往来一杯に犇めき合う人々の群れが、
こちらに気付いた者から次々と脇へ退いていく。
元々さほど広く無い北通りは、両脇にずらりと並んだ出店のせいでますます狭くなり、
互いにすれ違う事さえ一苦労だ。
それでもなんとか皆で譲り合って作った心尽くしの王道を、
幾人も侍従を連れた文官団が、さも当然の顔で闊歩する。
各々趣向を凝らした君子の証たる冠が、右へ左へ好き勝手揺れる様を眼下に眺め、
趙雲はすっかり掌と同化した槍の感触を、強く握る事で取り戻した。
年に一度新野に立つ古書市を目当てに、
毎年この時分になると、劉表子飼いの学者連中が襄陽からこぞってやって来る。
現状、食客という立場の劉備軍が、同じ主を頂く彼等を歓迎せぬわけにもいかず、
よって趙雲が市中での護衛を命じられるのもまた必然であった。
何しろ天下に武名轟く関張二枚看板は、
戦火の及ばぬ所から天下国家と薀蓄ばかり垂れてくる知恵者気取りを毛嫌いしているから、
従者など任せれば、些細な理由でそっ首刎ねてしまいかねない。
(私とて出来うるならばそうしたい気分だがな・・・)
と、職務に忠実な彼にしては珍しく、きりりと涼しい面貌の下で物騒な冗談を嘯いた。
「・・・そこでとうとう私も義憤抑えられず諫言申し上げましたところ、
さすがは賢人と名高い劉州牧。はっと目の色をお変えになりまして・・・。」
先程からずっと趙雲の隣を陣取っている初老の名士は、
自身がどれほど劉表から一目置かれているかを、鵯もかくやと囀り続けている。
(果たしてこの御仁の口は、曹操を前にしても滑らかに動くだろうか。)
近い将来彼に降り懸かるかもしれない最悪の未来を予想し、趙雲がちらりと視線を落とせば、
賢しらに取り澄ました顔が機嫌良く見上げてきた。
仕方なく、口元に申し訳程度の笑みを浮かべて誤魔化すと、
それを好意的に受け取った男は、ところで、と諂い気味に話を続けた。
「そのぉ・・私の娘が将軍の御許で女官として勤めておるのですが、
紅蘭は良く仕えておりますでしょうか?」
「ああ、では貴殿は紅蘭のお父君であらせられたか。ご息女殿の熱心な仕事ぶりには、
日々助けられております。」
なるほど、これが訊きたくてわざわざ最後尾までやって来たのかと、
いじらしい親心に苦笑しつつ相応の賞賛を述べれば、
年頃の娘を持つ父はあからさまに安堵した後、その蜆の目を不穏に光らせた。
「おぉお、それはそれは!趙将軍ほどの御仁からお褒めに与るとは、娘もさぞ喜ぶ事でしょう。
幼少より淑女としての嗜みをそれはもう厳しく教えて参りましたから。
親の私が言うのも何ですが、どこに出しても恥ずかしくない娘に育ったと自負しております。」
あとは立派な君子の元に嫁いでくれれば私も安心して政務に励めるのでございますが・・・、
と口元のちょび髭を指先で撫でつつちらちら流し目を送ってくる男に、
趙雲はぞわりと首筋が粟立つのを感じた。
これは死地に踏み込んだな、と曖昧に相槌を打ちながら、じりじり逃げに転じる。
けれど、我が子の将来を案じる父に小手先の抵抗が通じるはずもなく、
せっかく出来たささやかな隙間はいとも容易く詰められた。
「失礼ながら趙将軍はまだ妻君をお迎えでないとか。」
「え、ええ、恥ずかしながら。ですが今は、曹操の南征に備え配下一丸となって新野の防備に尽くす時。
乱世の只中で、軍将たる私が妻帯などとても。」
「それはいけない!大丈夫たる者、一刻も早く妻を娶り男子を儲けるべし!
