面映い擽ったさを噛み締めて廊下に出たを、
韓部署長の冴え冴えと無機質な視線が出迎えた。
甘く温もっていた体温が石床へと吸い取られ、緩んだ口元が引き締まる。


「参りますよ。」


果たして好悪どちらの印象を持たれているのか。
全く伺い知れない声音でたった一言そう言うと、
彼女はこちらに背を向け歩き始めた。
急激に緊張したせいで、はい!と返した返事が不自然に高くなる。
掌に滲んだ汗を無意識に服へと擦りつけながら、
は言い知れぬ凄みを放つ後ろ姿を追いかけた。
徐々に夜が満ち始めた廊下を、お互い無言で黙々と進む。
殆ど小走りに近い速さであるにも関わらず
新しい上役は、足音を荒げるどころか服の裾が無作法に翻る事すら無かった。
こっちは置いて行かれないよう、
脹脛まで露にして足をばたつかせているというのにである。
もしや合肥の女官は皆このような速さで粛々と歩けるのだろうか?
だとしたら自分には到底真似出来無いと、は早々に白旗を上げた。
驚きはそれだけに留まらない。
時折すれ違う文官武官に対し、
韓部署長はその都度立ち止まって、
指先まで張り詰めた美しい供手を披露するのだが、
すると彼等は一様に丁寧な会釈を返すのだ。
本来ならば素通りして然るべき高位の者達が、ごく自然に頭を下げる様を盗み見ながら、
も見劣りせぬよう精一杯姿勢を正した。
もちろん、彼女を呼び止めるのは文官や武官だけではない。
道すがら、何人もの女官が走り寄ってきては熱心に指示を仰いでいく。
歩みを緩めぬまま、その一つ一つへと的確に助言する様は実に頼もしく、
部署長という地位に相応しい辣腕振りが垣間見えた。
今も、城内の篝火に火を入れて回っている下男下婢に、
中央棟を優先するよう要請している。
緊張した面持ちで何度も頷き返す彼等は、
その殆どが若いというより最早幼いと言うべき年頃で、
は女官として仕え出したばかりの頃を思い出し、自然と笑みが零れた。
部署長の、まるでお手本のような拱手に習いながら、

「頑張ってね。」

と、思わず励ましの言葉をかける。
畏まって平伏していた彼等は面食らった様子で顔を見合わせると、
はにかみがちにお辞儀し、いそいそ作業に戻っていった。

「寮長を待たせています、急いで下さい。」

既に歩き始めた上司が数歩先から淡々と急かす。
冷淡な態度に変わりは無いが、身分の上下で損なわれない礼節は、
の中で彼女の印象をぐんと好ましいものにした。
はい!と、先ほどより親しみの増した返事を返し、再び歩き出す。
すると心なし歩調を緩めた上役が、顔だけを振り返らせ、

「・・・女官、寮に着く前にいくつか忠告しておく事があります。」

そう言って目配せした。
こちらへ来いという事なのだろうと判断し、早足に肩を並べれば、

「本来、配属されたばかりの女官はまず見習いとして勤仕するのが、
合肥城の慣例となっています。
職務の機密性、重要性を鑑みれば、
まだ仕事に不慣れな新参に高官の侍従など任せられないのは道理というもの。
しかしながら今回は張将軍より直々のご希望もあり、
合肥城内の現状も加味した結果、例外として将軍職への専属を認めました。」

と、の立場を端的に説明してくる。
なるほど、それであんなに余所余所しかったのかと、
同僚達の冷たい態度にも納得がいく。
ぽっと出の新人に憧れの花形職を横取りされれば、反感を持って当然だ。
そりゃ歓迎されるわけがないと落ち込むへ、部署長が更なる追い討ちをかけた。

「しばらくは他にもう1人、経験豊富な女官に助力を頼みましたが、
貴女の立場を考えれば、なるだけ早く仕事を覚える方が賢明でしょう。
張将軍はこの城に駐屯する将兵の総括。
その職務が滞る事は合肥の存亡にも関わってくるのだという事を、
くれぐれも銘肝しておいて下さい。」

冷ややかに言い放たれた助言は、むしろ死刑宣告に近く、
の頭はどんどん傾いでいった。
決して短くはない女官歴から、
これは想像以上の四面楚歌が待っているだろうと推測し、
このまま張遼の執務室に逃げ戻りたくなる。

(うぅ・・いくらなんでも全員から疎まれてるなんて事は無いよね。)

延々と伸びる北側通路の先はすっかり宵闇に飲み込まれ、
まるで我が身の明日を暗示しているかのようだった。


巡回の衛兵もまばらな暗い道をどん詰まりまで行けば、
お情け程度の松明に照らされた小さな楼門が現れる。
おっかなびっくり開けっぱなしの門を潜ると、
木造の平屋が3棟、中庭の屋根付き井戸を囲むようにして建っていた。

