翌朝は、決して晴れやかな出立とはいかなかった。
再び野盗の棲家とならぬよう廃村には火がかけられ、蔵も民家も全て跡形もなく灰になった。
村の出口には賊徒の生首で怩ェ築かれ、残りの遺骸は弔われる事も無く周囲の山林に打ち捨てられた。
世を乱す者の末路を知らしめるとともに、略奪を受けた村々の悲憤を慰撫するのが目的、とは為政者の言い分であるが、
実際にそれを実行する兵卒達の士気は低い。
木々の間では、さっそく死肉を求めて集まってきた烏共が、しきりに不気味な雄叫びを上げている。
けたたましい羽音に怯える軍馬達を宥めつつ、趙の牙旗を掲げた隊列は粛々と村を出た。
縄に繋がれ連行される虜囚達の顔は、どんより雲が垂れ込めた今の空よりもなお暗く、
勝ち戦の興奮が剥げ落ちた兵士達の間には虚脱感が蔓延している。
救出された女達も、張り詰めていたものが切れたのか、茫然自失といった様子だ。
唯一、戦利品と一緒に荷馬車へと詰め込まれた子供達だけが、天真爛漫な笑顔を撒き散らしていた。
先頭を進む趙雲が後方の確認に振り返れば、途端にきゃあと歓声が上がり、
無数の小さな掌がてんでバラバラはためいた。
「元気なもんですなぁ。」
そう言って呆れ顔をする副将も、少なからず彼等の無邪気さに救われているのだろう。
このまま何事も無く、皆をそれぞれの郷に送り返せればと願う趙雲だったが、
補給と、一応の報告を兼ねて立ち寄った街で、手痛い歓迎を受けた。
散々壁外で待たせた挙句、武装した衛兵を引き連れて現れた老年の県令は、
頭からこちらを反乱分子扱いし、入城を断固拒否してきた。
理由としては、事前の挨拶も無しに勝手に領内で戦闘を行っただとか、
本来なら法の元に裁かれるべき賊徒の殆どを私刑に処しただとか、どれも言い掛かりに等しく、
挙句、信用して欲しくば戦果を全部置いて行けと、兵をけしかけて趙雲達を包囲する始末。
「劉州牧へは、この私が直々に確認申し上げる。嫌疑が晴れるまで、野営でもして待つが良い。」
さも当然の処置と言わんばかりの顔で言い渡す小男に、副将を始め配下達は皆無言で剣の柄に手をかけたが、
趙雲が控えよ!と一喝すると、すぐさま直立不動の姿勢へ戻った。
彼等の静かな怒気を背負って一歩前に進み出ると、
先ほどまで居丈高だった小男は慌てて衛兵の後ろに退く。
「県令殿の方で劉州牧に御報告頂けるならば、こちらとしても有り難い。
賊の根城より押収した品は全て、喜んでお預け致す。
しかしながら、我等も度重なる交戦で疲弊しております。
せめて保護した者達だけでも、屋根の下で休ませてやりたいと思うのですが、
なんとか入城をお許し頂けまいか。」
そう、不当な扱いを受けたにも関わらず趙雲が礼を尽くして嘆願すれば、
当の県令はもちろん、取り囲む衛兵の間にも動揺が生じた。
明らかに貫禄負けした小男は、冷や汗をかきながら、
「うむ、殊勝な心掛けだ。武装を解くというならば、囲郭内の駐屯地を使わせてやらん事もない。」
などと、今更度量の広さを示したいのか、あっさり許可をくれる。
固唾を呑んで事の推移を見守っていた同行者達から、一斉に安堵の吐息が零れた。
「寛大な御許し、感謝致す。
もとより我等は一刻も早く、新野の防備に戻らねばならぬ身。
賊に連れて来られた者達も道中送り届ける所存ゆえ、翌朝には出立致します。
決して県令殿のお手は煩わせませぬ。」
そう改めて付け足すと、趙雲は恭しく頭を垂れた。
さすがにそこまで遜られては県令も嫌と言えず、委細承知した、と首を縦に振った。
衛兵に先導され、愛馬の手綱を引きつつ壁門を潜る中、後ろに控えた副将が、
「恐れながら、将軍があんな屑に頭を下げてまで滞在する必要など無かったのでは?」
と、憤然やるかたない口振りで諫言してくる。
官吏の身でゆすりたかりとは恐れ入る、となおも燻る部下を、
「だが、女子供に野営ばかりでは酷だろう?