次代を盤石にしてこそ真の忠義足りましょう!!
僭越ではありますが、それもまた将の務めと具申致しますぞ!」
ぐいぐい喰らいつく文官を四苦八苦して押し留めながら、
いっそ今すぐ賊徒でも現れてくれないかと、趙雲はしごく平和な目抜き通りへ視線を泳がせた。
「こうして私めの娘が将軍にお仕えしておりますのも何かの縁!
今宵は改めて趙将軍のお屋敷へとご挨拶申し上げまして、
より深い交誼を結ばせて頂けないかと、かように願う次第で。」
「い、いや、急にそのような話を仰せられても、私にはまだ務めが数多残っておりますので!」
「もちろん、将軍の公務がお済みになるまでいつまででもお待ち申し上げております。
もし今宵がご無理とあらば明日の晩でも・・・。」
「まぁまぁ、そのくらいで勘弁してやって下さいよ。」
もはや縋り付く勢いの懇願をどう断れば角が立たぬか趙雲が苦心していると、
あからさまに面白がった静止の声が会話を遮った。
ちょいと失礼、と軽い調子で二人の間に体ごと割って入った男は、
到底品が良いとは言えない面構えに不敵な笑みを浮かべる。
「残念ですがねぇ、旦那。趙将軍にこなかけるだけ無駄ですって。
ちょっとやそっとじゃ靡きませんよ。何しろ軍中随一の働き者であらせられる。
未だ屋敷も持たず、執務室に住み着いちまってんだからまさにお勤め一筋!」
朴念仁にゃ期待するだけ損ですぜ、とぽんぽん飛び出す失礼極まりない台詞に、
「これは手厳しいですね。簡文官。」
と趙雲が苦笑すれば、文官服より剣槍具足が似合いそうな男は歯を見せて笑った。
毎度毎度、自ら接待役を買って出る最古参の同僚は、
酒に博打に女にと、日頃の素行こそ問題有りだが、こういった仕事は実に首尾良くこなす。
美辞麗句の応酬が苦手な趙雲からすれば、彼は実に稀有な才の持ち主であり、
頼りになる助け舟の登場に深く安堵した。
「そりゃそうさ。せっかく俺が頑張って盛り上げてんのに、
そんな辛気臭ぇ面して後ろからついて来られたんじゃ、お客様方も興醒めだろ?
趙将軍、あんた居ねぇ方が良いよ。
このご陽気だもの、用心棒なんざ糜将軍か廖将軍辺りで十分だ。」
さっさと連れてきてくんな、と文句を言いつつ片目を瞑ってみせる辺り、
どうやら趙雲の胸中を察して、この無聊極まる道中から逃してくれるつもりらしい。
「ささ、こんな面白味の無ぇ若造なんざ放っておいて、あっちの店でも冷やかしに行きましょうや。
なんなら今宵は俺がとっときの酒家へご案内致しますよ〜!」
簡雍はそう景気良く叫ぶと、すっかり面食らっている名士の肩を馴れ馴れしく掴んで、
前の集団へとずんずん戻っていく。
「簡文官、後はお任せ致す!」
自分よりずっと小さいが実に漢らしい背中へと、趙雲が感謝を込めてそう叫べば、
簡雍は振り返らぬままひらひらと片手を振ってみせた。
護衛交代の報せを一足先に宮城へ走らせてから、趙雲も同じく帰路についた。
仲間の好意で得られた貴重な空き時間だ、
ここはやはり、警護役のせいで滞りがちになっている筆仕事を片付けるべきだろう。
が、どうにも執務室へと向かう足が重たい。
(今戻れば、間違いなく紅蘭が居るだろうな・・・)
彼女に非は微塵も無いのだが、あの饒舌な父親の、媚びと打算に満ちた笑顔を思い出すだけで、
鬱々と疲労感に苛まれる。
もし紅蘭の口から父親の話をチラとでも出ようものなら、不快感を顔に出さぬ自信が無かった。
