主君からの温情を有難く承って、部下達に翌朝までの余暇を言い渡すと、
趙雲は兵装も解かず飼葉倉へ直行した。
残念ながらお昼時はとうに過ぎているため、には会えないだろうが、
それでも執務室に戻る前に、あの溜め池を一目見ておきたかった。
さすがに龍槍こそ麾下の一人に預けてきたものの、戦装束のまま小さな明かり窓を通り抜けるのは至難の業で、
四苦八苦しながらなんとか外へと身を乗り出す。
一月前までだだっ広い鏡のようだった池の水面は、蓮特有の丸い浮き葉で埋め尽くされていた。
春から初夏へ。
景色はすっかり装いを変えてしまったが、眺めるほどに、帰って来たのだと実感する。
自然と体から余計な力が抜け落ちて、趙雲は手足が望むまま気持ち良く伸びをすると、
定位置へ腰を下ろそうとした。
けれどそこでようやく、見慣れぬ円座が一つ、軒の端にぽつんと置かれている事に気付く。
藁で編まれたそれは、形こそ多少歪であったものの、まだ充分に新しく、微かに青い香りが残っていた。
もちろん、誰がなぜこれをここに置いたかなんて確認するまでも無かったが、
やはり本人に了承を得るまで、座るのは憚られる。
なんともくすぐったい胸中を持て余しつつ、さてどうしたものかと迷っていると、
来訪は望み薄だと諦めていた人物の気配を、趙雲の研鑽された五感が感じ取った。
けれど、窓枠の前までやってきた彼女は、顔を見せるでも声をかけるでもなく、じっとその場を動かない。
怪訝に思って蔵の中を覗き込めば、荒い呼吸を落ち着けようと胸を押さえていたが、
猫のような釣り目をまん丸に見開いた。
驚いて後ずさった細い体が、重心を失ってふらりと虚空によろめく。
しまったと頭が認識するより前に、趙雲の手が抜群の反射神経でもって、宙に縋る彼女の腕を掴み取った。
寸でのところで梁からの落下を防いだものの、
助けた方も助けられた方も、血も凍るような心地に言葉も出ない。
「・・・・大丈夫か?」
まだ激しく脈打ち続ける心臓を宥めすかして、喉の奥からなんとかそれだけ絞り出せば、
殆ど趙雲の胸に収まるように俯いたがこくこくと首だけを縦に振った。
ちゃんと反応が返ってきた事に安堵して、詰めていた息を盛大に吐き出す。
「すまない。まさかそれほど驚くとは思わなかったのだ。」
大事にならず良かった、とようやく緊張を緩めた趙雲を、
まだ恐怖を引き摺っているらしい真っ青な顔が見上げてくる。
潤んだ瞳から縋るように見つめられ、そのあまりの近さに互いの距離を意識する。
窓枠を間に挟んで殆ど抱き合っている現状に気付いた途端、
掴んだままになっていた柔らかい腕の感触が、酷く落ち着かないものへと変わった。
「慣れている場所ほど怪我をし易いものだ。気をつけた方が良い。」
などと窘めながら、不自然にならぬようさり気なく手を放せば、
は趙雲の変化に気付くことなく、申し訳ありません、と謝った。
久方ぶりに会ったせいだろうか。
気落ちして俯く彼女が、やけに頼りなく見えて仕方ない。
その憫然たる肩を抱き寄せ安心させたい衝動を、腕組みする事で誤魔化しつつ、
「それにしても随分な驚きようだったな。
私がここに居ると気付いていなかったのか?」
と、話題を切り替えた。
まだ少し不安なのか両手でしっかり窓枠を掴んだは、ばつが悪そうに視線を彷徨かせ、
「いえ。こちらにいらっしゃるのだろうと・・思っておりましたが、
その、どうお声をお掛けしたらよいものかと・・・。」
そう尻すぼみに白状する。
「何か不都合でもあるのか?見たところ、昼食を取りに来たわけではなさそうだが・・・。」
「そ、それは・・はい。い、いえ、あの・・・。」
趙雲が重ねて問えば、はますます挙動不審になり、
答えあぐねるばかりだ。
「・・あ、そ、そうです!女官の方に・・た、頼まれたのでございます。
沐浴の準備を致しましたところ、将軍がまだお戻りになられないとの事で・・。」
と、服の裾を揉みくちゃにして緊張気味に話す様は、
しどろもどろの説明とも相まって、趙雲に不信感を植え付けた。
何かを隠している、と直感したものの、そこに悪意があるとも思えないため、
とりあえずは信じたふりをして話を続ける。
「ならばなおさら遠慮せずに呼べば良かったのだ。
湯が冷めてしまっては、温め直すのに手間をかけさせてしまう。」
「いいえ!決して手間だなどとは・・・」
そう否定した直後、はあからさまに目を泳がせ、
「あ、ち、違います!沐浴を準備されたのは女官の方でございまして、
私はただお迎えに参っただけですので!」
などと、身を乗り出さん勢いで言い直した。
まだ探りすら入れていないというのに、こうも動揺していては、
嘘をついていますと自己申告しているようなものだ。
まあ恐らくは、趙雲の帰還を知り、気を利かせて湯殿を整えたが、
いつまでたっても戻って来ないため、わざわざ呼びに来たと、大方そういうところだろう。
しかし、なにゆえそれを他者の功労にしようとするのか。
(理由はなんだ?まさか、そう言えと女官に強要されているのか?)
