かくんっと頭が落ちかけて、
夢うつつをさ迷っていたの体がびくりと硬直した。
寝ぼけ眼でおどおどと周囲を見回せば、
そこは狭苦しい納戸の中で、
目の前には、使い古された筆が何十本と散乱していてた。
おぼろげな記憶によれば、
自分はそれを使える物と使えない物に選り分けていたんじゃなかっただろうか?
(いつの間に眠っちゃったんだろ・・・)
口の端から今にも零れ落ちそうになっていた涎を慌てて手の甲で拭って、
ついでに、やたら重たい瞼をぐりぐりと撫で擦る。
居眠りしていたのがバレやしなかったかと、
おそるおそる背後を伺ってみたが、
あちこちに山積みにされた木箱の間から、
黙々と作業を続ける家人達の、丸い背中が見え隠れするばかりだった。
(う〜・・・疲れた、眠い・・・)
まだ脳みその奥にこびり付いている眠気を、ぶんぶんと首を振って追い払うと、
は再び筆の選別を始めた。
あの、起き抜けの衝撃的な遭遇からなんとか立ち直ったが、
気もそぞろに身支度を済ませ、
なかなか冷めない頬を隠しつつ食事の間へとやってくると、
元凶となった傍迷惑な上司は既に登城した後だった。
「お前さんは、こっちで片付けの手伝いをしろってさ。」
彼を探してきょろきょろと食事の間を見回しているに、
梁元が教えてくれる。
(そっか、今日はついて行かなくて良いんだ・・・・)
あの荒くれ馬に乗せられて吐き気を堪えながら登城しなくて済むのは、
大変ありがたい事のはずなのだが、
なんとなく、当てが外れたような、肩透かしを食らった様な、
そんな気持ちになった。
まるでそれを見透かしたようにニヤリと笑って、
「残念だろうけど、今日は屋敷の片付けで我慢してくんな?」
と、老獪な家人筆頭が余計な軽口を叩く。
「べ、別に残念とかいう問題ではなく!!将軍の専属女官としてですね、御供しなくても良いのかなぁと・・・」
咄嗟にそう言い訳したものの、内心の動揺は隠しきれなかったようで、
逆にその場にいた者達全員が人の悪い笑みを浮かべる結果になった。
「せいしゅんらねぇ〜」
と李榔がうっとり呟くのに、違いますっ!と噛みつきながらも、
は後から後から噴き出る嫌な汗に赤い顔で歯ぎしりした。
「あんまり、若い娘さんをからかっちゃいけませんよ。それより朝食にしましょう。」
相変わらずニヤついている家人達を、そう言って窘めたのは大きな鍋を抱えて食事の間へと入ってきた郭単で、
途端に皆そちらへと期待の眼差しを向けた。
何しろ昨夜は夕飯抜き、ましてや梁元、秦能に至っては昨日の昼から何も食べて無いのだ。
巨大な鉄鍋を追う目つきは、文字通り飢えた獣であった。
「ひゃっほーい、飯だ飯だ!!」
「最高だぜ!郭単!」
「これで、今日一日頑張れるわい。」
広い食事の間に、口ぐちに歓喜の叫びが上がる。
けれど、今にも郭単に飛びかからんばかりだった彼等は、
鍋の中身を見た途端、まるで仮面のような無表情になり、黙り込んだ。
一人状況が分かっていないだけが、彼等の変化に面喰らう。
「え?あれ?皆さん、どうしたんですか?」
「どうもこうも、ありゃ非常用の干し飯だろ?」
秦能がさも嫌そうにそう言うと、郭単がはははと困り顔で笑って、
「はい。干し飯を水で戻しました。」
と正直に打ち明けた。
「すみません。食料、これしか無いんですよ。」
彼が申し訳無さそうにそう言うと、はぁ〜、とどこからともなく溜息が零れおちて、
先ほどまでの興奮が嘘のように場の空気が沈んだ。
「と、とりあえず、食べましょうよ。はぁ〜、お腹すいちゃった〜。」
どんより落胆している彼等を励ますように、
は殊更明るく振舞いながら、
鍋の底で白くふやけた干し飯を、それぞれの椀についで回った。
「それじゃ、頂きまーす!」
そうして全員に行きわたったのを確認すると、率先して食べだしたのだが。
「・・・・・・・・・・・不味い。」