城門から入れ違いに出て来た廖化とその麾下数名へ、拱手を返した後も、
中々その場から動けなかった趙雲は、散々迷った末に執務室とは逆の方向へと足を踏み出した。
途中立ち寄った厩で、期待の眼差しを向けてくる愛馬の鼻面を、
申し訳程度に撫でた後、足早に隣の飼葉倉へ向かう。
すっかり高さに慣れた梁を淀みなく渡り、小さな明かり窓から窮屈そうに外へ出れば、
少しずつ春を目指して変化を始めた溜め池が趙雲を歓迎してくれた。
軒に腰を落ち着け、土壁へと背を預けた途端、長い長い溜め息が零れる。
「全く、どうして皆私に婚姻を勧めるのか・・・」
眉間に深く皺を刻み、うっかり胸中を吐露しても、見咎める者などここにはいない。
最初の内こそあの下婢に遠慮してあまり長居しないよう心掛けていたが、不思議とこれまで一度も鉢合わせする事はなく、
今やここは、趙雲にとって数少ない安息の場所となっていた。
(私が求めているのはこの劣勢を覆すための方策だ。)
日々、寡兵を鍛え上げ、新野周辺の防備に心を砕いているというのに、
舞い込んでくるのは縁談の申し入ればかり。
恐らくは劉備幕閣を切り崩し、己が傘下に収めたい劉表による、政略の1つなのだろう。
それが分かっているから、趙雲も波風立てぬよう気を付けつつ、全て丁重に断ってきたのだが、
とうとう敬愛する主君までが、試しに1人くらい会ってみぬか、と仰せになる始末だ。
(妻帯はしないと常々申し上げているのだがな。)
天命得たりと声高に叫んだところで、
所詮自分は親さえ見捨てた不孝者だ。
今更次代を望むべくもない。
この身は全て主君劉備の大望へ尽くす。
それが蔑ろにしてきた者達に対する、自分なりの償いであり、けじめであった。
(そもそも私がもし父親ならば、いつ袂を分かつとも知れぬ無頼の輩に、
手塩にかけた我が子を差し出すものか。)
そう毒突いてから、娘はおろか嫁さえおらぬくせにと、自身の言い分の滑稽さを鼻で笑った。
その時。
風鳴りばかりを拾っていた耳に、小さな衣擦れの音が迷い込んできて、
すぐ横の窓枠から、黒い布靴を履いた小さな足がにょっきり生えてきた。
次いで、すっかり油断仕切った下婢の細面が現れ、目が合った途端ひっと固まってしまう。
片足だけが中途半端に外へ出た状態で動かなくなったに、
「とりあえず、一度こちらに降りてはどうだろう?」
と、苦笑混じりに提案すれば、彼女は散々視線を泳がせた後、
おずおずもう片方の足も窓枠から引きずり出した。
趙雲から出来るだけ距離を置いて、軒の端にちょこんと座った娘は、
決してこちらを見ようとせず、居心地悪そうに身じろぎばかり繰り返す。
例によって、彼女の腕には竹の包みが大事そうに抱かれており、昼食を取りに来た事は明白だった。
「どうか気にせず食べてくれ。昼には随分遅い時間だ、さぞ空腹だろう?」
このままではいつまでも睨み合いを続けねばならないと、
早々に降伏を申し出た趙雲に、またも逡巡を繰り返したは、
「ですが・・・私がここに居たのでは、御心をお休めになれないのでは。」
と言い淀んだ。
小さく呟かれた台詞は上手く逃げ出すための方便にも聞こえたが、ふと勘のようなものが働く。
もしや今まで鉢合わせしなかったのは、彼女がわざわざ遠慮してくれていたからなのだろうか?
先ほど酷く狼狽したのも、趙雲が護衛の任で城を出ていると見計らってやって来たからか?
