※ caution ※

・ちゃ、ちゃんと2話目からは名前変換あるんだからねっ!
・年齢設定 劉備>関羽>張飛=趙雲
・趙雲と張飛がダチ設定。二人の時は敬語無し。
・その他色々、捏造は通常運転です。

以上をご了承の上、楽しんで頂ければ幸いです。


























小糠雨を巻き込んだ冷たい風が、一際強く回廊へと雪崩れ込んできて、
しゅるりと布の擦れる音が微かに聞こえたかと思うと、
黒絹の滝が趙雲の視界を唐突に遮った。
唖然としつつ足を止め、おもむろに頭の後ろを手で探れば、
予想通り髪を束ねている筈の結い紐が消え失せていて、思わず眉を寄せる。
恐らくは今の強風で切れるか解けるかしたのだろう。
嘆息しつつ辺りの床を見回すが、雨が吹き込んで濡れそぼった石畳に、
使い古された髪結い紐の姿は見当たらなかった。
もしやまだ絡まっているのだろうかと手櫛で確かめてみるものの、
湿り気を帯びた冷たい髪が指に引っかかるばかりだ。

(殿がお呼びだというのに、なんと面倒な・・・)

風に乱れては肌に張り付いてくる長い髪を鬱陶しげに掻き上げ、
この際短く切ってしまおうかと逡巡する。
元々自分はさほど身なりを気にする部類の人間では無いし、
やれ烏珠だ黒曜だと女官達に褒めそやされたところで、
戦の役に立つわけでもない。
しかし、これまでも何度と無く切ろうと思い立ちながら、
結局そのままにしてきた原因が、今回も趙雲を思い止まらせた。
再び目を凝らし視線を周囲へと巡らせて、
飾り気などささらも無い白の綿紐の行方を追う。
けれど、見渡せる範囲にそれらしき物の影は無く、
かといって本格的に探して回る時間も無かった。

(いかんな、これ以上殿をお待たせするわけには・・しかし・・・。)

どうにもこの場を去る踏ん切りがつかぬまま思案に暮れていると、
風雨から竹簡を庇いつつやって来た若い文官が、

「いかがされましたか、趙将軍?」

と恭しく腰を折り尋ねてくる。
その朴訥な人柄が滲み出る笑顔を見下ろして、

「いや・・・大事ない。足を止めさせてしまってすまなかった。」

と、彼らしい誠実な返答を返せば、
文官の方も、要らぬ差し出口を失礼致しました、
と申し訳なさそうに再び腰を折った。
いつまでも自分がここに留まっていては他の者の手を煩わせてしまう。
それでは失礼致します、と去っていく文官を見送って、
ようやく迷いを断ち切った趙雲も、急ぎ足でその場を離れた。
執務室に戻れば、予備の結い紐があったはずだ。
普段から新しい物を使わせようと躍起になっている専属女官の事だ、
これぞ好機と喜色満面で選んでくれるだろう。
ともかく、今は主君の招集に応じるのが先決だ。

(後でまた探しに来よう。もし見つからずとも、髪を切るきっかけを得たと思えば良い。)

