まん丸の纏め髪から突き出た触角のような竹箸を、目が勝手に探してくる。
早朝、鍛錬へと一人向かう道すがらや、軍議が終わって閑散となった広間の隅など、
それこそ日常のいたる所で、ごく当たり前に視界へと入ってきた。
見慣れ切った風景の中で、新鮮な存在感を放つ彼女は、
けれど今までもずっと下婢として趙雲の目に写っていたはずで。
認識の有無がこうも見える景色を変えるのかと、己の単純さに呆れた。
今も、忙しなく働く鶸茶色の人々の中に、の真剣な顔を見つけ、趙雲の目元が自然と緩む。
すぐ傍まで近寄ってから、

「職分とはいえ大義だな。」

と、胸に広がる親しみを労いの言葉へ変えれば、
使い古した踏み台の上で精一杯背伸びをして窓枠を拭いていた娘は、弾けるように床へと平伏した。
せっかく同じ高さにあった目線は失われ、正面から見たいと思ったの顔も、足元で趙雲の靴先とにらめっこしている。
おまけに周囲の下婢達までもが次々と床に手をついて畏まったため、己の失策に苦笑いするしかなかった。

「皆、怪我をせぬよう十分気をつけてくれ。」

と、いかにも最初からこの場の全員に話しかけていたかのような風体を装って、
趙雲は足早にその場を立ち去った。
下婢達が立ち上がる衣擦れの音を後ろに聞きながら、

(またしても、返事は無し、か・・・)

と、最後まで頑なに蹲っていた猫背を思い浮かべ嘆息する。
あの狭い軒の上以外で、趙雲はの声をまともに聞いた試しが無かった。
互いの立場を慮った、彼女なりの気遣いなのだろうが、
軽い挨拶から事務的な指示まで、常に平身低頭、無言の平伏で返答されては、
親愛を抱いている身として少なからず寂しいものがある。
なんとか声を引き出そうと、他愛無い質問を何度も投げかけてみたが、
彼女が口を開くより早く、気を利かせた別の下婢が答えてしまうから、意味が無い。
そうやって常時目立たぬよう、意図的に行動している節が彼女にはあった。
趙雲が執務室を置く庁舎の、清掃雑務を任されている下婢は他にも数名居たが、
その中でもの精勤さは群を抜いている。
時には女官の仕事さえ押し付けられているというのに、
日頃その奉仕を享受しているはずの文官達に、彼女を知る者は皆無だった。
皆一様に、過ごしやすいと答えるものの、主に誰の働きであるかは気付いていない。
彼らはまさについ先頃までの趙雲そのものであった。
空気のように人知れず。
それが彼女の処世術なのかも知れないが、
ただでさえ下婢下男は良不良が激しいのだ、優秀な者は広く認められるべきであるし、
なにより貰った恩義を少しでも返したかった。
懇意にしていればいつか機会も巡ってくると期待していたが、
今のところ、慰労の言葉すら受け取って貰えずにいる。

(結局こちらが思っているほど、はまだ打ち解けてくれていないのだろう。)

認めるのはいささか残念だが、現状を正しく把握する事は大切だ。
どちらにしろ趙雲には、彼女の意志を尊重して疎遠に振る舞うつもりなど毛頭無かった。

(せめて日々の感謝くらい気兼ねなく伝えたいものだが、さてどうするべきか・・・。)

そう会話の機会を増やすべくあれこれ思案しながら、
けれど自身を動かす感情の正体を、趙雲は未だ曖昧に誤魔化したままだった。





今日もまた竹皮の包みを大事に抱えて、いそいそと秘密の窓辺に現れた娘は、
定位置に鎮座する趙雲を見て、いつも通り大いに息を飲み、
更には、彼の手の中の小じんまりとした包みに気付いて、迷惑そうに眉根を寄せた。
その露骨な表情の変化に、

「そう邪険にしないでくれ。」

と眉尻を下げれば、はさっと青ざめ、

「いえ、あの、決して・・・」

と、もごもご言い訳を咀嚼しつつ、軒の端っこへ腰を降ろした。

「少々執務に煮詰まってしまってな。
気分転換も兼ねて、ここで昼を食べようと思ったのだ。」

そう、前以って用意しておいた言い訳をすらすら諳んじ、
趙雲は手布の包みから肉まんを出すと、相手の困惑など知らぬ素振りでかぶりつく。
しばらく唖然としていた娘もやおら正気に戻ると、おずおず自分の食事を広げた。
チラチラこちらを警戒しつつ、種類も大きさも様々な茹で豆を、一つ一つ摘んで食べる姿が、
なんだか落穂を啄ばむ小鳥のように見えて、

