朝まだき。
ようやく白み始めた空に、数百を超える蹄の音が雷鳴の如く轟く。
隊列が乱れぬぎりぎりの速さを保った騎馬隊は、
早春の寒風吹きすさぶ田園を、新野の囲郭に向かって一直線に切り裂いた。
投擲された槍さながらに細く鋭く突き進む人馬の群れは、
やがて巡回中の城兵達が慌てふためいて開け放った城門へと吸い込まれていく。
あっという間に駆け抜けた隊列の殿で、一際輝く白馬の将が大きく手を振り上げれば、
それを合図に巨大な門は再び手際良く閉ざされた。
勇壮な一団の中でも抜きんでて手練れと分かる凛々しい戦装束の男は、
それを最後まで見届けた後、開いてしまった隊との距離を縮めるべく鐙をくれた。
一つに纏めた黒髪を流星のように棚引かせ、整然と列を成して駆ける騎馬隊へ追いつくと、
更に中腹まで駆け上がる。

「城下に入ったからといって簡単に気を抜くな!この速さで落馬すれば命は無いぞ!!」

と、向い風に負けぬ大音声で一喝すれば、途端に新兵達の顔が引き締まり、
まばらになり始めていた互いの間隔も等しく整えられた。

(まだ指示に従うだけの気力が残っているとは。さすが、関羽殿に選ばれただけの事はある。)

速度を緩め、遅れるに任せて殿へと戻りながら、趙雲は新入りの兵達へと素直な賞賛を送った。
志願、もしくは徴兵されてきた新兵は、まず最初に張飛が率いる歩兵部隊へと編入され、
そこで文字通りの地獄を体験し、匹夫から勇士へと作り替えられる。
かくも厳しい洗礼を耐え抜いた者達は、次に関羽の元で本格的な戦術を叩きこまれ、
その中でも見込みがあるとお墨付きをもらった精鋭が、
騎馬兵見習いとして趙雲の部隊に配属された。
とはいえ、一月ほど前に生まれて初めて馬に触れたばかりの兵士達にとって、
初の城外演習は相当過酷だったはずだ。
たかが一昼夜といえども、昼は小休止さえ騎乗した状態で陣形訓練に明け暮れ、
夜は夜襲を想定した無作為な緊急招集を朝まで繰り返したのだ。
碌に眠る事も許されず、体力も底を尽き、恐らくは気絶寸前であろう彼等は、
落ちれば命が無いという恐怖だけで必死に馬へと齧り付いていた。
どうやら今回は優秀な者が多いようだと、趙雲は一番後ろから部隊を眺め、満足そうな笑みを浮かべる。
それゆえに、彼等が手綱を握る軍馬達の不揃いな体格が苦々しかった。
現状では軍馬の供給を劉表軍に頼るしか無く、極僅かな頭数を不定期に供与されるのみであった。
挙句、良馬のことごとくは既に彼らが徴収してしまっており、劉備軍に回ってくるのは、
熟れきっていない若馬か、どうにも使い道の無い駄馬か、人を寄せ付けぬ悍馬か。
それでも、領内の馬飼いと交渉したり、退治した夜盗や賊徒から押収したりと、
ありとあらゆる手段で掻き集め、なんとか六百ほどの騎馬を整えたが。

(まだまだ足りぬな。戦力と頼むには、せめて千騎は必要だ。)

少数といえど精強と自負している。
特に趙雲の麾下百騎は、かの名高い虎豹騎とさえ渡り合える確信があった。
それでも、所詮寡兵は寡兵。

(何もかもが、遠く及ばない・・・。)