そう自分に言い聞かせ、大股で風を切って歩きながらも、
心の一部をどこかに置き忘れてきたような喪失感は増すばかりで、
趙雲は風に暴れる髪を苦々しく払った。










『 そぼ降る雨に佇む君は 』










分厚い暗雲から一日中降り注いだ地雨は、夜になるといっそう物悲しさを増し、
まるで冬に逆戻りしたかのような寒さまで連れてきた。
市街の巡回を終え帰城した趙雲が濡れ鼠のまま執務室へ戻ってくると、
程よく温められた空気が、冷えた身体を優しく包んでくれた。
見れば既に室内には火鉢が置かれ、白い灰の上で木炭が煌々と赤く輝いている。
冷たく強張っていた頬を無意識に緩ませつつ、奥の寝室へと向かえば、
寝台の上には、きちんと畳まれた真新しい漢服と、清潔な手布、
足元には乾いた布靴が並べて置かれていた。
すぐ傍には濡れた服を入れるための籠まで用意されており、
これらを準備してくれた女官の心遣いに感謝する。
どういうわけか趙雲付きの女官は短い任期でころころと入れ替わるのだが、
今度やって来た娘は、なんでも荊州刺史劉表に食客として招かれた文人の御息女らしい。
なるほど知性と気品に溢れてはいるものの、時折良家の子女らしい高慢さが見え隠れした。
とはいえ、元より女官に多くを求めない趙雲であるし、
今までの女官達の中では一番仕事も丁寧で、何より細やかな気遣いが有難かった。
身体用と髪用とで二枚用意された手布に感心しながら、
水分を吸って固くなった結い紐を力任せに解けば、きしっという繊維の裂ける音が聞こえ、
思わぬ失態に顔を顰める。
案の定、爽やかな空色の絹紐は丁度結び目だった位置で真っ二つに切れており、
将軍にはこの色が一番お似合いです、と嬉しそうに選んできた女官の顔を思い出して、
趙雲は嘆息した。
故郷を出て以来ずっと愛用してきたあの白い綿紐は、
どんなに手荒く扱っても切れる事が無かったというのに。

(早く探しに戻らねば・・・)

結局あれからずっと政務に追われ一度も回廊に行けなかった趙雲である。
今度こそと勢い勇んで寝室を出れば、一体いつの間に用意されたのか、
質素な素焼き火鉢の前に、背凭れ付きの藤編み椅子が置かれ、
執務机の上では陶器の杯が白い湯気を立てていた。
自室という事で多少気が緩んでいたとはいえ、元来気配には敏感である武人に全く気取らせないとは、
女官の見事な手並みに不覚を覚えつつ、まさか素通りするわけにもいかないだろうと、
いちおう杯を片手に椅子へと座ってみる。
鼻腔を潤す湯気に微かな生姜の香りが交じっていて、口に含めば、ぴりっとした爽やかな辛みが、
ほんのりとした甘みとともに舌の上へと広がった。
臓腑にほかほかと熱が溜まる心地よい感覚を味わいながら、もう少し、あと少しと引き伸ばし、
趙雲は結局杯の中身を全て飲み干してしまうまで、椅子を動かなかった。
悴んでいた足先も火鉢から伝わる丁度良い熱ですっかり温まり、
血行の良くなった身体はもうここで休んでしまいましょう、と誘惑する。
じわじわと侵食してくる睡魔を追い払うように、いかんいかん、と頭を振っていると、
女人の楽しげな話し声が遠くから聞こえてきて、
部屋の入り口から、目鼻立ちの愛らしい可憐な娘が現れた。
慌てて居住まいを正し椅子に座りなおせば、
相手も相当驚いたようで、仔犬のように円らな瞳を大きく見開くと急いで礼をとる。

「これは趙将軍、お出迎えも致さず大変失礼致しました。ちょうど女官の皆と夕餉を頂きに食堂へ行っておりましたもので。
お勤め御大儀様でございます。」
「いや、私も今帰って参ったところなのだ。それよりも、色々と気遣いをありがとう。
おかげで温かく過ごせた。」

特にこれはとても美味しかったと、杯を差し出して見せれば、
女官はほんの一瞬だけ戸惑った顔を見せたものの、すぐさま優雅に微笑んで、

「将軍に満足して頂けたのならばこの上ない喜びにございます。
ご所望とあらばもう一度お茶を入れて参りますが。」

そう尋ねながら丁寧な手付きで杯を受け取った。
彼女の申し出に、いや、もう十分だ、とこちらも笑顔で答えながら、
ふと疑問を覚え、

「ところで、紅蘭。私の勘違いかも知れないが、これは生姜湯では無かったのだろうか?」

そう単刀直入に尋ねれば、複雑に髪を結いあげた見目麗しい女官は今度こそはっきりと動揺し、

「あ、あら嫌ですわ、わたくしったら。ついいつもの癖でお茶と申してしまいました。」

粗相をお許し下さいませ、とこんな時でも気品の漂う仕草で腰を折る。
どうにも引っかかる態度ではあるが、
彼女でなければ一体誰が仕事でもないのに趙雲の世話など焼くというのか。

(まさか間者がわざわざ火鉢を熾し着替えを用意する筈もないだろう。)