「私のも一口食べるか?」

と、軽い気持ちで食べかけの肉まんを差し出してみる。
途端に取れそうな勢いで首を横に振るに、
趙雲も慌てて手を引っ込めたが、遅れてじわじわ今の行為の軽率さが頭に染み渡った。

「その、すまない。子供相手でもあるまいし。何をやっているんだ、私は・・・。」

カッカと火照りだした耳殻を指先で掻いて紛らわしつつ、
居心地悪そうに視線を泳がせる娘へと謝った。
いえ、と口では許したものの、からかわれたと勘違いしたのか、
は心なし唇を尖らせて、不服そうに豆を食べている。
巫山戯たつもりは全く無いのだが、
彼女の怒った顔はなかなかお目にかかれないため、わざと否定はしなかった。
どうやら、昼食をここで一緒に食べようという作戦は予想以上に効果があったようだ。
色々と方策を考えたが、結局はこの場所に居る時間を増やすのが最善だと結論に至った趙雲である。
折しも今日の昼食は肉まんが3つ。
時間帯が早かったため、これしか厨に用意されていなかったと、
申し訳無さそうに謝る紅蘭を尻目に、これぞ好機と趙雲は喜んだ。
そもそも昼食後は午後の巡回まで自己の鍛錬に当てようと思っていた事もあり、

「せっかくだから、これは持って行って鍛錬場で食べようと思う。」

などと体の良い言い訳で、普段から理由をつけては部屋に留め置こうとする女官を煙に巻いてきたのだ。
紅蘭が不審がって無ければ良いが、と背中を薄ら寒くしていると、

「・・・この池も随分と春めいて参りましたね。」

と、てっきりまだ拗ねていると思っていた娘が、遠慮がちに話しかけてきた。
いつも趙雲の一方的な問い掛けで会話が始まるため、珍しい事もあるものだと瞠目する。
娘の穏やかな視線を辿ると、
池のほとりに一本だけ生えた木蓮が、枝いっぱいに純白の花を咲かせているのを見付けた。
溜池を背景に炎のごとく咲き誇る姿は、春の訪れを全身全霊で寿いでいるようだ。
見事なものだ、と顔を綻ばせる趙雲に、

「聞いた話では、蝶もちらほら飛び始めているとか。」

そう教えるの白い横顔にも、隠し切れない高揚が滲んでいて。

「今日は随分と機嫌が良いのだな?」

と、今度は本当にからかいを滲ませて問えば、細い肩が大袈裟なほどぎくりと揺れた。
違いますっ、と明らかに語尾を上ずらせながら即答してくる娘を、
隠すような事でも無いだろうと呆れつつ趙雲が追撃する。

「そうだろうか?」
「そうですっ。」
「そうか。」
「そうです・・・・。」

片や実に楽しげに。片や実に不満げに。
数度の鍔迫り合いを経て、不自然な沈黙の後、

「・・・・・・・・・っお給金を、頂いたので・・・。」

と、ようやくは白旗を揚げた。
その恨めしげな流し目には、そんなに分かりやすい態度だっただろうかと疑念が混ざっていて、

「なるほど、それは喜んで当然だろう。そなたのように、日々真摯に勤めていれば尚更だ。」

私とて懐が暖まれば心が浮き立つと、冗談混じりに肯定してやる。

「そういうものですか?」
「そういうものだ。」
「そう、ですか。」
「そうだ。」

先ほどとは立場の逆転した応酬を繰り返し、神妙な顔で納得するに、
趙雲は可笑しさを噛み殺した。
ここで笑ってしまったら、この照れ屋な恩人はすぐさま逃げ出してしまうだろう。
今にも漏れそうな笑い声を窮屈に喉の奥へと収めて、