趙雲が押し黙ったまま疑惑の視線を向けると、
ただでさえ切羽詰まったの顔がいよいよ青ざめる。
「ほ、本当でございます。全ては女官の方々の御献身によるもの!
どうか、慰労のお言葉は全て紅蘭様へお願い申し上げます!」
声を上擦らせ懸命に懇願する姿に、よほどの理由があるのだろうと察して、
趙雲はそれ以上追求するのを諦めた。
「・・・・・・分かった。後で紅蘭には私から礼を言っておく。」
そう、全部女官の手柄という事にしてやれば、
は心底ほっとしたようで、深々と頭を下げてきた。
彼女が秘密を明かしてくれるまで待とうと、一旦は身を引いたものの、
あっさり安心されるのは、やはり面白く無い。
代わりといってはなんだが、一つこちらの我儘も聞いてらおうと、
「ところで、私はそなたに用があってな。丁度良い。少し付き合ってくれないか。」
と、確信犯の笑みを添えて、窓の外へと誘う。
さっきの今では趙雲の申し出を断れるはずも無く、
その細面に悲壮な覚悟を浮かべ、哀れな下婢は意を決したように窓枠を越えてきた。
一体何を想像したのか、出会った当初のようにカタカタ震えながら、
落ちそうなほど端っこに座るに、趙雲は脅しが過ぎたと、居心地悪く首の後ろを掻く。
「そんなに怯えないでくれ。こうして会うのも久方ぶりだからな。
もう少し話がしたかっただけなのだ。」
そう言いつつ藁円座へと腰を降ろせば、
彼女は上目遣いでこちらを伺いながら、恐る恐る座る位置を戻した。
「これは、そなたが用意してくれた物だろうか?勝手に座らせてもらったが・・・。」
と、尻の下に敷いた円座を指せば、こくりと一つ頷きが返ってくる。
「屋根にそのままお座り頂くのは・・申し訳ないので・・・。」
そう言って俯く彼女からは、出すぎた真似だっただろうかという迷いがありありと見受けられて、
こっそり尾行した挙句我が物顔で居座っている自分の方が余程厚かましい、と自嘲した。
有り難う、と礼を言いかけて、言葉よりも贈るにふさわしい品があったと思い直す。
買って以来、ずっと戦袍の懐に仕舞い込んでいた絹袋を取り出して、
趙雲は、不思議そうに訝しむ娘の前へと徐に差し出した。
受け取るべきか否か戸惑いがちに伸びてきた手に、半ば無理やり押し付けて、開けてくれないか、と促す。
ところどころささくれて血の滲んだ指先が丁寧に紐解いていくのを、
趙雲は子供のような高揚感を押し隠して、じっと待った。
じれったいほど厳重に重ねられた薄絹の中から、黒い簪がその姿を現した途端、
大きく息を呑む音が耳に心地良く届く。
驚き、疑念、期待。
様々な感情を渾然と浮かべた大きな瞳に見つめ返されて、
雲の胸を痺れるような満足感が満たした。
「気に入って貰えると良いのだが・・・。」
と、今更彼女の反応に一喜一憂している己が恥ずかしくなって、はにかみがちに視線を逸らす。
けれどもの方は、両手で大事そうに包み込んだ簪と、趙雲とを何度と無く見比べ、
唇を小さく戦慄かせると、あろうことかその手を突き返してきた。
「恐れながら、このような過分な品、頂けません!