北の大敵曹操に、客将と歓迎しつつ腹の探り合いを仕掛ける劉表、
思い当たる節は多々あれど、こちらに害を成そうというならば、
生姜湯を口にした時点で趙雲は既に死んでいるはずだ。
ここ数日傍で見てきた限り、目の前の娘にそんな昏い腹芸が出来るようには思えない。
やはり自分の杞憂であろうと、未だ深く礼をとったままの女官に向け、

「あまり気に病まないでくれ。私こそ、些末な事を聞いてすまなかった。」

と謝辞を伝えれば、彼女はやはりどこか挙動不審のまま、

「い、いえ、ではわたくしは濡れた御召し物を下婢の元へ持って行って参りますわ。」

と奥の間へ消えて行った。
果たして鬼が出るか蛇が出るか。
何か秘密を抱いてはいるのだろうが、全く隠しきれていない娘の態度に苦笑して、
趙雲は自分も落し物を探しに行くべく手持ち用の灯篭を準備する。
けれど、洗濯籠を小脇に抱え現れた女官が、

「ついでに、趙将軍の夕餉もお持ちいたします。用意が整いますまで、
どうかそのまま暖を御取りになっていて下さいませ。」

と、すっかり平静を取り戻した様子で、自慢の笑顔を惜しみなく振りまいたため、
趙雲は結局椅子に逆戻りする事となった。





雨に濡らしてしまった槍の手入れをし、
女官が持ってきてくれた夕餉を有難く完食する頃には、宵も随分深まってきていた。
窓の外からは相変わらず啜り泣きのような雨音が聞こえ、
膳を片付けていた女官が、明日は晴れると良いのですが、とうんざりした口調で零す。
そうだな、と趙雲も苦笑を浮かべて肯定し、

「紅蘭。それを食堂へ届けたら、今日はもう帰ってくれて構わないよ。」

お疲れ様、と労いの言葉を付け足せば、女官は承服しかねる様子で質問を返した。

「はい・・・ですが、趙将軍はまだお休みにはなられないのでございましょう?」
「ああ、まだ今日の巡回の報告を竹簡に記さねばならないからね。」
「でしたら!わたくしも将軍の政務が御済みになるまで傍に侍りとうございます。
僅かなりとも趙将軍のお役に立てる事が紅蘭の至福ですもの。」

頬を上気させ潤みを帯びた目でひたと見据えられ、趙雲は微かに顔を強張らせた。
今まで仕えてきた女官のほとんどが見せた、艶やかな媚びを含んだ視線が、
実は心底苦手な趙雲である。
さすがに態度に出したりはしないが、一つ対応を間違えれば大惨事を招く事は、
これまでの経験則から骨身に沁みていた。
戦友であり、その明朗な性格ゆえ親しく話す事も多い、義兄弟の末弟殿に言わせれば、

「いちいち女共の機嫌なんざ伺ってられるか、しゃらくせえ!」

だそうなのだが、女人の団結力というのはなかなかに侮れぬものだ。
無頼を気取るのは簡単だが、そうすると当の女官のみならず、
日々の雑務を請け負ってくれている様々な助けまで失う事になりかねない。
実際、趙雲の何気ない一言が原因で女官同士が対立し、やがて派閥争いにまで発展。
最終的に数名の女官が城内の風紀を乱したとして罷免される事件まで起きていた。