「私はずっとそなたの気遣いに甘えてしまっていたのだな。」
半分確信しながら、誘いをかけるようにそう告げれば、
は咄嗟に口許を抑え、それからおろおろと取り繕うための言葉を探し始めた。
けれど上手い申し開きが見つからなかったらしく、
見る見る俯いていく娘に、いいから早く食べてしまいなさいと助けを差し伸べる。
肯定したも同然の彼女は、一度だけ申し訳なさそうな視線を向けると、
抱えていた竹包みを躊躇いがちに膝の上へ広げた。
中から出て来たのはすっかり冷えて固くなった肉まんで、
はそれを大事そうに両手で包むと、もそもそ食べ始める。
まるで栗鼠か野鼠のような仕草に、趙雲は微笑ましく口元を緩めたが、
彼女がそれはそれは美味しそうに頬張る肉まんには具らしき物が入っておらず、
後ろめたい気持ちで視線を逸した。
今日の昼食に、文官団へと振る舞われた豪華な料理の数々を思い出す。
もちろん趙雲も劉備幕下の一人として座を共にしたが、
城の糧食には限りがあるわけで、当然その皺寄せはのような下位の者達が被ることになる。
(弱者が虐げられ踏み躙られぬ世を作る。それが殿の目指す天下であり、
私もそのために尽力してきたつもりだったが・・)
遠く、溜め池の先。
城壁をも越え、青く連なる山影と空との境を睨んで、趙雲は己の無力に臍を噛んだ。
「・・・将軍はご存じですか。この溜め池は夏になると蓮の葉で埋め尽くされるのですよ。」
唐突に話しかけられて我に返った趙雲が、訝しげに隣を伺えば、
いつの間にか食事を終えたが、同じように溜め池の先を見つめていた。
何の脈略も無い問いかけに内心困惑したものの、
無口な彼女が率先して話しかけてくれたのだからと、沈黙を保つ。
「この池に蓮を植えたのは前の御城主様で、泥の上に美しく咲く姿は、
まるで民衆の上に立つ我々のようだと常々仰っておいででした。
毎年花が咲く頃には、近隣の名士様方を御招待して、池の中の東屋で宴を催されておられました。」
「それはなんとも・・・だが、この池に東屋などあっただろうか。」
いかにも劉表の臣下らしい高慢さに呆れながら、趙雲がそう尋ねれば、
娘は池から視線を外さないまま、
「取り壊してしまわれたのですよ、今の御城主様が。」
と、ごく微かにはにかんだ。
「なんと、まさか殿が?」
「はい。御城主様が初めてこの溜め池をご覧になった際、
これほど見事に蓮が茂っていれば、さぞ沢山の根が採れるだろうと仰せになられまして。
実りの少ない年への備えに丁度よいと。
少しでも収穫が増えるよう、東屋は撤去してしまわれました。」
声音こそいつもと変わらぬ素っ気無さであったが、俯いた横顔はどこか楽しげで、
趙雲はじっと探るよう見つめ続けた。
池ばかり見ている彼女はそれに気付かない様子で、
「でも私は、何も無くなった今の池の方がずっと好きでございます。
なんだか蓮までが前より生き生きと咲いている気がして。
変ですよね、そんなはず無いのに。」
そう言って可笑しそうに目を細める。
「・・・・・どうして、この話を私に?」
優しい沈黙が戻ってきて、
なんとも劉備らしい逸話に、胸の澱みが洗われるのを感じながら、
趙雲はやけに饒舌な下婢の真意を問わずにはいられなかった。
また逃げてしまうかもしれないと半分覚悟していたのだが、
娘は猫のように思慮深く見つめ返してくると、
「恐れながら・・・最近の趙将軍は、どこか急いておられるようにお見受け致します。」
そう、一つ一つ噛み締めるように答えた。
「以前より精勤ではあらせられましたが、この頃は馬が疲れ果てるほど兵に調練を強いていると、