将軍の御恩情のみで私は充分に至福です。どうかこちらはお収め下さい!」
激怒されるのも覚悟の形相で必死に訴える彼女の、低く低く下げられた纏め髪を見下ろして、
思わず嘆息が零れる。
簡単には受け取らないだろうと覚悟していたとはいえ、即答で拒否されるとやはり悲しい。
こちらの溜息を聞いてビクッと肩を跳ね上げた辺り、
まだ幾らか望みはありそうだが。
「・・・差し出がましい真似だっただろうか?」
「いいえ、決して!」
「では、そもそも私が疎ましく思われているのだな?」
「っ!?それだけは絶対に違います!私・・・私は・・!!」
逃げ道を塞ぐために、わざと自虐的な問い掛けをすれば、
そうとは知らぬが、その都度全力で否定する。
どうやったら上手く本意が伝わるのだろうと、今にも泣き出しそうな顔で言葉を捜す娘に、
後ろめたさを感じる反面、喜びが沸くのも事実だった。
「その簪は、そなたへの感謝の証だ。
もし、少しでも私に親愛を抱いてくれているなら、どうか受け取って欲しい。」
追い詰められて押し黙るの簪を握り締める両手に、そっと己が手を添えると、
小賢しい台詞とは程遠い、祈るような思いで押し戻す。
掌中で繊細に咲き誇る蓮の花を、途方に暮れて見下ろしながら、
「でも・・ですが・・端女に装飾品などお与えになったと噂になれば、
将軍の声望に障りが出ます。
やはり、これは妻君となられる御方に・・。」
と、はなおも蚊の鳴くような声で反論した。
「恩人に謝儀の品を贈るのは礼に叶った当然の行いだろう。
それがたまたま簪だっただけの事。それに、醜聞の心配などする必要はない。
私は大願のために一族を捨てた身だ。生涯天命に尽くし、独り身を通すさ。」
だから構わず貰ってくれ、と笑えば、娘は己を責めるように唇を噛み、黙り込む。
到底承服しかねる様子に、趙雲は苦笑いを浮かべると、とうとう最後の切り札を出した。
「ならば兄君から貰ったと思えば良い。もし今も御存命であったなら、
妹が髪に箸を挿している様を、果たして見過ごしただろうか?」
そう、少々意地の悪い言い回しを使えば、はますます俯いて眦を赤く染め上げると、
殆ど吐息と変わらぬ声で、狡い、と悪態を零した。
身分も忘れて拗ねる様がとても愛らしく、趙雲は緩みそうになる口元をそれとなく引き締める。
「私も、兄には先立たれているからな。恩を返すことが出来ない辛さは身に染みている。
だからどうしても、そなたには私が生ある内に奉謝しておきたかった。」
この乱世、明日また笑い合えるとは限らない事を、お互い嫌というほど理解している。
趙雲の真摯な告白が、ようやくの頑なな心を動かしたようで、
彼女は両手に恭しく簪を捧げ持つと、
「将軍の御厚志、慎んで拝領致します。」
そう言って厳かに面を伏せた。
再びゆっくりと顔が上がり、視線が交われば、どちらからともなく笑みが溢れる。
ふんわり花弁が綻ぶような柔らかい笑顔に、
(ああ、そうか。私はただ、もう一度これが見たかっただけなのだな。)
と、趙雲は自身の本当の望みに気付かされた。
すると、柔和な笑みをほわほわ振り撒きながら、がごく自然に簪を絹袋へ仕舞い込もうとする。
これには、ようやく受け取って貰えたと安心仕切っていた趙雲も、慌てて引き止めた。
このまま仕舞われたが最後、二度と日の目を見ない予感がする。
何か間違っただろうかと、小首を傾げる娘に、
「すまぬが、出来れば今この場でつけてくれないか。」
そう、贈り主の特権を行使する。
空も飛べそうなほど上機嫌だった娘は、
一瞬ぽかんと固まったあと、ブンブン首を横に振った。
とはいえ、放っていたら確実に行李の底で伝家の宝と化してしまうため、
趙雲も臆することなく食い下がる。
