今年はお天道様の機嫌が良いからきっと豊作だと、領内の農民が話していたそうだ。

東の城門だけがやけに頑丈な造りをしているのは、
昔から腕の良い人足がそちら側に多く住んでいるためらしい。

兵糧庫で鼠獲りに飼われている猫が次々と仔を産んでいるのだとか。

「皆、同じ母猫から産まれたはずなのにそれぞれ毛色が違うのです。」

なぜなのでしょう、と小さく小首を傾げる気配がして、
趙雲はそちらを見ないまま、さてなぜなのだろうな、と微笑ましく相槌を返した。
付かず、離れず。
窓枠一つ分を間に挟み、仲良く並んで同じ景色を眺める。
の口から語られる日常は、どれもその朴訥な人柄に相応しいささやかな喜びで溢れていた。
ぽつん、ぽつん、と言葉少なの応酬が途切れれば、
居心地の良い沈黙がぽかぽかと2人を包み込む。
チラリと盗み見た白い横顔の天辺に、素朴な蓮花が咲き誇っていて、
趙雲の胸をえもいわれぬ幸福感が満たした。
半ば無理矢理押し付けられたにも関わらず、はこちらの厚かましい要望に答えて、毎日使ってくれている。
律儀な彼女の事だ。
受け取った手前、簪も、その贈り主の事も、無碍に出来なくなったのだろう。
現に、もう趙雲が昼食持参で現れても、警戒心剥き出しの歓迎を受ける事は無くなったし、
彼の一挙手一投足に驚いて固まったりもしない。
食べ終わった途端風のように逃げ帰っていたのが、
食後もしばらくは軒に留まり、他愛ない会話を楽しむようになった。

「・・・・そろそろ、戻ります。」

そう言って、はにかみながら立ち上がった彼女に、
出会った頃の遠慮や畏怖は全く感じられない。

「もうか?今日は少し早いな。」

座したまま尋ねてから、離れ難さが声にまで滲んでしまっているようで気恥ずかしくなる。
けれどそんな趙雲の男心に気付くはずも無く、生真面目な下婢は理由を説明しだした。

「今日中に城内の備品を全て点検するよう、通達があったのです。
なんでも壊れている道具は明日修理に出すそうで。」

「なるほど。それは中々難儀そうだ。」

頑張れよ、と励ませば、労われる事に慣れていない娘は、
オドオドと視線を彷徨わせ、も、もったいないおことばです、と拙くどもった。

「趙将軍も、午後からの調練、どうか御気をつけ下さいませ。」

聞き取れぬような早口でそう言い募って、早々に飼葉倉へと逃げ込む。
後ろから見ても分かるほど彼女の耳は真っ赤に色付いていて、
照れ屋な所は変わらぬな、とより一層愛おしさが増した。
遠のいていく彼女の気配を最後の最後まで追ってから、
趙雲は自身の行動に思わず苦笑いを浮かべる。
知らず知らず入っていた肩の力を抜いて、倒れるがまま壁に背を預ければ、
溜め息が深く細く零れ落ちた。

(自重するべきだと、分かってはいるのだが・・・。)

ままならぬものだな、と1人ごちる。
想いを自覚してからも、趙雲はこれまでと何ら変わらぬ態度でに接した。
彼女は既に、恩人で、友人で、理解者である。
それ以上を望むつもりは毛頭無く、
いわんや恋慕を伝えるなど有り得ない事だった。

の生きる道に私のような輩は不要だ。)

所詮、趙雲は骨の髄まで戦人なのだ。
新野の安寧がいつまで続くかは分からないが、
いずれ再び乱世の最前線へと身を投じる時が、必ずくる。
劉表はこれからも舌先三寸でのらりくらり戦を避ける腹積もりのようだが、
曹操軍の主力が州境に雁首揃えれば、そんな甘い考えなど吹き飛んでしまうだろう。
戦局次第では、出陣したが最後二度と新野には戻れぬ身だ。

