


玄関の石畳から廊下の先まで山積みになった、物、物、物。

嫌ぁな予感を覚えつつ、

足元に転がった青銅製の胴鎧を跨いで、なんとか屋敷の中へ入ろうと試みていると、

はいはーい、と場違いなほど穏やかな返事が廊下の奥から聞こえてくる。


「ああ、お帰りなさい、さん。」


そう言って、ひょいっと顔を覗かせたのは、手拭いを姉様かむりにした郭単で、

こちらと目が合うとほんわりと柔和な笑みを浮かべた。


「いえ、あの、ただいま戻りました。・・では無くて!これは一体どうしたんです!?」


床に散らばっているガラクタを踏まない様に気をつけながら、

彼の傍まで寄って行って一応理由を尋ねてみる。

すると我らが料理長は、


「いやぁ、そろそろ荷造りをしないといけないと思いましてね。

皆で始めたのですが・・・思ってた以上に物が出てきてしまいまして、

収拾がつかなくなったのですよ。」


情けなく眉を八の字にして、予想通りの回答をした。


(ここの人達ってもしかしてみんな片付けが苦手なのかしら・・・???)


ひょろりと背の高い郭単の後ろについて、屋敷の奥へと進みながら、

所狭しと並べられた日用品の数々には舌を巻く。

この屋敷のどこにこれだけの物を収納していたのだろう。

今朝ここを出立した時は、小奇麗で整然とした普通の屋敷だったのに。

今頃になって肩に腰に圧し掛かってくる今日一日の疲れを、

がげんなりと噛みしめていると、

食事の間の方で、何やら言い争いが聞こえてきた。


「だーかーらー!最初に言ったじゃないッスか!

大きな荷物は外に出してから作業した方が良いって!」

「にゃにをいうかこにょわかじょうがッ!!

ひとへやじゅつかたづけていけば、しょんなひつようにゃどにゃかったにょじゃ!!」


開きっぱなしの入口からおそるおそる中を覗けば、

裸の上半身に汗をびっしょりかいた韋徹と、

歯ぐきだけになった口から唾を飛ばす李榔が、

巨大な朱塗りの円卓を挟んで罵り合っていた。

どうやら、片付けの方針で揉めているようだが、

昼間執務室で見た光景がここでも繰り広げられているのか、とはがっくり肩を落とす。


「あのぉ、梁元さんは・・・」


最後の希望に縋って、隣で困りましたねぇとのんびり構えている郭単に、

彼等家人の筆頭人物の所在を尋ねたが、


「それがまだ帰ってきてないんですよ。どうしましょう・・・」


と、絶望的な答えが返ってきた。


「・・・とりあえず、あの二人を止めましょうよ。」


いっそ泣きたい気分で、が無理矢理微笑みを浮かべて提案すると、

郭単は、そうですね、と嬉しそうに返事して、

なぜか廊下の先へと姿を消してしまう。

が訝しげに彼が去って行った方を眺めていると、

間を置かずにぬうっと佃益の巨体が現れた。

無口な男は、ちらりと視線をに寄こすと、

そのまま食事の間へのしのし入っていってしまう。

そうして、未だに言い争いをしている韋徹の首を問答無用でがしっと抱え込んだ。


「うわ!!ちょ、息がッ!締まってる!締まってるっスよ!佃益さッ!!」


途端に悲鳴を上げて抵抗する若造を苦も無く引き摺って、

の前へと連れてきた。

その後ろを鼻息荒く李榔爺さんがついてくる。

そうして、どういうわけか家人全員が指示を待つように、

食事の間の入口に立つを見下ろしてきた。


(あーあ、結局私なのね・・・・)


せめて梁元さんが帰って来るのを待ちたい所だが、

この部屋がこれでは食事もままならないではないか。

昼食も抜いたようなものなのだ、

せめて夕飯は食いっぱぐれたくない。


「あーもう!分かりましたよ!!とりあえずここから始めましょう!

郭単さんは空いている箱や葛籠を持ってきてもらえますか。

韋徹さんは今は着ていない服や使って無い布を集めて下さい。

いいですか、荷造りの基本は、使わない物、重たい物、壊れにくい物から片付ける事です・・・。」


昼間と同じ話を早口で説明しながら、


(悠琳、挑戦するって大変だね・・・)


と、は、今は女官寮で夕食をとっているだろう尊敬する親友に向かって、

心の中で弱音を零すのだった。














「ぁあ゛ぁ・・・づ〜が〜れ〜だ〜・・・」



まるで泥沼の中を進んでいるかのように重たい手足を引き摺って、

はのろのろと寝台の上によじ登った。

丸一日肉体労働に勤しんだのだ、体中が熱を持っていて、

もう指一本動かせないほど疲れている。

時刻は既に明け方に近く、今から眠ったところで夢を見る暇も無さそうだが、

それでも完全に徹夜するよりはましだった。


(どうやったらあんなに散らかしてしまえるんだろ・・・)


今にも転がり落ちそうな意識を現世につなぎとめて、

は埒も無い不満を絹の天蓋に向かって愚痴る。

あれから結局、帰って来た梁元、秦能も巻き込んで、

家人全員で屋敷の片付けをするはめになった。

何しろ、ぐちゃぐちゃに放り出された大量の日用品を、

整理しながら荷造りしなければならないのだ。

楽しみにしていた夕飯も、調理場が食器の山に占領されていては、

作ってもらえるわけがない。

皆、空きっ腹を鳴らして、日付が変わるまで頑張ったのだが、

結局全てを片付けることは叶わず、翌朝へと持ちこされた。

救いといえば、屋敷の主である張遼が、

今夜は帰って来なかった事くらいか。


(まさか、将軍に荷造りを手伝わせるわけにはいかないものね〜・・・)


