※ caution ※

・「拾ってください。」「拾いました。」「fly me to the moon」既読推奨。
・張遼の史実年齢とか考えたら負けだと思ってる。
・オリキャラ氾濫注意。
・捏造は通常運転。正史寄りの無双7設定ぽい合肥。

以上をご了承の上、楽しんで読んで頂ければ幸いです。



























独楽鼠のように走り回って、溺れるように眠る。
中綿がすっかり萎んだ継ぎ接ぎだらけの掛け布団をすっぽり頭から被れば、
嘲笑も叱責も、夢の中までは追いかけて来ない。
死んだ蜘蛛みたいに手足を縮めて、
昼間は凍結している心を、温かな闇におそるおそる開放すれば、
途端に鼻の奥が熱で蝕まれた。
閉じた瞼にぎゅっと力を込めて、今にも溢れ出しそうな感情のうねりを、
目の奥に押し留める。
どうせもう少しすれば、抗いようのない眠りへと深く深く落ちていく身だ。
誘いに負けて沈むまでの僅かな狭間、に残された唯一の安息。
ゆるゆる揺蕩う意識に思い浮かべるのは、
同僚の女官達が聞えよがしに囁く中傷でも、
朝に夕に浴びせられる文官連中からの諫言でも無く、
何度部署長に直訴されても、無能な自分を傍に置き続けてくれている、
たった一人の味方だった。
稀に。
本当にごく稀にしか見られなくなった、はにかむような微笑みを、
睡魔に犯され始めた脳裏へと、出来るだけ鮮明に、正確に、再現する。
もし、あの優しい笑顔が失望に歪む日が来たら。
もし、あの凛と清しい彼の双眸に諦めが宿ったら。
一度は落ち着いた感情が、きつく閉じられた瞼の隙間からじわりと滲み出て、
睫毛の先に水滴を作った。
胃の腑にズキリと痛みが走る。
だが、それ以上に胸の奥が軋んで悲鳴を上げていた。

(大丈夫、私はもっと頑張れる。)


貴方が必要としてくれるなら。

貴方の期待に答えられるなら。

貴方の、そばに、いられる・・な・・ら・・。

やがて、こんもりと膨らんだ小山からは規則正しい寝息が聞こえ出し、
布団が隙間無く敷き詰められた女官寮の大部屋は、底無しの夜に飲み込まれた。










『 Pole star 』









合肥の外周にぐるりとそびえ立つ城壁を見上げ、はごくりと思わず生唾を飲んだ。
都の城壁は規模こそ大きかったが、もっと洗練されて美しかったし、
補給の為に道すがら立ち寄った街のものなんて、
これに比べれば子供が作った砂の城のような愛らしさだ。
荒々しく尖った丸太があちこちで針山のように突き出し、
高く厚く、迫り来るような傾斜が付けられた灰色の壁は、
西の空へ落ち始めた太陽に焼かれ、その無骨な岩肌を朱く焦がしている。
ただ在るだけで圧倒される巨大な楼門の上では、
常に弓へと手をかけた城兵が、竹薮に身を伏せる虎さながらの目をして、
長々と続く隊列を鋭く睥睨していた。

(これが・・・合肥。)

どんな剛の者でも一月で神経衰弱になると、元恋人に言わしめた、
対孫呉戦線の要害。中原の盾。
もちろん清苑が多分に話を盛っていたのは承知しているが、
ぴりぴりと辺りを満たす緊張感に、まだ城門にも入らぬ内から項が総毛立つ。
やはり自分のような凡庸な女官が来るべき所では無かったんじゃないかと、

の歩みは格段に遅くなった。

「なんだおめぇ?もう前線の空気に飲まれちまってんのか?」

さっきまで、合肥の宮城はどんな感じだろうだの、これでお風呂に入れるだの、
口ばかり働かせていた彼女が急に黙り込んだため、
前を歩いていた秦能がニヤニヤと振り返る。

「し、仕方ないじゃないですか!私、都と郷里しか知らないんですから。
戦なんて・・・。」

「おー、そりゃ今までの平凡な人生に感謝しなきゃな。
そんで、その幸運がいつまでも続くように祈っとけ。」

精一杯の反論をさらりと恐ろしい台詞で流されて、がいよいよ青ざめれば、
荷車の向こう側からひょろりと背の高い男が励ますように口を挟んだ。

「そんなに怯えなくても大丈夫ですよ。
この距離ならば、領民を寿春へ一時批難させる事も可能でしょうし。
それに、合肥はそう簡単に陥落したりしませんよ。なにしろ、将軍が守っておられますから。」
「郭単さんの言う通りっす。張将軍がおわす限り、孫呉の連中に好き勝手させないっすよ!」