どうやらこの白い粥のような物体は、単純に水で干し飯をふやかしただけの物らしく、
冷たい上に、まったく何の味もしなかった。
みるみる無表情になったが、箸を置いてふーっと深い溜息をつくと、
「・・・・すいません。釜戸の火、落としちゃってるもので。」
と円卓の向かい側から、郭単が身を小さくして申し訳無さそうに謝罪してくる。
「い、いえ。大丈夫ですよ!お腹すいてますから!!ね、皆さん!?」
慌てて取り繕うようにそう言って周囲を見渡せば、
家人達もしぶしぶ碗に口をつけ始めた。
その様子を見て、安心したように笑いかけてくる郭単に、
こちらも引き攣った笑顔で答えて、は再び自分の碗へと向き直った。
(・・・せめて塩くらいあればなぁ〜・・・)
と思わず泣き事が零れるが、三食連続で食いっぱぐれるよりはマシだ。
冷たい粥を勢い良く掻き込んで、口いっぱいに咀嚼する。
食事の間はしばし静寂に満たされ、
時折、ふやけきれなかった干し飯を噛み砕くゴリッゴリッという音だけが、
無情に響くのだった。
「いや〜、干し飯があんなに不味い物だったなんてね〜・・・」
筆の選り分けを終えて、
今度は何十個もある硯を一つ一つ丁寧に布で包みながら、
は沈黙の朝食を思い返し、しみじみ呟いた。
ちゃんと調理さえすれば、それなりに美味しいのだろうが、
今朝のあれは10人いれば10人全員が不味いと答える代物だった。
「正直、昼もあれだったら泣いちゃうわ・・・」
と、高確率で的中しそうな予想に思わず泣き言を零す。
人間、集中力が切れると途端に独り言が増えるもんだ。
食事という数少ない楽しみを奪われた今、元々あまり残っていなかった元気はどん底に近い。
それでも、あれだけ散らかっていた筆と硯を全て木箱の中に納めてしまうと、
一仕事終えた達成感が沸いてきて、は安堵の吐息を漏らした。
ついでに、ふぁぁ〜っと大きな欠伸を一つ。
「おい、喉ちんこ見えてんぞ。」
すっかり気を抜いていた所にそう声をかけられて、慌てて口を押さえれば、
いつの間にか正面に呆れ顔の秦能が立っていた。
「お前さあ、一応女なんだからそんな大口開けんなよ。色気がねぇな。」
「い、一応ってなんですか一応って!私は列記とした女ですよ!」
失礼な、とが憤慨すれば、
柄の悪い家人は打って変わってニヤニヤといやらしい笑みを浮かべる。
「さっさと大将に頂かれちまえよ。そうすりゃもっと女っぽくなるぜ。」
予想通り、その口から飛び出したのは下品極まりない台詞で、
は腹立たしさと恥ずかしさに思わず絶句した。
(絶対ここの人達は何か勘違いしてる!!)
私は将軍の愛妾か何かか!?
出来上がったばかりの木箱を抱え、
邪魔です!どいて下さい!!と、怒りに任せて秦能を押しのける。
そのままどすどすと足取り荒く納戸を出て行けば、
ちょうど入り口から入ってこようとしていた韋徹がひぇっと悲鳴を上げて飛びのいた。
「・・・もう!みんなして、人を玩具にするんだから!!」
玄関口にまとめて置いてある整理済みの荷物の隣に、どすんっと木箱を置いて、
は冷めやらぬ怒りにぷりぷりと愚痴を零した。
必死になって反論すればするほど、喜色満面で面白がるのだから、
本当にタチが悪い。
ふぬーっと鼻から荒い息と一緒にイライラを追い出して、
そこでふと、は真顔になった。
(・・・・・私、どうしてこんなにむきになってるんだろう?)
別にわざわざが否定しなくたって、
魏国が誇る将軍が、しがない女官なんぞを相手にするはず無いじゃないか。
容姿、身分、能力、どれを取ってもなんかお呼びじゃない。
それが周知の事実であるからこそ、彼らも冗談にするわけで。
(そんな事、私が一番良く分かってるわよ。)
そう自嘲しながら、どういうわけか胸の奥がズキリと痛んだ。
本当は。
叶わないと知りつつも、あの男に好かれたいと願っているのではないか?