それに、我等が県令の不興を買えば、州牧と殿との盟に障りが出るやも知れぬ。
郷里へ帰す者達には、既に当面暮らせるだけの金子を分け与えてある。
残りの戦果など、あの小役人にくれてやれ。」
と、いかにも品行方正に嗜めておいて、
まあ馬だけは絶対に渡さぬがな、と涼しい顔で嘯くものだから、副将は人目も憚らず盛大に噴き出した。
前を行く県令がぎょっとなって振り返ったが、趙雲は到って真顔で、いかがなされた?と空惚けるものだから、
副将の肩はいつまでも小刻みに震えていた。
「ちょいと、そこ行く御仁。あんただろ?追い剥ぎ共を退治してくれたってのは?」
そう、商売人特有の遠慮無い声に呼び止められて、趙雲は日の暮れかかった大通りに足を止めた。
入城の手続きやら、罪人の受け渡しやらで、1人庁舎に赴いた帰りである。
自分の居ない間に衛兵と部下達の間で軋轢が生じて無いか気になる所ではあったが、
目の前の露店に陣取る男の物言いに引っかかりを感じたのだ。
「なぜそう思う?」
そう短く問い返せば、彼は人懐っこい面構えに不敵な笑みを浮かべ、
「そりゃあんた、世の中に商人の耳より早いもんなんざござんせんよ。」
などと、手に持った竹製の簪をひょいひょい振ってみせる。
良く見れば、男の前に広げられた筵の上には、様々な紋様が刻まれた色とりどりの簪が並べられていて、
なるほど彼は行商人らしいと見当付けた。
趙雲の得心を読み取ったのか、男は、
「いやいや、これでも襄陽にゃ立派な店を持ってる身でね。
こいつは暇潰しと、まぁちょっとした路銀稼ぎってとこですよ、趙将軍。」
と茶化しつつ、こちらの正体をずばり当ててくる。
(やはり最初から私と知っていて声をかけたか・・・目的は何だ?)
趙雲の纏う空気が剣呑に変わったのを敏感に察したらしく、簪売りは血相変えて慌てだした。
「ちょ、ちょっと待って下せぇよ。別に怪しいもんじゃありませんって。
実を言うと、俺ぁ前にも一度将軍に助けられた事があるんでさぁ。」
と、さっきまでのふてぶてしい物言いが嘘のように、
身振り手ぶりを加えて必死に弁明する。
「ありゃ、冬の初め。仕入れを終えて新野へ立ち寄った時でさぁ。
あんまり寒ぃんで1杯引っ掛けようかって、街に繰り出したまでは良かったんだが、
帰り道でごろつきに絡まれちまいましてね。
あわや品物どころか命まで巻き上げられちまう所を、将軍が駆けつけてきて下すってねぇ。
あん時ぁほんと助かりました。」
そう捲し立て、男が神妙に頭を下げたため、趙雲もすっかり毒気を抜かれてしまった。
何しろこちらにしてみれば、城下で日々起きている捕縛劇の一つに過ぎない。
思い当たる節など全くなかった。
もう少し彼の話に付き合うと決めて、
「すまぬが、私には身に覚えが無い。
それに、そなたが襄陽の簪商だというなら、このような州境に何の用があるのだ?」
と、まだ少し疑い気味に尋ねれば、彼は柿茶色の巾をぽんぽんと叩き、
「近々寿春で大きな商談があるんでさぁ。
けど、街道に盗賊が出るってんで、ずっと足止めくらってたんですよ。
ここにゃ俺と似たり寄ったりな連中がごまんと居ますからね、
将軍の御活躍もあっという間に広まったってわけでさぁ。」
そう、ニカッと破顔した。
「しっかしまぁ、二度も趙将軍に助けられるたぁ、こいつは良縁ってやつだ。
よし!是非ともここは礼をさせてくだせぇ。どれでも一つ謹んで御進呈致しやす。」
などと前口上を述べると、男は景気良くばっと両手を広げてみせる。
どうにも商人という人種は、耳触りの良い事を言いながら、大抵腹に一物も二物も隠している。
君子、危きに近寄らず。
「いや、それが私の職務ゆえ気遣いは無用・・・」
そう、常套句で辞退を申し出た趙雲だったが、ふと思い留まると、
ずらりと並んだ簪の前にしゃがみ込んだ。
「おおっと、そうこなくっちゃ。
けど、そんな安物を将軍に差し上げたんじゃ、俺の簪商としての名が廃るってもんだ。
ささ、こっちから選んで下さいよ。」
と、ごそごそ懐の中から、絹織の包みを引っ張り出して来た。
何重にも巻かれた布を丁寧に剥いていくと、中からは目にも彩かな至高の品々が現れる。
「ここにあるのは、ウチで扱う簪の中でも最高級の逸品ばかりでさぁ。
閨でさえ、古女房じゃなくコイツを抱いて寝てるんですぜ?