呼応するように、荷車を挟んだ対角線上を歩く韋徹がぶんぶんと護衛用の槍を振り回す。
荷車の殿を陣取る佃益も無言で重々しく頷いた。

「はいはい。お前さんらが大将に惚れ込んでるこたぁ、よぉっく知ってるから。
今はしっかり前を向いておくんな。そろそろ門を潜るよぉ。」

意気盛んな彼等にそう言って、
御者台に座った梁元も所々抜けた乱杭歯を見せて豪快に笑った。
左右に大きく開け放たれた巨大な観音扉を、後続に押し出されるようにして粛々と潜る。
微かに湿った黴臭い風が薄暗い楼門の中を逆巻いて、
不気味な啜り泣きを上げるのを、
は魑魅魍魎の棲家に踏み込んでしまったような心地で聞いた。
ひたすら黙りこくって秦能の背中に追い縋る。
外敵を容易く囲郭内に侵入させぬためだろう、いくつも連なった楼門と中庭を通り過ぎて、
ようやく出口が見えてきた。
槍を脇に携え、微動だにせず直立している門兵の横を、おっかなびっくり頭を下げつつ通り過ぎながら、
は急に開けた明るい視界に、目を細く眇めた。
一瞬遅れて、板葺長屋が所狭しと犇めき合う合肥の街並みが、眼前いっぱいに広がる。
振り返り、元来た城門を確認すれば、その姿は既に砦と呼んで差し支えない風格で、
これほど守りの厚い城壁を見た事が無いと、は再び生唾を飲み込んだ。
いつまでも後ろばかり見ていると、
視界の端に映っていた佃益から、前を見ろ、と注意を受ける。
慌てて進行方向に向き直れば、てっきり宮城まで一直線だと思っていた道がすぐ先で直角に折れており、
も前の秦能にならって、曲がりやすいよう荷車の側面を押した。
隊列から遅れてしまわないか気を遣いながら、ようやく曲がりきって一息ついたのも束の間、
道の先に再び曲がり角を見つけてげんなりする。

「あの、ここっていわば目抜き通りですよね?その割には人通りが少ない気がするんですけど。
なんだか道幅も狭いですし、曲がりくねってますし。本当にこの道で大丈夫なんでしょうか?」

今度は郭単達が反対側から荷車の尻を押すのを手助けしながら、がそわそわと不安を洩らせば、
すぐ隣で剥き出しの肩から腕にかけて筋肉を隆起させて頑張っている秦能が、
苛立たしげに怒鳴り返した。

「あぁ!?肝の小せぇ女だなぁ、おめぇは。下らねぇこと言って手ぇ抜いてんじゃねぇよ!」

けんもほろろな返答にむすっと口をへの字に曲げて、
力いっぱい荷車を押しながら、だって心配なんですもん、とがぶつぶつ不貞腐れる。
そんな二人のやりとりを聞いていたのか、
再び荷馬車が進み始めると、梁元がわざわざ御者台から振り返り、
お嬢さんはなかなか目敏いねぇ、と目を弓なりにして感心した。

「まぁ、道が狭いだの蛇行してるだのってなぁ、敵に攻め込まれ難くするためだろうが、
人通りが少ないってのは、今時分ほとんどの連中が労役に就いてるからさ。
わしもちょいと小耳に挟んだくらいのもんなんだが、ここはえらく規律の厳しい街らしくてなぁ。
仕事もしないで街中をうろついてるような輩は、不審者っちゅうことで即刻衛兵にしょっ引かれるらしい。
おっそろしい話さ。」
「はぁ、なるほど。そういう事だったんですね。教えて下さって有難うございます、梁元さん!」