馬丁達が申しておりました。市中の見回りもお役目では無い時まで務めておいでです。」
それに、と言いかけて口をきゅっと結び逡巡を見せるへ、
趙雲は穏やかに頷く事で話の先を促す。
身分を考えれば既にもう十分無礼極まる物言いであり、
いつ逆鱗に触れるかと身を強張らせていた下婢は、
彼の凪いだ双眸に後押しさて、それに、ともう一度同じ言葉を重ねた。
「ここにいらっしゃる時の将軍は、いつも思い詰めたお顔であらせられるから・・・。」
そう最後までなんとか声を搾り出して、彼女はその薄いが太く短い眉を辛そうにひそめる。
やはりそれと気付かないまま、からこの場所を奪い取っていたのだと、
趙雲は改めて己の迂闊さに歯噛みした。
彼の怒気を敏感に感じ取ったのか元々白い下婢の顔がみるみる青ざめていくのに気付き、
「待て!そなたを責めているわけではない。私は、私自身に腹を立てているだけだ。」
そう、慌てて弁解すれば、なぜか彼女はもっと悲しそうな顔をして、
何度も首を横に振った。
「違うのです。そうではなくて!私は、私は将軍を・・・将軍に、感謝を申し上げたいのです!」
感情が先走って上手く言葉が紡げないのか、たどたどしい口振りでが懸命に訴える。
ちゃんと声を聞くのはこれが初めてなのではないかと思うほど、
普段からは考えられない大きな叫びに、趙雲はただただ呆気に取られた。
「この城は、御城主様方が来て下さるまで、本当に・・・酷い有様でした。」
勢い勇んでそう言ったきり、俯き、虚空を睨む彼女の目は、
修羅場を見た者のみが持つ壮絶な光を宿していた。
趙雲自身も、入城したばかりの頃の新野を思い出し、舌の上に苦味が広がる。
劉表の居城がある襄陽や南の前線である江夏に比べ、新野は土着の豪族達が幅を利かせており、
城下でも彼らの子飼いが私闘を繰り返しては治安を悪化させていた。
中央から派遣されてきた文官達も、その尻馬に乗って私腹を肥やす事に余念が無く、
規律は乱れ、賂が公然と横行し、政はまさに腐敗しきっていた。
「私のような卑しい身分の者達は、僅かな給金さえ上前を搾取され、
昼夜問わず働かされた挙句、病気や怪我を患えば身一つで放り出されました。
武官や文官の方々に慰み者にされ、泣き寝入りするしかなかった下婢を何人も知っております。」
乱世の中にあってはさほど珍しくも無い話であるが、当事者が舐める辛酸はどれも過酷だ。
彼女もまた人知れず理不尽な仕打ちに耐えてきたのだろうと、趙雲はその震える細い肩に憐憫を寄せた。
そんな彼の心情を察したのか、振り向いたは困ったように眉尻を下げ、
「けれど、皆様がこの城を変えて下さいました。」
と、厳かに告げる。
もう罵声や暴力に怯える必要も、冷たい床の上に身を庇い合って眠る必要も無い。
働いたら働いた分だけ相応の対価が貰える。
「皆様が、私達に尊厳を取り戻して下さったんです。」
そう言って、は姿勢を正すと、趙雲に向かって項が見えるほど深く頭を下げた。
そのままいつまでも顔を上げない下婢に、
「私に礼など不要だ。全ては我が殿のご意志であり、皆がそれに従って働いたまでの事。」
私一人の功績ではない、と苦笑いで固辞すれば、身を起こした彼女はまたも物思わしげに見詰めてくる。
大きな釣り目から放たれる真摯な視線を受けて、趙雲が内心たじろいでいると、
「将軍。今この城には、御城主様に仕官したいという者達が、貴賎を問わず毎日訪れているのだそうです。
皆一様に志高く、意気に溢れております。
もっと風聞が広まれば未だ世に出ぬ賢哲の耳にもそれは届くでしょう。」
いずれきっと趙将軍の憂いを掃える方が現れます、とそう言ってはふんわり破顔した。