(いずれ離れ離れになると決まっているんだ。今のままで良い。)

今のままが良い。

じわりと肺腑を蝕む切なさに目を細め、趙雲は燦々と明るい真昼の溜め池を眩しげに見渡した。
かすかに草いきれが混じる爽やかな風も、
近く遠く鈴を転がす黄鶲の囀りも、
眼下に広がる穏やかな景色の全てを、記憶に刻み付ける。
袂を分かつその日まで、
彼女がこよなく愛する優しい世界を共に眺められたなら。

(それで充分だ。)

そう自分自身へ言い聞かせ、腹の底で日々水嵩を増していく感情に蓋をする。
神妙に伏せた視線の先では、蓮野原が我先にと天に向かって新芽を伸ばしていた。
己が命を燃やして生い茂る新緑は、やがて遠からず水面を多い尽くすだろう。
育ち過ぎた葉は尚も太陽を求め、領分も弁えず岸から溢れ出す。
ざわざわと風に揺れる立ち葉の群れに、胸中を見透かされている気がして、
趙雲は苦々しく視線を逸らした。
気付けば、日は中天へと昇り詰めている。
長く居過ぎた、と取ってつけた言い訳をして、趙雲は逃げるように軒を立ち去った。









曇天に一際大きく歓声が上がる。
血気盛んな挑戦者を僅か一合で地面へと突き落とし、
趙雲は素早く竹棍を構えなおした。
本日午後の調練は、馬上武術の鍛錬である。
兵練場の隅、馬の背を模した丸太台が30基ほど並べられた一角で、
700名余りの騎馬兵達が、真ん中の一基を取り囲み異様な盛り上がりを見せていた。
ギラギラと興奮に輝く彼等の視線を一心に浴びながら、

「次!我こそはという者は前に出よ!」

そう、趙雲が荒い呼吸を堪えて一喝する。
途端に散々囃し立てていた野次がピタリと止まり、部下達は皆白々しく視線を逸らした。
気まずそうに肘でつつき合う彼等を一通り睥睨し、趙雲はこれでようやく打ち止めかと、構えを解く。
そのまま丸太台の上から飛び降りれば、
やけに大人しくなった見学者の輪から、すぐに副将の1人が歩み出てきた。

「将軍御手ずからの御指導、誠に感服つかまつりました。」

そう恭しく賞賛しながら両手を捧げる古馴染みの強面には、けれど呆れ笑いが浮かんでいて、
趙雲もまた同じ笑みを口端に浮かべつつ、彼にしか聞こえぬ声で、

「全く、とんだ大立ち回りになってしまった。」

と軽口を囁いた。
まずは鍛錬試合の手本を見せようかと、趙雲自ら手合わせ相手を募ったのが運の尽き。
新兵から古株まで、我も我もと希望者が殺到し、結果よもやまさかの20人抜きと相成った。
ただでさえ趙雲率いる騎馬部隊は、先の賊討伐で得た軍馬の分だけ新兵が増えたのだ。
彼等を戦場で犬死にさせぬためにも、教えるべき事は山ほどある。
それなのに貴重な時間をみすみす自分一人の鍛錬に使ってしまうとは。
とんだ災難でしたなぁ、と笑みを噛み殺す副将へ、苦笑いで得物を渡してから、
趙雲は未だ脇腹を押さえ地面にへたりこんでいる新兵へと手を差し伸べた。
鍛錬用の竹棍は先端を布で覆っているとはいえ、
当たり所が悪ければ命に関わる事もある。
日に焼けた顔に大量の脂汗を浮かべ、
申し訳ありません、と呻く若者を、救護所に行ってこい、と引っ張り上げた。
脇から腕を回し、なんとか立ち上がらせた所へ、
不安げに成り行きを見守っていた仲間の兵卒達がわらわらと寄って来る。
両脇から二人掛りで支えられよたよた去って行く新兵を見送っていると、
背後から副将の荒々しい指示が響き渡った。