手拭いを姉様かむりにした張遼がせっせとはたきを振る姿を思い浮かべ、

自分の想像に、ふふふ、と笑ってしまう。

そうしてる間にも頭の中の掃除将軍は勝手にはたきで無双乱舞を始め、

それが至極当り前のように感じられる頃には、は夢の世界へと旅立っていた。










どすんっと重い物が落ちる音がして、

は胴を締め上げられるような圧迫感に、

束の間の眠りから叩き起こされた。


「・・・・・ぅ・・・苦し・・・・」


息苦しさに呻いて、寝ぼけながら眉を顰めれば

すっと体を押さえていた重みが消えて、

変わりに両頬を温かな何かが包み込む。

呼吸が楽になったことで、

眠り足りない脳味噌は覚醒するのを拒否し、

水に沈むように再び睡魔に身を委ねようとした。


「大分、疲れているようだな・・・」


すぐ耳元で優しい声がして、

ああこの声は知っているぞ、と頭の中の起きている部分が訴える。

そこでようやく、はかっと目を見開いた。

焦点が合わないほど間近に、予想通りの人物の顔があって、

思わず彼の胸を両手で押すと勢いよく後ろに仰け反る。



「それ以上は落ちるぞ。」


慌てふためくを尻目に、張遼は余裕綽々といった様子で、

後ろに下がり過ぎて寝台の端から落ちそうになった彼女の体を、腕一本で引き戻した。

おかげでより一層ぴったりと寄り添う体勢になってしまい、

は張遼の顔を直視出来ず、真っ赤になって顔を俯かせる。

なぜここに彼がいるのか!?

一体いつ帰って来たのか!?

なんで隣に寝転ぶ必要が!?

たくさんの疑問符が覚醒したばかりの脳味噌に乱れ飛ぶ。


(お、おおお落ち着け。まずは深呼吸して・・・)


ふーふーと何度も呼吸を整えて、なんとか跳ね上がった鼓動を元に戻そうと努力しているに、

彼女の上司は何を考えたのか、無言のままその無骨な指で彼女の目元を優しく撫で始める。

ざらついた指の腹の感触が、敏感な肌から伝わってきた途端、

は呼吸をすることさえ忘れた。


「隈が浮いているな・・・」


の混乱などお構いなしの上司はぽつりとそう零すと、

再び両手でやんわりと両頬を包み込んでくる。


「今日は一日休んでおくか?」


そっと労わるように囁かれた言葉に、

は慌てて首を横に振ると、


「・・・め、滅相もない!将軍にそのようなお心遣いを頂くなど、恐れ多いことにございます!」


そう言って、訴えるように張遼の目を直視した。

間近にある切れ長の鋭い双眸は、はっとするほど優しい色をしていて、

再びの思考を停止させるには十分な威力であった。

彼女の答えに気を悪くするでも無くただ淡々と、そうか、とだけ言って、

張遼はゆっくりと身を起こす。


「あまり、無理はするな。」


そう言いながら、の寝乱れて顔にかかった前髪をそっと払いのけた。

その指の動き一つとっても、まるで壊れ物を扱う様な繊細さで、

これではまるで愛されているようではないかと、恥ずかしくなる。


(まさか!思い上がりも甚だしいわ・・・)


一瞬浮かんだ自意識過剰な想像を首を振って追い払うと、

も慌てて身体を起こした。

既に部屋を出て行こうとしている張遼を目で追って、

そこで初めて、は彼が戦装束のままである事に気が付く。


(将軍、もしかして眠ってらっしゃらないんじゃ・・・)


そういえば、昨夜帰って来た梁元が、

大将は合肥における戦略の打ち合わせに追われていて、

とても屋敷に帰って来る暇は無いと言ってなかったか。

そんな中わざわざ、屋敷の様子を見に来てくれたのだ。

今頃になってそれに気付く自分の鈍感さに歯噛みしながら、


「将軍!!」


と既に客間の扉に手をかけた張遼を思わず呼び止めた。

立ち止り振り返った彼はいつもと変わらず凛とした佇まいであったが、

はその静かな面差しに憔悴の色が無いかついつい探ってしまう。


「・・・どうした?」

「いえ、あの・・・どうか将軍もご自愛下さいませ。」


引き止めたは良いが、いざ真意を問われるといささか出過ぎた真似のような気がして、

は不遜であると叱られるのを覚悟で、素直な気持ちを口にした。

けれど、曹魏の猛将はその武威に似合わぬ面映ゆそうな笑みを浮かべ、


「私の心配など無用だ。だが・・・気遣われるというのは、なかなか良いものだな。」


と嬉しそうに告げてくる。

いつもあまり感情を顔に出さない張遼が初めて見せてくれた笑顔は、

彼を、高名な将軍でも、猛々しい武人でもない、一人の男として、

に強く意識させた。

じんわりと胸に得体の知れない熱が広がって。

の心に謎の爆弾を落としておきながら、

当の本人はさっさと部屋を出て行ってしまった。


(・・・あの笑顔は卑怯です・・・)


あれを見せられて期待しない女などこの世にいるのだろうか?

トクトクと妙に浮かれている鼓動を叱責しながら、

はどんどん赤くなる顔を両手で押さえて、

へなへなとその場に座り込んだ。


























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