気分が上向けば勤労意欲も自然と湧いてくる。
普段ほとほと手を焼く部署探しも軽快な足取りで難なくこなし、
は予定より早く午前の配達を終えた。
時刻はまさにお昼時。
期待に胸を膨らませて食堂に行けば、
そこは既にお腹を空かせた女官文官でごった返していた。

(うふふ、ここでちゃんとした御飯食べるの初めてなんだよねぇ。)

いつも昼食の終了時間ギリギリに滑り込んで、
僅かな残り物を恵んでもらう身だ。
後片付けに勤しむ下婢達の迷惑そうな視線が大変痛い。
それでも食べられるだけ恩の字で、
仕事が長引いた結果食いっぱぐれるなんて事も一度や二度じゃなかった。
今日こそはと喜び勇んで、料理の受け取り口に並ぶ。
ずらりと長い行列も、今日の献立に思いを馳せれば全然苦にならなかった。
やがての順番が回ってきて、
おや今日は早いんだねぇ!なんて顔見知りの下婢が笑いながら深皿を渡してくる。
汁気たっぷりの水餃子が豪快に注がれ、美味しそうな香りに思わず喉を鳴らした。
にんまり頬を緩ませつつ、さて何処か空いてる席はと周囲を見回す。
すると奥の方の数人が丁度食事を終えて立ち上がった。

(おお!今日は本当に運が良い!)

これで立食いは免れたと、いそいそそちらに向かうの無防備な足を、
何者かがわざと引っ掛けた。
辛うじて不様に転ぶ事は無かったが、
つんのめった拍子につるりと餃子がこぼれ落ちる。
反射的に手を伸ばしたものの、
哀れ彼女の幸福は指をすり抜けて冷たい床に飛び散った。

「・・ぁ・・ぅそ。」

堪え切れず、がっくり膝から崩れ落ちる。
涙目のが、せめて洗って食べられないかと散乱した餃子を皿に拾い上げている所で、

「うぅわ汚っ!ちょっとぉ、早く片付けなさいよ!」

なんて野次が容赦無く飛んできた。
食べ物の恨みも重なって、八つ当たり気味に声の主を睨みつければ、
すぐ側の卓で女官が6人、クスクス笑っている。

「ね?言った通りでしょ?もんの凄ぉく鈍臭いんだから。」

そう言って1番近くの席からこちらを愉快そうに見下ろしたのは、
共に張遼の傍仕えをしている黄女官だ。
その骨張った細い足が、わざとらしく通路にはみ出しているのを見れば、
どんな鈍感だって彼女が躓かせた犯人だと分かる。

「仕事覚えもてんで悪いんだもの、もううんざりよ。
ただでさえ忙しいっていうのに、
役立たずの尻拭いまでやらされるんだから、たまんないわ。」
「本当よねぇ。散々迷惑かけてるくせに、私達の前で堂々と食事しようだなんて。
普通は申し訳なくて出来ないわよ。一体どういう神経してるのかしらね?」

世間話を装って白々しく浴びせかけられる罵倒に、顔がカッと熱を帯びる。
反論したくとも、半人前だという自覚が二の足を踏ませた。
数の暴力に圧倒され、汚れた床を口惜しく睨む事しか出来ない。

「けどさ、韓部署長もいつまであんな無能を飼っとくつもりなんだろうね?」

不意に落とされた気だるげな問いで、彼女達の会話がにわかに流れを変えた。
この声は確か、女官寮の室長だ。
彼女の辛辣な疑問に、周囲の女達も次々と同意する。
するとわざとらしく声を潜めた黄女官が、

「だからぁ、将軍がご執心なのよぉ。」

なんて訳知り顔で答えた。

「え!?やっぱりそういう事なの??」
「単なる噂でしょ?あの女、顔も体も大したこと無いじゃない。」
「そもそも役立たずだし。」
「同感。」
「じゃあ閨事が凄いとか。」
「やだぁ、貞淑そうな振りして実は好き者なわけ?」

本人に聞かせるための罵詈雑言が、羞恥心をぐちゃぐちゃに掻き乱す。
自分は凡庸であると、他ならぬ自身が一番理解している。
まして後半部分は完全に事実無根だ。
確かに張遼から思慕を告げられたが、同時に専属女官の任も頂いている。

(・・・私、このまま将軍にお仕えしていていいのかな。)

が側に侍る限り、張遼は下卑た噂話の槍玉に上げられ続けるのだ。
群青色の戦袍を翻す高潔な背中が脳裏を過ぎって、
心臓が自己嫌悪で潰れそうになる。
けれど、憂いに沈むを黄女官の嘲りが現実へと引き戻した。

「けど将軍ってあの呂布の配下だったわけでしょ?
妖婦に唆されて悪漢とはいえ義理の父を殺した男よ?
そいつに仕えてたんだもの、色狂いまで似てたって不思議じゃ無いわ。」

・・・・・今、この女は何と言った?