命と引き換えにしたって渡せねぇ品ばかりだが、将軍に貰ってもらえんなら惜しくねぇ。」
本来なら多額の利益を生むはずの品を、無償で贈呈しようとする男に、
どうしても、疑いと、それに対する後ろめたさが沸いてしまう。
やはり辞退するべきかと逡巡しながら、趙雲が煌びやかな髪飾りの上に視線を泳がせていると、
銀や鼈甲、珊瑚に混じって、やけに簡素な木製の簪を見つけた。
「あー・・・そいつに目をつけちまいましたか。いやね、物凄く良い品なんですよ?それ。
遠く身毒に生えるという、世にも奇妙な真っ黒い木から削り出したとかで。
黒檀って聞いた事ないですかい?固くて長持ち。水にも強くて、おまけにこの燻した様な艶!
彫りも細部まで丁寧だし、下世話な話、仕入れ値も結構したんですよ。」
けどねぇ、と渋い表情で唸る男に、趙雲も同意を禁じえない。
他の物に比べ、明らかに地味なのだ。
客も、どうせ高値の簪を買うなら、華やかなものを選ぶだろう。
女人なら尚更である。
「何年も売れ残っちまってるが、値を下げるのもなんだか悔しくてね。
ついつい貧乏根性引き摺っちまってんですよ。」
そう照れ笑いを浮かべる男の手から、鈍い光沢を放つそれを受け取って、
趙雲はしげしげと眺めた。
確かに、玉でも金属でも無く、黒髪に紛れて映えない色だが、
透かし彫りされた大輪の蓮花から、髪に差し込む部位に施された螺旋に到るまで、
滑らかに磨かれ、粗が微塵も無い。
地味な見た目に反した、職人の素晴らしい仕事ぶりが、彼女にはぴったりだ。
「どうか、これを頂け無いか。」
すっかり気に入った趙雲がそう申し出ると、
簪売りは心底意外そうに良いんですかい!?と念押ししてきた。
もちろんだ、と答え、趙雲は腰帯から銅銭袋を引き抜いた。
「今、生憎と手持ちがこれだけなのだ。少ないがどうかこれで譲ってもらえまいか。」
と、心苦しくも頼み込めば、彼はとんでもねぇ!と両手を振る。
「命の恩人から金なんか頂けませんよ!
それでなくたって、売れ残りを引き取って貰っちまったようで申し訳ねぇってのに。」
「しかし、私もこれを恩人への贈り物にしたいのでな。
まさか、タダで貰った品を渡すわけにもいかないだろう。」
そう言って、趙雲は銅銭が詰まった巾着ごと彼の手に無理矢理握らせた。
しばらくは受け取る受け取らないで押し問答となったが、
最終的には男の方が折れて、渋々ながらも代金を受け取る。
「なんてこった、俺ぁ趙将軍に心底惚れ込んじまいましたぜ!
もし困った事がありましたら、襄陽の張屋って店に訪ねてきて下せぇ。一族郎党総出で力になりますぜ!」
そう感激しながら、男は件の簪を過剰なほど厳重に薄絹で巻いてくれる。
「申し出は有り難く受け取るが、私はまだそなたの名前も知らぬのだぞ。」
と、鼻息荒い男を呆れ顔で往なせば、
「そうでした!こいつはとんだ御無礼を。俺ぁ、張坦っていいます。
自慢じゃねぇが襄陽じゃそこそこ顔が売れてますんで、名前を出しゃすぐに店も知れますよ。」
盛大にお持て成し致しますから是非お越しを、と簪の包みを受け取ったこちらの手を、
両手でぎゅうぎゅう握りしめてきた。
分かった分かったと、彼の手を振り解いて立ち上がれば、絶対ですよ、と念押しまでしてくる。
去っていく趙雲へ向け、
「ありがとございやしたぁー!!!」
と、野太い銅鑼声を張り上げるものだから、道行く人々の視線がやけに痛かった。
いつまでも手を振り続ける張坦の姿を一度だけ振り返って眺めた後、
珍妙な顔見知りが出来たものだと嘆息しつつ、趙雲の口元には勝手に笑みが毀れる。
彼の誠意が本物であれば良いと、そう願った。
出立した時にはまだひょろリと頼りなかった麦苗が、今や青々と隙間無く茂り、風に雄々しく立ち向かっている。
膨らみ始めた麦穂の向こうに、黒く横たわる新野の城壁を見つけ、
旅塵に塗れた兵卒達の間に安堵が広がった。