「右手の一棟だけが下婢の寮で、残りの2棟が女官寮となります。」

そう指で指し示しながら、部署長は井戸を横目に物干し場の間を通り抜け、
正面の建物へと向かう。
観音扉を押し開き中へと入った2人をまず出迎えたのは、
左右の壁に所狭しとぶら下げられた藁蓑や編み笠であった。
雨の日は皆これを着て登城するのだろうか。
ここ数日天候に恵まれているらしく、すっかり乾ききったそれらを眺めていると、

「お待ちしておりました、韓部署長。」

と、新しい上役より更に年嵩な女官が奥から歩み寄ってきた。

「遅くなってしまい、申し訳ありませんでしたね。
こちらが、新しく入寮する事になった女官です。」

部署長から事務的に紹介され、慌てたが、
ですと自らも名乗りながら深く腰を折ると、
年配の女官は頭から足先まで遠慮無しに品定めし、
ふんっと小さく鼻を鳴らした。
お世辞にも好意的とは思えない目付きに、
貼り付けた笑顔がひくりと引き攣る。

「寮長。女官はつい先ほど合肥に着いたばかりです。
今夜は簡単な案内に留め、まずは沐浴させてあげて下さい。」

そう言い付ける部署長に寮長は態度を一変させ、
ええもちろんでございます、と愛想良く請け負った。

「では、よろしくお願いします。
女官、貴女の勤めについては、
明日の朝改めて私から教示致しますので、
早めに将軍の執務室へ登城して下さい。」

実に簡潔に、伝えるべき事柄だけを伝えた上役は、
の顔に理解が浮かんでいるかを、
感情の篭らぬ無機質な目で確認すると、
最後まできっちり美しい拱手を見せつけて、あっさり立ち去った。
頼りの綱が玄関の向こうに消えるのを、未練たらしく見送っていたへ、

「ほら!いつまでボサっと突っ立ってんだい!
さっさと荷物を拾いな!」

と、諂い笑みを引っ込めた寮長が苛立たしげにせき立てる。
彼女が顎で指し示した先には、
荷馬車に揺られて張遼の屋敷へ運ばれたはずの全財産が、ぽつんと放置されていた。
大慌てで小さな行李に飛びつきながら、
家人の誰かが持って来てくれたのだろうか?と、気の良い男達の顔を思い浮かべ、
いよいよ寂しくなる。
ずぅぅんと落ち込むを置いてけぼりにして、
寮長は自分一人廊下の奥へと行ってしまった。
慌てて追いかければ、
彼女はチラリと流し目を寄越し、ふんっと再び鼻を鳴らす。

「ったく、韓部署長もなんだってこんな時分に新人なんぞ連れて来たんだろうね!
風呂だ飯だって今が一番忙しいってのに!ったくいい迷惑だよ!」

ブツブツと聞こえよがしに言い掛かりをつけられても、
からすればとんだ八つ当たりだ。

(私だって、出来るんなら屋敷の方の手伝いに行きたかったですよ。)

郭単さんのご飯・・と口惜しく呟いたのを、
アァ?と柄悪く聞き咎められ、
な、何でもありません!と竦み上がって答える。
寮長の地獄耳に冷や汗をかきつつ、
最低限の灯りしか無い廊下を進み続けると、
彼女は3つ目の大部屋の前で足を止めた。
立て付けの悪い引き戸に悪態をつきながら、
壊しかねない勢いで力任せに引っ張り開ける。
都の女官寮とさほど変わらぬ広さの大部屋は、入り口の幅分だけ土間を残し、
残り全てに簡素な牀が隙間無く敷き詰められていた。
四隅に吊るされた灯篭の柔らかな光の下、
思い思い寛いでいた女官達が一斉にこちらを注視する。
視線の中に少しでも好意的なものが無いかと、は内心淡い期待を抱いた。