「いや、今日は随分冷え込んでいる。そなたに体調を崩されては、私が困るのだ。
どうか早めに休んで欲しい。」

そう、出来る限り彼女を怒らせぬよう言葉を選んで説得すれば、
楚々たる見目に反して中々に強情な娘も、将軍がそうおっしゃるのでしたら、と渋々了承した。

「それでは、わたくしは御先に失礼致します。もし何か少しでもお手を煩わせる事がございましたら、
すぐに呼び戻して下さいませ!喜んで馳せ参じますので!」

そう最後まで未練を滲ませながら、専属女官が膳を抱えて退室すると、
趙雲は無意識に入っていた肩の力を抜いた。
まさか、これから無くした髪結い紐を探しに行くなどと、
彼女が選んでくれた物を見事に引き千切った自分が、言えるはずもない。
不純な動機が多少含まれているとはいえ真摯に世話をしてくれている女官殿には申し訳ないが、
これで邪魔が入らずに済むと安堵し、趙雲は今度こそ手持ち用の灯篭に火を入れた。
そのまま、執務室から出ようと引き扉を開けた趙雲だったが、
火鉢に温められた体に外の空気は思いのほか冷たく、
羽織る物を取りに部屋の中へと引き返す。
洗濯済みの衣服が入った長櫃を開けると、一番上に厚手の上掛けが鎮座していて、
こんな所にまで女官の気遣いが回っていることにいささか驚いた。
恐らくは、必要になった時探さずに済むよう、わざわざ見える位置に出しておいてくれたのだろう。
使われない可能性の方がずっと高いというのに、徹底した心配りには頭が下がる。
いつかきちんと彼女の献身に対し感謝の気持ちを形にせねばな、と面映ゆい笑みを浮かべ、
趙雲は清潔な香りのする長衣を羽織ると、執務室をあとにした。









所々に松明が掲げられているとはいえ、夜の城内はほとんど闇に没している。
ましてや風雨が吹き込む回廊に至っては、その数少ない光源さえ小さく震え上がり、
今にも消えてしまいそうだ。
頼みの綱である小さな灯篭を懐に庇いながら、
趙雲は濡れて滑りやすくなった石畳を慎重に進んだ。
布靴に雨水が染み込んでくる感触を不快に思いながら、
どこかにそれらしい結い紐が落ちてないか目を凝らしていると、
丁度昼間髪が解けた辺りの下、一段低くなった中庭に蠢く影を見つけた。
最初こそ風に揺れる秋海棠の茂みかと疑ったが、近付いてみれば、
柱に備え付けられた松明の脆弱な光の中でさえ、
屈んだ誰かの後姿だと判別が付いた。

(刺客か?だが、それにしては無防備過ぎる。)

何より人影は、今の自分と同様しきりに辺りを見回しながら何か探している様子だ。
警戒を解いた訳ではないが、
いきなり取り押さえるのは止めにして、趙雲はまず回廊の中から警告を試みた。

「何者だ。そこで何をしている。」

逃走もしくは急襲された場合でもすぐに捕獲できるよう、油断無く身構えながら、
灯篭を相手に向かって突き出せば、
不意打ちが成功したのか、小柄な丸い背中がギクリと固まった。

「ゆっくりこちらを向け。」

正体不明の輩が完全に動きを止めたのを見計らって、
無暗に刺激せぬよう静かな声音で次の指示を出す。
するとさして逆らう素振りも見せず、影は素直に立ち上がって振り向いた。
屈んでいた時より幾分大きくはなったが、
それでも予想していたより随分華奢な体格に、もしや女人か?と趙雲が訝しむ。
もっと良く姿を見ようと灯篭を翳せば、影は怯えて反射的に手で頭を庇いそっぽを向く。
顔こそ確認できなかったものの、この寒さに似つかわしくないずぶ濡れの粗末な衣は、
この城に勤める下男下婢に支給されている物で、
雨で崩れかけた纏め髪を二本の棒が辛うじて支えていた。

(あれは・・・・・箸か?)

あまりに簡素な簪に趙雲が場違いな感想を抱いていると、
既に八割方疑いが晴れていた人物が、突然小さく、あ、と呟いて、
中庭の奥へと身を翻した。
己の慢心に舌打ちしながら、

「動くな!逃げれば、刺客と見なすぞ!!」

と趙雲が叫べば、逃走したはずの不審者は、
どういうわけか咲き初めの梅の木の下にしゃがみ込んだ後、すぐに踵を返し戻ってきた。
そうして今にも回廊から飛び出そうとしていた趙雲に向かって、
深く腰を折り、無言で両手を捧げ上げる。
小柄な背に見合う細く小さな掌には、見覚えのある白い髪結い紐が乗っていて、
趙雲は呆気にとられたまま伏せられた相手の顔を凝視した。

(まさか、これを探していたというのか?だが、なぜ?)