「いいか!先程言った通り、各2部隊1組で指定された台を使う事。
試合は1対1。武器の落下ないし破壊、丸太台からの転落、もしくは身体の一部が地面に着いた時点で、
その者の負けとする。判定は各部隊の部隊長が交代で担当するように。以上、散開」

命令が終わるのと同時に、気合の入った掛け声が上がり、
興奮冷めやらぬ兵卒達は駆け足で持ち場へと散っていった。

「それでは私も、鍛錬に加わって参ります。」

そう報告して粛々と拱手する副将に趙雲が一礼を返せば、彼もまた少なからず高揚しているのか、
先程渡した竹棍を振り回しながら、手近な台へと乱入する。
荒ぶる上官の参戦に顔を引き攣らせる新兵達を、ほんの少しだけ哀れんで、
趙雲もまた指導に勤しむべく丸太台の間を歩き出した。
すぐにあちこちから対戦者の怒号や、竹棍を激しく打ち合う音が飛び交い始め、

「おっしゃ!いいぞ!叩き落とせ!」
「馬っ鹿!おめぇ今、脇ががら空きだったろうが!」

などと、時折順番待ちの連中の罵声や賞賛までが好き勝手に混じり出す。
鍛錬とはいえ、走り込みや槍の型を覚えるだとかの反復作業より、
こういう勝負事の方がよほど燃えるのだろう。
徐々に分厚くなり始めた曇り空さえ、その熱気で吹き飛ばせそうだ。

「腿を締めろ!最小の動きで最速の一打を放て!
焦って大振りになれば重心が揺らいで自滅するぞ!」

趙雲もまた部下の闘志に少々当てられつつ、
あくまで指導者として目に付いた粗を鋭く指摘する。
その途端、地面に座り込んでいた見物組はおろか、台上で対峙している者達までもが手を止め、

「はっ!」

と、小気味良く返答を揃えた。
純粋過ぎる羨望の眼差しが一斉に集中し、実に居心地が悪い。
先達の圧倒的強さを目の当たりにしたのだ、兵としては当然の反応だろう。
趙雲とて、初めて軍神と称えられる男の青龍刀捌きを見た時は、
血潮が滾ったのを覚えている。
とはいえやはり、20人抜きはやり過ぎだった。
挑まれれば答えたくなるのが武人の性とはいえ、
中には初心者同然の者も居たのだ。
あまりに大人気無い諸行だったと、今更ながら自己嫌悪に陥る。

「引き続き、鍛錬に励め。」

などとしかめつらしい顔で言い置いて、趙雲は即時撤退を決め込んだ。
さり気なく人目の少ない方へ歩きながら、熱くなった頬を擦っていると、
運が良いのか悪いのか、視界の端に良く知る人物を見付けてしまう。
隣接する雑具倉庫の間を他の下婢達と共に通り過ぎようとしたは、
しかしこちらに気付いてピタリと足を止めた。
遠目とはいえ互いの視線が絡むのがはっきり分かって、我知らず肩が跳ねる。
両手いっぱい竹箒を抱えた彼女は、
ほんの少しだけ逡巡した後、恥ずかしそうにはにかんで小さく頭を下げた。
たったそれだけで趙雲の鼓動は呆気なく跳ね上がり、甘やかな喜びが脳髄を駆け巡る。
果たしてこの距離でにどの程度こちらの姿が見えていたかは分からない。
だが趙雲の眼底には、きゅっと愛らしく上がった口角やほんのり朱を刷いたまろい頬までが、克明に刻まれた。
せめて口元がだらしなく緩むのだけは阻止しながら、こちらも控えめに頭を下げれば、
彼女は再び嬉しそうに微笑んだ後、他の下婢達に追いつくべく駆け足で立ち去った。
趙雲も素知らぬ風を装って視線を鍛錬場へと戻したが、
思わず漏れた溜息には、誤魔化しようがないほどの恋慕が滲んでいて、参ったな、と己の単純さに眉を顰めた。
諦めると決めた端からこの様だ。
今更初恋という歳でも無し。
ましてや一軍を預かる将として、
感情を律する術には長けていると自負していたのだが。