「おやまあ、まだこんなに残ってたのかい?
灯り油が勿体無いだろ!さっさと沐浴場に行きな!」

一言の断りも無しにズカズカ部屋へ踏み込んだ寮長がそう言って目を剥けば、
彼女達はいかにも不服そうに生返事を返しながら風呂の支度を始める。

「ところで、ここの室長は誰だい!?」

元から大きな地声を更に張り上げて尋ねる寮長に、

「あー・・私です。」

と、女官の一人が渋々といった様子で挙手した。

「例の新人だよ。アンタの班で世話してやんな。」
「・・・ふーん?あれがそうなんですか?」

寮長の説明を受けた女官は、
入室して良いものか扉の外で躊躇しているへと振り返った。
一通り値踏みしてから、彼女はその整った顔立ちへとどこか酷薄な笑みを浮かべ、

「ねぇ、さっさと入ってきたら?」

と呼びかけてくる。
おっかなびっくり彼女達の元へ駆け寄ったが、

「本日よりこちらでお世話になります、です!
ご指導よろしくお願い申し上げます!」

そう、気負って挨拶すれば、

「名前なんかどうでも良いわよ。どうせすぐ辞めるんだからさ。」

私の事は室長って呼んでちょうだい、
と鈴を転がす愛らしい声音で不穏な台詞を告げた。
じゃあ後は頼んだよ、といささか無責任にを押し付けて、
寮長は相変わらず誰に向けてでも無い文句を零しながら、
忙しなく部屋を出て行った。
室長の方も、あいつの顔不細工過ぎ、なんて小馬鹿にしながら、
仲間内へと戻ってしまう。
取り残されたが所在無く周囲を見回して、

「あっあのっ!荷物はどこへ置けば良いですか?」

と、遠慮がちに尋ねると、彼女は長い髪を気だるげにかき上げたながら、
そこ、と壁際にずらりと並んだ棚の一番端を指差した。
上下二段で1人分らしい木製の棚は、
上段に荷物を、下段に布団一式を仕舞うようになっているらしい。

「あんたの女官服とかもそこに置いてあるから、
寸法が合わない時は寮長にでも言って。」

おざなりな説明へ、ありがとうございます、と一応礼を告げたものの、
室長は既にこちらを見てはいなかった。
教えられた通りの場所へ、
が持ってきた行李を四苦八苦して押し込んでいる内に、
同室の女官達は次々部屋から出て行ってしまう。

「え、あ、待って!皆さん、どちらへ向かわれるんですか?」

慌てて最後尾の女官を呼び止めれば、
彼女は迷惑そうに眉根を寄せ、

「どちらへって、さっき寮長が怒鳴ってたの聞いてなかったわけ?
沐浴場に決まってるじゃない。」

と、入り口で待っている友人を気にしながら答える。

「あんたも急がないと、湯が無くなっちまうよ。」

そう捨て台詞を残し、女官は大部屋を出て行った。
勢い良く閉められた扉が、
静まり返った大部屋にガタンっと盛大な悲鳴を轟かす。
彼女達を見失っては沐浴場がどこかも分からないと、
急いで布団の上の女官服を持ち上げただったが、
着慣れた都のそれとは違う手触りに動きを止めた。

今までなら、こんな風に困っていると、
同室の誰かが必ず声をかけてくれていた。

悠琳が窘め、夏陽が茶化し、
長く寝食を共にしてきた同僚達が面白がって笑い合う。
あの和やかで居心地の良い関係を、
ここでまた一から築いていかねばならないのだ。

(どうしよう・・・私、独りなんだ。)

孤立無援であるという事実が遅ればせながら体の芯まで浸透し、
はこの先毎日着る事となるだろう触り心地の悪い服を、
ぎゅうっと胸に抱きしめた。








こうして最初から波乱含みで始まった合肥での女官生活は、
予想通り前途多難なものとなった。
そもそも、人員豊富な都に比べ、前線基地は常に人手が不足しており、
女官も官吏顔負けの働きを求められた。
まして将軍職に仕えるとなれば、その仕事は多岐に渡ったが、
専属女官の何たるかも知らぬである。
右往左往するばかりの彼女に助っ人の女官は呆れ果て、
韓部署長は早々に見切りをつけると、
しばらく書簡の受け渡しのみに専念するよう言い付けた。
まずは城内の構造から覚えろという事なのだろうが、
何しろ張遼は駐屯軍の総括という立場だ。
城外演習の計画案から、巡回中に乱闘騒ぎを起こした兵士への懲罰まで。
山と成した裁可済みの竹簡を実際に配達し始めると、
の貧相な脳漿はあっという間に飽和した。
毎日毎日、夜が明けてから日が暮れるまで城内を駆けずり回っては一日が終わる。
張将軍付きの筆頭女官なんて立派な肩書きとは裏腹に、
身の回りのお世話どころか彼にお目通りが叶う事すら稀だった。

今日もまた、息せき切って登城してきたが、執務室の扉に手をかけた途端、
中からもう一人の専属女官が顔を出し、竹簡の乗った角盆を押し付けてきた。

「遅い!いつまで待たせる気よ!?」

鼻息荒く問い詰められ、申し訳ありません、と釈然としないまま謝る。
実を言えば、ここ数日、きちんと仕舞ったはずの女官服が、
寝ている間にあちこち投げ散らかされているのだ。
朝の支度で騒然とする大部屋内を探して回るのは中々手間がかかり、
それから朝食をとるとなると、どうしても登城が遅くなる。
彼女にもそう釈明したのだが、遅刻の理由にはならない、と一蹴されて終わった。