いつまでも彼が受け取らないため心配になったのか、
俯いていた頭がおずおずと上がり、血の気の失せた青白い細面が露わになる。
怯えた様子で上目使いにこちらを見上げる切れ長の瞳は、
見覚えこそ無いものの、明らかに年若い女人のそれで、趙雲は今度こそ慌て出した。
つい先ほどまで火鉢に温められていた趙雲でさえ、この短時間ですっかり手足の熱を奪われてしまったのだ。
果たして娘がどれほどの間ここでこうしていたのかは分からないが、
この冷たい風雨に晒され続けて凍えないはずがない。
改めて確認すれば、カチカチと微かに歯の鳴る音が聞こえ、
髪紐を掲げる手は元より、薄い肩も、ぐっしょりと衣服が張り付いた足も、
震えが走っているではないか。

「とにかく今は屋根の下に入りなさい、話はそれから聞こう。」

と無理矢理掴んで引っ張り上げた手首は死人のように冷たく、指が二関節分も余るほど細かった。
回廊の中に引きこんだものの、今度は固い石床の上に平伏して再び紐を捧げ上げる娘を、
趙雲は驚きと微かな苛立ちを綯い交ぜにして見下ろす。

「良いから立ちなさい。これ以上、女人が体を冷やすべきではない。」

と心なし固い口調で命令すれば、叱責されたと感じたのか慌てた様子で立ち上がった。
結い紐を両手に握りしめたまま、伏せた視線をおどおどと所在無く彷徨わせる少女に、
自分が羽織っていた長衣を頭から被せ、多少乱暴に袖を肩口へと巻き付ける。
さすがに強引過ぎたかと苦笑いを浮かべた趙雲が、

「この寒さだ。役に立つとは思えないが、無いよりはましだろう。」

早く部屋に戻って着替えると良い、と怯えさせないよう優しく諭せば、
娘は顔まで覆い隠した上掛けをそっと指先で持ち上げ、
雫を滴らせた長い前髪の間から、じっと凝視してくる。
その猫のような瞳は、警戒や戸惑いといった彼女の胸中を驚くほど正直に伝えてくれるのだが、
本人はやはり一言も喋ろうとはしなかった。
趙雲の方も、疑問は山ほどあれど、さて何から聞いたものかと途方に暮れる。
互いに互いの出方を探りながら待つこと少々。
結局おずおずと結い紐を両手で差し出した娘の、徹頭徹尾一貫した態度に眩暈を覚えつつ、
趙雲はまずはそれを受け取る事にした。

「ありがとう、確かにこれは私の物だ。この暗い中探すのはさぞ大変だっただろう。
手間を掛けさせてしまって申し訳なかった。
だが今夜は寒いし雨も降っている。そなたのような若い女人の不養生はあまり関心出来ない。」

私物を見つけて貰った手前心苦しいが、これで病に伏せられてはそれこそ寝覚めが悪いというものだ。
そう控え目に苦言を呈すものの、少女の方は聞いているのかいないのか、
目的を達成しすっかり安堵した様子でぺこりと頭を下げ、さっさと踵を返してしまう。

「ま、待ってくれ。そなたは下婢なのだろうか?出来れば名前を教えて欲しいのだが・・・」

あまりにもあっさり去って行こうとする謎の娘を慌てて呼び止めれば、
彼女は一度だけ振り返り深々とお辞儀すると、ほとんど駆け出すような足取りで逃げ出した。
趙雲の足ならば、娘に追いつくなど造作も無い事だ。
けれど、明らかに大きすぎる長衣を頭からすっぽりかぶって、
ふらふらと覚束ない足取りで必死に逃げていく様は、どこか小動物を思わせる拙さで、
ついつい毒気を抜かれてしまう。

「・・・やれやれ、色々聞きそびれてしまったな。」

娘が溶けて消えた回廊の先を眺め、趙雲は今起こった事をどう受け入れて良いものか、頭を掻く。
手の中の髪結い紐は、どう贔屓目に見ても高値で売れる品じゃない。
金に換えるのが目的じゃ無いとするなら、あの娘はなぜ雨に打たれてまでこんな物を探していたのか。

(私に近付くための口実、というのも有り得ない話ではないが・・・)

髪結いのための飾り紐など安くでいくらでも手に入る。
今さらこんな使い古しを拾ってきたところで、歯牙にもかけられず追い返されるのが関の山だ。
恩を売るにしたって、あまりにお粗末だろう。

(だが、もしこれが私にとって特別な結い紐であると知っていたなら・・・)