激しい耳鳴りが米神をガンガンと殴り付ける。
自分の呼吸音すら聞こえない。
先程まで空腹を訴えていた胃の腑が怒りでグツグツ煮え滾るのを感じながら、
は無言で立ち上がった。
ジロリとそちらを睨みつければ、
女官達は怖い怖いなんて口々に茶化しながら、薄ら笑いを浮かべ合う。

「なぁに?口があるんだからさっさと喋れば?」

多勢に無勢と高を括っているのか、当の黄女官も随分と居丈高だ。
その、頬骨が尖った細面を真っ直ぐ見つめて、は怒りに震える声で言い放った。

「言葉を、改めて下さい。」

この至近距離で聞き逃すはずも無いだろうに、
はぁ?と横柄な返事をする相手へ、淡々と同じ言葉を繰り返す。

「言葉を改めて下さい。
公衆が多く集うこのような場所で、
お仕えする主を声高に貶めるなど女官として恥ずべき行為です。
どうぞご自身の無礼を自省し、先程の失言をお改め下さい。」

まさに不退転。
声を荒げずとも言葉の端々からの激昂が滲み出ていて、
女官達のクスクス笑いも立ち消えた。
一体何事かと注視する者、関わりあいたくないと立ち去る者、周囲の反応は様々だ。
正論をぶつけられ内心分が悪いと感じたのか、黄女官はフンッと鼻息荒く開き直る。

「はっ!内心みーんな思ってる事を言ってやっただけじゃない。
大体ね!あんたみたいな無能に女官の何たるかを説教される謂れは無いわ!」
「私が無能だろうと間抜けだろうと、
貴女が礼節の欠片も無い不忠者である事に変わりはありません。
もう一度言います。どうぞ、言葉を、改めて下さい。」

苦し紛れの侮蔑は、の凛と揺るがぬ表情に真正面から弾き返された。
格下と侮っていた相手から痛烈な反撃を受け、息を呑んだ黄女官の顔が剣呑に歪んでいく。

「っこの、阿婆擦れ!!」

耳を劈く金切り声に遅れて、バシャッと激しい水音が響いた。
女の手には、飲みかけだったはずの木杯が握られており、
肝心の中身はの顔面をしとどに濡らしていた。
しん、と喧騒が途切れ、
いつの間にか集まっていた野次馬達も固唾を飲んで押し黙る。

「・・・改めて下さい。」

先に口火を切ったのは濡れ鼠にされたはずのだった。

「戦場のなんたるかも知らぬ私達女官が、将兵の勲を貶すなど言語道断です。
先程の発言を撤回して下さい!」

張遼が、なぜ山のような筆仕事の傍ら、暇を作っては市中を巡回しているのか。
なぜ毎晩遅くまで書庫に居残って合肥の地形図と睨み合っているのか。

(将軍が何を護ろうとしているか知りながら、よくもあんな暴言!!)

ポタポタ水滴を落とす前髪の向こうで、の双眸が力強く輝く。
片や黄女官は、憎らしげに唇を噛みしめるばかりで、最早勝敗はらかだった。
それでも皆の面前で訂正させねば気が済まぬと、更に詰め寄ろうとした時だ。
鷹揚な静止の声が二人の間へと割り込んできた。