「大事にしてくれるのは有り難いが、使ってもらうために贈ったのだ。
せめて挿している姿を見せて欲しい。」
そう言って駄目押しに頭を下げれば、こういう身分を顧みない行動に滅法弱い下婢は、
「さ、挿します!挿しますから!どうかお顔を・・・!」
と、押し切られる形で了承した。
流石に多くを望み過ぎただろうかと、神妙に顔色を覗き見れば、
短い眉を精一杯寄せたは、居た堪れない風情で身じろぎを繰り返す。
「あの・・・あまり、見ないで下さいませ。」
と、恥じ入るように言い置いて、一筋の乱れも無く纏められた髪から、箸を二本とも引き抜いた。
最初はゆっくり、やがて堰を切ったように、黒絹がほろりと解けて乱れ落ちる。
ほの赤く染まった耳や、優美な流線を描いた首筋が隠れてしまう様に、
趙雲は陶然と、見入った。
こちらの視線に気付いて、頬を薔薇色に上気させた娘は、
羞恥に瞳を揺らし、
「お目汚し失礼致します。」
と、小さく小さく断りを入れる。
背中に散った長い髪が、彼女の指によって無造作に掻き集められ、
先ほどより色味を増したうなじが露わになった途端、
趙雲の血潮が唸りを上げて逆流した。
勝手に顔が熱を持ち、成すすべもなく汗が噴き出る。
急激な変化に対応しきれず、頭はいささか混乱しているというのに、目はじっとの横顔だけを捉えていた。
伏せられた睫毛が微かに震える様や、両手を使うために簪を銜えた唇の、しっとり潤んだ艶が、
脳裏へと鮮明に刻み付けられる。
渇いた喉に生唾を流し込めば、ゴクリと酷く生々しい音がした。
腹の底で、馴染のある衝動が獰猛にとぐろを巻いている。
美味しそうな耳朶に吸い寄せられる恥知らずな視線を、無理矢理引き剥がし、趙雲は己の迂闊さを呪った。
髪を解く。
ただそれだけの行為に、こんなにも心が騒ぐ。
普段から清貧な佇まいを崩さず、女人の色香など微塵も見せなかったが、こんな風に変わるなんて。
もっと、知りたい。
この手で乱したい。
何を馬鹿な、と憤って否定するものの、吐き出す息は焼けるように熱く、
衣擦れの音を肌に感じては腰に甘い重みが溜まる。
趙雲は今、間違いなく欲情していた。
なんという失態だ。
彼女は恩人で、得難い理解者で、
これからもこの秘密の窓辺を共有したい大切な友人で。
こんな後ろ暗い情動をとの間には持ち込みたくなかった。
猛烈な自己嫌悪で趙雲が拳の内側に爪を立てていると、
将軍?と躊躇いがちに敬称を呼ばれた。
はっとなって顔を上げれば、元通り髪を纏め上げたが、オドオドとこちらを伺っている。
「あの・・・どう、でしょうか?」
と、自信が無さそうに尋ねられ、趙雲は思わずあぁと感嘆を零した。
手櫛で整えたせいでいつもより緩く巻かれた髪を、大輪の蓮花が楚々と彩っている。
その素朴な風合いは、下婢の質素な衣装にも悪目立ちすることなくしっくり馴染み、
それでいて普段冷淡に見えがちなの印象を、華やかに和らげた。
想像した以上の出来栄えに趙雲がしげしげと感心していると、
無言を落胆ととったのか、娘はしょんぼり肩を落として俯いてしまう。
慌てて賞賛の言葉を考えるが、あまり女人の容姿など気にした事が無いうえ、
すぐさま美辞麗句を思い付けるほど器用でもない。
気の利いた台詞を探すにつれ、だんだんと照れ臭くなっていき、
「とても、その・・綺麗だ。」
と、正直な感想を、情けなくどもりながら伝えた。
趙雲の気恥ずかしさが伝染したのか、の頬にもぽっと紅が差し、
「あ、有り難う御座います。」
と、ぽしょぽしょ礼を述べる。
背中のむず痒さを堪えつつ、趙雲は改めて黒髪に咲く可憐な花へと目をやった。
「そなたのような妙齢の女人には少々地味ではあるが、