「ああもう!さっさとこれ持ってっちゃって!
いい?下段、左から三つ目まで長史。
次二つが楽将軍、この一つだけが李将軍宛てよ。
中段は主簿、僕射にそれぞれ二つずつ。
一番上は蒋別駕だから!ちゃんと覚えた!?」

どう見ても痩せ過ぎの女官は、頬骨の目立つ細面に怒りを燻らせながら、
竹簡の内訳を早口で説明する。
分かったわね!と念を押し、
こちらの返事を待たず室内に戻ろうとする同僚を、
聞き逃しがないか必死に反芻していたが、大慌てで呼び止めた。

「あ、あの、黄女官!主簿と僕射の場所が分からないので教えて下さい!」
「はぁぁ?もう10日目だっていうのに・・・。
そこらの衛兵にでも聞けば良いでしょ!」

閉じかけの扉を掴んで、なんとか引き留めたものの、
返ってきた答えから分かったのは、彼女に教える気は更々無いという事だけだった。
それどころか、

「こんなに物覚えが悪くて、今までよく女官が勤まってたわね。」

なんて嫌味までぶつけられ、
帰ってくるなとばかりに扉をピシャリと閉じられた。
すっかり習慣化している同僚の叱責に返す言葉も見付からず、
どんより意気消沈する。
取り敢えず知っている部署から先に竹間を届けてしまおうと決めて、
はトボトボ歩き出した。






出鼻を挫かれすっかり下がったの士気を、
これまた行く先々の女官達が地味に削っていく。

「張将軍からの書簡をお持ち致しました。」

と、規範通り廊下から呼び掛けてるだけなのに、
出て来る女官は皆が皆申し合わせたような迷惑顔で、
差し出した竹簡を手荒く奪い取った。
もちろんお礼も無ければ会話も無く、貰えるのは冷たい一瞥だけ。
まるで疫病神のような扱いに、とて憤慨してないわけじゃなかったが、
如何せん竹簡の取り違えや配達の遅れで、迷惑ばかりかけているため、
黙って甘んじるより他に仕様が無かった。
しかも、悩みの種は無愛想な同僚ばかりでは無い。
今まさに、扉を壊さんほどの勢いで出迎えてくれた将軍殿が、
の残り少ない士気を根こそぎ奪っていくのだ。

「おはようございます!毎朝のご足労、誠に恐縮です!」
「と、とんでもございません。
楽将軍御自らの慰撫、卑賎の身には余りある温情にございます。」

魏国屈指の将とは思えない純朴な笑顔が添えられた楽進の労いが、
ぼこぼこになった心に温かく染み込んでいく。
彼付きの女官の視線が少々痛くはあるものの、
これだけなら日々疲弊していくを慰めてくれる、
貴重な好人物なのだが・・。

「ところで、来て頂いて早々申し訳ありませんが、
張遼殿からのご返答はいかがだったでしょう?」

そう、きらきら輝く鳶色の瞳に見つめられ、の額に嫌な汗が滲む。

「あのぉ・・大変申し上げ難いのですが、
本日は麾下の調練に専心致す所存ゆえ、貴公との手合わせはお断り致す、
とのお返事を、張将軍より承って参りました。
楽将軍におかれましても、何卒ご了承頂きたくお願い申し上げます。」

そう言って、抱えている角盆から竹簡が転げ落ちそうな勢いで頭を下げれば、
楽進はあからさまに肩を落とした。
この1番槍を自負する将軍殿は、合肥に駐屯してからこのかた、
暇さえ見つければ張遼に鍛錬試合を申し込んでおり、
更に言えば大変煙たがれている。
が初めて書簡を届けに来た時も、楽進は当然言伝を頼んできたのだが、
事情を知らぬまま張遼に報告したところ、彼が珍しく受けて立ったのだ。
その時の手合わせは張遼の圧勝だったらしいが、
以来、楽進はに頼めば何とかなると勘違いしている。

「そうですか・・残念ですが、
女官にお頼み頂いても無理とあらば致し方ありません。」

しおらしい声音でしゅんと目を伏せる様は叱られた子犬のような風情だが、
歴戦の勇士たる男がそんな柔な輩なわけがない。

「では、直接練兵場の方へ出向いてお願い申し上げます!
丁度私も麾下の調練を行いたいと思っておりましたゆえ。
合同となれば、手合わせする機会を得られるやも知れません!」