「それで。もう使い道は決めているのか?」

そう、在り来たりな質問で誤魔化した趙雲だったが、
彼女は困ったようにはにかむと、母に、とだけ答えた。

「母君に贈り物でもするのか?」
「いえ、仕送りです。母は今、城下にある遠縁の商家へ身を寄せておりまして。
そこで下働きをしております。
ただ、なにぶん年ですので、あまりお役には立てておらぬようで・・・。
母が片身の狭い想いをせぬように、
私の給金はほとんど商家の御当主に渡しております。」

手元に残すのは必要最低限だと話すを、趙雲はどこか合点のいく心地で聞いていた。
下婢下男の給金は、確かに文官女官に比べれば微々たるものだが、
それでも城内で衣食住を賄っているため、余剰を生むことは可能だ。
にも拘らず、が他の下婢達のように、ささやかな遊興に出掛ける様子は皆無であった。

「・・・だから箸なのだな。」

と、安易に簪も買えぬ彼女の現状を言い当てれば、短いせいで円く見える太い眉を怒らせて、

「これが好きなのでございます。」

そう悔しげに視線を逸らした。
別に哀れんだつもりも貶めたつもりも無かったが、
感心から零れた一言が、どうやら彼女の矜持を傷付けてしまったようだ。

「不用意な発言だった。許して欲しい。」

そう素直に謝罪すると、はますます傷付いた顔をし、
どんどん俯いていった。
やがて、申し訳有りません、と重々しく謝ったきり、
残りの豆を啄ばむ作業に戻ってしまう。
せっかく会話が軽快に続いていたのに、自身の浅慮で台無しにしてしまったと、趙雲も肩を落とした。
それでも、これだけは伝えておかねばと、

「きっと母君はそなたを誇りに思っているだろう。そこまでの献身、誰にでも出来るものでは無い。」

決して同情を抱いたわけではない事を賞賛の言葉で証明すれば、
彼女は摘んでいた最後の豆をぽとりと落とす。
返事は返って来なかったが、みるみる赤く上気していく仏頂面を見れば、
の心中など言ったも同然で、趙雲は先ほどまでの和やかな空気が戻ってきたと安堵した。

「・・・・恐れながら、それは過分にございます。」

ややあって、蚊の鳴くような反論が風に紛れて聞こえてきたが、

「事実だろう?」

と趙雲が微笑みを添えて即答したため、彼女はとうとう体ごとそっぽを向いてしまった。
根元まで真っ赤に染まった首筋に満足感を味わいながら、放ったらかしにしていた肉まんへとやおら噛り付く。
すっかり冷えてしまったそれは、けれどいつもよりずっと美味しく感じられ、
全てはこの長閑な景色と、隣に座る人物の純朴な人柄が成せる業に思えた。

(結局また私ばかりが得をしている気がするな。)

このまま、少ない機会を頼りに感謝を伝えるばかりでは、到底貰った恩を返し切らない。

もっと直接彼女の助けになりたい。

喜ばせたい。

そろそろ仕事に戻る気なのか、もぞもぞ落ち着き無く逡巡する気配を横から感じながら、
趙雲は増えてしまった課題にまたも頭を悩ますのであった。





一撃の下に絶命した骸が、ずるりと槍から抜け落ちる。
その手にはまだ血塗れの剣が握り締められていて、
仲間を逃がそうと最後まで踏み止まった男の執念に、趙雲は微かな賛同を覚えた。
とはいえ、相手は近隣の村々で略奪の限りを尽くしてきた賊徒である。慈悲を与うベくも無い。

「一人たりともこの場から逃がすな!抵抗するなら容赦は無用だ!!」

そう、廃村内に散った部下達に向けて声を張り上げれば、
闇に没した視界のあちこちから力強い了承が聞こえてきた。
街道沿いに賊を追って転戦する強行軍であったが、
勧善懲悪という明確な大義が、兵の士気を高く保ってくれている。
軍内に充満する熱狂的な使命感に、趙雲自身も少々引きずられたらしく、
その足元には物言わぬ屍が点々と横たわっていた。

(やれやれ、指揮官が部下の手柄を奪ってどうするのだ。)