有り得ないと自分から口にするのは、
いざ現実を突きつけられた時に傷つかないで済むよう、
予防線を張ってるだけなんじゃないのか?
「っ・・・やめやめ!!これ以上は考えない!」
片付けの最中だっていうのに、こんな辛気臭い油売ってる場合じゃないだろう。
そう、無理やり思考の渦を掻き消して、が次の作業へと移ろうとした時だ。
急に後ろから大きな手が伸びてきて、の頭をガッシと鷲掴みした。
力の加減はされていたから痛くは無かったが、
なにしろ突然だったため、驚いて肩が跳ね上がる。
背後に圧倒的な存在感を感じつつ、
ゆっくりそちらに首を向けて、
「な、なんですか?佃益さん?」
と冷や汗混じりに尋ねれば、
大柄な家人はその蜆のような奥目をギロリとこちらに向け、
「・・・・将軍に届けろ。」
と腹に響く重低音の声でそう言った。
「え?えと・・・何を?」
強面の威圧感に気圧されしながら、
冷や汗まじりの愛想笑いを浮かべて、恐る恐る質問を返す。
けれど、佃益はわしわしとの頭を撫でるばかりで、
それ以上は何も言ってこなかった。
その手を振り払うのもなんだか気が引けて、されるがままになっていると、
巨体の後ろから皿の柱を抱えた郭単がひょっこり顔を覗かせる。
彼は一目で状況を把握したらしく、いかにも人の良さそうな苦笑を浮かべ、
「ちょっと、佃益さん。ちゃんと説明してあげないとさんが困ってますよ。」
と助け舟を出してくれた。
すると大柄な家人は厳つい見た目とは裏腹に、そうか、と素直に頷いて、
肩に担いでいた木箱の中から巻き物を一つ取り出す。
ひょいっとこちらに放り投げられたそれを、
はあたふたと両腕で受け止めた。
一体これは?と目の前の巨漢を見上げれば、
「・・・・紛れ込んでいた。」
ぽつりとそう言い残し、佃益はそのままのっそり去って行ってしまう。
結局ちゃんと説明されていない気はするが、
要は、この巻き物を今すぐ将軍に届けろという事だろう。
とはいえ、掃除の途中で一人だけ抜けるのは気が引けて、
が困惑気味に郭単の方を伺えば、
「こちらはもう粗方片付きましたから、お願いします。」
とにっこり笑って、書簡を届けるよう勧めてきた。
(いやいや、これはどう見てもあと半日はかかるでしょう・・・)
と、が渋い顔をして散らかり放題の廊下を見回していると、
どんな地獄耳をしているのか、
秦能と韋徹が奥の納戸からひょこっと顔を覗かせて、
「今行けば帰りに食堂で美味いもんにありつけるんじゃねーか?」
「ここに居たって食べられるのは朝と同じ干し飯くらいっすよ。」
と、口々に魅力的な提案をしてくる。
(確かに・・・あれはもう嫌だなぁ)
途端に今朝食べた非常食の味が口の中へと蘇り、
思わずうへぇっと顔を顰めた。
だがこの期に及んでも、やっぱり一人だけ良い思いをするのは、とが躊躇していると、
「しょくどうのにょこりものでももってきておくれ〜」
と窓の外から李榔爺さんの陽気な声が飛んできて、駄目押しする。
「そ、それじゃお言葉に甘えて・・・・行って参りまぁす!!」
結局食べ物の誘惑に負けたは、そう言ってぺこりと皆に一礼すると、
喜び勇んで駆け出した。
背中ではじける様な笑い声が上がったが、もうこの際気にしない。
うきうきと満面の笑みを浮かべたまま玄関を飛び出した所で、
ちょうど馬屋から戻って来た梁元と鉢合わせした。
「あ、梁元さん!私これから将軍に巻き物を届けて参ります!」