普段の奥ゆかしさを何処に捨ててきたのか、
是が非でも張遼と一戦交える気らしい楽進を、
は必死に押し留めた。
筆仕事に忙殺される中、ようやく巡ってきた騎乗の機会を邪魔されたとあっては、
主の怒りはいかばかりか。
目だけを剣呑に据わらせ、黙々と筆を走らせ続ける張遼の威圧感ときたら、
長年仕える副将でさえたじろぐ恐ろしさだ。

「僭越ながら!こちらにお持ち致しました書簡は、楽将軍に至急お目通し頂き、
本日中に温刺史へご提出頂きたいと、我が主より言い付かって参りました。
どうかその旨ご一考頂きたく存じます!」

決して嘘は言っていない。
急を要する書簡であるのは事実であるし、
張遼もそのような事をちらと口にしていたような、いないような・・・。
多少誇張しているとはいえ、
ぎりぎり真実と言って差し支えない説得が功を奏したのか、

「なんと!それは急がねば。ご忠告感謝いたします。」

と、敵は素直に引き下がった。
これでなんとか楽進の襲来は未然に防げたが、

「では、また明日改めてお手合わせ下さいますよう、
女官から張遼殿にお伺い頂けないでしょうか?」

という鶴の一声で、問題は振り出しに戻ってしまう。

女官相手に深々と供手する姿は大変謙虚であらせられるが、
楽進はお願いのつもりでも、からすればそれは立派な命令だ。

もちろん、正当な理由で誰憚ることなく張遼に会いに行けるわけだから、
必ずしも損というわけでは無かったが、
柔らかく細められていた想い人の目が、
報告し始めた途端ジトっと藪睨みに変わる様は、
見ていて楽しいものじゃない。
その上、同僚の女官から、

「アンタのせいで仕事がやり辛くなったじゃない!」

と益々恨まれたのでは、全く割に合わなかった。
首を横に振る事は許されず、さりとて請け負えば主の不興を買うとなると。

「恐れながら、私はお仕えしてからまだ日も浅く、
必ずしも張将軍にお目通りを許されるわけではございません。
不遜なお願いではありますが、その旨書簡にしたためて頂けましたなら、
必ずやお届け申し上げます!」

これならも、職務に従って書簡を届けただけだ、と言い訳が立つ。
そう、苦し紛れに浅知恵を絞ってみたが、

「以前は私も書簡にしたためていたのですが、全て突き返された上、
私事で竹簡をを無駄にするのは如何かと叱られてしまいました。」

なんて恥ずかしそうな苦笑いで、せっかく見つけた逃げ道を塞いできた。

(一体何通送ったんだろ・・。)

武官にしては筆豆な部類に入るであろう義理堅い上司が、音を上げたのだ。
ある意味、楽進の勝ちと言えなくもない。
さすがは決して折れないと噂の1番槍である。

「そういった事情ですので、女官だけが頼みなのです!」

どうかよろしくお願いします!と、
ほわほわ猫毛の跳ねる頭をを気前よく下げる将軍殿に、
そうまでして張遼に挑む理由を訊いてみたくなった、が。
彼の後ろに侍るお付き女官の凄まじい形相が、それを許さなかった。

「わ、私めこそ女官の分際で僭越な物言いを致しました事、
何卒お許し下さいませ!
楽将軍の御意向は、必ずや我が主にお伝え申し上げますゆえ、
どうかもうお顔をお上げ下さいませ!」

殺意すら感じさせる視線をなんとか交わそうと、
楽進以上に頭を下げ、勢い任せに承諾する。
とうとうコロリと転げ落ちた竹簡を、
楽進は飛び切りの笑顔で拾い上げてくれたが、
の方は引き攣った泣き笑いでそれを受け取った。
では失礼します!と快活な挨拶と共に閉められた扉の前で、
途方に暮れて立ち尽くす。

(・・うん、まあ、結局こうなるんだよね。)

あの謙虚な人当たりと爽やかな笑顔に、
誠意を尽くせば諦めてくれるんじゃないか、
なんてついつい勘違いしてしまうが、
そもそもあの張遼でさえ止められなかったものを、
しがない女官風情が押し留められるわけが無いのだ。
果たして楽進の執着は敵視なのか羨望なのか。
どちらにしても、彼の望みが叶う事は二度となさそうだが。

(うふふ、今日も張将軍のご尊顔を拝見できちゃうわぁ・・・。)

などと精一杯強がってみせたとて、
目に浮かぶのは物言いたげな主の仏頂面で、
時節は初夏を迎えようというのに、ぶるりと背中を震えが走る。

(どうせなら笑顔が見たいなぁ。)