「あらあら、そんなに目くじらを立てて。
貴女のような学有る出自の女官が粗暴な振る舞いをしてはいけないわ。
女官とは貞淑かつ高貴な役職ですよ。ね?皆さん?」

シャラシャラ衣擦れの音を立てながら人だかりを裂いて現れたのは、
もうすぐ40の大台に乗ろうかという、やけに華美な女官であった。
通常の女官服の上から、金糸でびっしり刺繍が施された秋空色の長衣を羽織っている。
繊細な薄絹の襞がたっぷり寄せられた袖口。
床に付くほど長い裾。
どれを取っても動き辛そうな事この上ない。
白髪の混ざった長い髪は瑪瑙の簪で高く高く結い上げられ、
紫水晶の大きな耳飾りが歩くたびキラキラ揺れた。
ふくよかな顔にこれでもかと化粧を施し、
女官の薄給では到底買えない貴重な紅を肉感的な唇にさしている。
彼女が人だかりの輪に入ってきた途端、
その場に居た女官達全員が先を争うかのように供手した。
この人物が何者かは知らないが、高い身分であるのは明らかだ。
ごく自然に跪いて礼を取ったの前に、女官はしずしず進み出ると、

「貴女が新しく赴任してきたさんかしら。挨拶が遅くなってしまってごめんなさいね。
何しろ、突然の守軍変更だったでしょう?合肥の政にも色々と影響が出てしまって。」

そう、どことなく作り物めいた上品な口調で説明した。

「私は劉鳳祝(リュウ・ホウシュク)。
文官に仕える女官の総括を任されてるの。劉部署長と呼んで頂戴。」

垂れ目がちの大きな目を弓なりにして優雅に拱手を返す様は、
部署長という肩書き以上の権威を感じさせる。
とんてもない大物の予感に、がへどもど狼狽えていると、

「黄女官が何やら場にそぐわない事を言ってしまったようだけれど、
ここは私達女官が一時の憩いを許される数少ない場所だもの。
ついつい気が緩んでしまうこともあるわ。
どうか私の顔を立てて、お互い水に流して頂戴。」

そう穏やかな口調で強引に話を纏められてしまう。
未だ腹の虫が治まらずがチラリと黄女官を流し見れば、
彼女の方も不服そうにツンと横を向いた。

「ほらほら、もうこれでお仕舞い。
さんだってこれ以上事を荒立てた所で、彼女の言い分を肯定するようなものよ。
もし将軍のお耳にでも届いたら、それこそ不本意でしょう?」

ね?とにっこり小首を傾げられ、

「・・・・承知致しました。」

も渋々頷いた。
なんだか上手く言い包められた気分だ。
結局、黄女官は非礼を詫びるどころか、前言を撤回すらしていない。
劉部署長ばかりが1人満足気に、

「やはり出自が確かな方は違うわね。
幼い頃から礼法を嗜んでいるかどうか、こういう時に地が出てしまうものだわ。
お父君は確かエン州の方で県令に任じられてらっしゃるとか。
さぞ優秀な方なのでしょうね。」

なんての生まれを褒めそやした。

「過分なお言葉、痛み入ります。」

彼女の言い草に、肌を逆撫でされるような違和感を覚えつつ、
それでも礼を失さぬよう深く頭を下げる。
すると、肉厚の温かな手が少し湿ったの肩にそっと乗せられた。

「だからこそ、貴女の様な教養ある女官が不遇に耐えている姿を見るのは忍びないわ。
本来ならばどこぞの下婢上がりに従って、
武官などという粗暴な輩に傅かずとも済んだものを。
その挙句、謂れ無き中傷にまで苦しめられるなんて。さぞや臍を噛む想いだった事でしょう。」

うぅぅ、と芝居がかって目元を押さえる劉部署長は、一体何を言っているのだろう。
その真意がさっぱり分からず、はぁ、いえ、と曖昧に相槌を打つ。
すると彼女は意味深に目元を細め、そっと耳打ちしてきた。

「よろしければ、私が貴女を救ってさしあげてよ?」

詠うように囁かれて思わず目を見張れば、
それを了承と取ったのだろう。彼女はころころと楽しげに笑ってみせる。

「そもそも、韓部署長の口車に乗せられて特例を認めたのが間違いだったのよ。
我が父劉元穎が合肥城を治めて以来ずっと厳守されてきた規則だというのに。
危急の事態だなんだと理由をつけて軽視するなんて許されない事だわ。
可哀想に・・貴女はその煽りを受けただけ。」

劉部署長の睫が同情を禁じえないとばかりにバシバシ瞬かれるのを、は呆然と見詰めた。

(え・・我が父?劉元穎?え、え、それって確か前揚州刺史の名前じゃ?)