「あいよ〜、大将なら多分今日は練兵場の方に居ると思うがね〜。」
足を止めないまま報告だけを叫ぶと、
老兵はそう言って後ろ手に手を振った。
(うふふ、ご飯ご飯〜)
これを渡せば美味しい食事にありつける。
そう思えば、宮城までの道のりなんて苦にもならなかった。
色気より食い気とはまさにこの事か。
先ほどまで悩ましげに思い浮かべていた張遼の面影もどこへやら、
今やの頭の中は今日の食堂の献立で一杯だ。
口の中に溢れる生唾をじゅるりと飲み込んで、
は真昼の往来を駆けて行った。
ところが、世の中というのは思い通りにいかないもので、
梁元に言われた通り、練兵場へと直行したを待っていたのは、
一心不乱に剣を振る、半裸の猛者達であった。
もうもうと上がる砂煙を掻き分けて、
彼らの中に群青の戦装束を探すものの、いっこうに見つからない。
仕方無く、一番前で陣太鼓を片手に指揮をとっている上官らしき人物に声をかけると、
居丈高な男は、
「あぁ?将軍は今軍議の最中であらせられる!貴様ごときが会えるわけがなかろう?」
と素っ気無い返事でを追っ払った。
そう言われても書簡を届けなければ昼食にありつけないわけで。
(軍議の間ってどこだろ?きっと宮城の奥なんだろなぁ・・・)
しかめつらしい名前から、いかにも警護の厳しい場所だろうと想像出来る。
いくら用件があるとはいえ、一介の女官風情がおいそれと近付ける場所じゃ無いはずだ。
(うぅ・・いざとなったら衛兵に預けちゃおう!)
それでお役御免だ!と半ば責任を放棄して、はしぶしぶ官舎の奥へと向かった。
まるで迷路のような宮城のあちらこちらで道を尋ね、
見ただけで目が潰れそうなほど高位の文官武官を土下座で交わしつつ、
ようやく軍議の間のすぐ近くまで辿りつく。
けれど、あと廊下一本の所での前に立ちはだかった衛兵が、
残酷な一言を彼女に告げるのだった。
「既に軍議は終了しておる。将軍ももうこちらにはおられないだろう。」
と。
そんな馬鹿なとその場に立ち尽くすに、
助け舟を出してくれる者は無く、
結局、お偉いさんとの遭遇に怯えながら元来た道を戻るのだった。
その後。
自らの勘を頼りに、張遼が居そうな部署を探し回って、
とうとう、練兵場の外れの兵士宿舎までやって来ただったが。
「なぁぁんで、あんな派手な格好してて、目撃者が一人も居ないのよぉぉぉ!!」
空腹と睡眠不足に、疲労まで重なって、とうとうイライラが頂点に達し、
もぉぉぉぉっ!!!と誰も居ない廊下の真ん中で雄叫びを上げた。
整然と並んだ同じ形の扉がガタガタっと不安げな音を立てて風に震える。
しかし、昼飯時の兵士宿舎はどうやら全員出払っているようで、
静まり返ったままの廊下を、は再びとぼとぼと歩き出した。
あちこち走り回ったおかげで、自分の物だと思えないくらい足が重たい。
腹の虫はひもじいよーひもじいよーと、哀しそうに鳴き続けている。
「まさかこんなに時間がかかるなんて・・・」
このままだと、食堂での昼食は絶望的だった。
(どうしよう、李榔さんにお土産頼まれてるのに・・・)
今も屋敷で空きっ腹を抱えて重労働に勤しんでいるであろう家人達を思うと、心が痛い。
せめて彼らの分だけでも、調達せねば。
ようやく辿りついた2階への階段を睨み付け、
は気合を入れなおした。
(頑張れ私!!きっとこの上に将軍がいらっしゃるはず!!)