(そういえば、誰かに情を抱くなど久しく無かったな。)

昔から、女難を被る事の方が多かった趙雲である。
まだ声変わりも来ぬ内から、
一方的に想いを寄せられては揉め事に巻き込まれるのが常であった。
それもあって、仕官した後もあまり女色は好まなかったが、
戦場に出ればやはり血の猛りが治まらぬ夜もある。
欲の発散と割り切って営妓(軍管轄の娼妓)を天幕に呼んだ事もあったけれど、
一角の将となってからは責任の方が勝ってしまい、それすら止めてしまった。
そうして郷里からの出奔を機に色恋沙汰とは生涯無縁と決め、
最近では1人寝の寂しさも感じなくなってきていたというのに。

(我ながらなんともお粗末な遍歴だな。)

遥か昔に僅かばかり培った浅知恵のみで、
この難病に抗おうというのだから、ままならなくても当然か。
肋骨の内側で隙あらば燃え上がろうとする熾火を、
そっと服の上から押さえつけ、趙雲は苦笑いを浮かべた。
この一瞬。
常日頃から警戒を怠らぬ武人としての鋭敏な感覚が、胸中の温もりへと全て向けられた刹那、

「なぁにニヤニヤしてやがんだよ!趙雲!」

と、すこぶる良く通る銅鑼声が奇襲をかけてきた。
油断大敵とはまさにこの事。
氷が背筋を滑り落ちたような驚きに、ただただ息を呑む。
けれど趙雲とて伊達に今まで修羅場を潜り抜けて来たわけでは無い。
心臓が早鐘と化している事などおくびにも出さず、
いつもの涼やかな双眸を声の主へ向けた。

「これは張飛殿、このような場所までご足労痛み居る。」

それで私に何用だろうか?と歓迎の笑みすら浮かべて尋ねれば、
会心の一撃を食らわせてきた男は興ざめした様子で舌打ちした。

「ッチ、澄ました面ぁしやがって。素直に驚きやがれ。」

のっしのっしと前のめりに歩み寄って来る益荒男へ、兵卒達が慌てて道を開ける。
はて何の事だろう?とわざとらしく肩を竦めて見せると、
古馴染みは、小賢しい野郎だぜ、と忌々しく吐き捨てた。
口が悪いのはいつもの事。
そして、彼が暇潰しの相手を探しているのもまたいつもの事だ。

「なあおい、ちょっとばかし馬上鍛錬と洒落込もうや。」
「今は遠慮申し上げる。それに、張飛殿も確か今時分は新兵の調練を任されておいでではなかったか?」

ただでさえ自身の過失で時間を無駄にしてしまったのだ。
これで張飛と手合わせを始めようものなら、部下達は再び鍛錬そっちのけで見物を始めるだろう。
彼の誘いを尤もらしい理由で断固拒否すれば、
志願兵の調錬ばかり任されてきた猛将は、手近な兵卒から竹棍を強奪しつつ仏頂面で唸った。

「ケッ!具足もろくに付けられねぇひよっ子共に何教えろってんだ。
俺様の出番なんざ当分来ねぇよ。」

ぶんっ!ぶんっ!と豪壮な風鳴りを立てて力任せに棍を振る辺り、相当鬱憤が溜まっているようだ。
八つ当たりで仕事を全て押し付けられたであろう彼の副将には同情を禁じ得ない。

「そうは言うが、持ち場を離れてはまた関羽殿から叱責を受けるぞ?」
「雲長兄なら今日は1日執務室だ。ちょっとくれぇなら大丈夫だろ。
要はばれなきゃいいんだよ、ばれなきゃ。」