つまり彼女は、今ある合肥繁栄の礎を築き上げた先代城主、劉馥の御息女という事になる。
とんでもない大御所が出てきたものだと、は人目も憚らず天を仰ぎたくなった。
急激な緊張に口元が誤魔化しようも無く引き攣る。
こちらの変化に目敏く気付いて、劉部署長は満足そうに話を続けた。

「でももう大丈夫よ、安心して。
私の権限で貴女を文官付きへ転属させてあげるわ。
ただ、それには韓部署長の横暴を糾弾し、この特例がいかに理に沿わぬものであったか、
温刺史や張将軍にご理解頂く必要があるの。」

私の言ってる事分かるかしら?と俯くの横っ面に毒々しい視線が注がれる。
その眼光たるや獲物をじわじわ絡め取る蜘蛛のようで、
背筋を嫌な震えが走った。

「簡単な事よ。いずれ私が相応しい場を設けるから、
貴女はただ張将軍の御前でこちらの用意した台詞を諳んじてくれれば良いの。」

ね?たったそれだけ、と甘く囁いて柔らかな掌がゆっくりと肩をなぞった。

(・・・まずい。まずいまずいまずいまずい!これってもしかしなくても共謀のお誘いってやつだよね!?)

昔、友人達が面白半分で語って聞かせた宮中に渦巻く陰謀話の数々。
その一端をまさか垣間見る日が来ようとは。
女官暦5年。まだまだ自分は駆け出しのひよっ子だったようだ。

(というか、合肥怖すぎる!!)

真っ昼間の、
しかも野次馬がごまんと見ている食堂内で堂々と政敵を追い落とす算段をするのだから、
大胆不敵か厚顔無恥か。
とにかく彼女が韓部署長を嫌っているのは良ぉぉぉく分かった。
至近距離にある弓形の垂れ目が、
よもや断りはすまいな、と無言の圧力を発している。
綺麗に手入れされた福々しい指がやんわり肩へ食い込んでいるのは、気のせいだと思いたい。

(ここで素直に頷いとけば、少なくとも嫌がらせはされなくなるのよね・・・。)

彼女ほどの大物が味方についてくれたなら、女官達は表面上を受け入れるだろう。
朝は普通に挨拶を交わし、質問すれば丁寧に仕事の手順を教えてくれて、
一日の終わりに沐浴しながら愚痴を零し合う。
おおよそ都で過ごしてきた普通の女官生活を取り戻せる。

(けど・・・けどさ・・・。)

目の前で手薬煉引いて待ってる女郎蜘蛛と、
下男下婢にまでそれはそれは美しい拱手を披露していた鉄仮面。
どちらが信用に足るかなど一目瞭然だ。
第一、ここで頷いてしまっては合肥くんだりまで来た最大の目的を果たせ無い。

(あーあ、まだ当分は1人ぼっちだなぁ・・うぅぅ、泣きたい。)

とはいえ、例え味方は出来なくとも遥か遠く樊城で頑張っている親友は、
それでこそだ、と褒めてくれるはずだ。

「申し訳ございません。劉部署長の御心遣いには大変感謝致しておりますが、
私め程度の凡婦では貴女様の御期待に沿う働きは出来そうにございません。
謹んで御辞退申し上げます。」

はっきりそう答えて、は未だ肩を掴んでいる傷1つ無い手を丁寧に外した。
取り払われた方とは反対の袖口で口元を隠し、
本当にそれでよろしくて?と劉部署長が殊更ゆっくり念押ししてくる。

「はい。元より私は雑輩の1人に過ぎません。それを張将軍に召し出して頂いた身。
なれば、主より直々に罷免を頂くまで粉骨砕身するのが報恩にございます。」
「そう・・・とっても残念だわ。」

晴れやかな笑顔を添えて粛々と拱手を捧げれば、
海千山千の女策士はあくまでたおやかに了承した。

「ふふっ・・・今日は顔を合わせたばかりですし、ゆっくり考える暇も必要よね。
でも、忘れないで。
貴女が申し出てさえくれれば、私はいつでも味方になってさしあげるわ。
何しろ貴女は由緒ある出自の女官ですもの。
近い内に良い返事が貰えると信じてます。
その日を楽しみに待っているわ。」