そう、自分自身を奮い立たせて、一段飛びに階段を駆け上がる。
足腰が悲鳴を上げ、初めの勢いはあっという間に無くなったものの、
最後は心意気だけでなんとか天辺まで登りきった。
そのままふらふらと壁に寄りかかり、
全力疾走はさすがに無理だったか、とキリキリ痛む脇腹を押さえる。
仕方なく、ここで少し休んでいこうと決めて、
荒くなった息を鎮めながら何気なく周囲を見回したの目に、
意外な人物の姿が飛びこんできた。
(げげぇ・・・・・)
酸欠でくらくらする頭でも、
廊下の窓から憂い顔で外を眺めている、ほっそりと儚げな女性が、
元恋人の現婚約者である事は即座に分かった。
(ええっと、たしか白蓉さんだったっけ・・・)
まったく。
探してる人は見つからず会いたくない人には鉢合わせなんて、
運が無いにもほどがあるだろう。
とりあえず、触らぬ神にたたりなし。
がさっさと逃げを打って、階段へと踵を返した途端、
「あら?貴女は確か・・・・。」
と女性らしい柔らかな、しかも明らかに嬉しそうな声が飛んできた。
(あぁもう・・・泣きそう・・・)
弱り目に祟り目、悪いことは重なるものとは、一体だれが言ったのか。
今すぐ脱兎のごとく逃げ出したい誘惑に駆られながら、
はゆっくりと振り返り、なんとか作り笑いを浮かべた。
「張将軍付きの女官で、にございます。白蓉様。」
そう言って深々と頭を下げれば、
「まぁ!わたくしの名前を覚えていて下さったのね!?」
と少女はその愛らしい小さな顔をくしゃくしゃにして笑った。
その無邪気な笑顔を見ていると、
の中にあった居心地の悪さも消えて無くなってしまう。
(なんだ、思ってたよりは平気かも・・・・)
てっきり最初に会った時のような劣等感に苛まれるかと思ったのだが、
身を焦がすような嫉妬も羨望もついぞ沸いてはこなかった。
案外冷静に彼女と対峙している自分に戸惑いつつ、
「このような所でいかがされました?
ご加減が悪いのでしたら私が御典医の元までお供いたしますが・・・」
と当たり障りの無い言葉を選んで歩み寄ると、
「い、いいえ!お気遣いには及びません!少し外を眺めておりまして・・・」
そう、蚊の無く様な声で答えて、そのまま恥ずかしそうに俯いてしまう。
これじゃまるで私が虐めているみたいだ、と苦笑しつつ、
は、一体何をそんなに熱心に眺めていたのかと、同じように窓の外を覗いた。
そこから見える光景に、なるほど赤くなるわけだ、と合点がいく。
窓の下には弓の鍛練場が隣接していて、
居並ぶ弓兵達の中に、ちょうど矢を射切ろうとしている元恋人の姿があった。
「ご婚約者様を見ておられたのですか?」
不自然にならないよう、なるべく軽い口調でそう尋ねれば、
初心な少女は耳まで赤く染め上げて、こくんと小さく頷いた。
(・・・まったく。アイツにはもったいないほど可愛い子じゃないの!)
これじゃ、どこからどう見ても自分は悪役だ。
別にわざわざ清苑との過去を報告する必要は無いのだが、
無垢な少女を騙しているような罪悪感に駆られて、思わず毒づく。
「・・・・白蓉様は本当にあの方がお好きなのですね。」
つい、思ったことをそのまま言葉に出したに、
恋敵と呼ぶには眩し過ぎる少女は、内緒にして下さいましね、と念を押してから、
おずおず答えてくれた。
「わたくし、最初はあの方大嫌いでしたの。強引で、不遜で。
でも、どんな時でも前向きな清苑様を見ていると、
なんだか私まで、元気になって・・・」
臆病で、何をするにも迷ってばかりいる自分を、
どこか遠くまで引っ張っていってくれそうな、そんな気がするのだ、と白蓉は嬉しそうに言い切った。
(まるでこないだまでの私みたい・・・)
数日前までの自分はきっとこんな顔をしていたのだろう。
とほうもない夢を追い続ける恋人に自分を重ね合わせて、同じ物を追っているつもりになっていた。
未熟で愚直で、でも一途に恋する娘がもう一人、目の前に立っている。
(でももう、私は・・・・)
過去を顧みる時、泣きたくなるような寂しさを感じるのは、
きっと戻れない事を知っているからだろう。
ずっと憧れだった親友は、新天地へと旅立っていく。
陽気で優しい家人達は、今もあの雑然とした屋敷での帰りを待っているだろう。
そして何より、あれほど強く気高い武人が、女官として傍に侍る事を望んでくれたのだ。
(今更、戻れるわけ無いじゃない。)
たとえこの婚姻が白紙になったとしても、
あの男の夢を支えるためだけに生きるなんて、今のには出来なかった。
「どうか・・・・幸せになって下さいませ。」
ほろりと口からそんな言葉が零れて、ああもう仕方ないか、と諦める。
まだ、幸福だった過去への執着が、胸の奥で哀しいと訴えているけれど、
変わってしまったのは他でもない自分自身なのだ。
(こんちくしょー!これからは仕事に生きるぞー!!)