簪商の話では丈夫で長持ちとの事だったのでな。職務中に挿すには申し分無いと思う。」
遠まわしに毎日使って欲しいと告げている事には気付かなかったようで、
自分の目では確認出来ないのが歯痒いのか、しきりに髪を触っていたは、
そんな話は初耳だと血相を変えた。
「そんな・・滅相もない!卑賤の身にはあまりに勿体無く・・・。
ま、まさか将軍が御手ずから精選して下さったのですか?」
「ああ、いや、偶然の成り行きだったのだがな。おかげで面白い男と知り合えた。
襄陽の大店の主だと自称していたが、さてどこまでが売り口上なのだか。」
そう、お喋りな簪売りを思い出し呆れ半分に喉で笑えば、
もまた目を弓なりに細めて、楽しげに話を聞いてくれる。
途端にうなじの辺りがざわざわと色めいて、
趙雲は苦々しく自身の邪念を戒めた。
「だ、だが品は確かなようだな。目利きも優れているようだし。
いずれ、そなたが良縁を得て嫁ぐ時には、もっと煌びやかな簪を贈ろう。」
亡き兄君の変わりにな、と後ろめたさを紛らわすように取って付けて、
あの心を和ませてくれる鷹揚な笑みを期待したのだが。
「将軍から格別なる親愛を頂けて、私は本当に果報者でございます。」
そう、趙雲の申し出に心底喜んでいるような返答をしながら、
の細面に浮かんだのは、透き通るほど美しく、けれどどこか儚い微笑みだった。
寂しげに落とした睫の奥に、ほんの一瞬だけ諦念が滲んだ気がして、
訳も分からないまま心臓が勝手に走り始める。
肺が切なさで満たされ、胸が締め付けられるように軋んだ。
そんな悲しげな目をしながら、どうして優しく笑うのだ。
彼女がくれた言葉が嘘では無いと分かるから余計に、
肝心な事は何一つ語って貰えない事が腹立たしい。
でも。
堪らなく、愛おしい。
これ以上、彼女と同じ空気を共有する事に耐えかねて、
趙雲は勢い良く軒から飛び降りた。
「趙将軍っ!!」
すぐさま、池の向こう岸まで届きそうな悲鳴が追いかけてきて、
振り仰げば、が落ちそうなほど身を乗り出している。
「お、お怪我は?痛むところはございませんか?」
「ははっ、大丈夫だ。この程度の高さならば、造作も無い。
なにしろこの格好では、明かり窓を通るよりここから降りた方が早いのでな。」
くれぐれもそなたは真似するなよ?と軽口を言えば、
生真面目な下婢は有り得ないとばかりに全力で頷いた。
娘の顔が逆光で影となっている事に、心底感謝する。
あの大きな瞳で真っ直ぐ見詰められていたなら、平静を装うは至難の業だった。
「さて、そろそろ戻らねば、紅蘭まで迎えに来そうだ。
これ以上、そなたをここに留め置くのも申し訳ないしな。」
早くこの場を立ち去りたい気持ちを努めて押し隠し、ではな、と軽く手を上げる。
娘が深々と座礼するのを見届けて、
早足にならぬよう細心の注意を払いつつ、池の縁と飼葉倉の壁との間の狭い隙間を通り抜けた。
角を曲がり、の視界に入らぬ所まで来てから、趙雲の足がぴたりと止まる。
そのまま体がゆっくり傾いでいき、膝が崩れ落ちる寸前で、辛うじて壁に腕をついた。
動悸が、早鐘のようだ。
きっと顔は茹で上がっているだろう。
抑え続けてきた感情はとうに手綱を放れ、体の中で荒れ狂っている。
瞼を開けても閉じても、浮かんでくるのは散る寸前の花弁を思わせる美しい微笑みで、
指先にじんじんと甘い痛みが走った。
なんて様だ。
これは、劣情なんて生易しいものじゃない。
恋、だ。
ずっと、目を逸らし逃げ続けてきた真実にとうとう追いつかれ、
趙雲はずるりと力無く壁に背を預けると、途方に暮れて空を仰いだ。
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