そしたら何だって、いくらだって頑張れるのに。

とはいえ元々鉄面皮な上、今は新しい職務に奔走している将軍殿へ、
それを期待するのは酷というもの。
とりあえず、記憶の中の微笑みで妥協して、落ち込んだ戦意を向上させる。
次はいよいよ天敵とのご対面だ。
は戦う前から厭戦気味の自分を叱咤し、
すっかり軽くなった角盆を重苦しく揺すり上げた。






目の前に聳え立つ1枚の引き戸。
その向こうに部屋の主が居ない事を、一心不乱に祈る。

「ちょっしぉょぐからの・・」

固まった喉から無理やり声を出したせいで盛大に裏返り、
の額に冷や汗が滲んた。

(だ、大丈夫。ぱっと呼んでぱっと渡してぱっと帰ればいいんだから。)

決して奴と目を合わせない。
決して奴の言葉に耳を貸さない。
決して奴に反論しない。

(いざ!、参る!)

気炎万丈、再度中へ呼びかけるべく顔を上げただったが、
いつの間にか執務室の扉は開いていて、白け顔の女官が1人、
面倒臭そうに戸枠へと寄り掛かってこちらを眺めていた。
化粧を施さずとも充分華やかな美人は、
すらりと高い上背からこちらを見下ろして、

「終わった?」

と、少々険の強い風貌にぴったりの掠れ声で尋ねてくる。

「は、はい・・・。」

なんとも言えない気まずさの中、が素直に頷けば、
ん、と彼女は指の長い大きめの手を差し出してきた。
竹簡を寄越せという催促だと、一瞬遅れて気付き、
あたふたぶきっちょに指定の品を渡す。

「鈍臭い女だな、お前。」

渡された竹簡で自分の肩をトントンと叩き、
あんなんに任せて大丈夫なのかねぇ、なんて独り言を言いながら、
女官は部屋の中へと消えていった。
慎ましく閉まった扉を、しばし呆然と眺めていただったが、
その後いくら待っても誰も出て来ないのを確認すると、

「助かったぁ〜・・・。」

思わず口から安堵を零しながら、膝が抜けそうなほど脱力した。
どうやら最大の敵は留守だったようで、気持ちが一気に軽くなる。
ここさえ済めば後は主簿と僕射を探して残りを渡しに行くだけだ。
勤めて最初の数日を、ほとんど迷子として過ごしたおかげで、
何人もの衛兵と顔見知りになれた。
彼等に聞けば、場所はもちろん最短の近道まで教えてもらえる。

「苦手な奴とも会わずに済んだし、
今日は良い日になりそ〜・・・・・・って思ってるだろ。」

俄然やる気が沸いてきて、足取り軽く踵を返したのすぐ背後に、
いつの間にか長身の男が不敵な笑みを浮かべて立っていた。
びゃあっ!と珍妙な悲鳴を上げ、
少なくなった竹簡をお盆もろとも盛大にばら撒く。
けたたましい音が廊下に鳴り響き、恐慌状態に陥ったは、
あっちこっち散らばったそれらを半泣きで掻き集めた。

「あーあー、何やってんだよ。
まぁた、別の書簡が混ざってたって苦情が来るぞ?」

悪趣味な悪戯を仕掛けた当人は、
事の元凶にも関わらずしたり顔でこちらを嗜めて、
足元に転がる竹簡の一つを摘み上げるとゆらゆら弄ぶ。
元通りにした角盆を今度こそ落とさぬよう大事に抱えながら、
がちらっと一瞬だけ恨めしい視線を向ければ、

「なんで俺がそんな事知ってるかって?ピンと来たんだなぁこれが。」

と、李典は尋ねてもいない事をぺらぺら答えた。
いかにも得意げに唇の片端を持ち上げた男の、
鮮やかな首巻きへと視線を固定し、
前もって予習した通り目を合わさないよう対峙する。
全身の毛を逆立て、猫のように威嚇する彼女へ、

「おいおい、拾って貰っといてその態度は無いんじゃないか?
俺、将軍。あんた、女官。」

敵はニヤニヤと意地の悪い言い回しを使い、持っていた竹簡を差し出した。
身分を盾に取られ言葉に詰まったは、
それでも視線を右へ左へ逸らしながら、

「お見苦しい姿をお許し下さい。李将軍の御助成、感謝致します。」

と早口に礼を言って、竹簡へと手を伸ばす。
しかし指先が触れる寸前、
彼はお約束とばかりにひょいっと獲物を遠ざけた。
驚きに目を見開いたの顔がだんだんと紅潮し、苦々しく歯噛みする。
李典はそれを満足げに見届けてから、
芝居染みた手付きで竹簡を盆へと恭しく戻した。