自棄くそ気味にそう決心したの顔は、だが憑き物が落ちたように晴れやかだった。
その心中を目の前の少女が知るはずも無いのだが、
どういうわけか彼女までキラキラと瞳を輝かせる。
「まあ!様はこの婚姻を祝福して下さるのですか!?わたくし、凄く嬉しいです!
家の者達や父上にまで反対されて、ずっと気落ちしておりましたの!」
是非、これからも良き相談相手となって下さいませ、
とそう言って、こちらの手を強く握り締める少女を見つめ、
果たしていつまで元恋人との関係を隠し通せるだろうか、と冷や汗をかきながら、
は胸にじんわりと広がる暖かい気持ちを噛み締めていた。
ところが、一通り感激した後、白蓉は可愛らしい笑顔のまま、
「・・・それはそうと、様は将軍といつご婚姻なさいますの?」
と、想像の斜め上をいく質問をずばっと尋ねてきた。
若い娘に頼られるのも良いもんだわー、
とまるで寂しい中年男のような思いに浸っていたは、
思わず目が点になる。
「あ、あの・・・白蓉様?それは一体何の話でございますか?」
まさに形勢逆転。
今度はこちらが耳まで真っ赤になりながら慌てて聞き返せば、
少女は何かおかしな事でも言ったかしらと、
さも不思議そうに小首を傾げた。
「あら、違いますの?わたくし、てっきりそうだとばかり。」
「はぁ・・・なにゆえそのような・・・」
勘違いにもほどがあると呆れ顔のに、
けれど白蓉は確信しきった様子で、
「だって、あんなにお優しいお顔をされる将軍を、わたくし見た事がありませんもの。
よほど貴女の事を大切に想っておられるのだろうと、父も申しておりました。」
と、聞くに堪えない恥ずかしい言葉を並べ立てた。
予想外の台詞に、空腹も疲労も睡魔も全て吹っ飛んで、
冷や汗とも脂汗とも分からぬ謎の液体を前身から噴出しながら、
は反論を探してオロオロと視線をさ迷わせる。
本当に。
本当に、彼女の言う通りだったら。
(どうしよう・・・すごく、嬉しい・・・・)
ふにゃふにゃと顔の筋肉が勝手に緩んでしまうのを、
慌てて両手で覆い隠した。
素直に嬉しいと認めてしまえ!と背中を押す自分と、
現実をちゃんと見据えろ!と叱り付ける自分とが、
頭の中で、がっぷり組みあって押し問答を繰り返している。
もう、否定するだけ無駄なんだろうか?
自分は、張遼を好きになっちゃったんだろうか?
(だって、まだ失恋して5日なのに。私はそんな惚れっぽい女じゃ無いわ!!)
一人葛藤するを放っておいて、
爆弾発言をした本人は、あぁ清苑様、とかなんとか言いながらうっとりと窓の外に目を向けた。
「あら?噂をすれば将軍ですわ。」
ぽろっと零れた白蓉の言葉に、慌ててが窓へとへばり付くと、
鍛錬場の隅に、探し続けた蒼の戦装束が確かに見え隠れしていて。
「申し訳ございませんが、わたくし、張将軍に至急お届けせねばならない書簡がございまして!