最近とみに勢いを増した焦燥が、ジリジリと肺腑を焼く。
己の無力を奥歯で噛み潰しながら、
趙雲は少しずつ眼前に近付いてくる新野城を、険しい顔で睨み上げた。












帰投した練兵場で、精根尽きて次々と馬からずり落ちていく新兵達に、
夕刻の巡回まで余暇を言い渡し、趙雲は自身も愛馬を厩へと戻しに行った。
憤然やるかたない余韻を引き摺りながら、
まだ朝の静謐に包まれた廊下を重い足取りで執務室に向かう。
演習を主導していた趙雲も、もちろん部下達と同じく碌に寝ず食べずだったわけだが、
行き場の無い焦りが、より一層心身を摩耗した。
肩に疲労以外の何かが鬱々と圧し掛かる。
息を微かに白く煙らせながら、眉根に色濃く皺を刻んだ趙雲は、
執務室の扉のいくらか手前で、廊下の端に平伏した下婢と擦れ違った。
まるで周囲の風景に溶け込むようにして小さく縮こまる姿を目に留めるでもなく、
ただ一言、大儀だな、と形式のみの労いをかけて、足早に通り過ぎる。
今はとにかく何か腹に入れて、仮眠を取ろう。
将がこの様では兵の気勢も削がれてしまうと、自省しながら、
まだ女官も出仕していないであろう執務室へと一歩足を踏み入れると、
人気の無い寒々とした部屋の中に、ほんのり香ばしい匂いが漂っていた。
怪訝に思いつつ視線を巡らせれば、疑問はあっさり解消する。
丸一日誰にも使われなかった文机の上に、
見覚えのある陶器の杯と手布で厳重に包まれた丸い塊が鎮座していて、
匂いの正体は湯気を立ち昇らせている杯の中身であった。
そっと手に取ればじんわり温かく、口に含めば煎じた唐黍の香ばしさが鼻腔を抜けていく。
ささくれ立っていた胸中が喉を通る熱と共に凪いでいくのを感じながら、
手布の塊を少々手荒に剥けば、中から出てきたのはこれまた充分に温かい蒸篭で、
竹で出来た蓋を持ち上げると、ふっくら柔らかな肉まんが二つ現れた。
出来上がってからまださほど時間が経っていない様子のそれらに、
趙雲は、はっと先ほど擦れ違った下婢を思い出す。
同時に確信にも近い予感が去来して、部屋の隅に置かれた長櫃へと勢いよく飛びついた。
中身を確認すれば、案の定あの夜謎の娘に貸し与えた長衣が、
衣服の一番上に綺麗に畳んで置かれていて、趙雲は今度こそ泡を食って身を翻した。
扉を開けるのももどかしく外へと躍り出れば、
長い長い廊下の一番端を曲がっていく小さな人影を視界に捕える。

「待ってくれ!」

壁にわんと反響する大声で呼び止めて、趙雲はほとんど駆け足で追い縋ったが、
間もなく辿り着いた曲がり角の先に下婢の姿は無かった。
沈黙を保ち続ける薄暗い廊下で、自身の荒い息だけが場違いに五月蠅い。
試しに手近な扉を幾つか開けて、空っぽの文官室を覗いてみるものの、
彼女の気配は微塵も感じられなかった。
もう一度誰も居ない廊下を呆然と眺めた後、ようやく下婢を見失った事実を受け入れて、
趙雲はしぶしぶ自室へ引き返した。
先ほどは衝動的に部屋を飛び出したが、
考えてみれば擦れ違ったあの下婢が件の娘である確証は一つも無い。
あの長衣とて、昨日の内に届けられたものかも知れないのだ。
早計であったと自身を嗜めながら、一方で確信めいた勘を拭う事も出来ず、
無意識に眉間の皺を増やしながら執務室の扉を潜る。
文机の上では、置いてけぼりにされた肉まんと唐黍茶が、
出て行った時と変わらぬ温かな存在感を主張していた。

(少なくとも、紅蘭以外の誰かがこれを用意してくれたのは確かだ。)

そして、それはやはりあの下婢しか思い当たらない。
冷たい雨に濡れながら、たかが髪結い紐を懸命に探してくれていた姿が、
予想を後押しする。
かろうじてまだ温もりを残していた肉まんと唐黍茶を、
趙雲は難しい顔のまま黙々と平らげた。
ぐるぐる悩む脳内とは対照的に、食糧を詰め込まれた腹は心地よい幸福感を生み出し、
ついでに眠気も訴える。
なんとも正直なものだと己の図太さに呆れつつ、着替えるために仮眠室へと移動すれば、
寝台の上には夜着と平服の二種類が用意周到並んでいた。
ここまで行動を読まれると恐ろしくさえあるなと、苦笑いを浮かべた趙雲が夜着の方を広げる。
髪を解こうと、結び目を覆う金地に淡緑の環を引き抜けば、一緒に髪結い紐も付いてきた。
掌に乗る草臥れた白の綿紐を見下ろして、これを拾ってくれた娘になんとしても会いたくなる。