博識な年長者に目を煌めかせ、丁寧にお礼を言ったは、
そのまま視線を目の前の蟹股で歩く男へとずらす。

「んだその生意気な目は。」
「いいえ、別に何も・・・」
「あのなぁ!お、俺だってもちろん知ってたぜ?当然だろが。
けどな、今優先すべきは何かってのを的確に判断出来てこそ優秀な兵士ってもんで・・・。」
「さぁさ、皆の衆。もうひと頑張りしようかい。宮城まで後ちょっとだよ。」
「はぁい!ほら、立ち止まってないで秦能さんも進んでくださいよ。」
「ちょ、元爺!?今俺すげぇ大事な話して・・っておい!も!聞けよ、人の話をよぉ!!」

情けなく響き渡る秦能の野太い遠吠えに、荷車の周囲で朗らかな笑いが弾ける。
ガラガラと車輪を鳴らしながら、板葺屋根の合間に聳える合肥城を目指し、
一行は意気揚々行軍を続けるのであった。





宮城の裏手門から練兵場へと入ると、土剥き出しの広大な敷地には既に無数の荷車や輿付き馬車が列を成して停まっており、
衛兵が一つ一つ点呼を取っていた。
達も指示された通り、整然と並んだ隊列の一番端へと向かう。
殿軍の残りが全て到着するまでの間、家人達がそれぞれ執務室へ運び入れる荷を解いていると、
遠くの方から見慣れた青い巾の兵卒が数名、真っ直ぐこちらへと駆け寄って来た。

「張将軍の命により、皆様を案内するよう仰せつかりました!
宮城内へと運び入れる品だけをこちらに置いて、荷車はお屋敷の方へお連れ致します!」

そう、鯱場って叫んだ先頭の兵卒はもしかしたらより若いかも知れない。

「あいよ、新兵さん。まぁ、楽にしておくんな。そんなに緊張してちゃ運ぶ前から疲れっちまわ。」

その老齢に似つかわしくない身軽な動作で御者台から飛び降りた梁元が、
ずっと荷車を引き続けてくれた栗毛の馬を労わる様に撫でながら、兵士達に向かってにんまり笑い掛ける。

「い、いえ!勇名の誉れ高き梁副将にお目見え出来るなんて、光栄の極みです!」
「おいおい、よしとくれ。そんなもんは昔話さ。今はほれこの通り、しがない老い耄れ爺よ。」

顔を紅潮させ興奮気味に捲くし立てる若造に、老兵はさも嫌そうな顔でひらひらと手を振った。

(只者じゃ無いとは思ってたけど、どれだけ凄い人なんだろう?)

梁元の言葉に、寛ぐどころかますます畏まった兵卒達が、
あれが歴戦の貫禄ってやつだな、器が違うぜ、などと丸聞こえに囁き合うのを前にして、
好々爺は珍しく苦りきった顔でガリガリ白髪頭を掻いた。

「梁元さんて、一体何者なんです?」
「うーん。そうですねぇ、一言で言えば張将軍配下の最古将ですよ。
何しろ将軍がまだ董卓にお仕えしておられた時からの古馴染みですからね。」
「俺、前に酔った元爺がぽろっと口滑らしたの聞いたっす!
昔、河北で侠客やってた頃、仲間内の揉め事で貧乏くじ引かされて、
袋叩きに遭ってた自分を将軍が助けてくれたって。」

荷台の上の郭単から比較的軽い木箱を受け取りながら、
がひそひそと疑問を投げかければ、
同じく荷台の上にいた韋徹までが会話に加わってくる。

「若き張将軍の修羅の如き暴れっぷりと、見ず知らずの奴を命懸けで助ける男気に惚れて、
一生この人について行こうって決めたんだそうっす。」
「へぇぇ・・・それは凄い義侠心ですね。」
「ばっか、おめぇ元爺の凄さはそんな所じゃねぇよ!
いいか?うちの軍で生き残るっつったら、そらもう至難の業なんだぞ?
騎馬軍ってなぁ敵の戦線へ真っ先に切り込んでこじ開けんのが役目だからな。
それを、十年以上将軍に付き従うなんて、正気の沙汰じゃねぇよ!
ただ腕っ節が強ぇだけじゃねぇ、どんな戦況だろうが取り乱さねぇ糞度胸と、
矢が向こうから避けちまうような強運も持ってる、俺ら雑兵にとっちゃ生きた伝説さ。」
「・・・退役した今も、慕う兵は多い。」