鈴を転がす美声で、どろりと甘く囁いて、彼女は薄絹の彩かな長衣を翻した。
シャラシャラと涼やかに立つ衣擦れの音を、が冷や汗混じりに見送っていると、

「劉部署長!どうか私どももご同道させて頂けませんか!」
「もっと劉部署長の有り難いお話をお聞かせ下さいませ!」

そう口々に言い募りながら、
を取り囲んでいた女官の壁がそちらへと一斉に殺到する。

「ええ、もちろんですわ。皆様ご存知かしら?今、市中では・・・」

彼女達の向こうで劉部署長の甘ったるい声が遠ざかっていくのを、
辛うじて耳に拾う事が出来た。
最早誰もなど眼中に無く、押せや押すなの大移動で揉みくちゃにされる。
そのどさくさに紛れて何者かの手が卓上にあった深皿を、掻き集めた餃子ごと払い落とした。
があっ!と声を上げるも時既に遅く。
ギャリンっと陶器の割れる音が、雑踏に飲み込まれた。
やがて人波が引くと、見るも無残にぶち撒けられた昼食の残骸が顕になる。
砕けた皿混じりではもはや洗っても食べられないだろう。
深く深く落胆の溜め息を吐いて、はのろのろとその場に膝をついた。
比較的大きめの破片に、残りの屑を一つ一つ指で摘んで乗せていく。

(おのれ・・・この怨み晴らさでおくべきか!)

ぐぅ、と情けなく咽び鳴く腹の虫を生唾を飲んで宥めていると、
床しか見えなかった視界に、長い足が二本にょっきり生えた。
頼むからもう構わないでくれと、げんなりしつつ視線を上げれば、
ずいっと清潔な手布が差し出される。

「やーれやれ。とうとうやっちまったなぁ、お前。」
「・・・・・瑞火、さん?」

ニヤリと人が悪そうな笑みを浮かべて仁王立ちしていたのは、
ついさっき名前を知ったばかりの李典専属女官であった。

「ふはっ、しょぼくれたツラしてんじゃねーよ。
合肥女官の双璧、その1人に喧嘩売ったんだ。さっきの威勢はどうした!」

これまた以外な人物の登場にぽかんと口を開けていると、
彼女は持ってきた手布での頭も顔も一緒くたに拭き始める。
わしわし乱暴に擦られて、鼻の頭がヒリヒリした。
そのまま顔の上に放置された手布を捲り、おそるおそる相手を伺えば、
瑞火はさも嫌そうに顔を顰める。

「やめろ、そんな目したってオレはお前と仲良くする気は無ぇ!
縁故採用の甘ったれなんか大嫌いだ。」

虫唾が走るぜ、と素っ気無く吐き捨てられ、
先程から続く四面楚歌にすっかり弱っていたはその一言で留めを刺された。
実のところ涙腺は決壊寸前で、怒りと矜持でもってなんとか押し留めていたのだ。
みるみるぼやけ始めた視界に、が急いで手布を被り直していると、
上から手荒く撫で回された。

「けどまあ、お前よりアイツ等の方が何百倍も嫌いだからな。
なーーーーっんも知らされてねぇ哀れな生け贄に、殺される理由くらいは教えてやるぜ。」

そう言って、瑞火はどこから持ってきたのか残飯桶をドンっと目の前に置いた。
そのままの横に座り込み、馴れ馴れしく肩に腕を回す。

「お前さぁ、なんでこんなに他の女官から風当たり強いか、本当のトコ分かってるか?」
「・・私なんかが将軍の専属女官に抜擢されたから?」

ヒソヒソと問われて、感じたままを素直に答えれば、

「馬っ鹿、違ぇよ!」

と、すかさず額を小突かれる。
痛い、と恨みがましく非難するも相手は詫びるどころか、煩え、と開き直った。

「あのなぁ、いくら規則違反つったって、
将軍様たっての希望に女官風情が口出し出来るもんかよ。
それが前揚州刺史の御息女様だろうとな。
第一、それについちゃてめぇの子飼いである黄の奴と、
抱き合わせで働かせるってんで決着着けたんだぜ?」