(是が非でも礼を言わねば、私の気が収まらぬな。次こそ必ず、あの下婢を見つけてみせよう。)

これまではいつか叶えば良いとしか思っていなかった願望を、明確な決意へと切り替えて、
趙雲は砂塵に塗れた龍の肩当てを、慣れた手つきで取り外した。














そんな風にはっきり目標として掲げてしまえば、案外早く機会は訪れるものだ。
あれから数日と経っていない、まさに丁度お昼時。
午前の執務を終えたものの昼食には少し早いだろうと、
厩に愛馬の様子を見に行く途中だった趙雲は、裏庭をいそいそと横切る下婢の姿を窓の外に見かけた。
明るい光の下という事もあり、あの夜の憫然たる印象は微塵も感じられなかったが、
丸く結い上げられた髪に刺さる、みすぼらしい一膳の箸を見間違うはずも無い。
まさか趙雲に見られているなんて思ってもいないだろう、竹皮の包みを両腕で大事そうに抱えた娘は、
急ぎ足で官舎と官舎の間をすり抜けて行った。
ここで見失ってなるものか。
少々作法に反するが緊急事態につき致しかた無しと、
趙雲は長い足を窓枠にかけ、ひらりと裏庭に跳び降りた。
さほど手間もかからず、官舎の脇を練兵場の方に向かって進む下婢の背に追いついたものの、
さて何と声をかけるべきか考えあぐねる。
なにしろ初遭遇では、見事に逃げられた身だ。怯えさせてはあの夜の二の舞になる。
悩んでいる間にも娘は迷いの無い足取りで、武器庫の前を右手に曲がっていく。
別に尾行するつもりは無かったのだが、だんだんと彼女の行先に興味が湧いた趙雲は、
気付かれぬ程度の距離を開けつつ、目的地まで着いて行く事にした。
すると追跡者の存在など終ぞ知らぬ娘は、そもそも趙雲が最初に向っていた厩の、
すぐ傍に建っている飼葉蔵へと、臆すること無く入って行った。
途中擦れ違った馬丁と気安く挨拶を交わしている辺り、通い慣れているのかもしれない。
彼女を追って2階建ての立派な土蔵へと足を踏み入れれば、
途端に乾いた藁の芳しい香りがむっと鼻を突いた。
天井まで吹き抜けとなっている細長い作りの蔵は、奥に向かって幾つもの高い壁で仕切られ、
その一つ一つに飼葉が山と積まれている。
下婢はと言えば、開けっ放しの観音扉から入ってすぐの壁に括り付けられた竹梯子を、
するすると器用に登っていった。
そうして、飼葉を上から運び入れるため壁伝いに通してある太い梁へ乗り上がると、
そのまま奥へ奥へと進んでいく。
やがて一番端まで到達すると、彼女は少しだけ周囲を気にした後、
ちょうど腰の高さにある明かり窓の、なんと外側へと消えて行った。
眩暈がしそうなほど高い位置にある、しかも身を縮めてやっと通れそうな狭い窓に、
一体何の用があるのかと呆れながら、
ここまで来たからには後には退けぬと、趙雲も意地になって追い掛けた。
ぎしぎしと踏み締めるたびに不吉な音を立てる竹梯子を登り、
長年馬丁達が歩いた事によってつるつるに磨かれた梁を、滑り落ちぬよう慎重に渡る。
足の遥か下に広がる飼葉の海を意図的に視界に入れないようにしながら、
ようやく辿り着いた明かり窓の外へと、窮屈に腰を折って顔を出せば、
視界に広がったのは冬枯れの名残を残した広大な溜め池だった。
予想外の風景に目を見張っていると、すぐ傍から息を飲む音が聞こえ、
慌ててそちらに首を巡らせれば、窓から少し低い位置にある屋根の上に件の下婢がちょこんと座っていた。
どうやらこの明かり窓の下には飼葉蔵の裏口があるらしく、彼女が居るのはその軒のようだ。
独坐程度の広さではあるものの、
なるほど、誰にも邪魔をされず景色と食事を楽しむには丁度良い。
現に、猫のような瞳を真ん丸に見開いて固まった娘の膝には、半分に割られた蒸かし芋が乗っけられていた。
恐らく大事に抱えていた竹皮の包みの中身なのだろう。