それはまさに薄い花びらが柔らかく綻ぶような笑みで、
普段のおどおど怯えている印象も手伝ってか、趙雲の網膜へと鮮烈に焼き付いた。
「私は下婢でございますので、出来る事といえば取るに足らぬ下働きのみですが、
それで皆様が気持ち良く政務に専念頂けたなら、
また一つ新野の評判を上げられたと、そう勝手に信じております。」
恥ずかしそうにはにかんで誇らしげに締めくくっただったが、
会話が途切れた途端見る間に表情が削げ落ちていき、ぎこちなく項垂れていった。
やがて額からは玉のような汗が噴出し、
外気に晒されている肌という肌が残らず真っ赤に染まっていく。
「・・・・・・・・・・・・・・どうか痴れ者の戯言とお聞き流し下さいませ。」
と蚊の鳴くような懇願が聞こえてきて、
まだ半分呆けていた趙雲もようやくが恥じ入っている事に気付いた。
返事の変わりに、
「どうして殿にはこうも容易く私の胸中を見抜かれてしまうのだろうな。」
励まそうとしてくれたのだろう?と思った事をそのまま告げれば、
彼女は居た堪れなくなったのか、軒の上に勢い良く立ち上がってしまう。
「・・・もう、戻ります。」
かろうじて聞こえた台詞はことさら素っ気無く、良く知らぬ者なら怒らせたと勘違いしただろうが、
この下婢が少々内気なだけである事を、既に趙雲は知っていた。
彼女が無事に窓枠を乗り越えたところで、殿、と呼び止めれば、
まだ少し赤味の残る顔をいつも以上に俯かせ、ちゃんと振り返ってくれる。
何でしょうか、とむっつり尋ねる様が妙に愛らしく、趙雲は勝手に笑みを形作った口から、
「ありがとう。」
と心からの感謝を伝えた。
居心地の悪そうな仏頂面が再び真っ赤に茹で上がり、
はなんとか「い」と「え」の二文字だけを言い残すと、今度こそ身を翻す。
逃げていく彼女の気配を完全に追えなくなった後も、
趙雲はその場に腰を落ち着けたまま、耳に色濃く残る彼女の言葉を何度も繰り返し思い出していた。
もう、焦燥に追われ闇雲に足掻くのも、
無力感に屈して現状を嘆くのも止めよう。
相変わらず曹操への対抗手段は見つかってないし、
絶望的な兵力差が埋まったわけでも無いけれど。
我等は、ただ大敵に抗うために在るのではない。
乱世の先に、民のための天下を実現するべく集った、雄志の軍だったはずだ。
そして今この新野で、主君劉備の大望が少しずつ形を成そうとしている。
(ならば私は今まで通り、民のため、この地の秩序を守ろう。)
もしそれが天下万民の望む国の姿であったなら、どんな苦境であろうと志を同じくする者は必ず現れる。
かつての趙雲自身がそうであったように。
目先の危機にばかり囚われ見失っていた本懐を、思い出させてくれたのは、
他ならぬあの娘だ。
ただ兄の形見であるというそれだけの理由で、
冷たい雨の中、一人黙々と他人の結い紐を探し続けていた、優しい下婢。
(この出会いを何と呼べば良い?)
ふわりと甘く綻んだ可憐な白面が、
久しく忘れていた感情を伴って瞳の奥へと浮かび上がる。
だがその淡い幻影を、趙雲はぎゅっと瞼を閉じる事で無理やりかき消した。
(余計な事は考えるな。)
のおかげで希望を見出せた。その事実だけで良い。
どうせ筆仕事に没頭すれば、瑣末な気の迷いなど思い出せなくなると、
そう己に言い聞かせて、趙雲は執務室へ帰るべく立ち上がった。
事実、
部屋に戻り、山積みの竹簡に無言で立ち向かう趙雲は、
紅蘭さえ声をかけられぬほど鬼気迫るものがあったという。
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