これにて、失礼致します!!」
そう叫ぶが早いか、は脱兎のごとくその場から駆け出した。
白蓉の返事は良く聞こえなかったが、そんな事もう構ってられない。
一刻も早く彼女の視線から逃れたくて、
急いで階段を駆け下りた。
(勢いで来ちゃったけど、どうしよう?今、将軍に合わせる顔なんか無いよ。
絶対挙動不審になっちゃうって!でも、書簡届けないと食堂に行けないし・・・)
ぐるぐると意見が定まらないまま、
それでも足は勢いに任せて下へ下へと降りていく。
けれど、踊り場を通り過ぎ、折り返しにさしかかった所で、
急にくらっと視界が回り出した。
全ての音がはるか彼方に遠ざかり、体温が急激に下がっていく。
あれ?っと思った時には、既に床を踏む足の感覚が無く、
ちょっと遅れて、鈍い痛みが全身を襲った。
思わず何か叫んだかもしれない。
けれど、次に目を開いたとき、そこに映ったのは上へ上へと伸びる階段で、
それもどんどんぼやけていって、最後は何も見えなくなった。
耳の奥に絹を裂いたような悲鳴が小さく小さく聞こえる。
(この声、誰だっけ・・・・?)
ぼんやりと考えたのを最後に、の意識はぷっつりと途絶えた。
「・・・・典型的な過労だね。」
長椅子に横たわるの手を掴み、のほほんとそう言ったのは、
もっさりと髭を蓄えた背の低い御典医だった。
老齢の医者はおざなりに脈を測った後、
滋養のある物を食べてちゃんと眠るんだよ、と言い残し、
あっさり次の患者の元へ去っていってしまう。
けれど、まだ覚醒したばかりのは、
彼の言葉をちゃんと理解するのに随分時間がかかった。
「まあ、様!!お目覚めになったのですね!
もう、わたくし、驚いて生きた心地がいたしませんでした!!」
御典医と入れ替わるように、感極まった様子で走り寄ってきたのは、
白水仙のように可憐な美少女で、
大きな瞳を潤ませながら、こちらの顔をしきりに覗き込んでくる。
はて?確かこの娘、私から恋人を奪った憎たらしい泥棒猫では無かったか?
まだ霞がかっている頭でそんな事を考えながら、
ズキズキと痛みを訴える額に手を伸ばせば、
洗い晒した包帯の、ガサガサと硬い感触が伝わってきて。
「あれ?・・・・私どうして?」
と、そこでようやくは少女の顔をしっかりと見定めた。
よくよく周囲を見回せば、ここは兵卒用の救護所ではないか。
隣の長椅子で呻き声をあげている男の足が、有り得ない方向へと曲がっているのを見て、
思わず顔を顰める。
「本当に、これだけの傷で済んで良うございました!
階段から落ちたんですのよ?覚えておられます?」
労わる様に伸びてきた白魚の手にそっと自分の手を重ねて、
そういえば、と意識を失う前の記憶を手繰り寄せた。
(確か、窓の下に将軍が居て・・・私、慌てて階段を下りたんだけど・・・)
その後がさっぱり思い出せないが、
救護所に居るということは誰かが運んでくれたという事で・・・。
今度こそ事態の重大さに気付いたは、
慌てて握っていた柔らかな手を開放すると、
大変申し訳ございません!と ひれ伏すように頭を下げた。
「私のために、わざわざ白蓉様のお手を煩わせてしまうなんて・・・」
「そんな!畏まらないで下さいませ。怪我をした方を助けるのは当然の事ですわ。
それに、貴女様をこちらへ運んで下さったのは張将軍ですの。
わたくし、オロオロと取り乱してばかりで・・・。」
と、そう言って照れ臭そうに白蓉は笑ったが、
はみるみる顔を青くすると、念を押すように詰め寄った。
「しょ、将軍が私をここへ?」
「ええ、わたくしの叫び声をお聞きつけになったようで、
兵舎の中まで様子を見に来て下さったんです。
けれど、倒れている様のお姿をみるやいなや、凄い勢いで抱き上げて、
あっという間にここへと運んでしまわれましたの。」
わたくしなど置いてけぼりでしたわ、と鷹揚に微笑む白蓉とは対照的に、
はこの世の終わりだとばかりに頭を抱えた。
(はぁ・・・またやっちゃった・・・)
これでは恩返しするどころか、借りが溜まっていく一方だ。
自分の粗忽さにがっかりしながら、
とりあえず、目の前の恩人に礼を言う。
「この度は、数々の御無礼どうかお許しくださいませ。
白蓉様には感謝の言葉ありません。
卑賤な身ではありますが、御恩は必ずお返し致します。」
自己嫌悪で重たい頭を深々と下げると、
白蓉はきょとんと一瞬目を丸くした後、花が綻ぶ様にふんわり微笑んだ。
「様、もう良しましょう。むしろ、わたくし今度の事で凄く勉強になりましたの!