そう考えて、それこそ有り得ないだろうと首を振った。
この事は、今は亡き兄と、生涯の忠誠を誓った主君の二人しか知らぬ事実だ。
考えれば考えるほど、目の前に広がる夜闇のごとく答えが見えず、
趙雲はつい今しがた手元に戻ってきた形見の品を、呆然と見下ろした。









次の日の朝、行方知れずになったはずの小汚いお古が、趙雲の黒髪に再びしがみ付いているのを見て、
出仕してきた女官は花のかんばせを大いに引き攣らせた。
綺麗に泥を落とし一晩きちんと乾かした綿紐は、新品とまではいかずとも、
それなりの白さを取り戻していると思うのだが、彼女はどうしても納得出来ないらしい。

「あの・・・・いえ、なんでもございません。」

と、明らかに不服そうな様子で口ごもる女官殿には申し訳ないが、
趙雲としては、あるべき場所にあるべき物が戻ってきて大変満ち足りた気分だった。
それに今はもっと気がかりな事がある。

(昨日のあの娘、恐らく下婢だろう。)

雨に濡れ変色してはいたが、彼女が身に纏っていた鶸茶色の漢服は下婢に支給されている物で間違いない。
頼りの綱が昨夜の不確かな記憶だけというのは少々心許ないが、
逆に考えれば、探せば必ずこの城のどこかに居るという事でもあった。

(案外、これまでに城内で擦れ違った事があるやも知れないな。)

朝の調練に向かうため、慣れた手つきで手甲を嵌めながら、
頑なに結い紐を差し出してきた震える少女の姿を思い浮かべる。
無事に宿舎まで戻れたのかも心配だったが、それ以上に、彼女の行動は謎に満ちていて、
考えれば考えるほど興味は尽きなかった。
今この時に、大切な覚悟の証が失われ、再びあの娘の手によって戻ってきた事には、何か意味があるのでは無いか。
そんな根拠の無い思い込みに陥りかけて、趙雲は、下らない、と自らを鼻白んだ。

(子供染みた妄想に頼るほど、私は平和呆けしているのか。)

劉備軍が劉表の元に身を寄せ、北の脅威に対する盾として新野を任されてから既に2年が経とうとしていた。
その間に袁紹が病没し、その傘下の悉くが曹操の軍門に下った。
やがて遠からぬ内に河北は全て彼の支配下となるだろう。
覇道を進むあの男が潤沢な兵糧と膨大な兵力を手にすれば、次に考える事は一つしか無い。
それなのに、我が主は未だ確固たる地盤も無く、劉表の捨て駒のような立場を強いられている。

(いや。今の我が軍がまともに曹操軍とぶつかれば、時間稼ぎの囮にすらなれないだろう。)

もはや戦力差を覆せない事は明白で、
今こそ、この窮地を打破し、主君の志を天下に実現させるための妙策が必要だというのに、
趙雲が毎日している事といえば新兵の訓練と市街の巡回だけだ。

(焦れてきているな・・・)

絶望的な終焉が確実に訪れると分かっていながら、不気味なほど穏やかに過ぎていく日々に。

「・・・趙将軍?どこかお加減でも悪いのでございますか?」

そう、不安そうな女官におずおずと声をかけられ、
昏い物思いから引き戻された趙雲は、自分が具足を手にしたまま固まっていた事に気付く。

「わたくしの振る舞いがお気に触ったのならば申し訳ございません!
どうかお許し下さいませ!決して将軍の意向に異を唱えるつもりなど・・・」

そう言い募る彼女の、零れ落ちそうなほど大きな瞳には怯えの色が強く浮かんでおり、
よほど自分は怖い顔をしていたのだろうと分かる。
この未熟者め、と苦い自己嫌悪を飲み下しつつ、

「すまない、少し考え事をしていただけなのだ。
私の方こそ無暗に怖がらせてしまって申し訳なかった。」

そう、未だ不安そうな様子の女官を慰めれば、
彼女は頬をほんのりと上気させ、そんな怖がるだなんて、と恥じらうように目を伏せる。
その姿は、女官の可憐な容姿とも相まって、
いかにも世の男の庇護欲を掻き立てる健気な仕草であったが、
残念ながら今の趙雲には不安材料の一つにしか成り得なかった。