綺麗に生え揃った麦畑の中から、農夫達が腰を上げては深々とお辞儀する。
趙雲もまた、頷くことで挨拶を返しながら、彼等の平穏そのものといった様子にホっと胸を撫で下ろした。
帰還の道すがらに立ち寄った村々は、未だ略奪の爪跡を色濃く残し、嘆きと悲しみに溢れていたから。
それでも、趙雲率いる600の騎馬隊は行く先々で手厚い歓迎を受けたし、
助け出された者達はもとより、彼等の無事を祈り続けていた親族達もまた、抱き合って再会を喜んだ。
もちろん、中には何もかも失って天涯孤独となった者も居たが、
同じ境遇の者同士助け合い、新しい土地で生きて行く選択をした。
別れ際に彼等が見せた力強い笑顔は、此度の遠征での最たる戦果になった。
(とはいえ、帰陣までに随分日を要してしまったからな。何事も起きて無ければ良いが・・。)
賊を討伐して更に10日、新野を出てからゆうに一月半を数えようとしている。
帰還を逸る後続に押されるようにして、行軍の足取りを早めながら、趙雲は1人顔を引き締めるのだった。
衛兵の供手に見送られ、壁門を潜り抜けると、以前と変わらず活気に満ちた新野の町並みが、彼等を出迎えてくれた。
行き交う人々は皆忙しなく、物々しく武装したままの趙雲達を見ても怯えるどころか、
立ち止っては気安い笑顔を向けてくれる。
噂はあっという間に城下を駆け巡り、目抜き通りの両脇を野次馬の列が飾った。
鈴生りの人だかりから飛んでくる労いや笑い声が、不在の間も新野が日々平和であった事を教えてくれる。
杞憂であったと安堵しつつ辿り着いた本城で、趙雲はなんと城主である劉備自らの出迎えを受けた。
護衛兵の制止を振り切って走り寄る主君に面食らい、慌てて下馬すると御前に跪く。
後ろに付き従っていた部下達も、一糸乱れぬ動きで主に習った。
劉備はその人好きのする笑顔を惜しみなく振り撒いて、畏まる将兵達を誇らしげに眺め回した。
「趙雲。此度の討伐、まことご苦労であったな。皆も、鋭意奮迅、大義であるぞ。
先ごろ劉州牧より感謝の書状が届いたばかりだ。」
人たらしの異名を持つ主君は、趙雲の前に自ら進んで膝をつくと、
拱手している手の上に自身の手を重ね、労いの言葉を言い募る。
「殿御自らの御出座、我等一同幸甚の至りでございます。
しかしながら、帰還がいささか遅れてしまい、
騎馬軍の不在が長引いた事、痛恨の極みであります。」
「なにを申す。私は、やはりそなたに任せて正解だったと思っているのだぞ。
兵を一人も失う事無く見事賊を討ち果たしたではないか。
その上、捕らえられていた者達をそれぞれの郷里に送っていくとは、素晴らしい善行だ。
私が仁者を称しておられるのも、そなたらが民のために尽くしてくれるからこそだろう。」
手放しに賞賛される面映ゆさを、静謐な面差しで覆い隠し、有り難きお言葉、と短く一言だけ礼を言う。
劉備は益々満足げに目を細め、
「そなたは常に謙虚であるな。私もかくありたいものだ。
それで此度の討伐についてなのだが、早速・・」
と、なおもこの場で話込もうとしたが、すかさず護衛兵が咳払いを零したため、慌てて言い直した。
「わ、分かっているとも。すまぬな趙雲、孫乾を待たせておるのだ。
報告はまた後で、私の執務室にて聞かせてくれ。
皆も今日はゆっくり体を休めるのだぞ。」
そう言い残すと、新野の仁君は、護衛兵にがっちり両脇を固められて城内へと戻って行った。
大方、早馬から討伐隊帰陣の報せを受けて、わざわざ執務を抜け出してきたのだろう。
置き去りにされた孫乾には同情するが、主君自らの出迎えを誉れと思わぬ将など居ない。
せかせかと早足で帰る劉備の背中が見えなくなるまで見送って、趙雲は居並ぶ部下達に騎乗の号令をかける。
はっ、と力強く応答する兵卒達の小汚い顔は、彼等の主と同じく誇らしげに輝いていた。
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