「ホント、目は口ほどに物を言うってのは、
あんたの為にある言葉なんじゃないか?
思ってる事がだだ漏れなんだよ。
勘なんか無くたって丸分かりだ。」

そういう所、あいつにそっくりだよな、と李典は顔を顰めたが、
当のに会話を咀嚼する余裕など無く、
いよいよ警戒して身を固くする。
何しろ初対面で、

「決めた!俺はこれから気が済むまであんたをおちょくり回す。
そうすりゃあ張遼の面白い顔が拝める、って予感がするんだわ。」

と満面の笑みを浮かべて宣言してきた男だ。
言われた当初は、まさか一軍の将たる大丈夫が、
本気で女官相手に嫌がらせしてくるものかと、気にも止めてなかったのだが、
次に遭遇した時、は自分の甘さを痛感させられた。
とにかく何が嫌って、

「あんた、どんどん浮いてってるぜ。女官仲間から相当嫌われてるだろ?
色々と酷い噂も流されてるみたいだし同情しちゃうぜ?俺。」

なんて、触れて欲しく無い現状を面白可笑しくつっついてくるのだ。
そうやって他人の傷口に塩を塗り込んでから、

「ま、大方やっかみ半分の新入り苛めって体裁なんだろうが、
それだけじゃ無いって気がするんだよなぁ、俺。
そろそろ満を持して黒幕が動き出すんじゃないか?ま、ただの勘だけど。」

と、さも当たらないような口振りで予言染みた事を言い出す。
前回も、そろそろ私物に手を出されるぜ、と言われ、
実際その日の夜から女官服が徘徊するようになった。
自分の勘の驚異的な的中率を自覚し、
しかも、が内心戦々恐々して聞いてる事を見抜いておいての所業である。
いつも気怠そうな目を生き生きと輝かせている事からも、
これが助言と見せかけた嫌がらせであるのは間違い無かった。

(うぅ、そんな話聞きたくなかった・・・。)

どちらかと言えば占いや験担ぎなんかを信じてしまう方のだ。
彼の予感が現実となるまでの間、びくびく怯えて過ごす事になる。
けれど、ここまではとて女官の端くれ。
従順に黙して受け流す事が出来た。
性格に難有りといえども、
相手は合肥の守護を任される有能な将軍様の一人なのだから。
しかし、からかいの矛先が、敬愛してやまない主へと向けられたなら、
話は別だった。

「あんたも相当運が悪いよな。
張遼なんかに目を付けられたせいで、分不相応な役職押し付けられて。
その上買わなくても良い恨みまで買わされてさ。
なのに、あいつはあんたの窮状なんか放ったらかしだろ?
そんな薄情な主、見限って良いんじゃないか?」

彼独特の軽薄な口調が、神経を逆撫でする。
こんなものは安い挑発だ。
怒りを煽って失言を引き出そうとする、見え透いた罠だ。
それでも。
どうしても。

「・・李将軍の仰せどおり、私は女官の間で孤立しております。
けれどもそれは、偏に私の不徳が招いた事。
そのような些事で張将軍に御憂慮を頂こうなどとは、
毛頭思っておりません!
ただただ不甲斐無い我が身を恥じ入り、
女官の本分を全うするのみにございます!」

耳を貸さない、反論しない。
あれほど誓ったにも関わらず、結局は憤りを抑えきれずに、
は李典へと食って掛かった。
愚か者が誘いに乗るのを手ぐすね引いて待っていた男は、

「ご立派な決意大いに結構。
けど、今のあんたに女官の本分とやらが果たせるのかよ?」

そう垂れ目がちな双眸を冷淡に細める。
身の程を知れ、と痛烈に揶揄されて、無意識に奥歯を食いしばった。

李典の言葉は真実だ。
だからこそ深く鋭く突き刺さる。

今の自分の仕事ぶりが到底専属女官を名乗れる代物じゃない事は、
自身痛いほど自覚していた。
根本的な経験不足を少しでも補おうとするなら、
先達に学ぶのが一番良いことも承知している。

(・・けど!誰も私と話したがらないのに、どうやって教われっていうのよ。)

とて、友人の一人も作ろうと同室の女官に話しかけてみたりもしたのだ。
けれど皆、適当な理由をつけては潮が引くように逃げていき、
遠巻きからヒソヒソ耳打ちし合うばかり。
ならば、せめて仕事だけでも早く覚えようと、同僚の女官を頼ったものの、
説明を乞えば癇癪で追い払われ、自己流でやれば失敗してこっ酷く叱られる始末。
都で培った矜持は日一日と崩れ去り、
気付けば相手の顔色ばかりを気にするようになっていた。