先ほどまで荷車の反対側に居た筈の秦能と佃益まで割り込んできて、
梁元敬慕の筆頭であろう面々は、若者の熱意にたじたじの元副将を微笑ましく見守った。

「・・・っぁあ?お前ぇら、何油売ってんだ!さっさと仕事に戻らねぇかっ!!」

どうやら達がニヤニヤそちらを見ながら談笑しているのに気付いたらしく、
気恥ずかしさも手伝って、梁元がいつもより少々強面で叱り付けてくる。
痩身から発せられたとは到底思えない大音声に、昔の猛々しい武将姿を垣間見ながら、
達は蜘蛛の子を散らすようにして持ち場に戻った。
ほどなく荷物を全て仕分けし終え、
張遼配下一同は屋敷組と執務室組とに別れると、それぞれの作業場所へ移動を開始する。

「出来るんならわしもそっちに残りたいんだが、
どうも、わしとお嬢さんは別々に組まないと、片付けが終わりそうにないからねぇ。」

と、案内役の兵卒と共に御者台へ戻った梁元が、心底残念そうにぼやくのを、
は苦笑いで頷き返した。
荷造りの時の惨劇を再び繰り返さないためにも、人選は慎重に行うべきだ。

「おめぇら、さっさとそっち終わらせて合流しろよ!じゃねぇと、今夜も干した芋食う事になんぞ!!」
「な!?大丈夫ですからね!ちゃんと美味しい夕飯作りますからね!!」

荷台の上で荷物を押さえながら、秦能が死活問題だとばかりに真剣な顔で怒鳴るのを、
縁から落ちそうな勢いで身を乗り出した郭単が必死に訂正する。
楽しみにしていてくださいねぇー!という叫びを棚引かせ去っていく馬車に、
も笑顔で大きく手を振り返した。

「・・・さぁって!俺達も行くとするっす!張将軍が待ってるっすよ!」

若さ溢れる兵卒達に負けじと自分も両腕一杯荷物を抱えた韋徹が、元気に気勢を上げる。
彼の台詞に促されるようにして、の脳裏に今日一日遠くから眺めた胡麻粒ほどの後ろ姿が過ぎった。
まるで守護神のごとく行軍の先頭を務めた勇壮な騎乗の将は、
一足先に合肥へと入城し、その後は全く行方知れずだ。
これから向かう彼の執務室にもしかしたら居るかも知れないが、
昨夜の失態もとい逢瀬を思い出すと、会いたいような、会いたくないような・・・。

「はっ、はははっ!将軍はお忙しい身であらせられますし、
まだ何も無い執務室になんかいらっしゃいませんよ!きっと!」

そう言って動揺を誤魔化しつつ、がへらりと笑い返せば、
声を掛けた韋徹はもちろん、少し離れた所で背負子に大きな長櫃を二つも括りつけていた佃益さえ、
それは無い、と胸中で断言した。






囲郭の物々しさに比べると、本城は思っていたよりずっと簡素な作りで、
飾り気もささらもない廊下を、は両手に荷物の柱を抱えてよろよろ歩いていた。
三つ縦に積んだ行李は見た目の大きさほど重くは無いのだが、
何しろ視界を遮られているものだから、歩き難いことこの上ない。
最初こそさほどつかず離れず歩いていた家人達も、今や遥か廊下の彼方で、
後発の兵卒達にさえ次々抜かれていく始末だ。
手伝いましょうかと気遣わしげに申し出てくれた、自身も荷物を山と抱えている兵士に、
精一杯の笑顔でお礼とお断りを入れつつ、は、よいしょ、と行李を抱え直した。

(このままだと私、確実に迷子だ・・・。)

せめて、今の彼を見失わぬよう急がねばと、不自由な蟹歩きをやめて真っ直ぐ前を向く。
時折顔を傾けて、チラチラ行李の向こうを確かめつつ進んでいると、
案の定、真正面から来た何者かに勢い良くぶつかってしまった。
辛うじて荷物は落とさずに済んだものの、鼻の頭をしたたかぶつけて、ぉぶっ!と思わず悲鳴が漏れる。

「も、申し訳ありません!お怪我はございませ・・・。」

じんわり痛む鼻を啜りつつ、慌てて謝罪しただったが、
言葉の途中でひょいっと行李を奪われ、視界が大きく広がるのと同時にひゅっと息を呑んだ。
廊下を満たす蜂蜜色の斜陽の中、片腕で器用に行李の柱を抱えた偉丈夫が、
その猛禽類を思わせる双眸に、柔らかい苦笑を浮かべて立っている。
目も口もぽかーんと開けっぱなしでただただ見上げるばかりのに、