「わたくし、将軍を御慰め出来るのならば、どのような事でも致しますわ・・・。」

そう鼻につくような甘え声でにじり寄ってくる女官から、
さてどうやって逃げようかと四苦八苦していると、

「よぉ!趙雲、邪魔するぜぇ!」

という常に大音量のがなり声が響き渡り、執務室の入り口から虎髭の巨漢がぬっと現れた。
気勢を削がれた女官がそそくさと離れていくのを目の端に見止めながら、
趙雲は天の助けとばかりに、戦友へと笑顔を向ける。

「おはようございます、張飛殿。このような朝早くにいかがなされた?」

そう歓迎の意を滲ませて礼をとれば、張飛は彼らしい豪快な笑みを浮かべ、

「おう、お前まだ時間あんだろ?ちょっと付き合え。いい加減、町のごろつき相手じゃ腕が生っちまわぁ。」

そう言って、荒縄を縒り合わせたかのような太い二の腕をパンパンと景気良く叩く。
趙雲にとっては、女人との甘やかなひと時より、
力と技との緊迫した鬩ぎ合いの方がよほど心躍るというものだ。
野生の勘なのか、案外機微に聡いのか、絶妙の頃合いで助け舟を出してくれる快活な友人に、
一も二も無く頷き返した。
先ほどまで無意味に手古摺っていた具足をさっさと履き終えると、
愛用の槍を掴み取り、女官の名残惜しそうな顔には敢えて気付かぬふりをして部屋を出た。

「おい、ひと声掛けなくて良かったのかぁ?なかなかの上玉だぜ、ありゃ。」

先に歩き出していた張飛の隣に早足で追いつけば、
ニヤニヤと人の悪い笑みを浮かべた戦友が肘で小突いてくる。
勘弁してくれと嘆息し、

「張飛殿がご所望とあらば、いつでも紹介致す。まぁ、奥方の耳に入ると少々厄介でしょうが。」

とこちらも人の悪い軽口で返せば、豪放磊落を絵に書いたような男は、その荒々しい眉を情けなく垂れ下げた。

「冗談じゃねえ!あれを怒らせたらどうなるか、おめぇだって知ってるだろうが。」

そう悲鳴を上げるのも最もで、張飛の妻君は魏の猛将夏侯淵の姪だけあって、なかなかに胆の据わった女傑である。
張飛とはかなり歳の離れた幼な妻ではあるが、過酷な流浪の旅の最中も文句一つ言わず二人の幼い子供を育て上げ、
新野に来てからも、癇癪持ちで酒癖の悪い夫の尻拭いを一手に引き受ける、まさに良妻賢母だ。
彼女が居なければ、張飛の将としての権威はとっくに失墜しているだろう。

「近頃じゃ、ガキ共まで媽媽の味方でよ。俺ぁ屋敷じゃ孤立無援なんだぜ?」

そうぼやく張飛は、だが愉快で堪らないといった顔をしていて、憎まれ口と本心が一致していないと一目瞭然だった。

「いいか、趙雲。嫁に貰うなら気の強い女だけは止めとけ。でねぇと俺みてぇに頭が上がらなくなっちまうぞ。」

攫ってくるほど惚れ込んだ恋女房の尻に、好きで敷かれていながらそんな忠告をしてくる友人へ、
趙雲は苦笑しつつわざと挑発じみた返事を返す。

「はは、胆に銘じておこう。しかし、奥方に頭が上がらないのは、張飛殿の日頃の行いのせいではないのか?」
「てめぇ、ぬかしやがったな。後で吠え面かくなよ?みっちり叩きのめして、足腰立たなくしてやらぁ!」
「張飛殿こそ、負けても昨夜の酒が残っていたなんて言い訳は通じんぞ?」

久しぶりに歯応えのある手合せが出来る事が余程嬉しいのか、とうとう練兵場へ向って走り出す張飛の後を追いながら、
趙雲も腹の底から沸々と闘争心が湧き上がるの感じていた。
問題を先送りにしている事は重々承知している。
しかし、思い悩んだところで所詮は武官の趙雲に、現状の打開策を見い出せるはずも無い。
今は気の良い戦友の誘いに乗って、しばし一己の武人に戻らせてもらおうと、
趙雲は勝負の前の心地よい緊張感に身を委ねた。











next