それならばなぜを専属女官から執拗に外そうとするのか。
確かに不思議だと視線だけで同意すれば、瑞火は血色の良い唇を不敵に釣り上げた。

「あのおばはんにとっちゃ、お前なんかどうだって良いんだよ。
狙いは武官付き女官統括、韓汀樹鉄面皮様さ。」

そう言ってふふんっと鼻で笑う美人を横目に見ながら、
話の内容よりその口の悪さばかりに驚いてしまう。
瑞火こそ合肥女官の双璧とやらに喧嘩を売りたいんだろうか?
ハラハラと気も漫ろなに気付いて、
おい!ちゃんと聞いてんのか!?と彼女は不機嫌に喚いた。

「こっからが本題なんだからな。
いいか?お前がこの城に来る2ヶ月くらい前にな、
ウチの総責任者だった女官長が死んだんだ。」

話が唐突に血生臭くなって、は知らず知らず息を呑む。

「良い人だったぜ。オレみたいな泥付きにも優しくしてくれてさ。」
「あの・・・泥付きって?」
「ああ、都じゃそういうの無ぇの?
下婢から女官に上がった奴を、ここじゃ泥付きって言うんだよ。
多分、言い出したのはあの派手なおばはん辺りだと思うぜ。
あの女、下婢上がりを毛嫌いしてやがるからな。」

瑞火のぼやきに、は古巣がどうであったかを懸命に思い出す。
そういえば、都において下婢と女官は身分の違いに明確な線引きが成されていた。
特に女官の出仕条件はとても厳しく、
が奉公を許されたのも偏に推挙してくれた親戚のお陰である。
これでは瑞火に縁故採用と罵られても仕方ないな、としょんぼり視線を落とした。

「んで、その女官長なんだが、どうも階段から足を踏み外したらしい。
それなりに高齢だったし夜中だったから、上は事故って事で片付けちまった。
で、当然後任が必要なわけだが、内心みんな劉部署長で決まりだと疑わなかった。
人となりは糞だが肩書も出自も申し分無ぇ。
おまけに、どういうわけか対抗馬が次々辞退しちまったからな。
けど、そいつに温刺史が待ったをかけた。
挙句、長らく夫の喪に服してた韓部署長を口説き落として復職させちまったわけだ。」
「どうして温刺史はわざわざそんな波風立てるような事をなさったんでしょう?」
「さーな。あのおっさんの頭ん中なんてオレが知るかよ。
けど文官連中は、刺史様が次期女官長に韓汀樹を推す腹積もりだって噂した。
当然おばはんもそう思ったみたいで、面子を潰されたとかってそりゃもう怒り狂ったらしい。
是が非でも女官長の座に就いてやる。そのために邪魔者は排除しなきゃなんねぇ。」

そこでやっとこお前が登場だ、と再び中指の先で額を小突かれ、
は痛いと2度目の悲鳴を上げた。

「お前はな。張将軍の要望を受けた韓部署長が、
あっちこっちに無理を通してなんとか専属に就けさせた、いわば肝煎りだ。
そいつが問題起こして失脚したとなりゃ、任命した韓部署長も当然責任を問われる。
おばはんはその申し開きの場で、お前に有る事無い事言わせて、
鉄面皮を罷免に追い込むつもりなのさ。
全く、高貴なお育ちは考えることがえげつなくていけねぇや。
で、だ。ここまで聞かせてやりゃ、鈍いお前だって薄々勘付いたろ?」

なるほど、あの会話の裏にこんな仕掛けがあったのか。
つくづく誘いに乗らなくて良かったと、今更胸を撫で下ろしていたは、
不意に同意を求められて、きょとんと瑞火を見返した。
はい?と暢気に返事すれば、彼女はくっきり二重の大きな釣り目を胡乱に据わらせる。

「くぉんの凡愚がっ!」
「わわっ、ちょ、止めて下さいよ!だって本当に分からないんですってば。」

どっかで聞いた事があるような罵倒を吐いて、
瑞火が摘み上げた餃子の欠片を次々投げ付けてくる。
慌てて掌で防御しながら、は情けなく言い訳した。

「だーかーらー。あのおばはんが諸悪の根源なんだよ!
お前が四面楚歌なのも、出世のために股を開く売女だって噂されてんのも、
夜中に服が消えちまうのも。
ぜーんぶ、あのおばはんが手下の女官に命じてやらせてんの。
お前が根を上げて協力に応じるまで追撃の手は緩めないぜ。
それどころか、これからもっと酷くなるんじゃねぇか?
黄の奴からも逆恨みされちまったみたいだし、
こりゃ今後の展開が楽しみだな?」

せいぜい気張れよ、とさも嬉しそうに肩を叩かれて、
は顔面蒼白で縋り付くように瑞火を見た。
明日からの生活を考えるだに絶望しか浮かばない。
が、さしあたっての問題は、この後張遼の執務室に帰らねばならない事だ。

(黄女官に殺される・・・!)