「・・・突然邪魔をしてすまない。どうか食事を続けてくれ。」

今さら取り繕っても遅いというものだが、容赦なく突き刺さる視線に作り笑いを返し、
趙雲は不自然に昼食の再開を提案する。
当然、それで娘が快く納得して芋を食べ始めるはずも無く、
釣り目がちの大きな双眸をしぱしぱと瞬かせたかと思うと、見る間にカタカタ身体を震わせ始めた。
今にも軒の端から飛び降りるのでは無いかといった怯えように、趙雲もいよいよ慌て出し、

「ま、待て。どうか落ち着いて欲しい。勝手にそなたをつけて来た事は謝る。この通りだ。」

そう言って、窓枠にしがみ付いた不自由な体勢で深く頭を下げる。
すると、投身自殺だけは思い止まったのか、相変わらず全身から不信感を訴えてはいるものの、
向けられる視線は疑問の色の方が濃くなった。
太いが短く色も薄い眉を精一杯寄せて、こちらの出方を伺う下婢に、

「すまぬが、このままでは少々背中が辛い。隣に座っても良いだろうか?」

と情けなく笑って許しを請えば、彼女は大袈裟に視線を泳がせた後おっかなびっくり頷いた。
林の中で猛獣に出くわした時のようだと内心困惑しながら、
下婢から視線を逸らさず、恐る恐る屋根の上へと足を降ろす。
強く踏み締めて重みに耐えられるか確認した後、本格的に外へと身体を移動させれば、
娘は再び緊張で硬直した。
これ以上警戒させないよう出来るだけ距離を開けて、窓を挟んだ反対側の端に座る。

「随分と驚かせてしまったようだな。だが、どうしてもそなたに聞きたい事があったのだ。」

そう、まずはここまで追ってきた理由を説明すれば、不安げに身動ぎを繰り返していた下婢は、
まるでこの世の終わりだと言わんばかりの顔をしたかと思うと、深々と頭を下げた。
初めて聞いた声が、どうかお許し下さい、という消え入りそうな震え声とは、
なんとも気まずい。
やはり、出会い頭に間者と疑ったのが良く無かったのか?

「いや、どうも勘違いをしているようだが、私はそなたを責めたいわけでは無いのだ。」

慌ててそう付け足すものの娘は頑として顔を上げず、困り果てて頭を掻く。

「ただ話をしたいだけなのだが・・・ああそうか!
遅くなったが、私は趙子龍と申す。
どうかまずは恩人たる貴女の御名をお教え頂きたい。」

まさかこの城に勤める下婢が趙雲を知らぬはずも無いが、
相手の名前を聞く以上こちらから名乗るのが礼儀というものだ。
そう言って居住まいを正し拱手すれば、娘はおそるおそる頭を上げ、
目が合った途端今にも泣きだしそうな顔でおろおろと狼狽えだした。
どうも逆効果だったようだと、もはや万策尽きた趙雲が諦めの境地で天を仰いでいると、

「あの・・・下婢の名など聞いてどうなされるのでしょう?」

そう小さな小さな問いが発せられる。
無防備だった胸にぐさりと言葉の刃を突きたてられた気がして、
思わず娘を凝視すれば、心底不思議そうに小首を傾げ、じっと趙雲の答えを待っていた。
彼女の言葉に皮肉めいた響きは感じられず、だからこそ尚更愕然となる。

名を尋ねる。

それ自体は至極当たり前の行為であるが、
果たして今まで自分は、彼女達下婢の名を気にした事があっただろうか?
この新野城に下婢下男がどれほど働いているか把握しているわけでは無いが、
少なくとも文官や女官より遥かに多いはずだ。
にも関わらず、城内での生活に必要不可欠な仕事をしてくれている彼等を、
まるで風景の一つとして扱ってはいなかったか?
現に、つい数日前までは目の前の下婢の存在さえ知りもしなかった。
恐らくは今までも、心を尽くして仕えてくれていただろう彼女の事を。

顧みられる事の無い者に、名など不要。

少なくともこの娘は自身をそう評価しているのだ。

(それでは、あまりにも・・・)