(このままじゃ駄目だって分かってる・・・でも・・。)

五里霧中から抜け出す術が見付けられない。

悔しさに歪んだ情けない顔を、目の前の男には断じて見られたくないと、
抱え込んだ角盆に面を伏せる。
熱が篭もり始めた瞼を懸命に瞬いていると、
盛大な溜め息が頭上から長ったらしく降ってきた。
見れば李典が忌々しげに、癖の強い黒髪を引っ掻き回している。

「ったく、あんた本当にあいつとそっくりなのな。
だからさぁ・・まー、なんだ、俺が言いたいのは、
もっと広く周りの助けをだなぁ・・」

尻窄みにもごもご呟く将軍様を、が胡散臭そうに睨め上げていると、
バーンと勢い良く執務室の扉が開いた。
出て来たのは先ほどの美人女官で、
その大きな釣り目が李典の姿を捉えるなり、

「楽しく女官をいびり倒していらっしゃる所、大変失礼致しますー。
僭越ながら、李将軍におかれましては、
回りくどぉーい、分かり辛ぁーいお節介など早急にお止め頂き、
執務を再開して頂きたく存じますー。」

と、いかにも呆れ果てた調子で慇懃無礼な台詞を諳んじた。

「なっ!?またなんつう穿った見方してんだよ、瑞火!全然違うだろ!?
俺はただ献策した手前だなぁ・・・そ、そもそも、その物言いはどうなんだ?
少しは専属女官らしく主を敬えよ!」

「ですからー、こんなに御身を慮っているではございませんかー。
合肥城の蔵書を職務そっちのけで読み耽っておられた将軍が、
書簡の遅れで温刺史にお叱りを受けぬよう、
断腸の思いで諫言申し上げているのでございますよー。
主のために、文官連中からの謂れなき嫌味にも黙して耐える。
私めほどの忠義者が他におりましょうやー。」

目に見えて弱腰になった李典が、
チラチラの目を気にしながら言い返せば、
瑞火と呼ばれた女官はフッと哀れみの篭った流し目をくれ、
幼子に教えて聞かせるような丁寧さで、優しく優しく彼の所業を暴露する。

「ああもう、分かった戻る!戻るって!」

彼女に向けて両掌を晒し、降参を示してから、
李典は苦虫を噛み潰したような顔でに向き直った。

「とにかく。悪いのは全部張遼だからな!
あんたは遠慮なくあいつを使えば良いんだぜ。
むしろ、どんどん困らせろ、あの冷血漢!」

分かったな!と苛立たしげに吐き捨てて、
ったく俺の威厳が下がっちゃったらどうすんだよ、
と瑞火に向かってぼやきながら、彼は執務室に戻った。

批判したかと思えば同情を口にしてみたり。
お付き女官の無礼も平然と流せる寛容さを持ちながら、
張遼相手には相変わらず手厳しい。

武官も文官もこなす優秀な男の繊細な胸中など、
には到底計り知れず、眉間に皺を増やしながら、呆然と見送った。

「おい、!お前も早く仕事に戻れ!
将軍の与太話なんか真に受けてる暇があったら、部署の一つでも覚えろ!」

愚図愚図してんなよ!と野良猫でも追っ払うように手を振って、
相当気が強いらしいお付き女官も部屋の中へと引っ込む。
しんと静まり返った廊下に、困惑気味のだけが取り残された。

(・・・・なんなの、これ。)

今までずっと李典には煮え湯ばかりを飲まされてきたが、
今日のはそれに、とんでもなく不味い煎じ薬まで混ざってた気がする。
純粋な腹立たしさと、もしかしたら気遣ってくれたんじゃ?という疑問が、
胃の腑で混ざり合って不協和音を奏でた。

(・・・・変に期待するのはやめよ。なんせ、あの李将軍だしね。
どうせ次に会った時はまたチクチク虐められるんだから。)

それよりも。

(私の字、知ってたんだ・・・。)

久しぶりに他人の口から聞いた自分の字は新鮮で、
今頃になってじぃんと胸に喜びが染み渡る。

「瑞火さんか・・・。」

成り行きとはいえ知る事が出来た彼女の字を口の中で転がせば、
どうにもだらしなく頬が緩んだ。

(そうだよね!さっさと主簿と僕射の場所を訊いて、
忘れないように覚えなくちゃ!)

かつて、親友に唯一無二の長所と称された我武者羅さを遺憾なく発揮し、
顔馴染みの衛兵を探しに、人目も憚らず走り出す。

頬を撫でる爽やかな向かい風が、李典の不吉な予言も吹き飛ばしてくれれば良いと、
は庁舎の入り口から空へ向かって思いっきり跳び出した。






















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