今回の遠征部隊には初陣の新兵が多く混じっている。
最初こそ後方で彼等の援護に徹していたが、中軍が狭い路地で乱戦になっているのを見つけた途端、
足が勝手に駆け出していた。
未だ交戦の余韻にざわつく肌を宥めながら、
槍穂から滴り落ちる血糊を、ぶんっと風を唸らせて払い落とす。
劉表から直々に野盗討伐の依頼を受け、新野を出立したのが一月前。
袁と曹の抗争が長期化するにつれ、華北から荊州へ流入する賊徒も増え続け、
やがて彼等は連携し、囲郭都市や武装した大商隊までもを襲うようになっていた。
兵は拙速を聞く。
地の利に長け、緊密に連絡を取り合いながら広範囲に散らばる賊軍を、
騎兵の機動力を活かし反撃の間を与えず一気に攻め立て、この本拠地へと追い込んだ。
そうして、一網打尽にすべく仕掛けた夜襲は思っていた以上の成果を上げ、
賊徒共はさしたる抵抗も出来ぬまま、そのほとんどが討ち取られた。
点在する死体を一箇所に集めるよう指示を出しつつ、後詰めが残党を狩り立てて来るのを待っていると、

「将軍!杜副将がお呼びです。どうかこちらへ!」

と、村内を探索させていた部隊から伝令が来る。
案内に従い、朽ち果てた家々の間を足早に抜けると、一つだけなんとか形を保っている土蔵の前で、
松明を掲げた副将が複数の部下を引き連れて待っていた。
走り寄る趙雲へ向け一斉に拱手した彼等の顔は、だが一様に暗く、蔵の中身に嫌な予感が沸く。
兵卒の一人から松明を受け取り、半開きの扉から中へと静かに踏み込めば、
不衛生な匂いが充満する狭い部屋の隅で、女子供の集団が庇い合ってこちらを凝視していた。
炎を反射し爛々と光る双眸の群れは、どれも恐れと不安に満ちていて、
縄で拘束された足首には、痛々しい裂傷が赤黒い蛇のように巻き付いている。
眉根に深く皺を刻んだ趙雲が一歩近寄れば、
そこかしこで小さく悲鳴が上がり、眼前の数人が退路を求めて必死に後ずさった。

「安心しろ、賊は全て討った。お前達は助かったのだ。」

そう、忸怩たる胸中を顔に出さぬよう精一杯穏やかに微笑みかければ、

「・・・・・おうちに、かえれるの?」

と、既に啜り泣きを始めていた子供達の内の一人が、おずおず尋ねてくる。
ああそうだ、と力強く頷いてやれば、ようやく事態が飲み込めたのか、
押し殺した嗚咽が一つまた一つと狭い蔵の中に増えていった。
彼女達が落ち着きを取り戻すのを見届けてから、外へ出る。

「中の者達の縄を解いてやれ。それから、兵糧と水を分け与えてやってくれ。」

そう副将に指示を出し、趙雲は肺に溜まった淀みを全て吐き出すように、
新鮮な空気を思い切り吸い込んだ。
後少し討伐が遅れていたなら、彼等は皆人買いに売り払われていただろう。
女や女児は妓楼に。男児は金鉱や塩田に。
そうして二度と故郷の地を踏む事は無く、過酷で短い生を無残に終えるのだ。

(救う事が出来た、と素直に喜べたならな・・・。)

こんなものは焼け石に水だという想いが腹の底に燻って消えない。
圧政、疫病、戦火。
様々な理由で里を追われた者達が、貧困を苦に賊徒と化す。
被害者と加害者がくるくる入れ替わり、この広い天下には常に怨嗟の涙が溢れていた。
趙雲に万民全てを救う術などない。

(それでも、この地の安寧を守る事は出来る。)

無力を嘆くより、目の前の現実に心血を注げ。
あの日、が取り戻してくれた道標は、
揺らぐことなく真っ直ぐ我が身の根幹を成していた。
まだ戦は終わっていない。
将としての責務を果たすべく、趙雲は確固たる足取りで野盗共の根城へと向かった。





村で1番大きな廃屋の前には、既に後詰めの部隊が到着しており、粗方の戦果が集められていた。
捕縛した賊徒32名、討ち取った賊徒は実に157名にものぼり、
村内のあちこちから盗まれた金品や食料が大量に回収された。