己の不明に顔を歪める趙雲を見て、不興を買ったと早合点したのだろう、
娘の白い顔がどんどん青ざめたかと思うと、再び項が見えるほど深く頭を下げた。

「言葉が足りぬ無礼をお許し下さい。決して将軍の仰せに逆らおうなどとは思っておりません。
ただ、下婢ごときの所業に御心使いを頂くのは、身に過ぎると申し上げたかったのでございます。」

たどたどしく何度もどもりながら、懸命に謝る娘の姿に、
ますます人非人と責められている気分で、

「いや、そなたに落ち度は無いのだ。だがやはり、きちんと名前を添えて礼を言わせて欲しい。
どうか私を忘恩の徒にしないでくれ。」

と、少々小狡い言い回しを使ってもう一度懇願する。
趙雲ほどの身分の者に二度も請われて、下婢に断る術など無い。

「・・・・・・・私は、と申します。」

それでも随分と長く逡巡した後、娘はようやく観念して自らの名前を明かした。
やっと一つ目的を果たした、と趙雲は決死の任務を終えたような心地で深く安堵し、
改めて感謝の言葉を口にする。

殿、過日そなたが拾ってくれた結い紐は、私にとって無二の品なのだ。
もしあの時失われていたらと思うと、今でもぞっとする。見つけてくれて本当に有難う。」

そう言って再度拱手しながら厳粛に目を伏せれば、
己が働きを誇るべき娘は、酷く困惑した様子で、いえ、と腰の引けた返事を返した。
ようやくまともな礼が言えた事に満足し、
趙雲はいよいよ疑問を解いていこうと、何気ない風体を装って話を続けた。

「それにしても、殿はなにゆえ私があの回廊で結い紐を落としたと知っていたのだ?
もしや髪が解けて呆けていた所を見られたのだろうか。」

だとしたら情けないな、と苦笑を浮かべつつ、それとなく真相を聞き出そうとすれば、
幾分趙雲の存在に慣れてきたらしい下婢は、少し考えてから小さく首を横に振った。

「いいえ。私は、御髪の解けた趙将軍が執務室に戻られるのを御見かけしただけです。」
「なんと。たったそれだけで、あの回廊に落とした事を見抜いたのか?」
「それは・・その・・・あの時将軍が赴かれていたのは御城主様の執務室であらせられたので、
道順沿いにずっと探している内、回廊へと至ったのでございます。」

なにぶん仕事の片手間でございましたゆえあのような刻限となりましたと、
彼女はあっさり言ったが、趙雲はますます訳が分からなくなった。
下婢のような下働きの者達は、それこそ忙殺される量の重労働を日々課せられている。
そんな中で、たかが髪結い紐を、それもどこに落としてきたのかさえ不確かな品を、
我が身の負担を増やしてまで探そうなどとは、あまりに不自然だ。

「そんな事をして、殿に何の利があるのだ?
そなたから見れば、ただの薄汚い紐だろう。ましてや、私から命じられたわけでもない。
見つかる見込みなど皆無であったろうに、あの寒空の中を雨に打たれてまで・・・。」

膨れ上がる疑惑を抑え切れず、思わず声に険を滲ませながら詰め寄れば、
下婢はどこか後ろめたそうに唇を噛んだ後、

「・・・・兄君の形見とお聞き致しましたので。」

と、押し殺した声でそう答えた。
やはりそうかと納得する反面、なぜ彼女がその事を知っているのかと少なからず驚く。
言葉を失っても、動揺は顔に出ていたのだろう、娘は膝の上の芋を拙い仕草で並べ直しながら、

「私は以前、城主様の執務室を任されておりましたので。たまたま隣室の床を磨いていた時に、
御両人様が話しておられるのを、耳に入れてしまったのでございます。」

そう、趙雲の疑問に対して神妙に釈明した。
彼女の説明は、確かに趙雲の記憶とも合致する。
いつだったか、まだ新野に駐屯したばかりの頃、
主君である劉備の元へ調練の成果を報告に赴いた際に、尋ねられたことがあった。