ああぁぁぁ・・・と後半になるほどか細い呻きを上げて、は頭を抱えた。
彼女の旋毛を眺めつつ、瑞火が嘲り混じりに挑発する。

「なんだ、やっぱりおばはんの誘いに乗っときゃ良かったってか?
今からでも遅くはないぜ。追い縋って、あの趣味の悪ぃ長衣の裾にしがみ付けよ。
靴の先に接吻すりゃ喜んで助けてくれるぜ。」
「はぁあ?何ですそれ!?絶対に嫌です。お断りします。
というかさっきも言いましたけど、私が女官の任を頂いたのは張将軍なんです!
前城主の御息女様だかなんだか知りませんけど、絶対辞めませんから!!」

ばっと勢い良く手布を脱ぎ捨て、それでも気が済まず立ち上がったが、
馬鹿にするなと吼える。
しゃがみ込んだままの美人は、こちらの癇癪に動じる様子もなく、
呆れ顔で片眉を持ち上げた。

「・・お前、どんだけ将軍様に惚れ込んでんだよ?
あれか?やっぱアレがデカいのか???」

言ってる事は先ほどの黄女官とさして変わらないが、
こちらは純粋な興味のようで、明け透けな物言いにの顔がぼんっと沸騰する。

「何を馬鹿な事っ、わ、私がそんな将軍の、ア、アレ・・っっとにかく!!
誤解を招く憶測は謹んで頂きたい!」
「へ?マジかよ・・てっきりもう将軍の将軍様を拝んでるもんだと思ってたぜ。
張将軍てもしかして・・・・不能なのか???」
「っ!!!?!?!???」

艶やかな唇から飛び出した下品極まり無い台詞に、最早反論すら出て来ない。
熟し過ぎの柿と化したへ瑞火はなおも面白半分に、実際どうよ?と尋ねた。

「そ、そそそんなの知るか!このっ破廉恥っ!!」

やっとかっと絞り出した調子外れの裏声に、瑞火はとうとう腹を抱えて笑い出す。

「あはははっはは、ふ、ふふっひ、腹、腹が・・死ぬ・・・っきひ。」

身体をくの字に折ったまま立ち上がり、けれど堪え切れず卓の上に突っ伏した。
ごろごろ転がる残念な美人を、はぎりぎり歯軋りして睨みつけたが、
どうせ彼女にとっては痛くも痒くも無いだろう。

(忘れてたわ、この人あの李将軍の専属女官だった・・・。)

あの屁理屈魔と日々渡り合っているのだから図太いのも納得だ。

「私、厨から床を拭く物貰ってきますから!
瑞火さんも仕事に戻られた方が良いんじゃないですかぁ!?」

ふんっと鼻を鳴らして、が残飯桶を抱え上げると、
頬をぺったり卓に押し付けたまま、まだ涙目の瑞火がニヤニヤ見上げてくる。

「おう、そうさせてもらうぜ。いやぁ、笑った笑った。
楽しい玩具になってくれた礼だ。気が向いたらお前のこと助けてやんよ。
けど、こう見えてオレも将軍付きだかんな。
くっそ忙しからあんま当てにはすんなよ。
あと、てめぇのケツも拭けねぇ甘ちゃんは嫌いだからな。
しっかり有言実行に励め!」

と字を呼ばれ、悔しいがじんわり鼻の奥が痛くなる。
うるっと水分の増した瞼を瞬かせて、

「ありがと、瑞火さん。」

と、ぐすぐすどもりながら礼を言えば、彼女は猫でも追っ払うようにしっしと手を振った。
そうしておいて、

「あ、お前ちゃんと将軍に不能かどうか聞いとけよ?大事なこったぞ?」

なんていらぬ捨て台詞を言うのだから、愉快犯にもほどがある。

「誰が聞くかっ!!!」

それでも律儀に怒鳴りつけてから、
は弾ける様な瑞火の笑い声を背に早足でその場から逃げ去った。




















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