「こちらの損害は?」

逃げ延びた者が居ないか生き残りに尋問する部下を横で検分しながら、
趙雲は報告に来た副将に尋ねる。
彼は篝火に赤く照らされた強面を豪快に破顔し、

「負傷者が数名出たようですが、なぁに、全員掠り傷ですよ!」

と、軽口を叩いた。
まさに圧勝でしたな、と勝ち戦を誇る彼に当てられて、
ずっと引き結ばれていた趙雲の口元にもようやく笑みが浮かぶ。
だが、その一瞬の緩みを突くように、夜を裂くような女の慟哭が木霊した。
反射的に槍を構え、趙雲が素早く視線を巡らせると、
無数に並んだ死体の一つに、先ほど助けた女達の一人が兵卒の制止を振り切って縋り付いていた。
その場の全てが騒然と固まる中で、いち早くそちらへ向かって疾駆しながら、趙雲は己の迂闊さを歯噛みする。
賊もまた人の子。
ましてこれだけの大所帯だ、家族がいて当然だろう。
恐らく、官軍に攻められた時には蔵に捕らわれている者達の中に紛れ込むよう、指示されていたのだ。

(頼むから死に急いでくれるなよ!)

けれど、趙雲の祈りも虚しく、女は死体の腰から短剣を引き抜くと、
手近な兵卒に突進して行った。
それまで保護すべき対象であった者から急に牙を剥かれ、
新兵らしき青年は顔を強張らせたまま動けずに居る。
手負いの獣に似た咆哮を上げ、凶器を振り下ろす女の背中を、
だが間一髪のところで趙雲の槍が貫いた。
粗末な服に包まれた細い体がビクリと一度だけ大きく痙攣し、力無く地面に倒れ伏す。
その顔は苦悶に歪み、土埃に汚れた頬には涙の跡が幾筋も刻まれていた。
槍を引き抜いて、真っ黒い染みが広がり続ける地面に片膝をつくと、
趙雲は見開いたまま光を失っている瞳を、掌で撫でるように閉じた。
まだ十分に若い女の死に顔が、なぜか遠く池を眺める下婢の面影を呼び起こし、
堪え切れず目を眇める。
振り切るように立ち上がり、趙雲は噴き出し続ける自責に任せて一喝した。

「勝ったからといって注意を怠るな!賊徒の縁者は例え女子供であろうとも死罪である!
常に敵襲を想定し警戒せよ!!」

重苦しい緊張感で静まり返った周囲に怒号はわんと響き渡り、
兵糧の配給に集まっていた子供達が次々と泣き始める。
兵卒達の顔は夜目にも分かるほど引き締まり、動きにも平時の機敏さが戻った。
趙雲は威嚇するように女達の群れを一瞥すると、わざわざ鮮血に濡れた槍を見せ付けて、
ゆっくりと彼女らの横を通り過ぎる。
篝火の横で、手布を片手に迎えてくれた副将から、

「これでもう誰も、復讐なんて馬鹿な気は起こさんでしょう。」

などと気遣わしげに告げられて、
趙雲は自身の浅知恵を見抜かれている事に苦笑するしか無かった。
確かに野盗の縁者は死罪と法で定められているが、
哀れな囚われ人と、罪人の妻子を一体誰が見分けるというのか。
だからこそ敢えて趙雲自ら女を切り捨て、必要以上に威圧し、
これ以上無為に命を落とさぬよう、生き残った幾許かの者達に釘を刺したのだ。
どうみても掃討軍の指揮官にあるまじき背信行為であるというのに、
咎める様子も無い副将から手布を受け取って、趙雲は身を隠すように陣営から離れた。
篝火の光が届かずとも、月に照らされた愛馬はその純白の毛並みを淡く闇に浮かび上がらせている。
手綱を結んだ大樹の根本に腰を下ろし、趙雲は血が乾き始めた槍先を無言で拭き清めた。

散々戦場を渡り歩いた身だ。
今更、名も知らぬ女一人殺す事に躊躇など無い。

一瞬の迷いが生死を分かつ死線において、こと趙雲は最善を即決する事に長けていた。
例えそれが感情と相反する決断だったとしても。
必要とあらば肉も骨も、命さえ削ぎ落として進む修羅の道を、自分は望んで選んだ。

ただこの生き方は、日々を慎ましく誠実に生きる下婢の目に、どう映るだろう。

労るように鼻面を寄せ、前髪を甘噛みしてくる愛馬の頬を、趙雲は温もりを確かめるように撫で返す。
爽やかな春風にキラキラ輝いて漣立っていた真昼の溜池が、今は酷く遠い憧憬に感じられた。













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