「趙雲、そなたはいつも同じ髪結い紐を使っているな。
今はもう放浪しているわけでも無い。平服も新調したのだし、それも新しくしてはどうか?」

仁愛溢れる彼の御方からしてみれば苦労を共にしてきた臣下への細やかな厚意だったのだろうが、
残念ながら趙雲には受け入れ難い提案であり、断る以上説明せぬわけにもいかず、
兄の形見である事を打ち明けた。
あの部屋にまさか自分と主君以外の誰かが居たなどとは。
常日頃から周囲の警戒は怠っていないつもりだったが、まだまだ甘いなと己の失態を笑う。

「・・・それでも、やはり他人事には違いないだろう。
殿があれほど親身に探してくれた理由には弱いように思うのだが。」

意識を思索から戻し、じっとこちらの言葉を待っていたにそう問えば、
彼女は初めて怯えるか警戒するか以外の反応を見せ、私にも兄がおりましたので、と答えた。
口元を柔らかく緩め、まるで楽しい思い出を浮かべる様に遠くを見る彼女を、
趙雲はきっと仲の良い兄妹だったのだろうと見つめる。
そうして、趙雲自身も亡き兄の姿を脳裏に思い描いた。

あの結い紐は遺志そのものだ。
もしただの形見だったなら、趙雲とて身になど付けず、行李の底にでも大事に仕舞っておいただろう。

「・・・なぜだろうな。そなたには、あれが私にとってどういう品なのか、
知っておいて欲しいと思うのだが。」

聞いてくれるだろうか、と今さら気後れしつつ下婢の顔色を伺えば、
彼女は瞬きすら忘れたかのようにじっとこちらを見つめ返し、こくりと一つ頷く。
了承を得られたことを内心嬉しく思いながら、
趙雲は唇を舌で湿らすと、おもむろに昔話を紡ぎ始めた。


当時、趙雲は公孫サンの元で騎兵部隊の長を任されていたが、
趙家の家督を継ぎ一族の筆頭を担っていた兄が急逝したため、
官を辞して故郷に戻る事となった。
後継である兄の長子はまだ幼く、時世が時世であるため、
次の家長には趙雲をと押す声が一族内でも強く、両親からも郷に残るよう再三申しつけられた。
けれど、様々な礼を粛々と終え、ようやく葬儀が一段落した夜、
喪装に身を包んだ義姉が、亡夫に託された遺品であると、
あの白い綿の結い紐と共に、丁寧に封がされた手紙を一つ渡してきた。
筆運びも乱れ、所々滲んで読めなくなった数行の文言には、
自分が死した後に血族を守り故郷に骨を埋めて欲しいという旨と、
もう一つ、もし既にどうしても譲れぬ志を見出していたならば、
一族を捨て、二度と郷里には戻らぬ覚悟で出奔しろと書いてあった。

お前が士としての天命を得る事が出来たならば、兄としてこれほど喜ばしい事は無い。
その結い紐は私からの寿ぎであり、この一点の曇りも無い純白に誓って生涯の宿願を果たせ。

そう歪に綴られた遺言を最後まで読み終え、驚愕覚めやらぬまま義姉に向き直る。
この、いわば一族への裏切りを示唆した密書を、
秘密裏に処分してしまう事も出来ただろうと問い詰めれば、
彼女は泣き腫らし落ち窪んだ眼をそっと伏せ、

「どうか、我が夫であり、貴方様の兄君たる御方の遺志をお聞き入れ下さいませ。
あの人は、今際の際まで貴方様を誇りに思い、その行く末を案じておりました。」

そう言って額を床に押し付けるほど、深く深く平伏した。
思えば、まだ成人もせぬ若造であった趙雲が、周辺の村落から集った若者達と、
義勇兵として公孫サンの元に志願した際も、
両親から猛反対を受ける中、兄だけが味方となって説得に尽力してくれた。
双眸から勝手に溢れ出る滂沱の涙を止める術も無く、
趙雲は形見となった結い紐と、握り締め過ぎて紙屑となった遺書を胸に抱き込んで、
喰いしばった歯の隙間から獣の唸りにも似た嗚咽を零し続けた。