次にどなたかが怪我をされた時は、もっと上手く動ける気が致しますわ。」
そう言って自信満々に握りこぶしを作る少女が愛らしくて、
もついつい情けない笑みを零した。
つい昨日までは憎い恋敵でしかなかった相手と、
今はこんなに穏やかな気持ちで談笑しているのだから、
人生は分からないものだ。
「お優しいお心遣いに感謝いたします。」
「もう!そのような気兼ねは無用だと申しておりますでしょう?
わたくしは、もう貴女様を友人だと思っておりますのに。」
重ね重ね頭を下げるに、白蓉の方はとうとう拗ねて唇を尖らせた。
その仕草はなんだか幼い子供のようで、
ついつい身分も弁えず、よしよしと頭を撫でてしまう。
けれど少女は無礼だと怒り出すどころか、嬉しそうに目を細めるのだった。
互いになんだか照れ臭くなってクスクス笑い合っていると、
先ほどを診察した典医が戻ってきて、
「おや、まだこんなところに居たのかね。
もう用が無いなら、さっさと長椅子を空けておくれ。」
と、呆れ顔で二人を追い払う。
慌てて腰を上げたであったが、
途端に右の足首が引き攣るような痛みを訴えた。
見れば、どうやら捻挫してしまったようで、
丁寧に湿布が巻かれている。
一人で歩けないほどでは無さそうだが、
念のため白蓉の手も借りてゆっくり立ち上がると、
改めて典医に礼を言い、その場を後にした。
慌しく医術師見習い達が行き交う廊下を抜け、
開けっ放しの扉をくぐると、外は既に橙色を帯び始めていた。
「ところで、将軍は今どちらに?」
転ばないようおそるおそる足を進めながら、
は結局顔を見ないままの上司について、
隣を歩く白蓉に尋ねた。
わざわざこちらの歩調に合わせてくれているらしい少女は、
小さく小首をかしげながら、
「さぁ、それが私も存じ上げないのでございます。
様のお手当てが済んで、大事無い事をお聞きになったら、
すぐに戻られてしまわれたので・・・。」
と申し訳無さそうに眉尻を下げた。
(結局振り出しに戻ったわけだ・・・)
この足でまた宮城を探し回るのは辛いなぁ、とが肩を下げていると、
急に白蓉が顔を輝かせ、ぽんっと一つ手を打った。
「ああ!そういえば、目が覚めたら厩の方で待つようにと言付かっていたのでした!
多分将軍はそちらにおられるのではないでしょうか。」
にこにこと同意を求めてくる無邪気な少女に、
はしかしげんなりした顔で、そうですか、と返事を返した。
(厩ねぇ・・・・)
あの見るからに冷淡そうな上司が、実はとても甲斐甲斐しい男であると、
この三日で充分思い知らされている。
が足を痛めたと知って、わざわざ将軍自ら馬で屋敷に送り届けてくれるつもりなのだろう。
せめて今日はあの荒馬をもう少しゆっくり走らせてくれると良いのだが。
(無理だろうなぁ〜・・・・)
と早々に結論を出して、が嬉しいとも哀しいともつかない溜息を零していると、
ふいに白蓉が立ち止まった。
「それでは、わたくしここで失礼いたします。
これ以上歩き回っていたら、父が心配して探しにきてしまいますので。」
そう言って彼女が優雅に腰を折ったので、
もあわてて同じように礼を返す。
良く見れば、話し込んでいるうちに練兵場の入り口まで来ていたようで、
急に開けた視界の端で、沈み始めた太陽が輝いていた。
橙色の西日を受けて、次は合肥でお会い致しましょうと、笑う白蓉の顔は、
まるで遊ぶ約束をとりつけている子供のようだ。
彼女の華奢な背中が兵士宿舎へと続く廊下の中に消えたのを確認してから、
も温かい気持ちで、厩の方へと足を向けた。
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