「遅いぞ、。お前が来ぬと、あ奴らだけでは仕事にならぬ。」

そう淡々と告げて、鉄面皮の上司はすぐにくるりと踵を返してしまった。
彼の長い足が一歩二歩三歩と動く様を見つめ、漸く弾かれるようにの思考が動き出す。

「え、あ、ち、ちょ、張将軍!!?」

盛大に吃った挙句、彼の敬称を素っ頓狂に叫べば、
随分離れた先から振り返った張遼が、なんだ?と無感動に返事を返した。
何を考えてるのかさっぱり読み取れぬ無機質な視線とかち合った途端、
の体温が唸りを上げて急上昇する。

「うわぁ!!い、いえ、あの!どうか!後生でございますから、荷物をお返し下さいませ!!
将軍にそのような物をお持ち頂くなんて、そんな、恐れ多い!」

ぶわっと汗を吹き出してしどろもどろに哀願しながら、
が開いてしまった距離を小走りに追い縋れば、
彼は熟慮するようにほんの少し目線を落とした後、行李を差し出すような素振りを見せた。
これでなんとか体裁を取り繕うことが出来ると、心底安堵したが、
荷を受け取るために喜び勇んで両手を掲げる。
けれど、間抜けな笑顔と共に差し出した無防備な腕の間に、
行李ではなくもっと大きくて硬いものがずいっと割り込んだ。
あれ?と思った時にはもう遅く、は張遼の懐へとあっけなく捕獲されてしまう。
堂々たる体躯に包まれて、背中に回った丸太のような片腕がぎゅうっと強く掻き抱いた。
押し付けられた戦装束の胸板から何度か嗅いだことのある香りが立ち上り、
それが張遼自身の匂いであると気付いた途端、全身がぞわわと総毛立つ。
窓の外に見える夕焼けよりもなお赤くなったの、旋毛辺りに一つ口付けを落とし、
微塵も表情を変えぬ男は、一番上の行李だけを彼女に手渡した。
これで要求には答えたとばかりに再び歩き出す張遼の後ろを、
きょろきょろと忙しなく周囲を気にしながら、涙目のが無言でついていく。
訴えたいことは山ほどあったが、口を開くと全部情けない悲鳴に化けてしまいそうで、
ぎゅっと唇を引き結んだ。

(もぉぉ!1つだけ返して貰っても、意味が無いんですよぉ!
うぅ・・どうして将軍はいっつもこんな!廊下で、は、破廉恥な!!)

と、あらん限りの恨み言を視線に乗せて、大きな背中にぶつける。
あとはただ、かっかと燃え続ける頬が、執務室に着く前に落ち着くよう祈るのみであった。
果たして。
天は彼女の懇願を聞き届けてはくれたものの、
仲良く荷物を分け合って執務室へと入ってきた二人の姿に、
兵卒達は気まずそうに顔を見合わせ、佃益はすぐに視線を逸らし、
韋徹はニヤニヤと人の悪い笑みを噛み殺した。

(うぅぅ、なんという恥!)

極力彼等の方は見ないようにして、とりあえず執務室の中をぐるりと確認すれば、
文机や書架が備えられた奥の書室に、張遼に向かって礼をとる二人の女官が見えた。
これはもしや念願の女官仲間では、とが瞳を輝かせていると、

「それで、我等はまず何をすれば良いのだ?」

と、一番尋ねる必要のない人物が真っ先に聞いてくる。
ぎょっとなって振り返れば、何を考えているのか将軍殿が鷹を模した帽子を脱ごうとしているではないか。

「お、お待ち下さいませ!張将軍はこの合肥におかれまして重責を担われる尊い御身にございます。
どうか、このような雑務は全て私共にお任せ下さいませ!」

そう必死に言い繕って、とにかく彼を押し留めたい一心で跪き拱手する。
そのまま、うんと頷いてもらうまで動くものかと頭を深く下げ続けていると、
長い長い沈黙の後、

「・・・・・分かった。お前の采配に任せよう。」

そう、そこはかとなく不服そうな声音であるものの、了承を得る事に成功した。
脱力したが、心底ほっとして顔を上げれば、
彼女の上司は、元々部屋の隅に備え付けられていた胡床へとどっかり座ってしまう。
そうして、機嫌を窺い知れぬ無表情で、手近にあった鍛錬用の双鉞を黙々と手入れし始めた。
全く無関係の第三者が見たならば、すっかり邪魔者扱いされ端へと追い遣られた哀れな将軍様だろうが、
かといって部屋の片付けなんていう下々の仕事を手伝わせるなど問題外だ。

(張将軍はいわば総大将よ!最後に仕上がりを検分して頂く重要な御役目があるもの!)