それから随分と時が経ち、長かった喪が無事明けたその日の内に、
趙雲は人知れず郷里を出奔し、天命と定めた主君の元へと馳せ参じたのだった。


「もし兄が結い紐に思いを託してくれなければ、
恐らく私はあのまま家督を継ぎ、今も郷里で心を殺して生きていただろう。」

もしかしたら、いつも泰然自若であった兄にも、志に殉じたいと望んだ事があったのかもしれない。
今となっては、尋ねる事はおろか墓所に参る事さえ叶わないが。

「あの白い髪結い紐は、私にとって形見であり、誓いであり、戒めなのだ。」

そう、己自身へ呪縛を施すように、趙雲は重々しく昔語りを締めくくった。
これまであまり自分の事を他人に話してこなかったせいか、
熱弁を終えた途端急に気恥ずかしくなる。
そもそも、無骨者の自分が女人を楽しませる話術など持ち合わせているはずもない。
下らぬ思い出話を聞かされて、うんざりしているのではないかと、
おそるおそるの様子を伺えば、
彼女は膝の上に小さな拳を作り、すっかり冷えてしまった芋を見下ろしていた。
そういえば昼食を食べに来ていたのだったと思い至り、
邪魔をした挙句延々与太話を続けた己の厚顔さに耳を熱くしていると、

「・・・私の兄は、劉表様の元に徴兵され戦で命を落としました。」

と、それまで沈黙を守っていたが唐突に話し始める。

「私は洛陽の生まれでございますが、都の動乱の折りに父を失い、
縁者を頼って荊州へと逃げ延びて参りました。
道中何度も辛い思いを致しましたが、
その度に兄は、母と、まだ幼かった私を励まし助けてくれました。」

淡々と簡潔に、彼女は過去だけを語って聞かせたが、
これが不惜身命の誓いを打ち明けた趙雲への返礼であることは、容易に分かった。

「兄が支えてくれたからこそ、今の私があります。
私も兄のように誰かの支え足り得る者でありたい。そう願います。」

膝の上の芋をしきりに指先で転がしながら、はそう言って俯いたままはにかんだ。

「・・・・良い志だと思う。」

立派な兄君だったのだな、と声をかければ、眦を赤く染めた娘は噛みしめるように頷く。
故人が結んだ数奇な縁だと、頭の後ろに手を伸ばし、髪結い紐の乾いた感触を確かめていると、
ごしごしと力任せに目元を拭ったが、広げていた竹皮を芋ごと乱雑にくるみ、
すっくと軒の上に立ち上がった。

「そろそろ戻ります。」

突然の行動に戸惑う趙雲に向かって短く説明し、娘はもそもそと窓へよじ登る。

「だがまだ、そなたは食事の途中ではないか?何も口にしないままでは後が辛いぞ?」

妨害した張本人が言うのも筋違いだが、慌てて腰を浮かせた趙雲がそう追い縋れば、
さっさと蔵の中に戻ったは振り返り、

「戻りながら食べますのでご心配には及びません。どうぞ、御心を痛められませぬよう。」

と、深く頭を下げる。
そうしてこちらの返事を待たずに、四角くくり貫かれた窓枠から姿を消してしまった。
最初の遭遇と同じくあっという間に逃げられた趙雲は、
誰も居なくなった軒をぽかんと眺め、なんだか可笑しくなってくつくつと笑い出す。
そっけない台詞に似つかわしくない、こちらの胸中を慮った気遣いが、
なんとも彼女らしい。
一人になった気安さから、緊張続きで固まった体を力いっぱい引き伸ばせば、
溜め池の水面を滑る真昼の爽やかな風が、趙雲の心を清々しく通り過ぎていった。

「これも兄上のお導きだろうか・・・」

実に心地よい発見だと思う。

この場所も。

あの娘も。

(明日もまたここに来よう。)

先人の許可も得ず、図々しくも勝手にそう決めて、
趙雲は自分もまた執務室へ戻ろうと立ち上がった。


本日の青々とした晴天を飲み干したかのような清爽たる気分で、
趙雲が自室へと帰ってくると、
恨みがましい目をした女官が、奇妙なほど物腰丁寧に、おかえりなさいませ、と出迎えた。
どうやら、すぐ戻ると言った言葉を信じて昼餉を用意し、
片付けるついでに食堂へと寄るつもりで、ずぅっと待っていたらしい。
図らずも、空きっ腹の女人を二人も作り出してしまった事実に、
すっかり冷えた膳の中身をもそもそ食べながら、
趙雲はその堂々たる体躯を小さく縮めるのであった。




















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