仕方なく今度は厳格な次兄殿を引き合いに出してみるものの、
1番反省すべき人物はニィっと歯を剥き出して豪快に笑った。
そうして弄んでいた竹棍をひょいっと投げてくる。
それを見もせず片手で掴み取って、

「っ、とにかく部下の鍛錬が済むまでは無理だ。張飛殿も持ち場に戻った方が良い。」

そう念押ししてから投げ返せば、これまた難無く受け取った張飛は子供のように不貞腐れた。
が、立ち直りが早いのも彼の長所で、
すぐに悪い顔をしてほくそ笑む。

「仕方ねぇ、兄者のとこにでも行ってみるかなぁ。」

面白ぇもんも見れたしよ、なんて自慢の虎髭を擦りながらゆっくり踵を返した。
黙って見送る気満々だった趙雲は、
最後に付け足された台詞に嫌な予感がして思わず引き止める。

「待ってくれ、張飛殿。何か殿に申し上げねばならぬほどの事が起きたのか?」

してやられた感は否め無いが、こういう時の勘は良く当たるのだ。
案の定、振り向いた張飛の顔は益々ニヤついていて、
ことさらのんびり戻ってきたかと思うと、

「そりゃおめぇ、あの趙子龍が女に見惚れてたんだからな。」

そう嬉しそうに耳打ちした。
反射的に彼を凝視すれば、それが確信となったようで、

「やっぱりそうか!!」

と長年の戦友は素っ頓狂に叫んだ。
鍛錬場の隅から隅まで届きそうな大声に、驚いた兵卒達の目が2人へと向けられる。
幾分離れた場所から副将が心配そうな視線を寄越してくるのを感じて、
趙雲の顔からみるみる表情が消えた。

「なぁおい、名前は?もう懇ろなのかよ?」
「さて、誰の事だろうか。」
「見たとこ、下婢みてぇだったが。」
「遠目では下婢も下男も区別がつかん。」
「嘘言え、おめぇに笑いかけてただろうが!」
「私とは限らん。大方この部隊に知り合いでも居たのでは?」

一方的に肩を組んでグイグイ圧し掛かってくる張飛を、引き摺るようにして歩きながら、
野次馬根性丸出しの詰問を片っ端から切って捨てる。
いつまでたっても有益な情報を引き出せないどころか、
眉間に皺ばかり増やす趙雲に、元々短気な男は獣のような唸りを零した。
このまま逆上して帰ってくれれば願ったりなのだが、

「しっかし、おめぇほどの色男が下婢たぁなぁ?」

なんて攻め方を変えてくる辺り、まだまだ不毛な問答を続けるつもりらしい。
もう答えるのも馬鹿らしくなって無言を貫けば、
張飛の舌は既に一杯引っ掛けてきたかのような滑らかさで回り出した。

「その気になりゃ劉表の愛娘だって口説き落とせる面ぁしてんのによ。」
「・・・・そこ!気を散らすな!集中力の欠如は命に関わる!」
「そんな奴が女官どころか下婢ときたもんだ。」
「逃げ腰では追い込まれるぞ。相手に怯えを悟られるな!」
「哀れみか?やめとけやめとけ。
奴ら、従順そうにしといてその実ぁ強欲で強かときてる。」
「待て、そこまでだ!部隊長、度を越す場合は勝敗がつかずとも止めに入るように。」

肩に巻き付いた豪腕を払い落として指導に戻った趙雲の後ろから、
両手を首の後ろに組んだ張飛が飽きもせずつけ回す。
いい加減鬱陶しいが、相手は怒らせて釣るのが目的だから黙して耐えるしかない。
趙雲とてそれを重々承知していたというのに。