決してぞんざいに扱っているわけでは無いと、居心地の悪さに言い訳しつつ、
はことさら大きく息を吸って気合を入れなおした。

「さ!頑張って、日が落ちてしまわぬ内に終わらせてしまいましょう!
とりあえず、そちらが執務に使う品で、こちらは日用品や調度品になります。
どれを書室に運ぶかは、皆様の方がお詳しいでしょうから、判断はお任せします。
佃益さんと韋徹さんは将軍の私物を仮眠室へ仕舞って頂けますか。」

そう簡単に説明して、お願い致しますと頭を下げれば、
家人は元より兵卒達も快く頷いてくれたのだが、
書室に居る女官達からははっきりとした応答が返ってこなかった。

(もしかして、聞こえなかったのかな?)

と、もう一度説明するべくいそいそ彼女達の所へ歩み寄る。
これから肩を並べて仕事する相手なのだ、出来れば仲良くなりたい。
何より専属女官などとは名ばかりの新米にとって、頼れる先輩が出来る事は素直に嬉しかった。

「あの、今日からお世話になります。凜花と申します。
私は将軍の傍仕えになってからまだ日も浅く、いささか未熟な身でありますので、
お二方とも、どうかご鞭撻のほどよろしくお願い致します。」

好印象を目指して精一杯の笑顔と共にぺこりと頭を下げれば、
都に比べ動き易そうな女官服に身を包んだ彼女達は、一瞬間を置いた後、互いに無言で目配せした。

さん、でしたかしら?とりあえず、ご挨拶は後に致しましょう。
まずは早々に片付けを済まさなくては、将軍に失礼かと。」

向かって右手の、少々細身過ぎるせいか頬骨がやけに目立つ女官が、
慇懃さを感じさせる丁寧な物言いで、そう提案した。
彼女に賛同するように、こちらはより背の低い丸顔の女官が、うんうんと頷く。
どちらも、質素な服装に不釣合いな明らかに高値の簪を、高く結い上げた髪に挿し、
化粧もばっちり頬紅まで刷いていて、なんとなくとは毛色が違うようだ。

「そ、そうですね!思慮が足らずすみません。」

慌てて笑顔で詫びを入れれば、
彼女達は名前を名乗る事も無く、二人連れ立って荷物の方へと行ってしまう。
去り際にチラリと向けられた流し目が、まるでこちらを値踏みしているようで、
呆然と立ち尽くしたまま、は一抹の不安を抱いた。

(ひょっとして・・・私、あんまり歓迎されてない?)

ぼんやり浮かんだ予想に、ヒヤリと腹の底が冷たくなる。
いやいや、もしかしたらあんまり汚いから近寄られたくなかっただけかも知れない。

(まだ、旅装も解いてないしね。)

くんくんと肩口を嗅いで体臭を確認しながら、
はちらりと胸に沸いた小さな不安の影を、
あえて見当はずれな予想で前向きに追い払い、仕事へと戻った。





あれほど荷造りに梃子摺ったのが嘘の様に、
宣言通り日が暮れる前に引越しを終える事が出来た。
空っぽだった執務室はその機能を十二分に発揮出来るだけの備えで溢れ、
都では日陰の身であった調度品も邪魔にならない程度で品良く飾られている。
秦能と一兵卒の口論に巻き込まれ、あやうく叩き割られかけた白磁の一輪挿しも、
今や書架の一角で誇らしげに鎮座していた。
その内花でも飾ってやろうと、満足そうにそれを眺めつつ、
片付けの喧騒で埃に塗れてしまった文机をが乾拭きしていると、
廊下に繋がる扉の向こうから、失礼致します、と落ち着いた女人の声が聞こえてきた。