「あの下婢だってしおらしい面してやがったが、
小銭でも散らつかせりゃ案外誰にでも股ぁ開い・・・」
「ッッ言葉が過ぎるぞ!張飛殿ッ!!」

聞き捨てならない台詞が耳に飛び込んできた途端、カッと頭に血が昇って、
気付けば怒鳴り返していた。
怒れば怒るほど表情が消える趙雲の美貌を、
皿のようにどんぐり眼を見開いて、張飛が凝視する。

「・・・彼女はそのような人ではない。」

まんまと敵の手に乗せられ内心臍を噛むも、
眼光の鋭さは全く緩めず、ギロリと睨み据えたまま低く付け加える。
趙雲の怒気を真っ向から受け止めてなお、
張飛は茶化すようにぴゅうっと口笛を吹いた。

「なんてこった、本物じゃねぇか!こいつぁ益々兄者に話してやらにゃあなんねぇぞ!」
「世迷言を・・・下らぬ私事で殿を煩わすな。
そもそも、こんな話を吹聴して張飛殿に何の利がある。」
「おめぇって奴ぁ、手前ぇの事についちゃまっっっっったく分かってねぇんだな。
こいつを肴に誘やぁ飲み仲間がわんさか釣れるぜ。」

竹棍を両手の間で右へ左へ弄びながら、無類の酒好きがいけしゃあしゃあ宣えば、
趙雲の秀でた額にくっきり青筋が浮かんだ。
張飛殿・・・と更に低くなった声音で警告を出すと、

「あぁん?俺を黙らせてぇんなら力づくで来い!
ここにゃお誂え向きの道具が揃ってるじゃねぇか!」

と、くるくる竹棍を回して挑発してくる。
一瞬身も竦むようなトゲトゲしい沈黙が流れた後、
趙雲は不穏に目を細め、足取り荒く張飛の元へ詰め寄った。
そうして、未だ勢い良く回されていた竹棍を躊躇無く掴み取る。
そのまま互いに睨み合って、じわじわ引っぱり合いをする事少々、

「・・いいだろう。望み通り、馬上武術の何たるかをお教え致す。」

そう趙雲にしては珍しく剣呑な物言いで了承した。
その途端、あっさり得物を手放した張飛は、
いっそ潔いほど態度を一変させ、

「よっしゃ!そうこなくっちゃ男じゃねぇぜ!!」

などと心底嬉しそうに破顔する。
おまけに、最早鍛錬どころではなくなっていた騎馬部隊の面々へ向かって大きく振り返ると、

「おうっ!おめぇら!俺様とコイツ、どっちが勝つか賭けやがれぇ!!」

なんて大風呂敷を広げてしまった。
一拍遅れて鍛錬場を野太い歓声が包みこみ、
趙雲は苦虫を噛み潰した気分で盛大に顔を顰めた。
最初に手本を見せるのに使った丸太台へとずんずん先行しながら、
後ろからついてきている筈の男へと
怒鳴りかける。

「私が勝てば他言無用!約束は必ず守ってもらうぞ張飛殿!!」
「おう、二言は無ぇ!けど、俺が勝ったら兄者に報告するぜ!
ついでに、どこの誰かも吐いてもらうからなぁ!」

何がそんなに面白いのかニヤニヤと笑い続ける張飛に、
趙雲は冗談じゃないと肩を怒らせた。
劉備に知られるという事は、即介入されるという事ではないか。
これまで散々所帯を持てとせっつかれてきたのだ。
どんなお膳立てをされるか分かったものではない。
そして、趙雲は自分がいかに主君の善意に弱いかを、嫌と言うほど理解していた。

(災いの芽は早めに摘んでおく!悪いが全力で勝ちにいかせてもらうぞ、張飛殿!)

あの窓辺に人知れず咲く可憐な野花を踏み荒らされぬ為ならば、手段は選ばない。
絶対に勝つ。
気炎万丈、乾坤一擲。
趙雲は背水の覚悟を背負って、決戦の地へと赴いた。







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