「入られよ。」

と、部屋の主たる張遼が応答すれば、
用済みになった行李や長櫃を備品庫へ運ぶ兵卒達と入れ替わるようにして、
また新たな女官が一人現れた。
より10は年上であろう、背筋がぴんと美しい静謐な佇まいの女官は、
前髪まで結い上げた一筋の乱れも無い頭を恭しく垂れ、
これぞ見本とばかりに優雅な所作で拱手する。
彼女が、先に出会った二人と格が違うのは明白で、
その証拠に仮眠室から雑談しながら出て来た女官達が、泡を食ってその場で礼をとった。
あの淑女が一体誰なのかは知らないが、女官である以上はも倣うべきだろうと、
慌てて雑巾を片手に拱手する。
ちらりとこちらに視線を寄越した謎の女官は、再び張遼の方へと向き直ると、

「拝顔をお許し頂き、有難うございます。
将軍におかれましては、無事のご帰還なによりの慶賀にございます。」

そう、すらすらと堂に入った口上を述べた。
たおやかだがはっきりとした口調は、彼女自身の厳格な性格を如実に現していて、
ともすると冷たい印象すら受ける。

「労い、感謝する。して、そなたの用件は何であろうか。」
「それでは、恐れながら。本日は先に申し上げました通り、新しい女官を迎えに参りました。」

二人が交わす言葉から察するに、どうやらの処遇について前々から決めていたようで、
どうせ屋敷の方にも手伝いに行かなければならないだろうと、
私物が詰まった行李を荷馬車に置いてきてしまったは、にわかに青ざめる。
あい分かった、と張遼が案外あっさり了承するのに、いよいようろたえつつ、

「こちらに来い、!」

という主の呼び声に、はい、ただいま!と大きく返事を返した。
いそいそと開けっ放しにされていた応接室への扉を潜り、入ってすぐの所で改めて跪く。

「お呼びに預かりました。にございます。」

床を見つめたまま気負って名前を名乗れば、頭上から、顔を上げよ、と張遼の声が降ってきて、
は拱手したまま頭だけを持ち上げた。
途中チラリと少し前に立つ女官に目を向ければ、
彼女は上司に負けず劣らずの鉄面皮でこちらを見下ろしていて、
慌てて部屋の奥へと視線を戻す。

、こちらは韓部署長だ。そなたを女官宿舎へと案内するべく参られた。
以後、分からぬ事があれば韓部署長にご指導頂くように。」

壁や棚に武器や馬具が設えられた、なんとも武人らしい応接室の一番奥、
一段高い床に並べられた真新しい藁円座の一つに腰を降ろして、張遼は実に簡潔に女官を紹介した。
主に促され今度こそしっかり件の人物へと向き直れば、
薄化粧を施したキリリと秀麗な細面が怜悧な目でじっとこちらを見据えてくる。

「張将軍手ずからご紹介を賜り、誠に痛み入ります。私は韓汀樹。
この合肥城にて、武官仕えの女官の部署長をしています。
貴女も今日よりは私の監督下にて、勤めに奮励して頂きます。」

よろしいですね、と穏やかだが有無を言わせぬ迫力の声音で同意を求められ、
すっかり気圧され気味のは、はい、と上擦った返事を返した。

「それでは、少々物騒がしくはありますが、殿にお教えすべき事柄が多々ございますゆえ、
これにて失礼致しますこと、どうか御許し下さいませ。」

そう言って、再び優雅に礼をとる部署長殿に習い、も跪いたまま深く拝礼する。
張遼が重々しく頷いて、大儀であった、と労いを返すのを、
もう一度頭を下げる事で答えて、新しい上役は全く無駄の無い美しい所作で踵を返した。
仮眠室の中から恭しく拱手で見送る同僚二人を視界の端にとどめながら、
も彼女の後を追って部屋を出ようとすると、

「・・・っ。」

そう、いつも果断な彼にしては珍しく、躊躇を含んだ声音で名前を呼ばれる。
慌てて振り返り礼をとれば、

「ゆっくり体を休めよ。」

と、合肥の主軍その全権を担う将軍殿は、わざわざ引き止めて言うまでも無い台詞を告げてきた。
ほんの少しだけぎこちなく揺れる視線と、
そのくせ微動だにせぬ表情筋とが、なんとも張遼らしくて、
はくしゃりと顔を皺くちゃにする。

「格別のご厚意に感謝申し上げます。張将軍もどうかご自愛下さいませ。」

そう、言葉面ばかり慎ましく謝辞を述べて、
はくすぐったい思いに満たされながら、満面の笑みで退室するのだった。



























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